難敵(2)
到着した頃パーティは学長の挨拶が丁度終わった頃合いで、私は計算通りだとほくそ笑んだ。学長も決して悪い人間ではないが、何しろお話が長くてその間微笑み続けていると頬がつりそうになるのだ。
教授は同じような年齢の研究者たちと一緒だった。
私は足早に教授の前へ歩みより、三歩ほど離れた場所から深く一礼した。教授は私に気付いてやあと笑い、右手を左の肩に軽く添えて軽く会釈をして下さる。
「まぁ、そんなご丁寧に」
私はゆるく笑いながら同じ仕草をする。これは貴族間の挨拶とされてきた簡礼だ。
教授はふざけていらっしゃるのである。
「御退官お疲れさまでございました。寂しくなりますね」
「何、老兵が去れば新兵が来る、世の中の道理だよ」
教授は自分の言葉に同意を求めるように周囲の人々へ笑い、私を修学院のミカ・エリン教授です、最年少の女性教授となりまして、と紹介して下さった。
ああ、とかあの、とか、そんな顔をされるのにはもうとうに慣れてしまった。
女性教授が珍しいことはないが、歴史検証委員会に完全に同意的でない者が修学院の教授として座ることは珍しい。
「先輩方、どうぞよろしくご指導下さい」
私は丁寧に頭を下げる。
何名かは知っている顔だ。歴史学の現在の権威というところの老人たちである。直接話したことは無くても論文集や基本書には必ず名前と写真が出てくるから分かる。
「今、例の手櫃の漢氏録のほうを担当しとりましてな……どうかね、翻訳は」
聞かれて私は曖昧な笑みになる。なんと表現していいのか分からないが、頓挫などとは口が裂けても言いたくない。
「そうですね、解読は出来るのですが……理解しがたい部分や新しい解釈が必要な部分が多いとは感じます」
そうだろうね、と老人の一人が笑い声を立てた。
「我々も先に見ているが、あれは非常に困惑する文書だからな」
私は黙って黙礼した。
困惑という言葉がよく理解できる。崩し字や逸書体ではないから文意そのものは追いやすいのに内容ときたら星、星、星で何を言いたいのか分からない部分が多い。
教授が私の肩をぽんとはたく。
「あれは随分難敵だよ、心したまえエリン教授」
「無論侮っていることなどありません。帝暦百年以前の史料なんて早々お目にかかれませんもの。敵は曲者、ということなら十分に理解しました」
私が言うと教授は穏やかに笑い、アカルディンも苦労しているようだと付け加えた。
私は頷く。
アッカはどちらかといえば確定資料によりがちで、正しいとされている解釈や論法を論拠にすることが多い。
対して私のことを悪く言う人々が私を「夢想主義の反体制思想者」と思っていることも知っている。
……彼も今日は来ているはずだ。こういう場には大抵妻を連れてくるから私は目で探したりしない。そんなこと、絶対にしてたまるものか。
私が殊更教授に視線を固定して微笑んだ時、先生と呼ぶ声がしてその場の全員が一斉にそちらを見た。
そういえばここにいる人間全て、某かの教職や研究職なのだ。
声をかけてきたのは私よりも少し年齢が上の男だった。
肌にさすがに多少の疲弊感があり、無精ひげが更にそれを目立たせる。
おろしたての銅貨のように硬質で明るい茶色の髪は悪くないが、あまり手入れをしないまま来たらしく、短い髪がほさほさと好きなように跳ねている。
「やあ、アネキス君か。久しぶりに見るな」
教授の顔がほころんだ。男はまぁ、と顔をくしゃっと歪めて笑う。
「何せ生業とやらで必死ですんで、ご無沙汰してます」
いいながら男は髪に手を入れて照れくさいのかごりごりかいている。その目がちらりと私に向いてきて、私は軽く会釈する。
どうも、と男は口元をゆるめ、それは案外良い笑顔に見えた。
「紹介するよ」
教授は男の背を軽く押して私の前に進ませながら、アネキス君、と言った。
男がまた笑い、私に手を差し出してくる。握り返すと微かに暖かで柔らかだった。
「どうも、バート・アネキスです。よろしくね、センセ?」
にやりと笑う表情が普段見慣れている若い学生のようで、私は苦笑をようやく飲み込んだ。
それはまだ青年期にある彼らがするから明るく傲慢に美しいのに、くたびれた中年男には似合わない。ただひたすら軽く見えるだけだ。
「ミカ・エリンです。専攻は漢氏文化史で……」
言いかけたとき、彼は肩をすくめた。
「専攻なんていいじゃない。君、専攻から入らないと雑談も出来ないタイプ?」
「……は?」
私は相当ぽかんとしたらしい。
アネキス氏はついというように笑いだし、私の頭をぽんぽんと手で押さえるように軽く叩いた。
子供扱いのようで私が顔を強ばらせると、素早く教授がほら、と割って下すった。
「君も読んだことがあるはずだろう、古語と宮廷方言の活用変換規則を文化論から整え直した論文、確か……十年くらい前か」
私はすぐに頷いた。
古語と宮廷方言はお互いに影響をうけつつ別の言語として存在していたが、文法に大きな差異はない。ゆえに「方言」である。
が、当時の記録からどうも宮廷方言のほうが優雅で洗練された言葉であると感じていたらしいことを延べ、活用変化や暗喩の使い回しなどをまとめつつ、最後に「方言」ではなくて「宮廷雅語」と呼ぶべきであるとまとめられていたはずだ。
これが正確かは検証の余地があるが、ともかく論旨として単純に面白かったので今でも私の本棚にはこの論文の置き場がある。……だからすぐに気付いた。
「でも、お名前が違いますよね」
筆者はB・ヒタリエという名であったはずだ。アネキス氏が肩をすくめた。
「あれから名字が変わったんですよ、いやご存じでいらして光栄ですけどね」
「そう……ですか」
結婚では名字は変わらない。養子にでもいったのだろう。
但し初対面で聞ける話でもなかったし、興味もなかった。当人だと教授が仰るならそうなのだろう、ということである。
そうそう、と彼は明るく笑い、今度飯でも行きましょうよと付け加えた。
私は溜息になる。華やかな時代など自分には若い頃からもなかったし、今後もそんなものは欲しくない。
必要なのは本と、職と、そして多少散財しても問題ない程度の金だ。
男なんて要らないというわけでもなかったが、残念ながら私にも選択の自由くらいある。
とっさに断ろうとしたとき、教授がさっと私の腕をつねった。
写影の依頼を下さった時にそういえば私を口説く勇者の話をなさっていたはずで、彼はどうやら教授ご推薦の勇者役らしい。
……勇者というより羊飼いね。私はその例えに自分で納得した。
学者にはおしなべてある知性の紗幕が彼には感じられないのだ。
彼はどんなタイプの学者にも見えなかった。
生地が安いのかよれよれで所々不愉快に鈍く光るスーツの袖を粗雑にまくり、タイは一応ぶらさげてきましたというような適当な色合い、結び目は歪んで決まり悪く彼のシャツの前にぶら下がっていて、背は高く、肩は広い。
……やれやれ、だ。
教授の面目を保つためだけに私は曖昧に微笑んで頷いた。




