巻の七十五 蝦夷地での一幕
巻の七十五 蝦夷地での一幕
津軽半島、竜飛崎。津軽海峡をはさんで蝦夷地(現北海道)と向かい合う本州の北端である。
「向こうに霞んで見えているのが蝦夷地じゃな」
「弥生は行ったことがあるのか?」
下北の恐山で鬼であったしずを人に戻した直也と弥生は今、ここで海を眺めていた。
「残念ながら無いのう。儂が修行していた頃はまだ未開の地じゃったからな」
「今は松前藩…だったか、藩があるんだよな」
「うむ。蝦夷の民、アイヌ、と言うたか、彼等との交易をしているそうじゃ」
そう言って右手を額にかざし、かの地をよく見ようと目をこらす。
「行ってみたい気もするな」
直也がそう言うと、
「そうじゃのう…あそこには流石に里の出入り口もないようじゃしのう、儂も興味はある、じゃが…」
「どうした?」
「気軽に旅人が行ける場所ではないようじゃし、先頃アイヌとの戦があったそうじゃ。なので人の出入りに五月蠅いようなのじゃよ」
「戦か…」
それは寛文九年(1669年)に起きたシャクシャインの戦い、と呼ばれるもので、別名を寛文蝦夷蜂起とも呼ばれている。
その戦後処理のための出兵は寛文十二年(1672年)まで続いたそうである。それから十年あまりが経ったとはいえ、まだ落ち着いたとは言えない、松前藩とアイヌ民族であった。
閑話休題。
「残念だが今回は見送るとしようか」
「そうじゃのう」
そう言って海に背を向け歩き出す二人。その二人の前に進み出た男が一人。
「蝦夷地に興味がおありですか?」
歳は五十前、恰幅の良い、見たところ商人である。身構える二人に、
「…いえ、聞くとも無しにお二方の話が聞こえましてね、そちらの娘さんはなかなか事情通のご様子、いかがです? 私の仕事を助けて下されば、蝦夷地への船に乗せて差し上げましょう」
「…あなたは?」
眉をひそめて直也が尋ねると、男は済まなそうに笑って、
「これは失礼。私は廻船問屋の堺屋陣右衛門と申します」
「上田直也です。これは許嫁の弥生」
「上田様ですか、それでですね、ちょうど用心棒が病で船を降りてまして、その代わりをお願いしたいのですよ」
「長い期間は無理ですよ」
「ええ、それは大丈夫です、荷を受け取りに行くだけなので、松前に留まるのも一日二日だけですから」
「どうする、弥生?」
悪くない話なので、直也は弥生と相談する。弥生は小声で、
「うむ、あの堺屋と申す商人、嘘は吐いていないようじゃ。日数は短いが、行けぬよりよかろう。ここは受けることにしたらどうじゃ?」
それで直也は堺屋陣右衛門に向き直り、
「そうですね、それじゃあお願いしましょうか」
すると堺屋陣右衛門は満面の笑みで、
「そうですか、いやあよかった、それでは明日の朝出港します、今夜は私どもの宿へおいで下さい」
海辺にある網元の家が堺屋一行の宿であった。水夫は十人程度で、盛んに酒を飲み騒いでいる。それを横目に、直也と弥生は堺屋陣右衛門と話をしていた。
「普通の北前船が蝦夷に行くのは五月頃でしてね、今は戻りの時期なんですよ」
「なるほど」
「でも今年は潮の流れが悪くて、まだ全部の荷を運び切れていないのです。それで、まだ上り(南下して上方へ行くルート)に入れない船が何隻かあるそうで、私のような船主にも手伝いの声が掛かったという次第で」
北前船として交易出来るのは限られた商人だけである。が、今回は荷の関係で例外的に蝦夷地へ船を出せるのだという。
「運が良かったのう」
「本当ですね、私としても助かりますよ」
シャクシャインの戦いが終わったと言ってもまだいろいろと不安があると陣右衛門は説明した。
「何か気をつけることはありますか?」
蝦夷地は初めての直也、念のため訊いておく。
「そうですね、蝦夷の言葉は我々とは違うので、我々の言葉を話せる蝦夷もしくは通詞がいないと話が出来ません。まあ商いの話は私がしますので、上田様はお気になさらなくて結構です」
「なるほど」
そしてその夜は特に何も無く更けていったのである。
翌朝、日の出と共に船出。竜飛崎から松前までは、津軽暖流が西から東へと流れている。つまり真っ直ぐ北へ進むつもりでも東へ流されてしまうから、その分西へ進まなければならない。航法で言うと、北西を目指すように進むとちょうど北進できる、というわけで、船頭にもある程度の熟練が要求されるのである。
ましてこの時期は西風が多くなるため、櫂と櫓も併用する必要があったりと、なかなか大変であった。
が、直也と弥生は特にすることがあるわけでもなく、船縁から蝦夷地が近づくのを眺めているくらいではあったが。
海峡の幅はおよそ五里(約20キロメートル)、この日は風の具合も良く、昼過ぎには松前港に入ることが出来た。
港では上陸前に松前藩の役人が積荷、船員の確認のため乗船してきた。
「堺屋陣右衛門でございます、これが鑑札、これが名簿です」
