巻の八十六 きょんしー(前)
巻の八十六 きょんしー(前)
霜月の初めのことである。麻布にある直也達の仮宅に来客があった。
「御免下さりませ」
そう言って入ってきたのは若い娘、だが弥生は、
「おや、環のところの狐ではないか、どうしたのじゃ?」
どうやら四谷追分稲荷社の主、環の配下らしい。その狐の化けた娘は、
「あの、直也様と弥生様を訪ねていらした方達がいらっしゃいます。汐見様とおっしゃいまして」
「汐見が!?」
「はい。こちらへご案内してよろしいでしょうか?」
もちろん、と肯いた弥生。狐娘は外へ出て行き、汐見を連れて戻ってきた。
「直也様、弥生様、お言葉に甘えてやってまいりました」
「汐見、良く来たなあ、元気そうで良かった」
挨拶を交わす直也達に向かって狐娘は、
「それでは私はこれで」
そう言って出て行こうとした。それを弥生は呼び止める。そしてちょっと奥へ入ったかと思うとすぐに出てきて、
「御苦労じゃったな、これは手間賃代わりじゃ」
そう言って、半紙にくるんだものを差し出した。すると狐娘は狐耳と尻尾を出し、嬉しそうな顔になって、
「ありがとうございます!」
そう言い残し、飛び跳ねるようにして帰って行った。
「環によろしくのう」
そう言った弥生の声が届いたかどうか怪しいものである。
「何を渡したんだ?」
興味に狩られ、直也が尋ねた。
「何、買い置きの油揚げを五枚ばかりくれてやっただけじゃ」
「なるほどなあ」
修行中とはいえ、油揚げの魅力には勝てなかったらしい。
それから汐見を家に招き入れ、空いた部屋を汐見に割り当てる。一通り済んだところで茶にした。
「すてきなお住まいですね」
「うむ、春までの仮宅じゃがな」
お茶をすすりながら弥生が答える。
「里のみんなは元気だったかい?」
直也が尋ねた。汐見は微笑んで、
「はい、おかげさまで。連れて行った元山賊達もちゃんと里で面倒見ています」
「そうか、それは良かった」
それから、紅緒や未那を紹介したり、別れてからの話をしたり。それが一段落した時。
「ところで直也様」
小声になる汐見。
「怪しい者が近くにおります」
「怪しい者?」
「はい。浪人のようですが、遠くからこの家をうかがっているようです」
弥生は笑いながら、
「それは気がついておったが、何も出来ぬよ。この家は結界に囲まれているからのう」
「結界?」
そこで弥生が説明する。
「この家は元々竹長稲荷社の管理下にある。普通の妖には手出しできぬし、人からも気づかれぬよう、儂が術を掛けてある。
ほれ、汐見達の里に掛けてあったものと同種の結界じゃ。
じゃから、案内してきた霊狐や、儂が認めた者、もしくは儂と一緒でなければこの家へは入ってこれぬ。
直也、紅緒、未那は儂がこの結界を張る時に除外しておいたからのう。今日からは汐見もその一人じゃ」
それから数日、直也は汐見を伴って江戸を案内してやっていた。不審な浪人らしき者どもは今のところ何も仕掛けては来ない。汐見は初めて見る江戸の繁栄振りに、目を輝かせていた。
「すごい人ですねえ、直也様」
今日は両国へ芝居見物である。
「それじゃあ父様、また夕方」
「ああ、ありがとうな、未那」
未那は今、弥生、紅緒と例の石塔探しをしている。それで時刻を決めて送り迎えをしてもらっているのである。
直也はめぼしい芝居は一通り見てしまっているので、中でも面白かった芝居を選んだ。
案の定、汐見も気に入ったようである。芝居を見て、茶店で軽く食べ、浅草をぶらつき、帰る。それだけの事であるが、長い事結界の中で暮らしていた汐見には心躍る一日であった。
「直也様、やはり外の世界は賑やかですね」
そう話す頬が紅潮していたのは夕日の所為だけではあるまい。
さて、夕方、迎えにきた未那と共に麻布へ帰った直也、風が冷たくなったので懐手をした、その時。
袂の中で何か手に触る物があった。取り出してみると結び文である。いつの間に入れられたものであろう。
