巻の八 狐の山
巻の八 狐の山
緑したたるような初夏の夕暮れ、日が暮れかかってきた山道を辿る若い男と女の二人連れがいた。
「また山の中か…」
直也がぼやいた。
「あのまま北へ向かうのも面白くないのでな」
弥生が答える。
「お主のための旅じゃ、道は儂に任せておけ」
「はいはい、わかったよ」
そうしてたどる道中は、猪苗代の湖を遙か右手後方に見て進む。
「直也、じきに日も暮れるのう、この分では今日は野宿じゃな」
「今日『も』だろ…提灯を出しておくか。弥生、蝋燭まだあったっけか」
「そんなものに頼らずとも狐火を灯してやるぞ?」
誰もいないような山中ならともかく、まだ人の気配漂う里山。
「いや、いつ誰とすれ違うかもわからないからそれはやめておこう」
「心配性じゃな、お主は。その時は儂にまかせよ。見られたらその者の記憶を消せばよかろう」
自信たっぷりに言う弥生に直也は一瞬言葉に詰まったが、
「…それに、姿は人の形なのに何で耳と尻尾は狐のままにしているんだよ…」
もう一つの疑問を口にした。
「この方が楽なのじゃ」
あっさりそう言って弥生は尻尾をばさりと一振りした。そして更に、
「儂の人化した姿がそういうものなんじゃから仕方なかろう。善狐が三千年生きた空狐になれば姿は人間と同じで、尻尾も無くなる。しかし耳は狐のままだと言われておるくらいじゃ」
「空狐…ってなんだ?」
「狐の頂点に立つ天狐、その天狐を引退した狐がなると言われておる。まあ狐の神様じゃな」
「弥生は何にあたるんだ?」
「儂は単なる野狐に過ぎん」
「野狐ってなん…」
「しっ」
聞き耳を立てる弥生。再び狐耳がピンと立つ。
「泣き声じゃ」
「え?…俺には聞こえないぞ」
弥生はそれには取り合わず、
「…こっちじゃ」
道から外れ、がさがさと熊笹の藪を掻き分けて進む。と、そこには狐わなが仕掛けてあり、子狐がかかってもがき苦しんでいた。
「可哀想にな。今助けてやるぞ」
そう言って弥生は、わなから子狐を解放してやりにかかる。子狐も、同族だというのがわかるのか、おとなしくしていた。
「よし、外れた」
子狐は喜び、尻尾を振って弥生の周りをぐるぐる回っている。その姿が可愛いので、直也は弁当の残りの握り飯を差し出した。喜んでそれを平らげた子狐は尻尾を振り振り、藪の中へ消えていった。
「もう捕まらんようにな…」
子狐を見送った弥生に、直也は、
「ところで弥生、このわなはどうするんだ?」
「ほっとけばよかろう」
「いや、わなを仕掛けた猟師にも生活ってもんがあるはずだ。勝手にわなから獲物を逃がしちまったんだから…」
「何をする気じゃ?」
弥生が見ていると直也は自分の財布をわなに括り付けた。
「こうしておけばいいだろ…」
「言わせてもらえばじゃな、返って怪しげじゃぞ…」
「そうかな?」
「当たり前じゃ。どこの世界に自分からわなにかかる財布があるものか」
「それもそうだな」
そこで直也は矢立を出すと、財布に書き付けた。『獲物代です』。
「これならいいだろう」
「悪いとは言わんが…律儀というか、人がいいというか」
「ほっとけ」
そして二人は元の山道に戻った。
* * *
二人が辿る山道も、いよいよ日が暮れてきた。
「よし、これならよかろう」
弥生が提灯に狐火を入れた。一見普通の提灯に見えなくもない。ちょっと色が青白いが。
「風にも吹き消されんし、一晩中でも灯っておる。経済的じゃな」
変なところで勘定高い。直也も文句は言えない。何せ蝋燭がもう無かったのだから。
そして二人は歩き出す。やがて道は細くなり、傾斜が増してくる。あたりも真っ暗になった。そんな行く手に、灯りが見えた。
「何だ?」
灯りは一つ、二つ…みるみるうちに数え切れないほどに増えていく。
