巻の八十五 江戸(急) 退治
巻の八十五 江戸(急) 退治
おさえが直也を見つける、その少し前。
着物の裾を帯にからげ、いつも剣術の練習に使っている棒を小脇に抱えた辰治は、鼻息荒く風神一家の本拠にやってきた。
「ちょっくらごめんよ」
そう言って中に入るや否や、
「何でえてめえは?」
風神一家の若い者がそれを見とがめた。
「何でもいいやい、親分を出しやがれ」
「なんだとぉ? 親分に何のようでぃ?」
「てめえみてえはちんぴらに話してもしょうがねえんだよ。うだうだ言ってねえで親分を出せってんだ」
「ふざけるのは顔だけにしとけよ?」
そう言ってちんぴらが辰治の胸ぐらを掴んだ時。
「何だ何だ、騒がしいじゃねえか」
そう言って風神一家の親分、風神の弥五郎が奥から顔を出したのだった。
「あ、親分、こいつが生意気にも…」
親分と聞いた辰治は、ちんぴらに捕まれた襟を強引に振り解くと、
「おめえが親分か、…俺は辰治ってんだ、ちぃっとばかし話があってよ」
弥五郎はにやりと笑い、
「威勢だけはいいな、若いの。で、何だ、用ってのは」
「他でもねえ、おめえらがこのあたりの店屋から不当にふんだくってる冥加金、あれを止めな」
弥五郎は笑い顔を崩さずに、
「はいそうですかって止めると思ってるのか?」
「ふん、思っちゃあいねえがよ、一応すじは通しておこうと思ってな」
「何のすじだ?」
辰治は棒を構え直して、
「そっちが悪りぃってすじよ」
そう言うと、
「止めねえなら…」
「どうすんだ? ああ?」
その辰治の周りに風神一家の手下達が集まってきた。皆、手に棒を持っている。
「止めさせたかったら力ずくで止めさせてみな!」
そして一斉に打ちかかって来たのだった。
「へっ、そっちが先に手ぇ出したんだかんな」
辰治は素早く身をかわすと手にした棒を振り下ろした。
「ぎゃっ!」
手下の一人が肩を打たれて悲鳴を上げる。
「へ、兄貴につけてもらった稽古は伊達じゃねえや」
直也に剣術の基本を仕込まれた辰治の動きは以前とは見違えるよう、手下どもの棒をかいくぐり、二人、三人目も殴り倒した。その手際を見た手下どもはいったん離れ、遠巻きに辰治を取り囲んだ。
「ほう、なかなかやるじゃねえか。…辰治とか言ったな、どうだ、風神一家に入る気はねえか?」
風神の弥五郎が声を掛けた。が、
「ふざけんじゃねえぞ? 痩せても枯れてもこの辰治様は江戸っ子でぃ、やくざに荷担してたまるもんかい」
「そうか、残念だな。…先生」
風神の弥五郎はそう言って、奥の間から顔を出していた浪人に声を掛けた。
「若造、どこかで剣術のまねごとを習ったと見えるが、そんな程度じゃちんぴらは殴れてもこの俺にはかすりもせぬぞ」
そう言って大刀を抜き放つ。辰治の周りを囲んでいた手下達は浪人の邪魔にならぬよう、更に離れた。
「うるせえ、殴れるか殴れねえか、やってみなけりゃわかるもんけぇ!」
そう言って殴りかかった辰治の棒を刀で払った。だが棒は斬られずに持ちこたえる。
「ほう?…樫の木か? なかなか丈夫な棒を持ってきているな? だが所詮は木の棒よ。こうすれば…」
浪人は刀を振るい、二度、三度と斬りつける。辰治は棒で受けざるをえない。
流石に同じ場所を三度斬りつけられた棒は、ついに両断されてしまった。
「ち、ちくしょう…!」
「なかなか頑張ったな、若造」
そう言った浪人は一足踏み込むと、胴を横薙ぎに薙ぎ払う、その切っ先は辰治の腹部を浅く切り裂いた。
「ぐあっ…!」
「まだ浅いな、これでどうだ」
返す刀で辰治の右肩が斬られた。更に浪人は辰治を弄ぶように、浅い傷を次々に負わせていく。
「く、殺せっ!…ひと思いに殺しゃあがれ」
「言われなくても」
にたりと笑った浪人は辰治の胸を貫くべく、刀を突き出した。
その突き出す刀が辰治の胸を貫く瞬間のこと。
「何者だ!」
浪人は身を翻し、飛んできた石を躱した。
「…何とか間に合ったようだな…弥生、辰治の傷を頼む」
浪人の問いを無視した直也は、懐から天狗の秘薬を取り出し、弥生に渡した。
「直也様、あたいは?」
「紅緒は、そうだな、俺が危なくなったら助けてくれ。それまでは未那と一緒に弥生の手伝いだ」
