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巻の八十    殺生石

巻の八十    殺生石

 

 今を盛りと、木々は最後のきらめきを放っている。赤は赤で、紅色から茜、緋色、臙脂えんじ、朱。

 黄色は黄色で山吹、鬱金うこん、芥子色。その中間にも、柿色、代赭たいしゃ、赤朽葉。まさに錦織りなす風景であった。

「きれいじゃのう、直也」

「ああ、まったくだ」

 その山中を行くのは直也と弥生の二人連れ。

「今年は夏は暑く、雨も適度に降り、秋の大風も無かったから、作柄も順調なはずじゃ」

「それはいいことだよな」

 弥生は深く頷き、

「…翠が善く天候を管理しているおかげじゃろう」

「そうか…そうだよな、きっと」

 かつて二人の養子として育てられた竜神、翠。成龍となった今、大地を潤す雨を降らせ、悪龍の巻き起こす水害や風害からこの国を護っていることを想像する二人であった。


 酒田から庄内を抜け、会津に出た二人は、猪苗代湖を横目に見て郡山に出、奥州街道を江戸へ向かっていた。

 そんな二人を遠くから見つめる者がいた。七本尻尾を持つその影は、名を雨降あふり。弥生に気が付かれないぎりぎりの距離からしばらく二人を尾行していた。流石の弥生も、人の姿のままでは、雨降の尾行に気が付かなかったのである。

 だが雨降も、弥生の実力を知っているだけに何も手が出せずにいた。

 

 白川(現福島県白河市)の宿にて。まだ日も高かったが、旅の疲れを取る意味も含めて早めに宿を取った。

「…の…のう直也、…少々用足しをしてきて良いか?」

 弥生がおずおずといった雰囲気で言い出した。直也は、

「ん?…いいよ」

 それに対して何も聞かず、頷いた。時が来れば、弥生はきっと話してくれる…そう思っているのである。

「そ、そうか。…済まぬ。…早ければ明るいうち、遅くとも夜には戻るからの」

「ああ、俺も町見物でもしているよ」

「…では、行ってくる」

 そう言って弥生は宿を出た。珍しいこともあるな、とは思ったが、弥生を信じている直也はそれ以上頭を悩ますことはせず、自分も町へと出て行った。

 

「都をば霞と共に立ちしかど、…か」

 阿武隈川のほとりでそう呟いた直也の声に続けて、

「秋風ぞふく白河の関、ですわね」

 下の句を口ずさんだ者がいる。振り向くとそれは直也より少し上、だが二十はまだ出ていないと思われる娘であった。

「能因法師の作と言われていますが、ここ白川を実際には訪れていないとも言われていますわ」

「良くごぞんじですね」

 直也が感心したように言うと、

「この白川の生まれですもの、そのくらいは」

 そんなことが始まりで、二人は話をしながらゆっくりと川沿いに歩いていく。

「白河の関、といいますがどこにあったんでしょう」

 直也が問えば、淀むことなく、

「それがはっきりしないんですの。六国史りっこくしでは養老二年(718年)に陸奥国から白河等五郡を分割して、石背国いわせのくにを設置する記が見えますが…」

 その博識ぶりには直也も驚くばかりである。

「この先に、わたくしの家がございます。どうぞご休憩なさっていって下さいまし」


 娘の家はそこからほど近い、阿武隈川を望む高台にあった。低い生け垣に囲まれ、さながら隠者の侘び住まいである。

「どうぞお入りになって下さいまし。…わたくしひとりでございますから、ご遠慮なさらずに」

 そう言って直也を庭の見える一間に招き入れた。

「今、お茶をお持ちします」

 そう言って奥へ引っ込む娘。直也は部屋を見回した。古いが良く手入れされた部屋、黒光りする柱。

 縁側越しに見える庭も塵一つ無く掃除され、片隅の楓が紅葉してみごとである。生け垣の向こうには、阿武隈川が鈍く光っているのが見えた。そして…棚には数々の書物。

「お待たせ致しました」

 少しして娘がお茶と茶菓子を運んできた。

「失礼ですが、ここにお一人で?」

 直也が尋ねると、

「はい。…実はここは、父の隠居所でした。…父は藩主様にお仕えする学者でしたが、とあることで勘気に触れ、お役御免となり、家名も断絶、この地へ転居するのを余儀なくされたのです。…その父も先年無くなり、今はわたくし一人で住んでおります」

