巻の八十四 江戸(破) 見物
巻の八十四 江戸(破) 見物
三人はぶらぶらと両国へ向かった。隅田川を両国橋で渡るのであるが、
「あれ…」
橋が無い。それもそのはず、両国橋は天和元年(1681年)の水害で流失、完成は元禄九年(1696年)まで待たねばならない。
その間、隅田川は仮橋で渡ることになっていた。そしてその仮橋はもう少し浜町(日本橋)寄りに架かっていたのだ。
「あっちがそうじゃないか?」
「…そのようですね」
ともあれ、橋の上に立つ直也達。
「ここは武蔵国と下総国の両国を結ぶから両国橋って言うようになったんですよ」
紅緒の解説を聞く直也。ここは明暦の大火以来再整備され、橋が架けられた他、広小路と呼ばれる火除け地となり、その名の通り広い、防火帯を兼ねた通りが出来、両側には恒久的な建物が建てられないため、芝居小屋や茶店が並んでいるのだ。
端の方にあった見せ物小屋に、「飛騨山中で取れた六尺の大いたち」と看板が出ているのがあり、脇に「近づくと危ない」とも書いてあるのを紅緒が見つけた。
「直也様、大いたちだって。あたい、見てみたい」
「うん、俺も六尺のいたちは見たことがないな、見てみるか」
そう言った直也の肩を叩いた者があった。見れば、三十になるかならずか、くらいの侍。学者風の格好をしている。
「やめておいた方がいい。六尺の板に血が付いているから板血、大いたちと言ってるんだ」
驚くべき事を言い出した。
「じゃ、じゃあ、飛騨山中で取れたというのも嘘? 近づくと危ないというのも?」
紅緒の言葉に侍は笑って、
「飛騨山中で取れた木から作った板なんだろうさ。そして倒れてくると危ない、というわけだ」
「……」
絶句する直也達。その侍は、
「さすがは江戸、こんないかさま見せ物まであるとはな。…そして、それを笑って見逃す大らかさは見上げたものだよ」
そう言って立ち去っていった。
* * *
「ほう、それは面白かったろうのう」
夜、住まいに戻り、夕食を食べながら弥生に昼間の話をする直也。
「その学者風の武士、名は?」
「…夕方、もう一度会ったのでその時に聞いたら、新井…伝蔵と言ったかな。儒学者だそうだ」
お茶を一口すすり、更に直也は、
「忠告のお礼に、茶店で団子をごちそうしたんだが、少し話をしてみるとなかなかの人だったな」
「お主も学問の話が出来る友人がいたらよいのにのう。…その、新井とかいう学者などは良さそうじゃ」
「…こんな話も聞いたぞ。…新井さん、豪商から、嫁を世話しようと言われたらしいんだが、将来、大学者になったとき、金持ちの妻のおかげで出世したと陰口を言われたくないとかで、みんな断った、と言うんだ」
弥生は微笑んで、
「それはまた、儒学者らしい拘りじゃな」
「そうかな、俺にはわからないや。道に外れたことでなければ、手段に拘って目的を達成できないなんて馬鹿馬鹿しい。…俺なら、弥生のためなら泥の中に這いつくばったっていいと思ってる」
弥生は顔を赤らめて、
「…馬鹿者。紅緒も未那も聞いておるというのに何を口にするのじゃ」
すると紅緒が、
「そうだ、姉様、直也様とのご婚約、おめでとうございます」
弥生はそれを聞いて飛び上がらんばかりに驚いた。
「なっ、直也、紅緒に話したのか!?」
「ああ、紅緒に聞かれてね。…弥生との仲は少しは進んだのか、って」
「…にしても正直すぎるぞ…紅緒、お前はそれで良かったのか?」
紅緒はきょとんとした顔をして、
「はい?…弥生姉様と直也様が夫婦になられたらあたいも嬉しいですよ?」
と答えるので弥生も苦笑し、
「…そうか」
としか答えられなかった。