「はーい…」
浪人は一見隙だらけに見える直也の態度を見て、何か底知れないものを感じ取っていた。
そこでとりあえずは距離を置き、様子見に徹している。一方風神の弥五郎はというと、
「なんだてめえは?…田舎侍の出る幕じゃねえぞ?…とっととうせやがれ」
だが直也は笑って、
「そうもいかないんだ。辰治を無事連れ戻す、と妹さんに約束したからな」
「…ふざけやがって、無事帰れると思ってやがんのか?」
そこへ弥生が、
「…直也、辰治とやらはもう大丈夫じゃ、血は止まった。…少しばかり血が足りなそうじゃが、元々血の気の多そうな奴じゃからまあ大丈夫じゃろう」
そう言ったものだから、弥五郎はじめ、手下ども、そして浪人も目を見張った。
その辰治はというと、弱々しい声で、
「…あに…き…?…来て…くんなすったんだ…」
そんな辰治を直也はのぞき込んで、
「まったくしかたのない奴だ。お前みたいな弟がいたら手に負えないぜ。勇気と無謀は違う。怖さを知ったお前なら、もう二度とこんな真似はしないよな?」
そう言って笑いかける。更に、笑顔を消した直也は、
「いいか、守りたいものがあったなら、力を付けろ!…そしてその力がなかったら、道に外れない限り、どんなことをしてでも守れ! お前の妹さん泣いていたぞ? 守ろうとする妹を泣かせて何が『守る』だ!」
「…は、はいっ!…でも…あにき…」
「いいか、自分で出来なかったら、どうすればいいか考えろ。それが『守る』ってことだ」
「だけど…おれには…もう…」
直也は再び笑みを浮かべ、
「莫迦。何のために俺がここにいるんだ」
「えっ…あにき…それって…」
そんな様子を見た弥五郎は激怒した。
「余裕ぶりやがって…!…おうてめえら、こいつらぶっ殺しちまいな!」
「おう!」
弥五郎の声で飛びかかってくる手下達。辰治は涙を目に浮かべ、
「あ…あにき…こいつらやっつけてくれ…町のみんなを救ってやってくれ…!」
その科白を聞いた直也は刀を抜いた。
「よし、わかった。そこで見ていろ」
刀を持ち替え、峰打ちの構えで迎え撃つ直也。たちまち二人、三人が叩きのめされる。
「しゃらくせえ! ついでにそこの娘達はふんづかまえて女郎屋に売り飛ばしちまえ!」
「…じょろうやって何?」
弥五郎の罵声を聞いた未那が無邪気に弥生に尋ねた。弥生は笑って、
「未那が知るにはまだちょっと早いかのう」
そんなのんびりした会話をしていると、
「この女、何余裕ぶっこいてやがんでい」
弥生を捕まえようと手を出してきたちんぴらがいた。
「何じゃ? 儂をどうしようというのじゃな?」
ひらりと身を躱した弥生は微笑みを浮かべ、ちんぴらの額を人差し指でとん、と軽くこづいた。
「う…が、…あ…」
それだけでちんぴらは意識を失い、その場にくずおれてしまった。それを見た他のちんぴら達は弥生ではなく、紅緒を狙う。だが紅緒は、
「あたいは姉様みたいに優しくないわよ」
そう言って爪を出し、ちんぴらどもの腕と言わず肩と言わず、所かまわず切り裂いていく。
「な…なんだこの女ども」
ようやく弥生達が只者でない事に気づいたちんぴら達。
一方直也は、襲ってくるちんぴらたちの腕、脚を峰打ちで叩き折っていった。ちんぴらはそれだけで戦意喪失する。
だが浪人はそんな直也の太刀筋をじっと見つめていた。そして十人目のちんぴらが倒された時。
「…やるな、若造。小野派一刀流を使うようだが、もう貴様の太刀筋は見切った」
そう言って直也に斬りかかってきたのである。それを聞いた紅緒は心配になり、
「…弥生姉様、直也様大丈夫かしら?」
だが弥生は落ち着いたもので、
「紅緒は見ておらぬから心配かも知れぬが、直也は紀州では鉄砲を持った賊を撃退し、下北で本物の鬼を相手に一歩も引かず、またその鬼を斬り殺すほどの妖刀使いをも打ち破ったのじゃぞ?…あのような輩、ものの数ではない」
その時金属音が響いた。直也の太刀薙が浪人の刀を叩き折ったのである。
信じられないという顔で折れた刀を見つめる浪人。直也はその隙を見逃さず、浪人の髷を切り飛ばす。
