巻の九十三 決戦(結) 別離
巻の九十三 決戦(結) 別離
「くう!これは…異界か!!」
穴に呑み込まれた弥生は、灰色の世界にいた。上も下も右も左も、前も後も一面灰色、辛うじて立てることで、足下には地面があることがわかる。
「弥生!」
直也の声が聞こえた。即座に弥生はそちらへと向かう。すぐに直也は見つかった。
「直也!何故ここへ…」
「弥生が黒い穴に呑み込まれてのを見て、俺も飛び込んだんだ」
弥生はため息を吐きつつ、
「まったくお主は…後先を考えぬのう」
「弥生の事だけはな」
そう言ってのける直也に弥生の頬が少し紅くなったが、それを気取られぬよう、弥生は背を向けてしまう。
そして自分に言い聞かせるように、
「兎に角、これがマーラ最後の罠だったことは明らかじゃ」
「これが罠?」
「そうじゃ。あの回向院という土地に籠められた怨念や妖気のほとんどを使い、異界への穴を開けたのじゃ」
その時であった。
「ふ、ふはははははは…その通り、そしてこれがお前達の最期だ」
どこからとも無く聞こえる声。それは紛れもなくマーラのもの。
「マーラ…まだ消滅しておらんかったか…いや、こちらが本体か」
「ふふん、吾は考えた。遅かれ早かれ、江戸に施した細工はお前達に潰される。それならばいっそのこと、新たな仕掛けに使ってやろうとな」
「新たな仕掛け?」
直也が聞き返す。
「そうだ。石塔を壊せるほどの力を持つ者、そやつをこの世から消し去ると共に吾の力として取り込む。まさか二人も捕らえられるとは思ってはいなかったがな」
「俺たちをどうする気だ!」
直也の問いかけにマーラは、
「知れたこと。殺し、その力を吾の内に取り込み、吾のものとするのよ」
その声が終わるか終わらない内に、どこからとも無く無数の槍が飛んできた。
「くっ!」
間一髪、直也は大刀を抜き、槍を薙ぎ払った。弥生はと見ると、手に狐火を灯し、上へ向けてそれを放っていた。
白く輝くそれは上へ上へと飛んでいき、やがて見えなくなった。
「無駄だ、無駄。ここは吾の体内のようなもの。吾を倒せば二度と現世には戻れぬ。諦めて吾の力となれ」
「嫌だね。俺は生きて、弥生と祝言を挙げるんだ」
そう言いながら直也は、地面から生えてきた棘を切り払った。
「直也…」
弥生が直也と背中合わせに立つ。
「弥生、今度こそマーラを滅ぼし、里に帰ろうぜ」
弥生も肯き、
「そうじゃな、これはお主と儂との…将来を決める一戦じゃ」
手に狐火を灯し、構えた。
そんな二人の前でマーラは嘯く。
「その望みも叶うことはない。お前達はここで死に、吾の力となるのだ」
今度は空から無数の鳥のような化け物が襲いかかってきた。
「招雷!」
弥生が術で雷を起こし、化け物を撃退していく。狐火で妖を焼く。かいくぐってきた奴は直也が斬り捨てた。
「ふははは、なかなかやるな、これはどうだ」
身の丈十丈(約30m)もあるような巨人が出現、直也達を踏みつぶそうと襲ってくる。
「ふん、こんな木偶の坊はこうじゃ」
弥生は紫色の狐火を投げつける。瞬時に巨人は消滅するが、一体消滅させればまた一体出現し、きりがない。
「まずいのう…このままではいずれ力が尽きる。そうしたら儂らの負けじゃ」
直也は驚愕していた。
弥生の口から発せられた弱音とも言うべきその言葉に。それは今の自分たちがいかに追い詰められているかを示している。
それは直也も感づいてはいた。
「弥生、何とかする術はないのか?」
襲い来る化け物を切り払う手を止めずに直也が尋ねる。弥生も狐火を放つ手を一瞬たりとも休めず、
「無いこともない。じゃが、…五十程数える間、まるで無防備になってしまうのでのう」
それを聞いた直也は間、髪を入れずに、
「その間、俺が弥生を守る! 弥生、術を使ってくれ」
「しかし、…この相手にお主一人では荷が重かろう」
だが直也はにっと笑うと、
「弥生の盾になると言ったろう。五十や百数える間くらい、なんとかしてみせるさ」
向かってきた黒い化け物を一刀両断にした直也は、
「このままじゃまずいんだろう?…なら答は一つだ。弥生、頼む!」
寸の間、躊躇った弥生であったが、意を決したように顔を上げると、
「わかった。辛いじゃろうが、頼む、直也。その代わり、これで決めてみせる」
そう言うと弥生は懐の筥迫(小物入れ)から紅板を取り出した。松本で再会した龍神、翠から貰った紅である。
灰色しかないこの世界で紅は生き生きと輝いて見えた。その紅を唇に差し、更に額に点を描いた弥生は、身体を揺すって白衣、緋袴の巫女装束となった。直也も初めて見る弥生の巫女姿である。
「…神使の装束じゃ」
