巻の九十一 決戦(承) 戦闘
巻の九十一 決戦(承) 戦闘
本所、回向院。それは明暦の大火と呼ばれる、明暦三年(1657年)に江戸の大半を消失する火災、その焼死者十万八千人を葬ったと言われる万人塚を起源とする。ゆえに参詣者も多い。
弥生が手強いと言ったのは、その埋葬されている死者の数である。十万八千人、それだけの陰の気が集まっている所はなかなかあるものではない。仮にきょんしーを生み出されたら、かなり手こずるだろう。
「…じゃが…負けられぬ」
そう弥生は言って、唇を引き締めた。直也も肯く。
そして、
「未那、頼むよ。…こっちの方角、前に遊びに行った両国の方」
「ん」
肯いた未那。手をつないだ五人はあっという間に両国橋の上にいた。
「…ひええっ」
運悪く通りかかった夜回りの前に出てしまう。
「脅かしてすまないな。怪しい者じゃないよ」
直也が一言声を掛ける。
どう考えても怪しい、いや妖しいが、そんなことは今夜の直也達には些細なこと、腰を抜かした夜回りを尻目に五人は隅田川を渡っていくのであった。
橋を渡ればすぐ回向院。
月の光の下、目の前に山門がある。門は閉じられていた。押してみたが、開かない。
「さて、どうするか」
思案顔の弥生。
「入るにも幾つか手はあるが、どう手を尽くそうとも、境内に踏み込めば間違いなくマーラに気づかれるじゃろう。いや、もう気づかれていてもおかしゅうない」
「じゃあ、真正面から堂々と乗り込もうぜ」
どこまでも直也らしい物言いに弥生も、
「そうじゃの。…汐見、この門、開けられるか?」
「おまかせ下さい」
汐見はかつてマーラの呪いにより人鬼として隠れ住んできた一族の末裔。今はその呪いは解かれ、人となったが、その身にはまだ鬼の力を残しており、人であれば三人から五人分の力がある。
「…くっ」
その汐見が全力を込め、門をこじ開ける。きしむ蝶番。やがて鈍い音がして留め金が壊れ、門が開いた。
「ご苦労さん、汐見」
ねぎらう直也。弥生は厳しい表情で、
「皆、中に入ったら、おそらくマーラを倒すまで出てはこれぬ。それでも良いか?」
と問うが、直也も、紅緒も、汐見も、未那も、黙って肯くだけであった。
「…よし。ではまいろう」
大きな山門、横一列でくぐる五人。
境内に足を踏み入れた彼らの目に映ったもの。それは。
「う…」
今しも、血塗れになりながら倒れ込む雨降の姿であった。
「雨降!」
意識を無くしたらしい雨降は、七本の尾を持つ狐の姿となり、直也達の前に投げ出された。
「き、貴様…」
それを見た弥生の心臓が跳ね、視界が真っ赤に染まった。
七本尻尾の狐。
かつての同僚であり幼馴染みの千枝丸。
その最期が目の前の光景と重なる。そしてその時に現れた邪悪の化身。
当時の弥生、藻を歴史に残る大妖怪へと変貌させた張本人。
「遅かったですね、おかげで折角の罠をこんな小者に使ってしまいましたよ」
四本尻尾で、黒い装束、ぬらりとした白い顔、血のように朱い目で不気味に笑う狐。
それは、弥生にとって忘れもしない、マーラの化けた偽の天狐の姿であった。
「よくも…よくも…儂は…儂は…」
弥生の目に怒りが籠もった。
「久しぶりです、藻。いや今は弥生、でしたか。生まれ変わっても相変わらず強い力を持ってますね。私の手下が皆倒されてきた事も知っています」
そんなマーラの周りには、鉄鼠、鵺、大百足、鬼。今まで直也と弥生が倒してきた、マーラの手先が揃っていた。
「貴様の所為で…儂は…っ!」
「ふふ、いい目だ。憎しみに溢れている。…そう、そうだ…」
弥生の刺すような視線をものともせず、寧ろ楽しむかの様にも見えるマーラ。
「ね、姉様…」
「母さま…?」
弥生の周囲がぼんやりと発光していた。目に見えるほどの妖気が放たれているのである。
妖である紅緒と未那はそれを感じ取り、思わず後じさってしまった。
「ふ、ふふふ、は、はははは…」
勝ち誇ったように笑い出すマーラ。弥生から放たれる妖気は更に激しさを増し、人である汐見にすら感じ取れるほどになった。
だがその時。
「弥生」
そんな弥生を後からそっと抱きしめる腕があった。
「直…也?」
「弥生、俺はここにいる」
直也は雨降に天狗の秘薬を塗り終えるとそっと門の外に横たえた後、マーラを見据えている弥生に気づいたのである。
そして、その危うさに。
「直…也…」
温かい腕に抱かれ、弥生の妖気が収まる。おそらく今、憎しみの籠もった目でマーラを見つめていたのだと悟った。
「小僧め、余計なことを…憎しみに塗りつぶされたなら容易に我の手駒に出来ようものを」
直也は涼しい笑みを返し、
「残念だがな、弥生は俺の嫁さんになるんだ。お前になんか渡してやるもんか」
直也はマーラにそう言ってのけると、弥生には、
「…まず手下どもを倒し、その後全員でマーラにかかろう」
それに弥生は肯いた。
「じゃあ、あたいは鉄鼠を」
紅緒が名乗りを上げる。
「わたしは鬼を」
汐見が錫杖を握り直す。
