巻の九十 決戦(起) 決意
巻の九十 決戦(起) 決意
年も改まった正月の半ば、吹く風に春の訪れが遠くないことを感じられる日のこと。
「直也、天気も良いし、どこかへ出掛けて見ぬか?」
珍しく、弥生から直也に誘いがかかった。
「お、いいな。みんなで行くか?」
そう言う直也に弥生は、
「…いや、…たまには二人きりで出掛けぬか?」
更に珍しいことに、弥生がはにかみながらそう言うではないか。
直也に否やがあろう筈はない。紅緒も汐見も笑って見送ってくれる。そして寂しそうな顔をする未那には土産を約束し、二人は住み慣れてきた麻布の仮家を出た。
北へ延びる緩やかな坂を登っていくと、梅窓院という浄土宗の寺がある。名前の通り、梅の木が多く植えられ、ちょうど満開であった。
「きれいじゃのう」
「そうだな、いよいよ春なんだな」
梅の香かおる境内をゆっくりと歩く二人。梅の花見に来たらしい人たちもちらほらと見える。
「おお、茶をごちそうしてくれるようじゃぞ。行ってみよう」
緋毛氈を敷いた縁台がいくつか設えてあり、心付けを置くことでお茶と団子が食べられるようだ。
少し時間は早いが、晴れた空の下、直也と弥生は並んで腰掛け、のんびりとお茶をすすった。
「早いものじゃな、お主と旅に出て早や三年が経とうとしておるのか」
「そうだな、いろいろなことがあったな…」
直也はこれまでの旅を思い起こす。辛いこともあった、苦しいこともあった。だが、今となってはみんな思い出の中。
「旅は帰るところがあるから旅、って誰かが言ってたな…」
そんな直也に、
「ふ、直也、母者に会いとうなったか?」
直也は少し慌てた風で、
「そ、そんなことはないけどな、早く里に帰りたくはなったな」
そう言って隣に座る弥生の肩を抱き、
「帰れば…弥生と」
そんな直也の逆襲に弥生は頬を微かに染め、身をよじって肩に置かれた手を振り解き、
「莫迦者。…重蔵殿と綾乃殿、それに八重が許してくれねば一緒にはなれぬぞ」
だが直也は静かに笑って、
「何度も言わせるなよ。そうしたら弥生を連れてこっちの世界で暮らすまでさ」
みるみる弥生の顔に朱が差す。それが怒りのためか、はたまた照れたためか、それは当の弥生にもわからなかった。
「愚か者。お主はただ一人の跡取りじゃ。それが里を見限ってどうする。そんなことになったら儂は忘恩の徒になってしまうわい」
「俺にとっちゃ里より弥生の方が…」
そんな直也の惚気は、突然かけられた声で中断した。
「仲がおよろしいことで」
声の方を振り向くと、そこにいたのは雨降であった。
「何か用か?」
弥生が雨降に声を掛ける。若干警戒しながら。
「まあね。…この前は有難うよ。あらためて礼を言っとく」
「礼なんていらないさ」
直也がこともなげな顔で応じた。が、何か考えついたようで、
「そうだ、雨降、礼を言ってくれるなら、頼みがあるんだが」
「何だい?…あたしに出来ることかい?」
直也は肯いて、
「女物の短刀で、良いものを持っていないか?」
「はあ?」
思いがけない直也の言葉に、意図がつかめず、首をかしげた雨降に、
「紅緒に持たせてやりたいんだ。お前が力を吸い上げた後のでいいから、何か無いか?」
雨降はかつて、己の力を底上げするため、宝剣や宝具の類を集めていたことがあったのだ。
「そうだねえ。…いいのがあるよ。こんなのはどうだい」
そう言って、懐から一振りの短刀を取り出した。弥生がそれを受け取る。
「ほう、なかなか良い刀じゃ。血に汚れておらぬし、まだ若干力も残っておる」
雨降は笑って、
「ふふ、それは自分用にとっといた一振りさ。この前の礼としてはまだ不足かも知れないが、受け取っておくれよ」
