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巻の八十九   正月

巻の八十九   正月


 早いものでもう大晦日。

 身を切るような寒風が吹いている夕暮れのこと。

「それでは、ちょいと出掛けてくる」

「ああ、気をつけてな」

「うむ」

 麻布にある邸宅から出てきたのは弥生。いつもと違い、黒の留袖姿であった。向かったのは北、王子である。

 大晦日の晩、関東一円の狐達は王子にある王子稲荷神社に参詣する習わしがある。

 今年は、四谷追分稲荷社のたまき、それにその妹である麻布永坂は竹長稲荷社のかつらに誘われ、弥生も参加することにした。特に待ち合わせなどはせず、暗くなった頃にえのきの大木に向かう。

 これは装束榎しょうぞくえのきと呼ばれ、この木の下で狐達は装束を改めてから参詣すると言うのでこの名がある。

 弥生も榎の下で、術を使い、着ている物を留袖から白のひとえへと変化させる。袴は濃色こきいろ

 それは主神宇迦之御魂神うかのみたまのかみに対する時の正装である。

 前世は伏見出身の弥生であったが、そのくらいの事は心得ていた。余談だが、この変化の時に淡い狐火が見られ、その数を以て吉凶を占うというのは集まった善狐の数を数えるということであった。

 白装束となった弥生は、見知らぬ霊狐を興味深そうに眺める狐達の中を悠々と歩き、王子稲荷社の鳥居をくぐっていったのだった。


*   *   *


 遠くから闇の中を鐘の音が響いてくる。

長谷寺ちょうこうじか、梅窓院ばいそういんかな」

 囲炉裏の火を見つめながら直也が呟いた。

 長谷寺ちょうこくじは曹洞宗、梅窓院ばいそういんは浄土宗の寺で、直也達の住む麻布に近い。

「今年も暮れていきますね」

 汐見もしみじみとした声で応じる。

「一族を救っていただいて感謝の言葉もございません」

「何度も言わなくていいさ、来年がいい年になるといいな」

「はい」

 未那はといえば、囲炉裏の側に身体を丸めて横たわっている。半分は猫、寒いのは嫌いなようだ。

「直也様ー、お酒が温まりましたよー」

 紅緒が、かんを付けた酒を運んでくる。もう寝てしまっている未那を除き、直也、汐見、紅緒が杯を持った。

「今年一年間、ご苦労様」

 直也の言葉に合わせて杯が上がり、飲み干される。三人とも酒は強い方ではないので、多く呑む事はない。

「弥生姉様、今頃はもう王子かしら」

「そうだな、もう着いているだろうな」

 縁側の障子をそっと開け、外を見ると、満天の星空の下、庭中雪かと思うばかりに霜で真っ白であった。

「寒いな、弥生が帰ってきたらすぐ温かいものが食べられるようにしておいてやろう」

「わかりました」

 直也の言葉に、紅緒は台所へ立ち、何か煮物を作り始めた。

 漂ってくる臭いから察するに、切り干し大根と油揚げの煮物のようだ。

「平和だな…」

 直也はひとりごちて、来る年の平穏を心の中で祈るのだった。


 その夜、子の刻を回って丑の刻も遅く、弥生は帰ってきた。

「まだ起きておったのか、休んでおればよいのに」

 そうは言ったが、用意された切り干し大根と油揚げの煮物、それに燗酒を見て嬉しそうな顔をした。

「ありがたく頂こう」

 そう言って炉端に腰を下ろす弥生の帯の辺りで微かな音がりん、と鳴った。

 直也も汐見も紅緒もその音に気づき、顔を上げる。弥生はそれを受けて、

「ん?…この鈴か?…これは王子稲荷の神から賜ったのじゃ」

「本当か? すごいじゃないか。神様に会ったのか」

 弥生はちょっとはにかむような仕草を見せ、

「いや、おいそれと神にお会いする事など出来ぬ。…帰り道、気がついたら帯にこの鈴が下がっていたのじゃ」

 帯締めから外して見せたその鈴は、金と銀、二個一対で小指の先ほどの小さな鈴であった。

 鈴を見て直也はマヨヒガに預けた、一度は鬼となった娘、しずのことをちらりと思い出した。

 来年、いやもう今年、隠れ里の当主となったら迎えに行こうと決めていたのだ。

「さて、夜明けまで少し寝るとしようかの」

 弥生の提案に、皆、囲炉裏を囲んで横になるのだった。


*   *   *


 二刻ほど寝ただろうか。外がうっすらと明るくなった事に気づいた直也は障子を開けてみた。

 凍てつくような寒気と共に、新年の空に明けの明星が輝くのが見えた。まもなく夜明けである。

 見れば汐見、紅緒、未那はよく眠っているようだ。寒くならないように囲炉裏に炭を足してから、直也はそっと外へ出た。音を立てないよう障子を閉め、庭に立ち、大きく伸びをする。