「狐火じゃな」
「すごい数だな…」
「ふん、数など問題ではない。見よ、全て青白いじゃろう。狐火の初歩の初歩の色じゃ。あれは力がその程度だという事じゃ」
「狐火の色で相手の力がわかるのか?」
「わかるとも。紫色の狐火を出せる者がいたら…儂と同程度じゃ。まあ、おるとは思われんがな」
狐火は全て同じ青白い色であった。
「ところで…何をするつもりだろう?」
無数の狐火の中から、二つが離れ、近づいてくる。
「来るぞ…」
だが弥生は落ち着き払って、
「敵意は感じぬ。大方、同族への挨拶じゃろう」
「呑気だな、縄張りに入られて怒っているのかも知れないじゃないか」
「だから敵意は感じぬと言っておろうが。…何用じゃ?」
最後の問いかけは目の前にやって来た狐火の主に対してだ。灯していたのはまだ若い女と小さな娘。娘は女の子供らしい。
「…先程は娘の命を救って戴き、ありがとうございました」
「さっきはありがとうございましたー」
「おお、先程の子狐か」
「はい、この子は茜と申します。私は母親の椿です」
さっき助けた子狐が、母親と一緒に礼に来たらしい。
「私どもはこの山に住む野狐の一族でございます。私どもの頭領様が、ささやかながら礼をいたしたいと、お待ち申し上げております」
何となく敬語とか言葉遣いが怪しいが、狐なので仕方ないのかも知れない…直也はそんなことを考えていた。
「直也、馳走になりに行くぞ」
「あ、ああ…弥生、ちょっと」
「どうした?」
(なあ弥生、化かされてるってことないよな? 馬糞喰わされたり、肥だめに入れられたり)
(愚か者。儂が一緒じゃからしてそんな見え透いた手に引っかかるものか。この二人は正真正銘、礼をしたいと考えておる)
(それなら安心だ)
「さあ、こちらへどうぞ」
狐の母娘に着いていくと、ほどなく大きな屋敷の門に着いた。こんな大きな屋敷が山の中にあるというのが既に妖しい。
門の両側には、腰元姿の狐たち……耳と尻尾が狐のままだ……がずらりと並んでいた。その間を通り、玄関に着くと、湯を入れた桶を持った侍女がかしずき、足を拭ってくれる。至れり尽くせりであった。
その後、座敷に通された。奥には、頭領と思われる、打掛を着た艶っぽい女……やはり狐耳の……が座っていた。
「わたくしはこの山の狐たちを束ねる、葵と申します。先程は、一族の娘をお助けいただき、まことにありがとうございました」
「これはご丁寧なご挨拶いたみいる。儂は弥生、こちらは儂の連れで直也と申す。諸国を旅しているところじゃ」
「弥生様に直也様。今宵はごゆるりとくつろいで下さりませ。まずは湯にて、旅の汗をお流し下さい…くるみ、しげみ、お世話しなさい」
「「はい」」
くるみと呼ばれた狐娘が直也に、しげみと呼ばれた方が弥生に付いて、湯殿へと案内していく。
「弥生?…」
「大丈夫じゃ。正真正銘の風呂じゃよ。肥だめではないぞ」
「まあ、面白い方」
くるみがきゃらきゃらと笑った。
湯殿は大きく、いくつか浴槽があるようだ。
「殿方はこちらへどうぞ」
くるみに案内されるまま、奥の扉から風呂場へ入る。かいがいしく着物を脱がそうとするので、直也はあわてて、
「こ、ここからは一人でいいよ…」
「お客様、それではわたくしが葵様に叱られます」
そう言って出ていこうとしない。直也は着物を脱ぐのもそこそこに、あわてて風呂場へ駆け込んだ。
「初心なお方…」
くすくす笑っているところはやはり女狐である。
「ふう」
久しぶりの湯に、身体ものびのびする。そこへ、
「お背中お流し致します」
と薄い浴帷子一枚羽織っただけの姿でくるみが現れたものだから直也は慌てた。
「い、いいって…」
「そうおっしゃらないで」