そう言った弥生は、更に懐から鈴を取り出す。それは大晦日、王子稲荷で授かったもの。
その鈴を一振り、しゃりん、と鳴らすと、弥生は静かに舞い始めた。
「タカマノハラニカムズマリマススメラガムツカムロギ・・・」
その口からは祝詞が紡がれ始めた。
その間、直也は今までに増して、獅子奮迅の働きを見せていた。
前後左右に大刀を打ち振るい、襲いかかる数多の化け物を切り伏せる。下から伸びてくる棘を切り払い、即座に身を翻して弥生を襲おうとした鳥のような化け物を両断。その勢いで地を駆けてくる化け物を迎え撃った。
「・・・イホリヲカキワケテキコシメサムクニツカミハタカヤマノスエ・・・」
しゃりん、と鈴を鳴らしながら弥生は祝詞を唱え、歩を踏む。
直也は今しも、弥生に迫った化け物を切り伏せた所である。まさに息もつかぬ連撃、己の全てを賭けて直也は刀を振るい続けた。
「・・・カクモチイデイナバアラシオノシオノヤオジノヤシオジノ・・・」
弥生を襲う化け物一切を斬り捨てる直也。だがその分、直也は傷を受けていく。浅い傷ばかりではない。
今、弥生を襲った四つ足の化け物を斬り退けた際、左腕に深い傷を受けてしまう。
それでも直也は止まらない。血を流しながら化け物に立ち向かう。
「・・・ハライタマイキヨメタマウコトヲアマツカミクニツカミヤオヨロズノカミタチトモニ・・・」
そしてその必死の働きが報われる時が来る。
「・・・キコシメセトマオス」
祝詞を唱え終わり、だん、と一際強く弥生が地を踏みならし、しゃりん、と鈴の音が響いた。
弥生が踏みならした地を中心に、光が生まれる。それは次第に広がり行き、灰色一色だった世界を光で満たしていった。
「ぐ・・・おおおお・・・」
マーラの苦悶の叫び。化け物たちの動きが止まる。
「マーラ、今こそ滅せよ」
弥生が声高らかに呼ばわった。同時に鈴を振り鳴らす。
灰色の世界に光と音が生まれた。それは一切を照らし、震わせる。光を浴びた化け物たちが消滅した。
「…これで吾が滅ぶと思うな…人の心に闇のある限り、吾は何度でもよみがえる…」
だが弥生は臆することなく、
「何度でも滅してやるわい、人の心に光ある限り」
そして光は一切を包み込み、灰色の世界は光に溢れた。
「…吾が滅べばこの世界も閉じる…貴様らは永遠にこの閉じた世界の虜になるがいい…」
それがマーラの最期の言葉だった。
「…終わった…な」
がくりと膝を突く直也、弥生は即座に駆け寄り、それを支えた。
「直也…こんなに怪我をして…すまぬ…すまぬ」
だが直也はかぶりを振る。
「気にするな、弥生。こんな傷、どうってことないさ」
だがその声はいかにも苦しげだ。弥生は天狗の秘薬を取り出すと、直也の傷に塗っていく。
胸、背中、右脚。左腕の傷が一番深かった。だがそれらの傷も、秘薬の効き目ですぐに塞がる。
「次はこうじゃ…」
弥生は霊気を高め、直也の頭の上、「百会」という経穴に掌を当て、そこから気を注ぎ込んだ。経絡を通じて直也の身体を巡った霊気は、肉体を癒していく。
「ありがとう、弥生、おかげで楽になったよ」
そう言って微笑む直也。弥生はそんな直也を見つめ、
「…強くなったのう、直也…。旅を始めた頃とは雲泥の差じゃ」
そういう弥生に直也は、
「…俺は弥生を守れるようになっただろうか?」
弥生は優しく微笑みながら、
「…今のお主なら、儂だけではない、もっとたくさんの者達を守れよう。またそうでなくてはいかん、当主になるのじゃからな」
そう言って弥生は直也をそっと抱きしめるのであった。
「弥生…?」
突然の弥生からの抱擁に戸惑う直也。だがすぐに直也も弥生の背に腕を回した。
「…温かいのう…お主は…」
目を閉じた弥生がしみじみとした声で呟いた。
「…儂は…重蔵殿に助けられた恩を返す事を願っておった。お主を一人前の当主にすることでその万分の一を返す事が出来ればと思った…」
弥生の呟きは続く。
「ずっと罪を償うことを考えていた。自分の事はその後だと思っていた。そして…マーラを滅することが出来た」
そんな弥生の身体を抱きしめながら直也は、
「…弥生…もういいんだ、弥生は幸せになっていいんだ。…いや、俺が…幸せにしてやるから」
そう言うと直也は唇を重ねた。弥生の唇はほんのりと紅の香りがした。
「…直也、ありがとう…」
唇が離れた後、弥生は頬を染め、俯きながら小さな声で、だがはっきりとそう言った。
「…儂は…幸せじゃ…こんなに幸せだったことは無い…」
そう言って弥生は静かに身体を離す。そして、
「…道がわかっているうちにここから帰らねばのう」
そう言って足を踏み出した。
「一、五、二、七…」