「…そうでしたか。立ち入ったことをお聞きして申し訳ありません」

 そして直也は居住まいを正し、

「申し遅れました、俺は上田直也、諸国を旅しています」

 それに娘も応えて、

「わたくしはてると申します」

 そう言ってお照はお茶を勧めた。

「冷めてしまいますわ」

 それで得心のいった直也はお茶を飲み、茶菓子を摘んだ。なかなかに味がよい。

 お照は床の間に置いてある香炉に火を入れ、香をたき始めた。えもいわれぬ良い香りが漂う。

 あらためて座ったお照は、ぽつりぽつりと話し始めた。

 父親が学者だったため、幼い頃から習い覚えたこと、家の事情ゆえ友人もおらず、本ばかり読んで育ったこと、等をお照は打ち明けた。

「殿方と親しくお話をいたしましたのも今日が初めてでございますわ」

 最後にそう締めくくった。

「なら何で俺に声を?」

 直也の当然の疑問に、

「…さあ、どうしてでございましょう。…直也様が呟いたあの能因法師の歌、父が好きで良く呟いていたからでございましょうか。それとも、直也様がどことなく父に似ているからでございましょうか」

 そう答え、ほんのりと頬を染めた。外は夕暮れの色となり、頃合と見た直也は、

「それでは、この辺でおいとま致します」

 それに対してお照、頬を染めながら、

「…いけませんわ、まだ何もおもてなし致しておりません。…どうか、お泊まりになって下さいまし」

 そう言って直也の袖を引いた。

「お照さん…」

 袖を引かれた直也はあらためて座り直すと、

「もう暗くなります。行きずりの男女が一緒にいていい時間じゃない」

 そう言ったが、当のお照は更に顔を赤らめ、

「お慕い申しております…」

 そう言って直也の首に縋りついた。不意にしがみつかれた直也は平衡を失い、床に倒れてしまう。その上に折り重なるようにしてお照も倒れ込んだ。

「直也様…」

 更に強くしがみつくお照をそっと押しのけて直也は、

「お照さん、いけない。まだ間に合う、正気に戻るんだ」

 だがお照はそんな直也の声も耳に入らないかの如く、

「直也様…直也様…」

 うわごとのように呟いてしがみついてくる。これはおかしいと見て取った直也は、半ば強引にお照を引き離した。

「あ…」

 そのお照の目は金色に光り、瞳孔は縦に裂けていた。それを見た直也は覚った。これは妖怪変化だ。大刀を引き寄せ、いつでも抜ける体勢になる。そんな直也を見て、お照は妖艶に微笑みながら、

「直也様…何故に刀をお持ちになるんですの...?」

 そう言って帯を解き始める。帯に続いて伊達締め、腰紐、襦袢…もう少しで肌が見える寸前、思い当たることのあった直也は、咄嗟にお照の足元へと視線を移した。

 お照はかまわずに着ているものを全部脱ぐと、

「ああ…直也様…」

 直也に抱きつこうとする。それを直也は大刀の柄で押し留め、

「狐…か?」

 その言葉にお照がぴくっとする。図星だったようだ。

「ふ、ふふ、うふふふふ…流石にあのみくず、いや今は弥生だったね、あの弥生の主人だ。よくぞ見抜いた」

 その直也の口の端から一筋、赤いものが滴った。以前、弥生が盗賊を化かした時のことを思い出し、女を見つめるのを止め、唇を噛んで気を取り直したのである。そう、女は着物を脱いでなんかいなかった。出会ったときの姿のまま、そこに立っていたのである。

「お前は…雨降あふり!?」

 目の前のお照の姿が見る見る変わり、狐耳と尻尾を七本生やした姿になる。

「…憶えていてくれたかい。それじゃあお礼に、あんたの精を吸い尽くしてあげようかねえ」

 そう言うが早いか、黄色い狐火を放った。だがそれは身に付けたミナモの力ではね返される。驚く雨降。

「何!?…何か、宝具を身に付けているのか...もしや、『水面の鏡』か。…どうりで蠱惑こわくの術がかからないわけだ…くっ、伏見め、余計なことを」

 そう言って懐から懐刀を取り出す。それを抜くと、雨降は金気を込める。見る間に懐刀は二尺を越す刀と化した。

「あまり時間を掛けちゃあいられないんでね」

 そう言って斬り掛かってくる。直也も大刀でそれを受け、はね返す。しばらく斬り合った後、間を取った雨降は、

「…驚いた。あんた、人にしておくには惜しいねえ。…あたしと一緒に、この世で面白可笑しく生きてみないかい」

「興味ないね」

 一言の元に斬り捨てる直也。

「じゃあ、女は?…あたしなんかどうだい?…精を吸い尽くすなんて言わない。分けてくれさえすれば、あたしはもっともっと強くなれる。そうすればあんたに生涯尽くしてあげる。他の女が欲しいなら、どんな女だって攫ってきてやるよ」