直也が風呂から出るまでまだ時間がかかりそうである。
「よい風呂であったな、直也」
弥生は上機嫌である。
「あー…のぼせた…」
一方、直也はちょっと足取りがふらついているようだ。
「なんじゃ、だらしのない」
「うふふ」
後ろでくるみが含み笑いをしていた。
湯を浴びた後、広間に通された。百畳敷きはあろうかと思われる広い座敷に狐耳と尻尾を付けた狐達が大勢集まっており、ある者は楽手の、またある者は舞手の格好をしている。客は直也達二人だけの様だ。
二人は上座に案内される。頭領である葵のすぐ前だ。見事な御膳が並んでいた。先程の狐娘、くるみとしげみが直也と弥生の脇に給仕役としてそれぞれ付いて座った。
「すごいな…」
「なかなか見事なものじゃ。ここの狐達は統制が取れておると見える」
「なんでわかる?」
「これだけの食事、どうやって調達しているかわかるか?」
「わからん」
あっさり返す直也に、少々弥生の力が抜けるが、
「全て人間の元から持ってくるのじゃ。じゃが、そのためには大勢の狐が協力せねばこれだけの量、 運び出す前に人間に勘付かれてしまうじゃろう」
「協力って…どうするんだ」
「人間に気づかれないように結界を張る。物を持ち出す。運ぶ。姿を隠す。しばらくの間、物が消えたことを気づかせないようにする。それぞれ担当がいるのじゃ。一つの御膳に十匹として、ざっと百匹が動いたであろう」
「そうか、すごいことなんだな…」
「多分、お主が考えている以上にな。そもそも狐というのはあまり群れないものなのじゃ。じゃから、これだけの狐を統率している葵というあの頭領は大した器量じゃ」
「そうなのですよ、お客様。葵様はばらばらだったこの辺の狐達をまとめ、今も勢力を拡げつつあるのです。おかげで、私たちは狼や人間達からも襲われることなく、安心して暮らしています。たまに、外へ遊びに行った仲間が捕まったりしますが…」
弥生が助けた子狐、茜のことを言っているらしい。
「それでは、お客様もいらしたことですので、宴を始めるといたしましょう」
葵のその言葉で、音楽が始まる。聞いたことのない旋律だが、妙に楽しげだ。弥生の尻尾が微妙に踊っている様に見えるのは気のせいではないだろう。
そして、その楽の音に合わせ、着飾った狐の娘達が舞を舞い始めた。これも見たことの無いものだった。狐の娘達は時に撥ね、宙返りをし、尻尾を振り、…とおよそ人間では出来ない動きで魅せてくれる。
「なかなか見事じゃな」
弥生が褒める。 隣のしげみが、
「ありがとうございます。一の舞手はあざみ、私の姉ですのよ」
「一の楽手は私の兄なんです」
負けじとくるみも身内を自慢する。そんなところは微笑ましい。
「さあ、どうぞ」
杯に酒を注いでくる。本当に大丈夫かと心配そうな直也に、弥生が先に呑んでみせる。それを見て直也も杯を干す。呑んでみれば、なかなか旨い酒だ。
「いい飲みっぷりでいらっしゃる。ささ、もう一杯」
次々に酒を注いでくるしげみとくるみ。合間に食べる肴も、美味であった。山の中とは思われない魚、鰹や鯛があった。筍の煮付けは関西風だったし、猪肉さえあった。
狐の舞を見て、酒を飲み、肴を食べる。箸が進んだ。
舞が終われば、別の狐娘が歌を歌う。これもまた人間の歌とは異なり、うきうきする様な旋律であった。
そのうち、弥生が横になってしまった。酔いつぶれたらしい。どこからか持ってきた羽織を掛け、しげみが自分の膝枕にそっと寝かせている。
「珍しいな、弥生が酔いつぶれるなんて…」
弥生は自他共に認める健啖家で、酒も強いのだ。
「お疲れなのでしょう、きっと」
「そうだな…いつも苦労かけてるからな…それに、同族の屋敷でくつろいだんだろうな」