「もう起きたのか」

 振り向くと弥生が立っている。が、その姿はと言えば、直也が初めて見る振り袖姿。

「弥生、それ…」

 言葉に詰まる直也。

「ふふ、どうじゃ? 正月故にな、この前日本橋で見かけた振り袖にしてみたのじゃが」

 化けるのは自由自在というわけだ。

「…初めて見た、弥生のそんな姿。似合ってるよ、すごく」

「そういって貰えて何よりじゃ。ときに直也、初日を拝みに行かぬか?」

 二つ返事で直也は承知。そのあたりでは最も高い台地へと向かう。

 先日、雨降あふりと会った霞坂かすみざかを上り切ると、東の空が白んでくるのがわかった。

「良い年になると良いな、直也」

「なるさ、絶対」

 そう言って昇り来る朝日に手を合わせる直也と弥生であった。


*   *   *


 元日、のんびりと寛ぐ直也一家。

 紅緒はお屠蘇を飲んでほろ酔い、火鉢を引き寄せてあたっているし、未那は弥生に用意して貰った振り袖を着てご機嫌だ。

 汐見は直也と一緒に藪の下(地名、今のTV朝日敷地内)まで行って桶一杯に若水を汲んでくると、その水でお茶を点て始めた。

「何で若水は遠くまで行って汲むといいって言うんでしょうね」

 汐見の疑問に直也はお茶をすすりながら、

「うーん、何か呪術的な意味合いがありそうだよな」

 それを耳にした弥生は、

「うむ、元は東大寺二月堂の『お水取り』に端を発するとも言われておるからのう、あの水は遠く若狭から流れてくると言われておる。そのあたりにありそうじゃ」

「何だ、弥生も本当の事は知らないのか」

 弥生は笑って、

「人の為す行事というものはさまざまな源流を持ち、混交しているからのう、そういうものは儂にもわからぬよ」

 そこへ未那がやってきて、

「父様、遊んで」

「よしよし、じゃあお詣りにでも行くか」

 そう言って、未那を連れ、出掛けようとする直也。そこへ、

「私もよろしいでしょうか」

 と汐見が言い出したので直也は承知する。

「弥生は?」

 と聞くと、

「そうじゃな、紅緒も寝ておるし、儂は火の番をしていよう、帰って来た時に家の中が暖かい方がいいじゃろう?」

 そう言ったので、直也は未那と汐見を連れて初詣に出掛ける事にした。

 直也も弥生に支度して貰い、珍しく羽織袴姿、汐見も振り袖に着替えている。髪も結い上げていた。

 着慣れない振り袖になんとなく落ち着かない素振りを見せる汐見。だが直也が、

「汐見、よく似合ってるよ」

 そう直也が言うと、汐見はうっすら頬を紅に染めた。そんな三人はゆっくりと歩き出した。


 因みにこの時代、初詣という風習はまだ定着していない。が、やはり正月には初日を拝んだり、氏神様に詣でたりはされていたようである。恵方参りをする者もいたようだ。

 直也達は霞坂を上り、右手へと進む。そこには小さな神社がある。霞坂稲荷明神である。

 別名を桜田神社といい、元は桜田郷にあったのだが、江戸城の整備により移転した。

 桜田門はその桜田郷付近に作られたのでその名がある。

 直也達はその霞坂稲荷明神に参拝し、ゆっくりと先へ進む。麻布永坂町へ向かって暗闇坂を下っていく。

 その名の通り、樹木が生い茂って昼なお暗い急坂である。その坂を中程まで下った時直也が、

「…汐見、気をつけろ。何かの気配がする」

 そう告げると、刀の柄に手を掛けた。

「はい」

 未那も、直也の後ろに回り、油断無く辺りを見渡す。その時、一陣の突風が吹いた。

 乾燥した道の砂を巻き上げたその風に直也達が一瞬目を閉じる…そして目を開いた時、直也の姿はどこにもなかった。

「直也様!」

「父さま!」

 汐見と未那の声は暗闇坂に虚しく消えていったのだった。


*   *   *


「ここは…?」

 直也はそう呟いて辺りを見回した。坂の途中にいた筈が、草原のど真ん中にいる。見渡せど果てのない大草原である。

「これは直也殿、ようこそおいで下さりました」

 背後から聞こえてきたその声に振り返る直也、そこにいたのは白で揃えた衣冠姿の男、歳は若いのか老いているのか判然としない。

 が、直也を見つめる眼光が、只者で無い事を語っている。

「何者だ…?…俺をこんな所に連れ出し、何の用だ?」

 刀の柄に手を掛けながら問う直也、だが男は一言も発せず、腰に下げた黄金造りの太刀に手を掛ける。

 その刺すような剣気を感じた直也は、気を引き締め、集中する。男が抜刀するその瞬間を見極めんが為に。


 心の臓の鼓動が聞こえそうなほどの静寂の中、時が流れる。直也も男もぴくりとも動かない。

 男は余裕の表情で直也に対峙している。対して直也は内心驚いていた。今まで出会った誰より、何者よりも、手強い相手。

 おそらくは人ではないだろう、と思った。龍神の化身、翠との立ち会いに匹敵するような緊張感。

 それほど、目の前の男は他を圧するような剣気を身にまとっていた。だがそれに臆することなく、直也は冷静な目で相手を見る事が出来ていた。それは今まで経験してきた戦いが直也を鍛え上げていたからに他ならない。

 一瞬、男が太刀の鞘に添えた左手に力を入れるのが見えた。直也は左脚をわずかに引くと、刀を抜く。

 火花が散った。男の太刀は直也の胴を真二つにする勢いで繰り出されたが、それを直也は大刀で迎え撃ち、剣先を逸らせたのである。そのまま一歩踏み込み、相手の懐にもぐり込む直也。太刀より刃渡りの短い打刀の直也は、より近い間合いを選んだのだ。

 だが男も素早く一歩跳び下がると、唐竹割に斬りつけてきた。それを直也は受け流す。直感で、男の太刀をまともに受けたら、弥生に霊気を込めて貰った刀は兎も角、自分の腕が保たない、そう感じての事である。