後で見ようと一旦懐にしまい、家に入る。ただいま、と声を掛けると、夕餉の支度をしていた弥生が、
「おお、お帰り。じきに出来るから、待っておれ」
それで直也は部屋に行き、先の文を開いてみた。そこには、
「なおやさまへ ぜひおあいしておはなしをしたく ほんじつくれむつにかすみざかしたにておまちしております」
と仮名で書かれていた。間違いなく自分宛、だがまったく心当たりがない。暮六つといえばもうそろそろである。
霞坂は今の住まいから歩いてもほんのわずか、直也は行ってみようと思った。すると弥生が、
「直也、出かけるのか? もうじき夕餉じゃぞ?」
「ああ、ちょっと霞坂の下まで散歩するだけだ、すぐ戻るよ」
直也はそう言い残し、早足に出かけた。
霞坂に来た時、ちょうど暮六つ、長谷寺の鐘の音が聞こえてきたところであった。
「…直也様? 来て下さったのですね」
女の声である。そちらを見た直也は目を見張った。
「お前は…雨降!」
「ははっ、わかっちまったかい」
町娘の姿をしているとは言え、今の直也は雨降が化けた女だという事が一目でわかった。思わず刀の柄に手を掛ける。
それを見た雨降は、
「そう警戒しなくていいよ。別に危害を加えようとか思って来たんじゃないから。…ちょっと、あんたと話がしてみたくてねえ」
正体がばれた雨降は口調も砕けたものになっている。直也はそんな雨降に、
「話?…何だ?」
雨降はにやりと笑って、
「この前…聞かせてくれた話さ。『命の理』とかいう。あれであんたに興味持っちゃったってえわけ」
「それで? もうじき夕飯なんだ、手短に頼む」
直也もまだ完全に警戒を解いてはいない。
「そうだねえ、…あんた、藻…今は弥生だっけか、あいつと一緒にいるけど、気にならないの?」
「は?…気になる…って何がだ?」
突然の質問の意図がわからず、面食らう直也。
「だからさ、弥生は狐だよ? いくら美人に見えても正体は狐なんだよ? 嫌になったり、気味が悪かったりしないのかい?」
直也は笑って、
「俺が生まれた時から一緒にいてくれたしなあ、…今は許嫁なんだぜ?」
「えっ…」
雨降が息を呑んだ。
「あ…あんた本気?あたしを騙してるんじゃないの?」
狐である雨降を騙しているんじゃないかとは笑ってしまいそうな科白だったが、
「こんな事、冗談で言えるものか」
直也は真顔で答える。そんな直也の顔を雨降はまじまじと見つめ、
「...ますます興味が湧いたわ、あんた、狐が異類だってわかってる?」
直也はちょっと考えて、
「うん、まあ、人とはちょっと違うよな」
「それならなんで…」
「…でも同じ生き物だ、同じ命だ、好きになったものは理屈じゃないだろ」
あくまでも真顔で語る直也。薄暮の中、少々赤くなっているのはよく見えなかっただろうか。
雨降はしばらく黙ったままうつむいて考えているようだったが、やがて顔を上げて、
「よくわかんないわ。でも一つだけ言える。あんたが特別なんだ、人の中ではね」
直也は笑って、
「そうかも知れないな、…これで気が済んだか?」
雨降はそれには答えず、あたりを見回す。狐耳と尻尾が飛び出した。そしていきなり飛び上がると、頭上から落ちてきた何かを投げ飛ばした。
一瞬遅れて直也も腰の刀を抜く。背後から襲ってきた影を薙ぎ払った。続いて左右、また前後、次々に襲い来る影。
「なんだってんだ、こいつら!」
薄闇の中、襲い来る者達は人の形をしていた、浪人姿ではあった。だが、直也の刀で腕を切り落とされていても、そこから血も出ていないし、痛みさえ感じていないようだ。
「こいつら…死人か!…だけど、術者はどこに…」
雨降は面食らっていた。直也は間断なく襲ってくるその攻撃を躱し、反撃しているが効果はあまり上がらない。
腕を切り落としてもひるまないそいつらは今、十重二十重に直也と雨降を押し包み始めていた。
刀を持つ手を切り落としても、もう一方の手で殴りつけてくる。腕が無くなれば頭をぶつけてくるし、脚を一本無くしても片足跳びで襲ってくる。そしてその力たるや、側にあった立木をへし折るほどである。