普段、気を張りつめて旅をしている弥生、今日ばかりはのんびりさせてやりたい、そう直也は思った。
「直也様、さ、どうぞ」
くるみが更に注いでくる。
「いや、俺ももう飲めないよ」
「酔いつぶれたら介抱してさしあげますわ。どうぞ遠慮なさらずお召し上がり下さりませ」
熱心に勧められて杯を重ねる直也。あまり酒に強くない直也は、とうとう起きていられなくなってしまった。
「だめだ…もう飲めない…」
横になるとくるみが膝枕をしてくれる。心地よく、そのまま眠ってしまった。
「お二人とも眠ってしまわれたようですね...」
葵が呟く。その唇から真っ赤な舌がちらっと覗いた。
「ほんとうに、美味しそうな殿方ですこと...」
舌なめずりをして、直也ににじり寄ってくる。その目は瞳孔が縦に裂けた獣の物になっていた。
「お館様!...お止め下さい」
遮ったのは茜と椿の母子であった。葵はいぶかしげな顔で、
「...何故止める?」
「その方は娘を助けて下さった方のお連れ。それにこの子に食べ物を下さいました」
「そなた達がこの人間に恩を感じるのはわかります。しかし今はそんなことを言ってはいられない時なのですよ。…わかりますか?」
「…重々承知しています。…それでも、狐の信義を守るべきだと思います」
頭領、葵は椿に向き直り、
「椿の言うことももっともですが、私がこの男の精気を喰らえば、格段に力を付けることが出来ます。そうすれば今よりもっと皆を守ることが出来ます。五百を越える一族の為なのです。わかったらそこをどきなさい」
直也の前に座り込んだ椿と茜を押しのけようと葵が膝を進める。が、二人は頑として譲らない。
「…椿、妹のあなたに手荒な真似はしたくない。お願いだから、茜を連れて、向こうへ行っていなさい」
しかし椿と茜はどこうとしなかった。周りの狐達は黙って成り行きを見つめている。だんだん焦れてきた葵は、ついに実力行使に出た。
「下がりなさい!」
「きゃあっ」
姉妹とはいえ、五百の狐の頭領にまでなった葵の力は強い。掌から発した気だけで椿と茜は二間程も吹き飛ばされてしまった。
邪魔者がいなくなり、葵は直也に近づく。その両袖に、椿と茜が縋った。
「お考え直しを!」
「やめて!」
「しつこい!」
とうとう葵が怒った。両腕を一振りする。椿が弾き飛ばされ、茜は宙を舞った。
「うわああんっ」
…その茜を優しく受け止めたのは。
「いかんな、頭領なら下の者をいたわらねば」
弥生であった。
「なっ...!?...あの酒を飲んだからには並の狐なら三日、妖狐でも丸一日は目が覚めない筈なのに...」
「生憎と儂は並の妖狐ではないからの。…直也には指一本触れさせはせんぞ」
茜をそっと床に降ろし、すり寄ってきた椿に渡す。
「椿、茜、そなた達の気持ちはわかった。もう十分じゃ。怪我をせぬ様、離れておれ」
「は、はい…」
「直也から離れよ」
直也の膝枕をしていたくるみを押しのけ、自分の膝にかき抱く弥生。酒のせいか、こんな騒ぎにも直也は目を覚まさない。
「そ…それでは…あらためてお願い致す。我等にもこの人間の精を分けて下さりませ」
「ならんと言ったらならん」
「独り占めとは狡い…分けて下さいよぅ」
しげみとくるみも懇願してくる。
「独り占めも何も、直也は儂の物ではないし、儂は直也から精気を奪ったことなぞないわ」
「な…!?」
「それでは…なぜ一緒にいるのです?」
「儂は直也の後見人じゃからな。こやつが一人前になるまで守護してやる、それだけじゃ」
「なぜ…そのような…契りも交わさず、人間に仕えるなど」
「仕えているのではない。儂の意志で後見をしているだけじゃ」
「同じ事!」
葵が立ち上がる。周りにいた狐達もそれに合わせ、立ち上がり、二人を取り巻いた。