ざんばら髪となった浪人は後も見ずに逃げ出した。
「…卑怯」
そう未那が呟いたかと思うと、浪人は突如として足下に空いた穴に落ち込んでしまった。
後はあっけないものだった。大半は怖じ気づいて逃げ出そうとし、未那によって穴に落とされてしまう。
自棄になって跳びかかってきた者達は直也に殴り倒され、これも穴に落とされた。残ったのは親分の弥五郎だけ。
「き、貴様ら、ば、化け物か!」
精一杯の虚勢を張るが、脚が震えていた。そんな弥五郎に向かって弥生は右手の人差し指を突きつけ、
「さて直也、こやつは儂にまかせて貰おうか」
そう言って真言を唱えだした。
「のうまくさんまんだぼだなん…」
すると弥五郎の動きが止まった。目がゆっくりと上を向き、白目となる。
「…さんまんだぼだなんぼろん」
真言を繰り返すうちに弥五郎はゆっくりと膝を突き、前のめりに倒れた。その頭頂部に人差し指を当てた弥生は、
「…ぼろん」
真言が終了したその刹那、黒いものが弾けたようにも見えた。
「…終わった。…こやつは、昨年儂と環が関わった風神組の者だったのじゃろう。
たまたまあの場にいなかったため、捕縛されることなく、再びここで風神組を立て直したに違いない。
マーラに悪影響を受けていたようじゃな。じゃがその影響はもう除いたから、もう前ほどにあくどい事もするまい」
それ以前に、完膚無きまでに叩きのめされ、この世界ではもうやっていけないに違いない。
「弥生、せっかく楽しい一日を過ごそうと思ったのにこんなことになってごめん」
弥生の術によって眠らされた辰治を背負った直也が言うと、
「何、まだ日は高い。それにマーラ絡みならこれは儂の後始末でもあったしのう」
「直也様、本当にお強くなられたんですね。箱根で天狗に遭った時とは段違い」
「そうか?…だったらいいんだがな」
「…父さま、強い」
未那にも言われた直也は嬉しかった。
そうこうするうち、駒形堂である。茶店からおさえが駆け寄って来た。
「兄さん!…上田様、兄さんは!?」
直也は微笑んで、
「大丈夫、眠っているだけだ。少し斬られたが手当てしたから心配いらない」
そこで家に運び込み、切り裂かれ、血で汚れた着物を着替えさせると布団に寝かせる。
「辰治…よかったよう…」
母親も安心したようだ。
「目が覚めたら、おかゆか何か、消化の良いものを食べさせてやるといい」
そう言って、紙に包んだ小判を一枚、おさえの手に握らせると直也は立ち上がった。
「あ…上田様…ありがとうございました! ありがとうございました!!」
拝むようにして礼を言うおさえと母親。そんな場面が苦手な直也は足早に表に出ると、待っていた弥生達と合流する。
そして明るい顔で、
「さて、芝居でも見ようか」
* * *
夕刻、直也達は食材を抱えて家路に就いていた。
直也の手には大きな鯉。紅緒の手には味噌や味醂。未那の手には大根、里芋などの野菜。
そして弥生の手には豆腐と油揚げがあった。未那と紅緒は直也の手の魚をちらちらと見ている。
それに気づいた弥生は、
「あわてるでない、帰ったらすぐに料理にかかるでのう」
麻布近辺にはいい店屋が無いので、途中日本橋の魚河岸や京橋の青物市場に寄るなどして集めてきた食材であった。
その夜は鯉の洗い、鯉こく、油揚げの煮付け、味噌汁、ふろふき大根など、豪勢なものになった。
折しも寒風吹く夜であったが、直也達一家は暖かな夜を迎えていた。
江戸初期の町の様子の資料って乏しいんですよ...
ここまで来たら、出来る限り本格的な小説にしたいのです。江戸の地図とか出版されてますが、そのほとんどが江戸後期、黒船の来る少し前あたりなんですよね。
新井伝蔵は後の新井白石です。ストーリーには直接関わってきませんが、一応直也との接点を作っておきたかったので。この時期、まだ幕府に仕えてはいません。
さて、未那と紅緒も加わり、直也達は人間相手なら無敵ですね...弥生もいるのですから、多分この時代の軍隊相手でも平気でしょう。
そんな直也一家、春まで江戸にいます。物語も終盤、もう少しおつきあい下さい。
それでは、次回も読んでいただけたら幸いです。