「いいのか?」
そう言う直也に雨降は、
「ああ。…まだもう一振り持ってるしねえ。気にせず納めておくれ」
「そうか。それじゃあ遠慮無く。ありがとうな」
そう言って弥生から短刀を受け取り、懐にしまう直也。一方弥生は、
「それで?…ただ礼を言うためだけに儂らの前に現れたのじゃあなかろう?」
「ふふふ、鋭いね。この前、マーラとか言う奴にいいようにしてやられたからさ。落とし前付けさせようと思ってるんだけどね。居場所知らないかい?」
何か言いかけた直也を手で制した弥生は、
「やめておけ。生半可な覚悟でかかったら返り討ちに遭うだけじゃ」
「わかってるよ。恐ろしい相手だと言うことは。だけどね、あんただってわかるだろう? 妖狐の誇りに懸けて、このままじゃ済まされないんだよ」
しかし弥生は冷ややかな顔で、
「それでもじゃ。…儂らは長いこと奴の相手をしておる。だからわかる。今、奴は力を溜めつつある。そんな所へ飛び込んでいくのは、見す見す罠にはまり、結局は奴に力を与えることになりかねん。軽挙妄動は慎むが良いぞ」
そんな弥生の言葉に雨降は反発し、
「何だい、結局教えたくないんじゃないか。わかったよ、あたしはあたしでやるさ。おじゃまして悪かったね!」
そう言うと雨降は、直也が何か言う暇もなく、境内から姿を消してしまった。
「弥生…あれでよかったのか?…上手く話せば協力してくれたんじゃないか?」
「ふん、お主は儂以外の狐が側によっても良いのか?」
そう言い捨てた弥生ははっとした顔になって、
「す、済まぬ。今の発言は忘れてくれ」
慌てて謝った。元々大して気にしてはいない直也は、
「いいさ、でもどうしたんだ?」
それだけ聞くに留めた。弥生は少し恥ずかしげに、
「…あやつ…雨降はのう、昔から儂に絡んでくることが多かったのじゃよ。…藻だった頃の事じゃが、千枝丸と儂の…その、な、仲を知っていながら、千枝丸にちょっかいを出したり…のう」
直也は微笑んだ。最近弥生は、昔と違って自分に感情を見せてくれている。それは取りも直さず、自分を信頼してくれている証だ。そう思うと自然に笑みがこぼれる。それを見た弥生は、
「何じゃ、笑っておるのか?」
そう言ってふいと横を向く。そんな仕草が珍しくも可愛らしく思えて、直也は思わず肩を抱き寄せてしまう。
「こ、これ」
そう叱るように呟きはしたが、そのまま直也に身を任せる弥生であった。
* * *
直也と弥生が麻布の家に帰ったのは夕方。
「お帰りなさい、直也様」
「おかえりなさい、父さま」
紅緒と未那が迎えてくれた。汐見は、と思いながら玄関をくぐると、夕餉の支度をしているところである。
ちょうど飯を炊いているところで、手が離せなかったようだ。
「お帰りなさいませ、直也様、弥生様」
そう言いながら、煤でちょっと黒くなった顔で笑った。
ちょっと焦げた飯を、味が濃すぎる味噌汁で食べる。だがそれは紅緒と汐見が頑張って作ってくれたもの、直也も弥生も笑いながら食べていった。もちろん当の汐見も紅緒もわかっていたが。
食事の後、直也は紅緒に短刀を差し出し、
「紅緒、土産だ。護り短刀だよ」
そう言って渡すと紅緒は、
「あ、あたいにですか…?」
そう言うだけで手を出そうとしない。それで直也は、
「ほら未那、こっちおいで」
そう言って未那を手招き、銀の髪飾りを差してやる。まだおかっぱとも言える髪にそれは美しく映えた。
「ありがとう、父さま」
そして汐見には、蒔絵の櫛。髪飾りも櫛も、直也が選んだ物だ。
「あ…ありがとうございます…」
頬を染めて受け取る汐見、それを見て紅緒もようやく短刀を受け取った。
「直也様…ありがとうございます…」