いつか、マーラに操られていた紅緒が使った死人繰りの術よりも質が悪いようである。
雨降は黄色い狐火で応戦したが、あまり効果が無く、ついに白い狐火を投げつけた。が、身体を焼かれ刀を溶かされてもなお、襲い来るその攻撃性に流石の雨降も背筋を寒くした。
「くそっ! 雨降、大丈夫か!?」
直也もぎりぎりである。
「ぎゃっ!」
雨降の悲鳴。術をものともせず、狐火も通用しない死人がついに狐の弱点である狐耳と尻尾を捉えたのだ。
「雨降! 雨降!!」
雨降からの返事が無い。必死に斬りまくる直也であったが、ついに刀を押さえられ、動きが止まる。
直也めがけ死人が襲いかかる…その時。
「おんきりかくそわか」
真言が響いた。すると襲ってきた死人の動きが緩んだ。
「おんまかきゃらやそわか」
次の真言で死人の動きが完全に止まる。
「弥生か!?」
直也が呼ばわると、
「おんあみりたていぜいからうん」
真言を唱えながら弥生が現れた。そして、
「とふかみえみため……はらいたまえきよめたまう…」
短い祝詞。それが終わると同時に、死人は崩れて土に還った。
「…直也、大事ないか? 帰りが遅いので見に来て良かったわい」
「弥生、ありがとう、助かった」
「危なかったのう、これは唐国に伝わる術じゃ。きょんしーと呼んでいたかのう…」
刀をぬぐい、鞘に収める直也。そして、
「…雨降は?」
辺りを見回すが雨降の姿がない。
「もしや…あのきょんしーに攫われたのか?」
弥生は少し考え、
「直也、とにかく一度戻るのじゃ」
家へ向かって歩きながら弥生は、
「直也、許嫁の儂を差し置いてあんな女狐と逢い引きとは恐れ入る」
そう言って睨んだものだから直也はあわてて、
「ち、違うよ、それは誤解だ。こんな文がいつの間にか懐に入っていたから気になって…それに弥生は食事の支度をしてくれていたし…」
そんな直也を見た弥生は口元を押さえて、
「くくっ、わかっておる。そんなにうろたえんでも良い。ちょっと意地悪を言ってみたくなっただけじゃ」
そんな話をしているうちに家に着いた。紅緒が出迎える。
「おかえりなさい、直也様、弥生姉様。おなかぺこぺこー」
「すまんすまん、すぐに夕餉にしよう」
夕食中も直也は雨降の事が気になっていた。それで食事が済むとすぐ、その話を始める。
汐見は眉をしかめて、
「直也様、その雨降という狐は、鉄山と鹿角を傷つけた奴でしょう?そんな狐の事は放っておけばいいではありませんか」
だが直也は、
「うん、…汐見の気持ちはわかるが、今回は俺と一緒にいた所為で襲われたわけだし…」
その直也の言葉に被せて弥生が、
「もしかすると雨降は儂と間違われてさらわれたのかも知れぬ」
「えっ?」
弥生は考え考え、
「この家の周りに感じた浪人の気配というのはあの死人…きょんしーのものじゃった。今まで襲ってこなかったわけ、今回襲ってきたわけ…可能性を考えてみたのじゃが、まず、これはマーラの仕業と考えるのが一番筋が通る。石塔を破壊して回っている儂らに感づいたのじゃろうな」
「それじゃあ、何故今日まで襲ってこなかったんだ?」
それに答えて弥生が、
「きょんしーというのは術者がそばに居ずとも、ある程度の意志を持ち、判断できるのじゃ。おそらくあのきょんしーども、直也と儂が一緒にいるところを襲う命令を受けていたと見えるな。今まで二人だけでいる事はほとんど無かったから襲ってこなかったのじゃろう」
「すると狙われたのは俺じゃなく…」
「弥生様を攫うのが第一目的だったということですか?」
汐見が結論を口にした。
「そう考えると辻褄が合う。マーラめ、いよいよもって油断ならぬ」
攫われていたのは弥生だったかも知れない、そう思うと、直也は雨降を助け出す方法を考えずにはいられなかった。
「ふふ、直也、お主が今、何を考えているか当ててみようか」
弥生はそんな直也の胸中をずばり言い当てる。