「残念だが、俺にはもう好きな人がいるんでね」

 そう言って大刀を構え直す直也。

「ふっ、…そうか、やはりな。…みくず、…いつもそうだ、あいつは、あいつは!…いつだってあいつは、あたしの一歩先を行っているんだ!」

 そう絞り出すように叫んだ。

「お前もかつては伏見で天狐目指して修行していたんだろう?…何でそれほど力を求める?」

 直也の問いかけに雨降あふりは、

「貴様などにわかるものか。力なければ何も出来ぬ。そして力を求めることを否定された無念さ、誰にもわかりはしない」

 そう言って再び斬りかかる雨降。それを受ける直也。その直也の足がもつれた。

「な…?」

 雨降は笑って、

「ふう、…やっと効いてきたようだね。『麻痺香』をずっと焚いていた事には気がつかなかったと見える」

「あの…香か」

 さすがは臈長ろうたけた狐、術だけでなく、薬まで使っていたのである。薬はミナモでは跳ね返せない。

 今、直也は体の自由がきかなくなってきている事に気がついた。

「普通の人間ならとうに麻痺しているはずだが、貴様は抵抗力が強いね、でももう終わりだよ」

 そう言って直也の大刀をはじき飛ばした。同時の足払いに直也は床に倒れ込む。

「さあ、覚悟おし」

 そう言いながら雨降は直也にのしかかる、その瞬間。気力を振り絞って跳ね起きた直也は、雨降の尻尾の付け根を右手で握り、左手で狐耳を掴んだ。

 急所である尻尾の付け根を握られ、狐耳も掴まれては化けるに化けられず、雨降は這いつくばってしまう。直也はその雨降の背中を右膝で押さえつけた。

「く…貴様…まだそんな力が…」

「ああ、流石にもうこれ以上は動けそうもないが、お前を押さえることなら何とか出来そうだ」

 しかし、直也も体の自由がきかず、本当にそれ以上の事は出来そうもなかった。それで、

「雨降、と言ったな。もう一度聞くぞ。何のために力を求める?」

 雨降はふん、といった顔で返事をしない。直也はさらに、

「力を求めることは悪いことじゃない。その力の使い方さえ間違わなければな。…でもお前は、力を求めることそのものが目的になっているように見えるんだ」

「……」

 雨降は返事をしないが直也はかまわず、

「この世の中には理不尽なことが多過ぎる。その理不尽なことと戦うためには力がいる。守るためにも力がいる。それは本当だ。だけど…」

「うるさい!…わかったような口をきくな!」

 耐えかねた雨降が大声を出した。直也はそんな雨降に、

「俺にだってわかる。…お前はひどく危うく見える」

「…なんだと…」

 驚いた顔をする雨降に直也は、

「お前はもう十分強い。…その強さで何を守る?…その守るべきものが見えていないだろう?」

「貴様には見えているというのか。…ふん、どうせ好きな者を、とか家族を、とかそんなものだろう」

 直也は首を振って、

「ああ、それもあるがな、俺が守りたいのは、『命のことわり』だ」

「何だい、それは?」

 思わず聞き返す雨降、そんな雨降に向かって直也は逆に尋ねる。

「生きるために必要な物ってわかるか?」

「空気、水、食料だね」

 即答する雨降。

「その食料とは何だ?」

 直也の問い。

「他の生き物だね」

 雨降の答えに直也はうなずいて、

「そう、どんな生き物も他の生き物がいるから生きていられる。草とか木の実を食べる虫や小さな獣がいて、それを食べる獣がいる。その獣もまた他の獣に食べられたりする。その獣もまた…

 そして一番強いように見える獣も、死ねば土に還る。その土があるから草や木が育つんだ。それが俺の言う『命のことわり』だ」

 雨降は神妙な顔になった。直也の語りはまだ続く。

「だけど、生きるためでなしに他の命を奪う事をするものがいる」

 雨降の顔が上がった。

「おのれの楽しみのためだけに命を奪う、俺が一番許せないのはそういう奴らだ」

 そう言って直也は雨降を見下ろし、

「それが人だろうと妖だろうと、な」

 そこまで話し終えたとき、雨降を押さえる直也の力がほんのわずかゆるんだ、その瞬間。雨降は体を捻って直也の膝の下から逃れる。不意を食らって直也は転がり、畳に突っ伏してしまった。