「紅緒だけ、刀なんて色気のない土産で悪かったかも知れないけどな」
そう直也が言うと、紅緒は首を振って、
「いいえ、そんなことないです。…あたいも直也様みたいに刀を持ってみたいと思っていましたから」
そう言って短刀を胸に抱いた。弥生は静かに笑みを浮かべて、皆が喜ぶ顔を見ていた。
* * *
夜半。雨戸を開け、音を立てずに抜け出してくる影が一つ。開けた雨戸をそっと閉め、影は庭へ出た。
折からの満月、霜が下りたかのように庭を白々と照らしていた。
影は柴折り戸を開け、外へ出ようとする、その足を止め、振り返った。
「直也…、…紅緒…汐見…未那…」
その影の主、弥生は、誰にも聞こえぬほど小さな声で、家族と呼べる者達の名を呟く。
「達者でな」
そして身を翻し、そこに立っている別の影に驚いて身をすくめた。
「弥生」
その影が言葉を発した。
「直…也…?…何故…?」
「弥生、黙って行くなんて水臭すぎるぜ」
月光に照らされながら直也が静かに言う。
「黙っていて済まぬ、じゃが、今度は、単に石塔を潰すだけでは済まぬじゃろう。最後の結界の極じゃからして、マーラも対策を立てておるはずじゃ。前回以上の罠が、いやひょっとしたらマーラそのものが待ち構えているやも知れぬ」
そう告げる弥生に直也は、
「だったらなおさら、弥生一人で行かせられるものか」
「…じゃがしかし、これは儂のけじめじゃ。…そこを通してくれぬか」
だが、直也は静かな笑みを浮かべて、
「マーラのことは弥生一人の問題じゃないさ。俺もずいぶんマーラには世話になったしな。放ってはおけないよ」
そして決然とした目で、
「それに、いつでも、俺は弥生の隣にいたい。弥生を守る、なんておこがましいことは言えないが、盾になるくらいのことは出来る」
「莫迦者…」
泣きそうな顔で俯く弥生。
「俺達の長い旅のけじめ、付けに行こうぜ」
直也がそう言った時。
「どこまでもお伴致します」
そう言って、紅緒、汐見、そして眠そうに目をこすった未那が後からやってきた。
「あたい、マーラには二度も呪い玉でひどい目にあってますから。このままじゃいられないんです」
と、紅緒。
「一族は長い間、マーラの呪いで苦しんできました。またどこかで誰かが同じ思いをしないでいいように…」
と、汐見。
「父さまと母さま、未那はいつも一緒」
と、未那。
弥生は、
「莫迦じゃ…皆莫迦じゃ…儂などにかまわず、直也に付いていけば隠れ里で平穏に暮らせると言うに…」
そう言って俯いた弥生は、少しして顔を上げ、
「もう何も言わぬ。…行こう」
その目には光る物があった。
「ああ。…そしてみんなでまたここに帰ってこよう」
直也の声も僅かにうわずっていた。
そして月光の下、歩き出す五人。直也は弥生に、
「一つ、いいか?」
そう聞いてから、
「何故夜なんだ?…弥生なら昼間でも大丈夫だと思うんだ。何故相手に有利な夜に…」
その問いに弥生は、
「ふふ、直也、お主も賢くなったのう。確かに、陰の気の強い夜は、妖どもに有利じゃ。じゃがな」
そこで言葉を切って、
「向かうのは本所、回向院なのじゃよ」
「?」
首をかしげる直也。弥生は微笑んで、
「ふ、そこまではわからぬか。…回向院は、有名な寺じゃ。参詣するものも多い。そして、マーラの奴、人がおるからと手加減すると思うか?」
「…あ」
「そうじゃ。昼間では、おそらく参詣客を巻き込むことになろう」
直也は深く肯いて、
「…わかった。俺の考えが足りなかった」
弥生は優しい顔で首を振って、
「マーラは特別じゃ。…そして、今のうちに言うておく。今回は…手強いぞ」
話の流れ的にいつもよりちょっと短いです