弥生は北斗星の形に歩を踏んでいく、そして印を結び、呪を唱える。
「開空界窓、破!」
そして両手を突き出し、気合いと共に膨大な霊気をつぎ込んだ。
「く…!」
こめかみに血管が浮かび、噛みしめた唇から一筋赤いものが流れた。
更に弥生は霊気を込めていく。十万八千人もの念で開けられた異界への道を一人で開けようというのだ。
弥生といえども生やさしいことではない。文字通り血を吐くような努力が必要であった。
「…はあああああ!」
「や、弥生!?」
あまりにも鬼気迫る弥生の姿に、直也は心配になった。
「ああああああ…あ!」
やがて、目の高さに針の穴ほどの黒い点が出来た。そしてそれは見る間に大きくなり、二尺ほどの径となる。
そこから見えたものは、見なれた…そう、見なれた家族達の姿。
声は聞こえないが、紅緒が、未那が、汐見が、直也達の方を見、指を差し、手を振りながら何か叫んでいる。
「直也…!早うそこをくぐるのじゃ!…長くは保たん…!」
弥生の必死の声。額に脂汗を浮かべ、身体を細かく震わせるその姿に直也は、
「わかった!…弥生も急げ!」
そう言って穴に飛び込んだ。
「直也様!」
「父さま!」
「直也さま!」
穴から転げるようにして飛び出した直也は、紅緒、未那、汐見に迎えられた。
「弥生も、早く!」
そう言いながらすぐさま起き上がり、振り返った直也は愕然とした。
そこにあったのは今にも閉じんとする穴と、そこから見える弥生の顔。
弥生は満足げに微笑んでいた。その唇が動き、何か言葉を紡ぎかけ…穴は閉じた。弥生を閉じ込めたまま。
「弥生!!」
直也が叫び、手を伸ばす。だがもうそこには穴はなく、夜明け前の冷たい空気があるだけ。
「やよいーーーーーーー!!」
直也の全てを籠めたような叫びは虚しく夜空に消えていった。
「や…よ…い…」
両手を地面に突き、うなだれる直也、そんな直也に、紅緒も、未那も、汐見も、かける言葉が見つからなかった。
「何で、俺だけ…くそっ! 俺は! どうして! 最後の最後で!!」
悔しそうに拳で地面を何度も何度も殴り続ける直也、その手に血がにじみ始めた。
「直也様!…おやめ下さい! お手が…」
その手を押しとどめる汐見。さすがに汐見に押さえられた手は直也の力では動かせない。
だがいつまでもそうしているわけにもいかない、失意の底にいる直也をそっと抱きかかえたのは紅緒。
未那は唇をぎゅっと噛みしめ、直也の手をそっと握る。汐見は直也を気遣いながら、紅緒に直也を任せると先に立って歩き出した。
途中、直也は一言も発しなかったし、他の三人も言葉を忘れたように黙々と歩くだけ。
四人は夜が明ける頃、麻布の家に帰り着いた。そこでようやく、紅緒が口を開く。
「直也様、少しでもお休み下さい」
そう言ったのだが、直也は虚空を見つめたまま、
「…ひとりに…してくれ…」
そう口にしただけ。顔を見合わせた三人は、直也を部屋に残し、そっと外へ出たのだった。
「……」
直也はふらふらと歩き、弥生の部屋の襖を開ける。きちんと畳まれた布団、その上に何かが乗せられていた。
手に取ってみると手紙である。一人でマーラとの決戦に向かうつもりで書いた置き手紙のようだ。直也はその手紙を開いた。
「直也へ
この文を読んでいるということは、儂は戻ってこなかったのじゃろう。
お主との約束を守れず、まことにすまなく思っている。じゃが、儂は後悔はしていない。
お主というかけがえのない相手に恵まれ、幸せであった。
儂がいなくても、もうお主は立派に当主としてやっていける。
今度はお主がたくさんの者達を守り、幸せにしてやる番じゃ。
お主にはそれが出来る。そんなお主の成長を一番近くで見ていられた儂は果報者じゃ。
儂のことなど忘れ、ふさわしい伴侶を迎えて欲しい。
お主が幸せになってくれること、それこそが儂の一番の望みなのじゃ。
どうか、これからも、儂が誇れるような直也であり続けて欲しい。
それが、儂という妖狐が生きた証じゃから。
弥生」
「弥生…やよい…俺は…おれが…本当に守りたかったのはお前なんだ…本当に幸せにしてやりたかったのはお前なんだ…!…」
読み終えた直也は、大声を出して泣いた。誰はばかることなく、心の底からの悲しみを涙に乗せて。
この回は難産でした。おおまかなプロットは早くに出来ていたのですが、演出に相当する部分が…。
それこそ、風呂に入りながらとか、布団の中でとか、考え込みました。
さて、ついにマーラを滅ぼすことが出来ました。でもその代償は決して小さくはなかったのです。これからの直也、どう成長してくれますことやら。
どうかあと少し、お付き合い願います。