 そんな直也を雨降は静かに見下ろしていた。

「形勢逆転、と言いたいところだけど」

 そこで言葉を切って、天を仰ぐ雨降。

「潮時のようだね」

 そう言って一陣の風を巻き起こす。建具や小物、調度類が巻き込まれ、倒れる。思わず直也は目を閉じた。次に直也が目を開けたとき、雨降は消えていた。

「美味い菓子じゃな」

 突然のその声に振り向くと、先ほど出された茶菓子の残りをつまむ弥生がいた。

「弥生…」

「お楽しみだったようじゃな」

 そう言った弥生はすぐに真顔になって、

「済まぬ、まさか雨降の奴めがつけ狙うておったとは、気がつかなんだ」

 そう言って頭を下げた。直也はそんな弥生に、

「謝ることなんて無いさ、何もされちゃいないんだから」

 そう言って、宿へ帰ろう、と立ち上がったが、その足がふらついていた。

「おっと」

「無理するでない」

 そう言った弥生は、直也の額に人差し指と中指を当て、なにやら呪を唱える。すると直也は体の中のわだかまりのようなものが溶けていくのを感じた。

 

*   *   *

 

「いやな予感がしたので早く帰ってきたのじゃが正解じゃった」

 夕食後、宿の部屋で弥生がつぶやいた。

「どこへ行ってきたんだ?」

 直也の問いに直接は答えず、

「明日…儂に付きおうてくれるか?」

「ああ、いいとも。どこへだって付き合うぜ」

 弥生は、

「ありがたい。…それでは今宵は早く休むとしよう」

 それでその夜は、早々に休む事にしたのであった。

 

*   *   *

 

 翌朝、白川の宿を出た二人は西へと向かった。目の前には那須岳がそびえている。

 道中、弥生は無口であった。直也も、何も聞かず、黙ったまま歩いて行く。

 二刻ほど歩くと、道脇に道標が立っていた。そこには那須野、と書かれている。

「那須野…」

 思わず直也が口に出すと、

「そうじゃ、向かっているのは那須野じゃ」

 弥生はそう言うと、また口をつぐんだ。

 更に歩くこと半刻。あたりには異様な臭気が立ち籠め始めた。

 気がつくとあたりは一面のすすきの原、枯れかけた穂が昼の日差しを浴びて銀色に輝いている。幻想的なその光景とは裏腹に、その先には荒涼とした風景が広がっていた。

「これより先へは行かぬ方が良いな」

 弥生が直也を押しとどめる。そして、

「もう気づいておるじゃろう、そう、ここは那須野、前世の儂が討たれた場所じゃ。…そして、見よ、あれを」

 弥生が指さす遙かその先には、巨大な割れた岩があった。

「殺生石じゃ」

 緩やかな斜面、大きな石が転がっているそこに、一際巨大な石。それこそが殺生石であった。

「…儂の悪事の証じゃ。…直也、お主には儂のすべてを知ってもらいたいのじゃ」

 そう言い切った弥生は、続けて、誰にともなしに語り始めた。

 

「退治されたその瞬間、儂の魂は黒い霧のようなものに取り込まれ、石に囚われることとなった。

 黒い霧はマーラの怨念の一部じゃった。マーラの本体は弱りながらも逃げ去ったようじゃが、残った怨念が儂を捕らえて放さなかった。そしてひっきりなしに毒気を吐いておった。

 その毒気に当たれば、鳥と言わず獣と言わず、生きとし生けるもの悉く命を奪われた。儂はすべてがわかっておったが、どうすることも出来なかった。

 …いや、あれはもしかしたら儂の怨念のなせる業だったのやも知れぬ。

 …じゃが、一年経ち二年経ち、十数年という月日が流れ…

 儂は、ようやく己のしてきたことを見つめることが出来るようになった。それはかつて伏見で修行していたときとは真逆の行為であった。

 一部の過ちですべてを否定するようなもの...そう、昨日、お主が言うておったな、

 『命のことわり』と。…その理に反する行為をされたからといって、自分もやり返していては、いつまで経ってもその業から抜け出すことは出来ぬ、そう思うに至った。

 しかし、マーラと一体化したような状態では、抜け出すことも出来ず、近づくもの一切の命を奪う日々は尽きることがなかった…」

 

 そして弥生はため息を吐いて、直也をちらりと見た。直也はその目にかすかな悲しみを見た。

 