「雨降を助けるだけではない。マーラの拠点を一つ潰す事が出来るのじゃから、これは儂の役目じゃ」
雨降を許していない汐見も、そう弥生に言われてはそれ以上の反対は出来なかった。
「よし、…直也、先ほどの文を寄越せ」
そう言って直也から雨降の文を受け取った弥生は、掌で文を包み込むようにして、呪を唱える。
掌を開いた時、そこに文は無く、代わりに水色をした蛾が飛び立った。
「これでよし、…雨降の所まで案内して貰おう」
闇の中をひらひらと飛ぶ水色の蛾。その後をついて行く直也、弥生、紅緒、未那、汐見。
話し合った揚げ句、結局全員で出てきた直也達であった。
蛾の後を付けること一刻。一行は、芝増上寺を過ぎ、海の側へとやって来ていた。
「この辺りは江戸城の南…ふむ、間違いなくマーラの拠点がありそうじゃのう」
薩摩藩の屋敷を過ぎると、荒れた古寺に行き当たる。蛾はその古寺の閉ざされた門に留まった。
「…ここのようじゃな。周囲に結界が張られておる。でなければ蛾は門の上を飛び越えて中に入ったはずじゃ。皆、油断するでないぞ」
弥生がそう言い終わらないうちに、軋んだ音を立てて門扉が開いた。
「ふ、…気づかれておるか。そうじゃろうな。…折角の招きじゃ、お邪魔するとしよう。直也、紅緒、未那、汐見、そなたらはここで待って…」
「ここまで来てそれはないだろう、弥生。一緒に行くぜ」
「お伴します」
「一緒に行く」
「駄目と言っても付いていきます」
しばしの押し問答の後、全員で敵地に乗り込む事となった。
弥生、直也、未那、汐見、紅緒の順で門をくぐる。最後尾の紅緒の背後で門は再び閉じられた。
「…やはり、罠か。皆、用心せよ」
その言葉が終わるか終わらないうちに、周囲に黒い影が現れた。きょんしーである。その数、百体以上。
刀を抜き放ち、構える直也に弥生は、
「直也、翠龍を使え。きょんしーを倒すにはそれしかない」
「わかった」
そう直也は答え、跳びかかってきたきょんしーを斬り倒した。神刀の一撃にさすがのきょんしーも魔力まで断たれて土に還る。
だが直也一人で倒せる数は知れている。しかし紅緒も、未那も、汐見も、ひるむことなくきょんしーを迎え撃っていった。
一方、弥生は正面の闇に鋭い視線を投げる。そこから現れたのは一人の坊主。
「ようこそ、弥生さん。…人違いならぬ狐違いをしてがっかりしていたのですが、あなたから来て下さるとは思いませんでした」
言葉遣いは丁寧だが、その全身からは禍々しい妖気が吹き出している。
「一緒に来た方達もなかなかお強い。…用があるのは弥生さんだけ、他の方々にはここで待っていて貰いましょう」
そう言うと、背後の闇の中へと身を翻した。後を追おうとした弥生は、直也の方を振り返る。
(弥生、ここは任せておけ。こいつらを片付けたら後から行くから)
直也の視線が弥生にそう語っていた。弥生は小さく肯くと、闇へと歩を踏み出した。
その闇の中から、先ほどの坊主の声が響く。
「そううまくはいかせませんよ」
そして何やら煙のようなものが吹き付けられた。咳き込む直也、汐見。だが、紅緒と未那はと言うと、
「うにゃああああぁぁぁぁ…」
奇声を上げてへたり込んでしまった。それを狙うきょんしーの魔手を払いのけたのは汐見の錫杖。
続いて直也の翠龍がそのきょんしーを土に還した。
「紅緒! 未那!…どうしたんだ! しっかりしろ!!」
だが、紅緒も未那も、地面に横たわり、よだれを垂らして身体を震わせるだけ。
「ふふふふふ、…妖気を帯びた木天蓼の粉の威力はいかがです?…猫又と化け猫にはこの上ないごちそうでしょう」
直也は以前、箱根でまたたびを食べた紅緒が、正気を失い、ひどい痴態を曝した事を思い出した。
まして妖気を帯びた木天蓼、紅緒と未那にはひとたまりもなかった事だろう。倒れた紅緒と未那に襲いかかるきょんしー達。
それを悉く叩き伏せ、土に還しながらも直也は、
「弥生! 行け!」
振り返り足を止めた弥生に向かい、一声叫んだのである。