「我等を狩り、迫害する人間に仕えるとは…。妖狐の誇りを無くしたか!」
「そんなもの、初めから持っておらん」
「益々以て見下げ果てた輩。お前には一族の娘を助けてくれた恩があるから、手荒なまねはしたくない。…立ち去れ」
「儂は直也の後見人じゃからな。直也と共になら立ち去ろう」
「まだ言うか!」
葵の目はつり上がり、尻尾が逆立つ。口が耳まで裂け、その口からは青白い炎が漏れる。周りの狐達にも殺気が漲った。
「しげみ、くるみ、そやつを取り押さえよ!」
しげみが右、くるみが左から同時に弥生に襲いかかる。
弥生が手を一振りする。
「「きゃあああっ」」
葵が椿と茜を振り解いた時と同様、二人が弾け飛んだ。狐達がざわめく。今にも総出で飛びかかってきそうな気配である。しかし弥生は落ち着いたもので、
「こんな下っ端では何匹来ても同じじゃ。儂も同族を傷つけたくは無い、直也のことはあきらめぬか」
「何を…!…お前なぞに同族と思われたくないわ!」
葵が手に狐火を灯す。
「ほう、赤い狐火か。火気は操れる様になったようじゃの」
「そうとも、五百匹の狐を束ねる頭領、そこらの雑兵と一緒に見るでない!」
赤い狐火は、青白い狐火とは違い、相手を燃やす力を持つ。
更に火を大きくする葵。
「さあ、あやまるなら今のうちじゃぞ」
「…なら、儂も」
弥生が右手の人差し指を立てる。そこに小さな狐火を灯す。
「なんじゃ、そんな小さな火など…!!??」
葵の目が見開かれる。周りの狐達にも動揺が走った。弥生の狐火は紫に燃えていた。
「む、紫の火…!?」
「知っておるようじゃな。地水火風を包含する空、その空を支配するこの火をくらえばお主はこの世から消え去る事になるのじゃぞ」
「わ、私を消しても、眷属五百匹が、お前達をただではおかんぞ...」
震えながらも虚勢を張る葵だったが、狐火によって照らされた弥生の影を見て、息を呑む。弥生の出した紫色の狐火は今や一抱えもある大きさとなり、それによって照らされた弥生の影には…
…尻尾が九本生えていた。
「なら、この山の狐全てを消してやろうか…?」
地の底から響くかのごとき声音で弥生が最後通牒を突きつけた。が。
「き、九尾…!?」
葵は弥生の影が九尾を持つことを見て震え上がっていた。
「…おや、狐火に照らされ正体が映ってしまったか。儂もまだまだじゃのう」
そんな冗談とも吐かない科白を吐く弥生の前に葵が土下座した。がたがた震えている。
「も、申し訳ございません!!…九尾の狐様とは知らず、とんだ御無礼を致しました…!…何卒、何卒お許しを…」
周りの狐達はいつのまにか逃げ出してしまったようだ。そんな中、椿と茜だけは逃げずにやって来て、懇願する。
「ごめんなさい、弥生お姉ちゃん…」
「弥生様、申し訳ありません…お許し下さい…葵様にも、事情があるのです」
それを見た弥生は怒りを解き、紫の狐火を消す。そして茜の頭を優しく撫でながら、
「元々、儂はお主らをどうこうする気はない。招かれたから来ただけじゃ」
「お許し下さいますか…?」
「じゃから、お主らが直也に手を出さねば、儂は何もせん」
ちょっと考えて、弥生は直也を自分の膝枕に乗せ直し、
「その事情とやらを話してみよ」
* * *
朝。直也が目を覚ました。
「あーあ、酔っぱらって寝ちまったらしいな。それにしてもよく寝た…おや?」
周りを見回す。屋敷は跡形もなく、柔らかく敷き詰めた藁にくるまって寝ていたのだった。隣には弥生が眠っている。いつもなら直也が起きる前に置き、身繕いを済ませている弥生がまだ寝ていることに直也はちょっと驚いた。
(弥生の寝顔なんて久しぶりに見るなあ…やっぱり弥生って色が白いな…って、そうじゃなくて!)