 同時に、この相手は自分よりも強いという事を確信した。勝つには、相手に合わせるのではなく自分の戦い方をする事しかない。

「やあっ!」

 気合いを込め、三連撃を放つ。男は易々とそれを受け止める。が、それを予想していた直也は、四撃目をわざと空振りさせ、一旦間合いを取ると見せかけ、逆に踏み込んだ。

「ぬおっ!」

 初めて男に焦りが見られた。近距離での斬り合いは打刀である直也の方が有利だ。

 更に直也は小刀を抜き、二刀で男に斬りつけた。

「ふ、はははは!」

 男は愉快そうに笑うと、人とは思われぬ跳躍力を以て跳び下がる。さすがに人である直也は追いすがる事が出来なかった。

「強い、強いわ!…人としての頂点とも言えるほど強い。だが、まだ足りぬ」

「何!?」

 直也が眉をしかめた、その刹那。男が一陣の疾風と化して襲いかかった。

 一撃、二撃。五連撃を放ち、なおもその剣閃は衰えない。

 直也は受けるのが精一杯である。身体には傷を付けられてはいないが、着ていた着物はずたずただった。

「くう!」

 防戦一方の直也だったが、男が太刀を振りかぶった際、僅かに見えた隙、脇の甘さに目掛けて小刀を突き出す。

 が、それも予想の範囲だったらしく、避けられてしまった。男は笑って、

「素晴らしい。こんな短時間で我の剣に付いて来られるようになるとはな。…それではこれでどうだ」

 更に男の速さが上がった。最早目で見ていては追いつかない。直也は本能的に刀を以て防いでいるだけである。

 一歩間違えば真二つにされてしまいそうな剣撃、それを直也は勘だけで防いでいた。

「やはり素晴らしい。それでは最後の一撃、まいる!」

「!」

 激しい金属音がして、直也の手から大刀、小刀共にはじけ飛んだ。

 即座に懐の翠龍の柄に手を掛ける直也、だが男は斬りかかってこず、そこに立ち尽くしている。

「神野、どういうつもりじゃ?」

 直也の背後から聞こえてきたのは弥生の声だった。

 神野、と弥生は声を掛けていた、弥生の知っている相手なのか…そう直也が考えを巡らせた瞬間、

「済まなんだ、直也殿」

 神野と呼ばれた男が頭を下げた。それも深々と腰を折って。

「直也、怪我はせなんだか」

 そう言いながら、弥生は大小の刀を拾い上げ、直也に手渡してくれる。同時に直也に怪我がないか確かめていた。

「髪一筋でも直也に怪我をさせておったらその首と胴を切り離してくれようものを」

 直也に見せる顔とは打って変わって恐ろしい事を言ってのける弥生である。

「いやいや、弥生殿、そんなつもりは毛頭ござらぬよ。我はただ、直也殿にお会いしてみたくてなあ」

「会ってどうするつもりじゃった」

 弥生の怒気は収まらない。

「あの弥生殿を射止めた殿御はどのような方かと…うおっ、勘弁して下され!」

 弥生の手から蒼い狐火が無数に飛び出し、男の足下で弾け飛んだ。

「素晴らしい天分をお持ちじゃったから、少々手荒じゃったが稽古を…な?」

 なおも狐火を手に灯す弥生に向かって直也は、