「よし、船主堺屋陣右衛門、船頭六助、水夫伝蔵、只吉、政吉、平助…」
乗組員の確認が行われていき、最後に、
「用心棒、袴田辰三」
「いえ、袴田さんは病のため、代わりに」
「上田直也です」
「ふむ、そうか、まあよかろう」
直也の一見頼りなさそうな様子を見て、特に問題を起こしそうもないと判断したのだろう、あっさりと乗員変更は認められた。
「…その女は? 名簿には載っていないが」
「ああ、この上田さんの許嫁だそうで、特に問題はないかと思うのですが」
「弥生と申します」
軽く会釈をする弥生、それを見た役人は、
「ふん」
と鼻で笑い、
「名簿にない者は上陸を許可するわけにはいかんなあ」
そう言ったのである。
それを聞いた直也が何か言う前に、
「お役人様、そこを何とか」
そう言って、袂に何かを入れる弥生。役人は袂の中でそれを検めると、
「まあよかろう。ただし、蝦夷集落の方へ行ってはならぬぞ」
そう言い残して下船していった。
少しして、直也達も、当番の水夫を残して全員上陸した。直也はこっそり弥生に聞いてみる。
「なあ弥生、さっき役人に渡したのってやっぱり賄賂か?」
すると弥生はうっそりと笑い、
「ふふ、まあそうじゃ。特別製の椿の葉の、な」
「やっぱりか…」
「心配するな、特別製じゃと言うたろう。三、四日は術は解けぬ。ばれる心配は無い」
「それならいい…のか?」
半ば呆れ、半ば安心した直也である。
そこへ堺屋が近づいて来て、
「上田さん、あそこに見える『ひしや』という旅籠が私どもの宿です。お泊まりになるも良し、遊びに行くも良し、でも明日の朝までには帰って来て下さいよ」
そう告げたので、
「ああ、わかりました」
と答え、弥生を連れて松前の町を見物に出掛ける直也であった。
松前は、松前藩の城下町であり、松前城が町の中心である。藩主は五代目になる松前矩広。シャクシャインの戦いの時はまだ幼く、藩主一門及び有力家臣が藩政を左右したため、幕府から『松前家中仕置等宜しからず』などと言われており、藩内はごたごたしていた様である。
そしてそれはそのまま領民にも反映される。
「…なんというか、煩雑な町じゃのう」
「うん…もっと広い原野とかが広がっているのかと思っていたんだが」
二人とも、想像との乖離にやや幻滅の面持ちである。
「きっと奥地には手つかずの大地が広がっているんだろうなあ」
「まあ日もないことであるし、そこまで行けぬのも仕方ないかのう」
そんな会話をしながら歩いていた矢先のことである。
「直也、あれを見よ」
「ん?」
弥生に言われ、そちらを見ると、十歳くらいの女の子が、そわそわと道行く人々を見つめている。弥生が見るに、どうも話しかけたいようなのだが、その決心が付かないといった風情である。
それはそうなのだろう、その着物からして、アイヌの子であったから。松前では差別が横行しているらしい…。
「どうしたんだい?」
弥生がそんな事を考えていたら、相変わらずの直也がその子に近づき、声を掛けていた。
「……」
和人から声を掛けられたので驚いたのか、その子は目を見開いて震えている。
「何か、誰かを探しているのかな?」
しゃがみ込み、目線の高さを合わせてから再度そう尋ねる直也。その穏やかな話し方に警戒を少し解いたその子は、たどたどしい言葉で、
「チチ…ケガ…ナオス…ホシイ」
そう言ったのである。
「えーと、お父さんが怪我をしていて、治して欲しい、ということかな?」
たどたどしい言葉を直也が補足して言い直すと、アイヌの女の子は何度も肯いた。
「そうか。家は遠いのかい?」
今度は首を横に振る。
「よし、なら案内してくれるか? とにかく一度看てあげよう」
怪我なら天狗の秘薬がある。病気なら弥生がいる。健気な子を見捨ててはおけない直也であった。弥生は内心苦笑しながらも、直也らしい、と思い、何も言わずに直也と共に女の子に付いていった。
女の子に案内されたのは、小半刻(約30分)ほど内陸に入った場所にある小さな集落。
「xxxxxxxxxxx!」
集落に着くと女の子は、直也達の知らない言葉を叫んだ。すると何軒かの家から顔がのぞいた。
「うっ…」
流石の直也も一瞬たじろいだ。それは顔を出した人々の中の女性の顔に施された刺青を見たからだ。それは口の周りにあって口を更に大きくしたような形で縁取り、見なれぬ直也をたじろがせるには十分だったのである。
「フンナ アン?」
「…え?」
その中の一人、髪も髭も白い老人に声を掛けられたのだが、直也は何を言われたのかわからず、返答に窮してしまう。が、
「…ドチラサマカナ?」
そう言い直してくれたので、
「俺は直也、こっちは弥生。その子の父親が怪我をしていると聞いたので、治せるものなら治してやろうと思ってやって来た」
そう答えた。
「…ソウデスカ、アリガトウ。…ハルコロ、シラムキレ ