巻の九十七 弥生救出(結) 別れ
巻の九十七 弥生救出(結) 別れ
直也は奥の部屋に敷いた布団に弥生をそっと横たえた。目を閉じて横たわっている弥生の顔はまるで眠っているようで、今にも目を開けるのではないかと思うほど。だが、その手に触れてみれば体温は感じられず、直也はただ泣くことしかできなかった。
いつか、人面瘡に取り憑かれたときはまだ弥生に意識のかけらがあった。だが今は…
いくら考えても、もうどうしようもないという思いに行き着くだけ。直也は今度こそ、弥生との別れを感じていた。
「これからどうすればいいんだろう…」
不安げに汐見が呟く。
「とにかく、直也様をお慰めして、里へお供して、それから…」
紅緒もどうすればいいか途方に暮れている。そんな時、蓮香と茜が目を覚ました。
「…あ…、少し気を失っていたみたいね」
「済みません、ご迷惑おかけしたみたいで」
そんな二人に紅緒は優しく、
「いいのよ。お二方は活躍されたんですから」
「それで…直也様は?」
心配そうに茜が尋ねる。
「弥生姉様の側に付きっきり…」
「そう…やっぱり弥生様は…」
そう蓮香が言いかけたとき、襖が開いて、気が付いた雨降が顔を出した。
「弥生がどうしたって?」
そこで汐見が、弥生の事を説明する。それを聞いた雨降は怒ったような顔をして、
「そんな馬鹿な! あいつが死ぬわけがない! そんなことあたしが許さない!」
そう言って、紅緒と汐見の制止を振り切って、奥の部屋の襖を開け小走りに駆け込んで行った。
「弥生!」
いきなり襖を開けて駆け込んできた雨降の大声に驚く直也。雨降は直也を押しのけるようにして弥生の枕元に座った。
そして弥生の額に掌を当てたり、脈を診たり、最後には布団の中に手を差し入れ、弥生の体をまさぐった。
「おい、雨降、いいかげんに…」
さすがに見かねた直也が雨降を遮ろうとしたとき、
「あはっ、…あはははは…」
突然、雨降が笑い出した。怪訝な顔をする直也。
「あはははははは…さすがだ、さすが弥生、それでこそあたしの妹だよ…」
「何だって!?」
雨降が笑った事もだが、それよりも弥生が雨降の妹という事に衝撃を受けた直也。
「おや、弥生は話していなかったのかい?...前世、弥生が藻と名乗っていたときの話だけどね」
「…初めて聞いた。そうか、雨降は前世の弥生と姉妹だったのか」
雨降は肯いた後、
「そんなことよりもっと大事なこと、弥生は死んじゃあいないよ」
「何だって!!??」
更に驚いた直也、
「何ですって!?」
隣の部屋にいた汐見と紅緒も驚いてやってきた。蓮香と茜も一緒である。未那も気が付いたらしく、ひょこっと顔を覗かせた。
雨降は皆の顔を見渡すと、
「みんな揃ってるね。いいかい、もう一度言う。弥生は死んじゃあいない。長い眠りに就いているだけだ。これは伏見の秘術で、身体の働きを極限まで抑え、時を過ごすための法さ。まさか弥生が実際に使えるとはあたしも驚いたけどね」
直也は食いつかんばかりの勢いで雨降の肩を掴み、
「じゃ…じゃあ、弥生は生きてるんだな!? いずれ目を覚ますんだな?」
雨降は苦笑しつつその手をそっとのけ、
「ああ。わかりやすく言えば、冬眠みたいなものさね。今の弥生は、一日で呼吸も一回、心の臓も一回だけ動いてる。これだと二百年でやっと一日分、弥生の時間が過ぎるというわけさ」
「や…よ…い…」
目を潤ませる直也、その涙は嬉し涙だ。
「…じゃあ、どうやったら弥生の目を覚まさせられるんだ?」
雨降は首をかしげ、
「それは術を行使した本人が、どんな条件付けをしたかによるねえ。光とか、音とか、温かさとか…」
「そうか…」
直也も考え込む。だが、もうその顔に絶望の色は微塵も無い。
「まあ弥生が助けて欲しかったのは直也、あんたにだろうから、あんたが鍵だろうよ、きっと」
「だが俺が呼んでも駄目だった」
「声くらいじゃ駄目かもね。口でも吸ってやれば?」
からかうような口調で言う雨降、それを聞いた汐見、茜は頬を染める。だが当の直也は至極真面目な顔をして、弥生の顔を見つめていた。そしてゆっくりと弥生の唇に自らの唇を重ねていったのである。
「きゃあ」
紅緒は両手で顔を覆い、汐見は慌てて後ろを向く。雨降は感心したように直也を見つめ、茜は真っ赤になって目を瞑った。
蓮香は頬を染めながらもその光景を食い入るように見つめ、未那はよくわからないといった顔で他の者を見回していた。
* * *
正装した環が静かにお辞儀をする。
「この度はおめでとうございます」
「…何の祝いじゃ」
「マーラを滅ぼしたこと、生還なされたこと、そして婚約なされましたお祝い、ですわ」
そう言って持参した袱紗を解き、中から木で出来た呪符を取り出した。
「霊木の呪符です、お身体の回復にお役立て下さいまし」
「すまんのう、ありがたくいただく」
床に身を横たえたままで弥生が礼を述べた。
* * *
三日前。直也の口づけを受けた弥生は静かに目を開いた。
だが、異界から現世への門をこじ開けた後、更に秘術を使った弥生の身体は満足に動かなかった。