そして話は未那の縮地の話になった。弥生も少し驚き、感心したので直也は、弥生には出来ないのか、と聞いてみた。
「うむ、…木火土金水の五行、地水火風空の五大を知る九尾狐は皆出来るが、それなりに消耗する。
ましてや他の誰か、術を使えぬ者を連れてと言うのはいささか大変じゃな。…じゃから未那が使えることに驚きじゃ」
その未那はお腹がくちくなったのか、紅緒の横で丸くなって眠っている。直也は起こさないよう、そっと抱き上げて布団へ運んでやった。
「弥生の方はどうだったんだ?」
未那を寝かしつけた直也が尋ねる。
「うむ、西方の極を探し歩いたのじゃが見つからぬ。以前のあれもたまたまじゃからな。そうすぐに見つけられるとも思ってはおらぬ」
その後、狐火の灯りを落とし、自分たちも眠りに就いた。
* * *
翌日。
直也、紅緒、未那は浅草見物をしていた。
「浅草にも見るところはたくさんありますよ。待乳山聖天とか、…吉原とか」
「吉原はともかく、聖天さんか。行ってみようか。…ああ、未那も一緒だから止めとこう」
聖天は大聖歓喜天といい、十一面観音を本地仏とする。その姿は象頭人身で、男女神が抱擁した姿で表されることが多い。
それで、『聖天は娘の拝む神で無し』などという川柳もあるくらいだ。
「?」
無口な未那は何のことかわからず顔に疑問を浮かべていたが、直也が露店の飴屋から飴を買って差し出すと、嬉しそうにそれを舐め始めるのだった。
そんな直也一行だったが突然、
「直也様! 上田直也様!」
そう声を掛けてきた者があった。
声のした方を振り返ると、昨日の若者が立っていた。
「辰治、だったか。…怪我はもういいのか?」
直也が尋ねると、
「へい、おかげさまで。それで、何かお礼が出来ねえかと、お会いできるかどうかわからねえが、この観音様の門前で待ってたんすよ」
「…来なかったらどうするつもりだった?」
そう尋ねると、会えるまで何日でも待つつもりだった、と言うので直也もあきれた。
「…あらためまして、昨日はありがとうございやした」
付いてきた辰治は大川(隅田川)の土手まで来ると深々と頭を下げた。そして、
「上田様、お強いですね、あっしもおぼろげながらご活躍を覚えてまさあ。…どうしたらあんなに強くなれるんですかい?」
「俺の場合は、…守りたいものがあったから、かな」
すると辰治は、
「あっしも、おふくろや妹、それに店を守りたいと思ってるんでさあ。…一生のお願いだ、あっしに剣術を教えておくんなさい」
「剣術を、か…」
考え込んだ直也を見て、さらに辰治は土下座をする。
「お願えだ、上田様、頼んます!」
直也は慌てて助け起こし、
「わかったよ。…基本くらいなら教えてやるよ。…それからその上田様、ってのはやめてくれ。くすぐったくてな」
そう言ったのだった。
大川(隅田川)土手に近い小さな神社の境内で。
「いいか、剣は、第一に速さだ。そして気力と体力を一致させることだ」
「へへえ、速さはわかりますが、あとのはどういう事で」
「そうだな、…やる気、とか元気、という、それが気だ。気持ち、と思えばいい。そして体力は力だ。
剣を振るうときには迷わず、思い切って振れ、と言えばわかりやすいか」
「それならわかりやす」
心構えに続いて、足捌きの基本と、素振りの基本を教える直也。
「いいか、足はすり足が基本だ。無闇に飛び跳ねたりするな。空中にいるときは体勢を変えられない。相手との間合い…距離が無いときは跳んだりしてはいけない」
そして実際に、木刀代わりの天秤棒を振らせる。辰治には初めての事、五十回も振ると腕が疲れてくる。
