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星の挽歌  作者: 石井鶫子
歴史の呼ぶ声・2
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難敵(1)

 私は舌打ちをして、漢語辞書の電源を乱暴に切った。

 手順通りに電源を落としてゆかないとたまに機嫌を損ねて起動しなくなるのはわかっているし、そもそもこれの監修に私も名前を連ねているわけで、要するに全く漢氏文化や文字形態を知らない連中が勝手に作った辞書とは違うと自負があるにも関わらず、苛立ちだけが繰り返し繰り返し、波のようにざわ寄せてきて止まらない。


 それはとてもぬるく淡い波で、中途半端に煮えきらない。

 けれど辞書に当たっても仕方ないとようやく思い直し、私は放り投げようとした電子辞書を乱暴にソファに放り出して髪をぐしゃぐしゃにかき回した。


 ──星、星、星!


 まさしく深夜の銀河のようにちりばめられたこの単語一つ、すさまじく意味が通らない。

 一体何の暗喩なのか、それともまさか天体そのものなのか、全くわからないことも悔しいし、悔しいと思うことさえ腹立たしい。


 星という漢氏文字は見間違えることなどないほど美しく整い、留めも払いも柔らかいのに、誰かが見ることを前提に訓練された字特有の硬質に角張った体裁が、見惚れてしまいそうになるほど完璧だ。

 私が今まで史料として見てきた数多(あまた)の漢氏文字の中で一番美しい。


 祝辞の書を頼まれたとあるが、それも理解出来る。

 下書きなのだろうか何度か書体を変えて枠外に書き連ねられているが、どれを採っても素晴らしい字だ。


 私は写影を指でなぞる。「星」や「翳り」などの単語をどう解釈するべきなのか判断がつかないが、これを書いた漢氏が相当の地位と権力を持っていることはすぐ分かる。


 ミシュアル──今はミシュア市となっている南沿海州は当時、始祖帝の即位檄が最初に発行された土地として優遇されていたはずで、その領主が領地へ帰投する際に挨拶に来たという記述には身が震える。


 帝歴五〇年頃の記録にあるミシュアル公の爵位は侯である。

 侯と呼ばれる人間を呼びつけることが出来る漢氏──それに来客の予定には言及しても訪問の予定は記載なく、自宅を出る記述は御前会議のみ、つまり皇帝からの召還でなければ相手が訪ねてくるのが当然という認識が滲む。


 それに「清帝似父然其星不似(父に似れども星は似ず)清似吾妹然其星不及(妹に似れども星及ばず)

 何と決定的なこの一文だろう。

 清帝とは景宗帝フォルシードだが、一句目が父との相似描写であれば二句目は母親とのそれとなるはずで、その母親を妹と呼んでいる。


「イダルガーン大公……」


 私は低く呟いた。実在していたこと、景宗帝フォルシードの伯父でありシタルキア皇国の鉄の壁と呼ばれた「不敗将軍」であること以外、伝説と伝承の中に数多い奇跡を残しながらも実体は茫洋と掴めない人物である。


 本姓は伊、名は達、字名という個人識別の通号は嘉芳。この時代から既に絶対数の問題で、公職や名誉を授けようとする漢氏は自分たちの名を漢氏以外の者に呼びやすくしてもらうため、胡氏名(クーシミー)という通名を持つ。

 イダルガーンとは実は通称なのである。


 イダルガーン大公は当時の漢氏の上流階級に属し名門と呼ばれた伊家の出身であるが、その彼でさえ通称名が必要であったほど、彼らは力無き民であった。

 伊家が旧シタルキア王国から拝受していた貴族品等は三品で、これは伯爵と子爵の丁度中間程度の品等とされている。

 名門と呼ばれる家でさえこの程度であるから、彼らの置かれていた状況は確かに良くなかったのだろう。


 弓の名手であったとされ、確かに神話や伝承には赤い漢氏風俗の衣を身にまとい、弓をひく男が描かれる。その矢羽根はやはり赤く、(やじり)は星か太陽か、何かの天体を貫いて描かれるのが常だ──星。