「俺は大百足を」
直也が翠龍を抜く。
「未那は儂と一緒に鵺をやっつけようぞ」
「…うん」
ここに、決戦の火蓋が切って落とされた。
「ふん、猫又風情が、マーラ様のお力を得たわしに叶うと思ってか!」
「思うとも! 短い間とはいえ四谷追分稲荷で修行したこの紅緒、鼠ごときに後れを取るもんか!」
「しゃらくさい!」
鉄鼠は尻尾を鞭のように使う得意の攻撃を繰り出してきた。
「その手は喰わないよ!」
その鞭のような尻尾をかいくぐり、紅緒が爪を振るう。それを紙一重で躱した鉄鼠は、紅緒の鳩尾目掛けて拳を突き出す。が、短い鼠の腕、紅緒は難なくそれも避けた。
そして避けると同時に振るわれた爪の一閃は、鉄鼠の首筋の毛を毟り取る。
「…ちょっと浅かったか」
そう言うと紅緒は猫の笑みを浮かべ、鉄鼠へと向かっていった。
* * *
「はあっ!」
重い音が響き渡る。汐見がその鉄の錫杖を鬼に叩き付けた音だ。だが大木もなぎ倒すであろうその一撃を喰らっても、鬼には堪えた様子もない。
「やはり急所に喰らわせねば駄目か!」
身軽に飛び退いた汐見、その今まで立っていた地面に鬼の拳がめり込んだ。
「力だけで言えばあたしよりも上か」
だが俊敏さでは圧倒的に汐見の方が上、素早く動いて鬼を翻弄していく。
鬼は興奮してめったやたらに地面に向かい拳を振り回していた。
身の丈一丈(約3m)の鬼が地面を殴りつける、そのためには上半身が下を向く。地面にめり込んだ右手を引き抜くため、僅かに動きが止まった。その下がった頭を目掛け、汐見の錫杖が渾身の力をもって振り下ろされた。
* * *
大百足がその長い体を巻き付けようと蠢く、それを飛び上がって避けた直也は、左手に翠龍、右手に大刀を持ち、まず大刀を振るった。刀身にはあらかじめ、百足の苦手な唾が吹き付けられている。
「どうだ!」
脚を数本切り払った直也。だが、無数にある脚の数本など気にも留めない様子で大百足は向かってくる。
「神野の刀より遅いぜ!」
だが直也は大百足よりも更に素早い動きでそれを躱す。大百足はその長い体を振り回すように動き出した。
「これはちょっとやっかいだな」
そこで直也は一瞬の隙を突いて大百足の背中に飛び乗り、振り落とされないように大刀を突き刺し、己を支える。
大百足は体を反らせて背中の直也を喰い殺さんと牙を剥いた。だがそれは直也が待っていた機会。
それを迎え撃った直也は、翠龍を大百足の眉間目掛けて突き出した。
* * *
背に羽を生やした鵺は空から二人目掛けて襲いかかる。弥生は未那と並び、鵺を迎え撃っていた。
「喰らえ!」
弥生の放つ白い狐火が鵺の羽を焼き、鵺は地に降り立った。
「今じゃ、未那!」
「…土よ、檻となれ」
未那の力により、鵺の足が地面につなぎ止められた。飛ぶことが出来なくなった鵺は、その蛇の形の尾を振り上げて未那を狙う。
「させぬ!」
が、その尾は弥生の懐剣により切り払われた。更に弥生は、鵺の胴体目掛けて再度白い狐火を放った。
* * *
その間、マーラは直也達の戦い振りを眺めているだけ。直也達が敗北することは間違いないとばかりに不気味な笑みを浮かべて…。
* * *
紅緒の爪により、鉄鼠の体に傷が増えていく。が、まだ致命傷には程遠く、紅緒もそれはわかっている。
「今までは様子見よ!」
自分が傷付くことを恐れていては、今以上の手傷を負わせることは出来ない。それを悟った紅緒は、更に一歩を踏み出した。
鉄鼠はそれを待っていたかのように頭突きを繰り出す。
「はっ!」
馬跳びをする様にその頭突きを躱した紅緒は、そのまま鉄鼠を跳び越え、着地。背後からの一撃を加えんと振り返ったその時。
「きゃああっ!」
その紅緒が吹き飛び、境内にそびえる大木に激突した。
「ふははは、愚かな猫又めが」
勝ち誇る鉄鼠。気を失った紅緒の胸には鉄鼠の尻尾によって貫かれた穴が空いていた。
* * *
頭に汐見の一撃を喰らった鬼は、そのまま前のめりに倒れ込む。更にとどめを刺そうと錫杖を振り上げる汐見。
その右足が、めり込んでいなかった鬼の左手に捕まれた。
「し、しまった…」
頭を半分潰されながらもまだ動ける鬼は汐見の足を掴んだまま立ち上がる。
逆さ吊りになった汐見は必死に振り解こうと錫杖を振り回すが、鬼にその腕ごと錫杖を捕まれてしまった。
「ぐっ、くうぅ…」
そのまま鬼は汐見の体を引きちぎろうと力を込めた…
* * *
眉間に過たず突き立てられた翠龍。さしもの大百足もたまらず、のたうち回る。
その勢いに危険を感じた直也は即座に眉間から翠龍を抜き、大刀を一閃。大百足の胴体を両断した。
その瞬間、大百足の身体から体液が噴き出す。それを辛うじて避けた直也は、体液のかかった地面が融けるのを見た。
「危ない!」
危険を感じた直也は跳び下がる、が、僅かに遅く、両断されたもう一方の胴体が背後から襲いかかり、
その毒液を直也へと浴びせかけたのであった。