「弥生、確かに、俺は怪我をしてはいないし、剣の稽古と言えば言えた…かな?…だから、もう止めておけよ」

 弥生は直也の言葉にようやく怒りを収め、

「ふう、…直也がそう言うのなら致し方ないのう」

 そう言って手を一振り、ぼろぼろになっていた直也の着物を元に戻した。

「ほほ、お見事、そして昔と変わらず、いや昔以上にお美しい」

 そう言った神野を弥生はぎろりと睨む。

「…さてさて、これ以上ご機嫌を損ねないうちに…そうそう、弥生殿、お探しの石塔は川向こうにあるようですぞ。そしてとんでもない罠も仕掛けられている様子。ご用心、ご用心」

 神野はにこりと笑うと、

「神野悪五郎、これにて退散つかまつる」

 そう言って掻き消すように姿を消した。同時に、周囲の草原は消えて、気がつけば暗闇坂に直也は立っていた。

「直也様!ご無事でしたか!」

「父さま!」

 汐見と未那が飛び付いてきた。二人とも涙目である。

 弥生は、

「未那が慌てて帰って来てのう、直也が連れ去られたと言うではないか。大急ぎで汐見の待つこの坂へやってくれば、途方もない妖気で結界が張られておった。それをこじ開けて入ってみれば、お主が神野めと斬り合っていたというわけじゃ」

「あの神野という奴は、知り合いなのか?」

 弥生は僅かに眉をしかめ、

「…その昔、伏見で修行していた頃、神野悪五郎という妖がいてのう、悪戯が過ぎるのでちょいと懲らしめたことがあったのじゃが、その後、この国の、おもに西の妖を束ねるような大妖になったと噂に聞いた」

「それって、山ン本さんみたいな?」

 弥生は肯き、

「うむ、山ン本殿のように屋敷は構えておらぬようじゃし、配下にもかなり好き勝手させているようじゃがな」

 直也は、神野が自分の足りないところを鍛えてくれた、そう感じていたので、

「そんなに悪い妖じゃないよな」

 そうぽつりと呟いた。


*   *   *


「直也様ー、お帰りなさい」

 帰った直也を迎えたのは紅緒の弾んだ声と、暖かな部屋。外を吹く風はまだ冷たく、春の足音はまだ聞こえてこない。

 だが、直也の周りには確かな温もりを持った家族が集っていた。

 旅空妖狐絵巻、今回は幕間的な正月話。今は暑くてとろけそうな真夏ですけどね。

 さて、いよいよ話も大詰めです。

 

 今回、神野悪五郎を出してみました。「稲生物怪録」などに見られる、山ン本五郎左衛門と並ぶ妖怪の親玉ですが、その正体は不明です。本話では、その昔、弥生達伏見の霊狐に懲らしめられ、弥生が見逃してやったといういきさつを裏設定に、更に当時の藻(みくず、弥生の前身)に惚れていたという物語上では語られない設定がありました。

 人間世界では敵無しだった直也ですが、慢心の前にこういう洗礼を受けた事で更に成長してほしいものです。


 それでは、次回も読んでいただけたら幸いです。

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