 また戻ってきた単語に私は顔を歪める。

 こんな意味の分からない言葉なのにどこかで胸が震えるような興奮がある。ばらばらに落ちていた欠片が今ぴたりと重なって、一つ別の絵を形作るような。


 それにしても伝説や伝承の中に何かの真実の香りが紛れ込んでいることはあるのだろうが「星」にはお手上げだ。素直に読めば運命論や占術解釈論だが、見える、と続く。


 予言者や運命論者など、人の顔色や持ち物や仕草から何を言ってほしいのかを察して差し出してくるだけの詐欺師だ。

 未来が見えるなどということを真面目に主張する文書など、解読や解釈ということよりもまず、荒唐無稽と一笑でとばしたくなる──のに、この記録には見逃せないことが沢山ありすぎて私はどうしていいのか分からない。


 私は何度目かも分からない溜息になった。星、という部分の解釈をどうするかを先送りしても、これは相当に内容が正史と認定された部分と食い違う。


 自治都市攻略に長くかかったのは帝暦十五年の悪天候による饑饉とその対処に追われ、また水戦の経験が少ないイダルガーン大公が手あぐねていた……

 のではなく、この日々録を中心に見立てればラウール大公への不平不服が主要因にも見えてしまう。


 しかもラウール大公との不仲など、どの後世史書にも記載がない。私を含めてどの国史学者に見せても出会い頭の熊のような顔になるはずだ。

 対訳した部分の実に三割近い部分をラウール公への苦言に割いている。


 二人は力を合わせ手を取り合って始祖帝を支えた忠臣とされてきたし、どの時代のどの絵も物語も、二人は始祖帝の両脇に控えてそれぞれを象徴する剣と本を始祖帝へ差し出しながら微笑んでいる。

 少なくともこの日記が語るような不和不仲を感じさせるようなものは何もない。


 正史書に無いから事実ではないということを言うつもりはないが、二人が不仲であればそれに類する書簡や官吏の記述がもっとあってよいはずだ。

 これは後世の完全な創作で史料として参照させるなどありえない、年代測定をやり直せと叫びたくなる。


 けれどこれは手櫃文書である。重要性は間違いないはずなのだ。

 まだ最初の数日分で字の美しさ故に解読そのものは順調に進んでいる。けれど解釈は頓挫したまま座り込み、そんなはずはないのだとふてくされている……


 私がいらいらと唇を噛んだとき、電子音が規則正しく三回鳴った。

 時間だ。


 コンソールから音を止め、私は大きく伸びをする。

 この春の終わりに教授は引退なさることを決め、本日はそのお別れのパーティなのだ。


 私はクロゼットから黒いドレスを取り出して扉にかけ、クリーニング屋の薄い包装をはがす。

 本当は首元から鎖骨あたりにかけて大きく開いたデザインがいいのだろうけど、残念ながら──


 私は自分の胸元をちらっと覗いて口をへし曲げた。これは仕方ない。どんなに必死になったところで出来ないことはあるし、そのために脇からよせて下から持ち上げる下着が存在しているのだ、と自分に言い聞かせてますます不愉快になるのはどういう訳なのだろう。


 シャワーを浴びる前に下着をあさり、私はバスルームの手前にそれを放り投げる。

 ブラとショーツが全く揃っていないが、ブラはしっかりと寄せてくれるタイプのもので、ショーツは腰まであるものだ。


 どうせ見る人もいないし予定もないという状況で、最近は腰周りの冷えを保護するためにショーツもブラと揃えてなどよりは機能重視で厚手のものが多い。


 ドレスの下半身はぴったりと身体線を出すものではないからこれでいいはずで、下着が可愛いと気分が良くなるなどと思いこんでいた若い頃のことを思えば決まりが悪く、私はゆるい苦笑になる。

 気分なんて結局自分で作り上げるもので、そこに下着やケーキや彼氏の存在などが介在すること自体が依存だ。


 私は誰にも頼らないし依存しないし、機能が正しいことを優先するし、それにどうせ男性なんて下着には興味がない。……見せる相手もいないけれど。


 私は軽く鼻で笑い、割合上機嫌にバスルームの扉を足で開けた。

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