「千回を目標に毎日振るんだな」
そう言って、茶店に待たせている紅緒と未那を迎えに行く直也であった。
「それが出来たら続きを教えてやるよ」
そう言い残して。その直也の背中に、
「わかりやした、兄貴!」
直也を兄貴呼ばわりする辰治の声が響いた。上田様と呼ぶのは止めてくれ、と行った手前、何も言えない直也だった。
* * *
それから五日ほどは直也は浅草方面へは行かなかった。他にも見物したい所があったし、書物問屋を巡って、珍しい書物がないか探したりもしていたのである。
六日ぶりに、未那と二人で浅草を訪れた直也は、隅田川土手近くの神社を覗いてみた。するとそこには、冬だというのに汗を飛び散らせて黙々と棒を振るう辰治の姿があったのである。
「辰治」
直也がそう声を掛けると辰治は振り向いて、
「兄貴!来てくれたんすね!…まだ千には届かねえけど、七百は振れるようになりましたぜ」
直也は肯き、
「うん、真面目にやっていたようだな。それじゃあ、その熱心さに免じて次に進もうか」
直也としても、辰治の熱心さに、かつて自分が弥生を守れるくらい強くなりたいと願っていた日の事を思い出していた。
天秤棒をもう一本持ってくると、辰治の棒と並べておき、
「えいっ!」
刀でほどよい長さに切りそろえる。その手際を見て辰治は更に尊敬の念を深めた。その一本を辰治に渡すと、
「まずはお前の程度を知りたい。それで殴りかかってこい。俺は防ぐだけにする」
「…いいんですかい? 行きますぜ?」
そう言うと辰治は棒を大きく振りかぶって殴りかかってきた。それをことごとくかわす直也。
辰治は必死に棒を振るうのだが、直也はわずかに身体を動かすだけでそれらをかわしてしまう。しばらく続けた後、手にした棒で初めて辰治の棒を受けた直也は、
「よし、もういい」
そう言って辰治を止めた。辰治は荒い息を吐きながら、
「…はあ、…兄貴はやっぱすげえや。かすりもできなかった…」
そんな辰治に直也は、
「悪くなかったぞ。次は、…そうだな、木の枝に手のひらくらいの板をいくつかぶら下げて、それを正確に突けるように練習しておけ」
そう言い残し、未那を置いてきた茶店に戻る直也であった。
* * *
一方、弥生は連日探しても埒があかないので、紅緒にも手伝わせて結界の極を探し歩いていた。
今日の探索地はなんと内藤新宿である。江戸城の西、ということで四谷、千駄ヶ谷あたりを探し尽くし、ついにここまでやってきたのだ。環のお膝元とはいえ、調べてみないわけにはいかなかった。
「姉様、その石塔って五角形してるんでしょ?」
探しながら紅緒が尋ねる。
「そうじゃ。断面は五角形じゃ。真横から見ると普通の石塔に見えるがな」
「もしかしたらあたい、知ってるかも」
「何じゃと!…どこじゃ、案内せい」
「は、はい、…こっちです」
弥生の語気にやや気圧され、紅緒は弥生を導いていく。内藤新宿、四谷近辺は環に世話になっていたときに歩き回っていた紅緒である、もしやと思った弥生、紅緒を連れてきて正解であった。
「ここです」
それは千駄ヶ谷八幡の境内。神域にまさか、と思ったが、石塔を見て弥生の目が見開かれた。
「まさにこれじゃ…何ということ、神域にこれが建っていようとは」
千駄ヶ谷八幡は現代では鳩森八幡と呼ばれ、富士浅間信仰の残る神社である。というものの、この時にはまだ富士塚は無い。
弥生が訪れたこの十数年前に再整備されたというから、その際に紛れ込ませたのであろう、と弥生は結論を出した。
「場所が特定できれば良い。…近々に直也を連れてこよう」
翠龍の力を借りねば石塔は壊せない。弥生に出来るのは石塔を見つけることである。