「弥生、弥生!」
急いで弥生を起こす。
「なんじゃ…もう朝か?…んん……よう寝たのう」
「おい、なんで俺たち藁の中に寝てるんだ?やっぱり化かされたんじゃないのか?」
「落ち着け。朝になったので、やつらの力が切れただけじゃ」
「え?」
「普通の野狐ではな、大きな術は陰の気が強い夜の間だけしか使えないのじゃ。
あれだけの屋敷を出すというのは百匹以上の狐が協力してようやく出来る高度な術じゃからして、
朝になればおのずと消え去ってしまう。まあ、肥だめの中で目覚めたわけではないだけましじゃろ?」
「そういうことか…」
「まだまだ学ぶことはたくさんありそうじゃの、直也」
「そういうことは前もって教えてくれよ…」
「甘えるでない。形式上の知識なぞ、いざというときの役に立たん。一つ一つ自分の肌で体験して、積み上げていった経験からこそ、真の智恵が生まれるのじゃ」
「わかったよ…おや?」
自分の懐を探る直也。
「どうした?」
「何だ、これ…」
直也の懐から、金や銭が入った袋が出て来た。
「大方、狐達が路銀にとくれたのじゃろう。ありがたくもらっておけ」
「なんか悪い気がする…俺の財布に入っていた金の十倍はありそうだ…」
「うむ、少々知恵を授けてやったからの」
「俺が寝てる間に何かあったのか?」
「何,大したことではない」
* * *
「最近、この地を狙う妖怪達が増えているのです。この山の平和を守り切るには少しでも強い力が欲しかったのです」
「ふむ、そう言うことなら、守りの術を教えてやろう」
弥生は昨夜、葵の言う「事情」を聞き、助言をしていたのだ。
「それは結界…ですか?…今も施してありますが」
葵はそう言ったが、弥生は、
「ふん、この山の結界なぞ子供騙しじゃ。ちょっと妖力の強い化け物なら簡単に侵入してしまうじゃろう。現に儂には何も無いのと同じじゃった」
弥生と比べては気の毒な気もするが、
「儂が教えてやろうというのは本物の結界…それも妖力が強い者ほど更に入りにくくなる結界じゃ」
「聞いたことが…あります。…その昔、殺生石の周りに張られたとか」
「そうじゃ、それと同じじゃ。それに加えて、儂の工夫が入っておる。人間も惑わすことが出来る。…よいか、まず土地の気脈に要石を置いてじゃな…」
そんなこんなで夜遅くまで起きていたので、弥生もつい寝坊してしまったわけだ。加えてその後、茜と椿に、
「この子は、」
眠ってしまった茜の頭を撫でながら、
「立派な妖狐になるぞ」
「そうでしょうか」
「ああ。綺麗な魂をしておる…修行すれば天狐も目指せると思う」
そう言うと、弥生の目に、ふ、と懐かしそうな光が灯った。
「そうじゃ、茜に、これをやろう」
自分の髪を一本抜くと、手で丸め、息を吹きかける。すると髪は綺麗な紐となった。
「お守りじゃ。これを首に巻いてやれ」
椿はそれを受け取り、茜の首にそっと巻いてやると、
「弥生様、ありがとうございます…大事に大事に致します」
そして弥生は葵に向き直ると、
「この者達を大事にな」
* * *
「かわいい子じゃったな…」
「誰が?」
「あの茜という子狐じゃ」
「へえ…」
意外だといった感じで直也が呟く。
「何じゃ?その返事は?」
「何でもない。…お、こっちには握り飯があるぞ。至れり尽くせりじゃないか」
「ありがたくいただくとするかのう」
握り飯を平らげる二人。食べながら直也が、
「…弥生が、さ」
「ん?」
「子狐をかわいがっている姿が…」
「どうした?」
「…なんだか、微笑ましかったんだ。いつも弥生は俺を化け物から守ってくれていて、何というか、強いばかりの面を見ていたから」
(馬鹿者が…)
「弥生、どうした?顔が赤いぞ?」
「…朝日のせいじゃ。さ、出発するぞ。お主はまだまだ半人前じゃ。一人前になるまで帰らんからな、そのつもりでおれ」
そして二人は山道を辿り始める。初夏の緑でいっぱいの梢を風が吹き抜けて行った。
弥生の正体が判明しますがその出自はまた追々と。