「…書物が手に届くところにあるのに字が読めない、話しかけられているのに言葉がわからない、そんなもどかしい気分じゃった。

 ある日、旅の僧がやってきおった。坊主はそれまでも何人かやってきては毒気に当てられて命を落としていたのじゃが、その僧は違っていた。

 毒気をものともせず、正面に立つと経を唱え始めた。

 それまでの坊主の経文はマーラの黒い霧に阻まれて聞こえもしなかったのじゃが、その時は違うた。

 お経の一言一言が聞こえ、染み込んでくるようであった。いつしか、周りの黒い霧がすっかり晴れており、儂は…儂の魂は石を離れることが出来るようになっておった。

 儂はその僧に感謝しつつ、石を離れた。背後で、僧が石を杖で打つ音が聞こえておった…」

 

 そこまで話した弥生は直也に向き直って、

「それからは以前話したな。…儂は母狐の胎内に宿って、再びこの世に生を受けたのじゃ。

 …昨日、お主は雨降あふりに言うておったな、『命のことわり』を乱すものは許せない、と。…儂もその罪を犯した罪深い獣じゃ」

 そういうと弥生は不意に直也を抱きしめた。が、直也が何か言うよりも早く身を離すと、

「…立派に成長したのう、直也。…もう一人前じゃ。初めから決めておった、お主が一人前になったら、儂は身を隠そう、と。そしてお主と別れるときは、ここで、すべてを打ち明けてから、と、な」

 そう言うと、弥生は直也に背を向けて、

「お主と過ごした日々は忘れぬ」

 そう呟くと独り歩き出した。その背中に向かって直也は、

「弥生、どこへ行くんだ?」

 しかし弥生は振り向かずに、

「もうお主は隠れ里の当主として立派にやっていける。…儂はその門出に当たって露払いをしてこようと思う。お主に害なすものは儂がこの命に代えても滅ぼしてくれよう」

「待て、弥生!」

 駆け寄った直也は弥生の肩を掴み、強引に振り向かせた。その時の弥生の目には光るものがあった。

「あと一つ、聞いてないことがあるぞ」

 弥生の目をまっすぐ見据え、半ば叫ぶようにして直也が言った。

「…何じゃ?」

 問い返す弥生に直也は、

「俺は弥生が好きだ。…一緒になって欲しい。…弥生は俺の事をどう思っているんだ」

 その直也の問いに、弥生は言葉を詰まらせた。

「…わし…は…お主に…ふさわしゅう…ない…」

 だが直也は、

「俺が聞きたいのはそんな言葉じゃあない。弥生の気持ちを聞きたいんだ。嘘偽りのない、弥生自身の気持ちを」

 うなだれる弥生。その弥生に向かって直也は、

「弥生の過去も、みんな知った上で弥生に告げよう、俺は弥生が好きだ」

 そう言って抱きしめた。弥生はそれをふりほどくことをせず、ただされるがままになっていた。

 そのまま、どれだけ時が経ったであろうか。弥生が蚊の鳴くような小さな声で、

「…儂で…良いのか…?」

 そう呟いたのである。直也は、

「弥生がいいんだ。弥生でなけりゃ駄目なんだ」

 そう言って更に強く弥生を抱きしめる。その腕の下で弥生は、

「…儂も…お主のことが…」

 あとは聞こえなかった。だが直也の背に回された腕が、全てを物語っていた。

 

*   *   *

 

 二人は来た時と同様に無言のまま、白川へ続く道を引き返していた。違うことと言えば、その手がつながれていた事。うつむき加減に、気恥ずかしそうな弥生と、思いが叶って晴れ晴れとした直也と。

 空は晩秋の青さをたたえ、どこまでも青く澄み渡っていた。 

 旅空妖狐絵巻、巻の八十をお届けします。

 ついにやってきました、殺生石。ずっと前、そう、妖狐姉妹とやり合ったとき、弥生が直也に背負われながら、「お主が当主になったら儂は用済みじゃ」、と呟いた伏線が回収できました。弥生は、直也が一人前になった時には身を引こうと考えていたのです。

 そして雨降やマーラを滅ぼしに行くつもりだったのでしょう。ですが直也のまっすぐな気持ちにほだされて、自分も本音を告げます。ようやく二人がくっついてくれました…

 やはりこうでなくっちゃと書いていて思います。

 

 蛇足説明ですが、雨降が去ったあと、茶菓子の残りを弥生がつまんだ描写をしたのは、直也が化かされて馬糞を食べていたわけではない、という説明のつもりでした。

 また、現在は白河市、ですが、江戸時代の宿場では白川、能因法師の歌では白河、となっているようです。ややこしい。

 

 さてラストへ向けて…といいたいところですが、まだもう少しおつきあい下さい。

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