その夜、直也と共に再度八幡社を訪れた弥生は、前と同様、この第二の石塔を消滅させることが出来たのだった。
だがそれで終わりではない。マーラの陰謀を壊滅させるべく第三の石塔を見つけるため、江戸城の南へ向かう弥生と紅緒であった。
* * *
長月(旧暦の九月、今の十一月上旬頃)も終わりという日のことである。
朝食の後、
「弥生、たまには一緒に出かけないか?」
直也が弥生を誘った。江戸へ来てから、弥生は石塔探しに夢中で、直也は一度も弥生と出かけていなかったのである。
「そうじゃのう、…お主がそう言うなら」
弥生は直也の顔色を読んで返答した。弥生とて、直也と連れだって歩くのが嫌なわけではない。
「未那、弥生も一緒で大丈夫か?」
念のため未那にそう尋ねてみると、
「大丈夫。まかせて」
そう返事が返ってきたので、直也たちは四人揃って出かけることにした。どこへ行くかであるが、
「やはり浅草界隈じゃな」
そう弥生が言うので、ここ数日で詳しくなった浅草へ向かう。未那の右手に直也、左手に紅緒、そして未那の肩に弥生が後ろから掴まる。
「…行く」
そう告げて未那は縮地の術を使う。ぐいっと引っ張られる感じがして、気がつくといつも拠点にしている人気のない神社の境内である。初めて未那の縮地を見た弥生は感心して、
「ほう、これが未那の縮地か、大したものじゃ」
と誉めた。未那は嬉しそうににっこりと笑った。
浅草は今日も賑わっていた。まず浅草寺前の茶店に寄り、団子とお茶を頼むことにする。
「ここの団子はうまいんだ」
何度も通っているうちに自然と覚えてしまった直也。紅緒も、
「姉様、お昼はこの先のうどん屋さんが美味しいの」
とか説明している。弥生は笑ってそれを聞きながら黙々と団子を食べていた。
「さて、そしたら芝居見物でも…」
直也がそう言いかけたときである。
「…あっ、上田様!?…上田様!」
そう呼ばれた直也は声のする方を見る。そこにいたのは若い娘。辰治の妹である。
「え、…と、辰治の妹さんだよな?…確か、おさえちゃんだったっけ」
おさえと呼ばれた娘は必死の形相で、
「はい、さえです。…上田様、どうか兄をお助け下さい!」
直也の膝に縋り付いてきた。驚いた直也はおさえをなだめ、
「落ち着いて。いったいどうしたって言うのか、説明してくれ」
「は、はい、あのっ、兄が、風神一家に殴り込んでいったんです!」
「何だって?」
おさえの語るところによれば、最近、風神一家が冥加金と称して、浅草寺一帯の店屋から金を取り立て始め、それを断った店は嫌がらせなどをされているという。それは辰治の家も例外ではない。
そのことに憤った辰治は今朝、棒を引っ提げて風神一家に掛け合いに行ったのだとおさえは語った。
「掛け合いに行くと言ってはいたものの、兄のことですから、きっと喧嘩になると思うんです。そうしたら、絶対兄は殴り殺されてしまいます。…お願いです、兄を、兄を、お助け下さい!」
そう言っておさえは再び直也に縋り付いた。直也はそんなおさえをそっと振り解くと、
「わかった、安心しなよ。これからすぐに助けに行くから。風神一家の本拠はどこなんだ?」
おさえから風神一家の場所を聞くと、
「弥生、紅緒、未那、聞いての通りだ。俺はちょっと行ってくるから、ここで…」
「待たぬぞ」
待っていてくれ、と直也が言う前に弥生が答えた。
「そうですよ直也様、一緒に行きます。ね、未那」
「うん。…一緒に行く」
「わかったわかった、時間がない、急ごう」
そう言って直也は三人と共に風神一家へと向かった。