今日まで丸三日、横になったきりだった弥生。今ようやく身体が動くようになったところだ。
そんな弥生は、茜や汐見、紅緒らが交代で世話をしていた。さすがに身体を拭いたりの世話は直也には出来なかったのだ。
その直也はといえば、昨日やってきた蓮香の姉妹達の相手をしている。九人揃うと賑やかだ。
「直也さん、弥生さんの側に付いていなくていいの?」
「何言ってんの、あたし達が来たからお相手してくれてるんじゃないの」
「弥生さま焼き餅焼くわよ?」
「大丈夫よ、お二人はもう婚約なさってるんですもの」
「きゃーいいなー、あたしもお婿さんほしいー」
「あんたよりあたしのほうがさきなんだから!」
かまびすしいことこの上ない。だが直也は幸せだった。
「…やれやれ」
騒ぎも一段落つき、直也は縁側へと出てきた。座り、目を瞑って鳥の声に耳を傾けていると、衣擦れの音がして誰かが隣にやってきた。それが誰かは目を開けずとも気配でわかる。
「弥生、起きてもいいのか?」
「うむ、そろそろ少しずつ身体を動かさぬといかん」
「そうか、今日は暖かいからな」
そう言って黙り込む直也。隣に座った弥生も何も言わずに直也に身を寄せる。しばらくそうしていたが、
「おお、直也、もう桜が一輪咲いておるぞ」
弥生の指さす方を見ると、庭の隅にある桜の木に、確かに一輪、桜が咲いていた。
「もう春なんだなあ」
しみじみと呟く直也に、弥生は、
「…不思議じゃのう、マーラを滅した後、お主を異界から現世へと送り返すことが出来て、もう思い残すことはないと思うておったのに、一人になった途端、お主に会いたくなってしもうた。それで秘術まで使って生きながらえることを選んだのは良いが、本当に助け出して貰えるとはな」
弥生の頭が直也の肩に乗せられた。
「今度という今度は、お主に助けられたのう」
直也はそんな弥生の肩に腕を回し、優しく抱き寄せながら、
「そんなことはないさ。雨降、汐見、紅緒、未那、蓮香、茜、そして狐達。みんなの助けがあったからこそさ」
「それとてもお主が望んだからこそじゃ。ありがとうよ、直也」
弥生のその言葉に対して直也が何か言おうとした時、
「…あの、直也様、弥生様」
うしろからおずおずといった感じで汐見が声を掛けてきた。
「…どうした?」
振り向いた直也が尋ねると、
「…お邪魔して申し訳ないのですが。…雨降さんがお話があるそうです」
その声が終わらないうちに雨降が縁側へとやって来た。
「相変わらず仲良さそうでいいね、お二人さん」
開口一番、そんなことを言う。が、その声音に皮肉の色はなかった。
「…雨降、この度は世話になったのう」
「約束の礼をしなきゃな、何をすればいい?」
問いかけた直也と弥生に向かって雨降は、
「…あたし、これから伏見に行こうと思うんだ」
「伏見へじゃと?」
驚く弥生。
「今までの罪を償って、出来るならもう一度修行をやり直そうと思ってさ」
「じゃが…」
「それで、弥生に頼みがあるんだ。…添え状を書いて貰えないかな? 天狐様へさ」
雨降が差し出した添え状用の杉板を受け取って弥生は頷き、
「そうか、そういうことなら喜んで書こう」
「ありがと。…それで直也さんにはミナモを貸して貰いたいんだ。弥生の添え状と直也さんのミナモ、二つがあれば伏見でもなんとか情状酌量してくれるだろう」
直也も頷き、
「いいとも。そもそもミナモはマーラを滅ぼすための助けとして借りたようなものだ。そのまま返して貰ってかまわないよ」
そう言って首に掛けたミナモを外して雨降に手渡した。雨降はそれを受け取り、
「ありがとね」
そう言って袱紗に包み、大事そうに懐にしまう。
「それで、いつ立つのじゃ?」
書き終えた添え状を渡しながら弥生が尋ねる。
「今日、今すぐ」
添え状も懐にしまいながら雨降が言った。
「えっ?」
「早いほうがいいからね、…それじゃあ、お二人さん、お幸せに」
そう言って身を翻し、縁側へと飛び降りる。
その後ろ姿に向かって弥生は小さな声で言った。
「…姉上、お元気で」
雨降は既に庭から出るところであったが、それを聞くとぴくりと身を震わせ、振り向いて、
「まだ姉と呼んでくれるのかい。…ありがとよ、妹」
それだけ言うと、もう後も振り返らずに走り去ってしまった。
無言で見送る弥生の肩を直也はそっと抱き寄せ、
「弥生が回復したら、今度こそ、里へ…帰ろう」
弥生も肯いて、
「桜が見頃になる頃には、な」
二人が見上げた春の空には白い雲が浮かび、日差しは寄り添う二人を優しく包んでいた。
ついに弥生を助け出しました。弥生との旅、それが無駄ではなかった証として。
そして雨降と弥生との関係が。雨降はずっと昔から、妹である藻(弥生の前世)に劣等感を抱いていたのでした。それも解消し、大団円です。
添え状に杉板使うというのはオリジナルですが、その昔から、伏見稲荷では験の杉と言って、二月初午の稲荷参詣の折、ご神木である杉の枝を折って福を願う、というのが上下を問わず平安時代からの風習だった、というところから来ています。
さて、いよいよ最終回近しです。どうか最後までおつきあい下さい。




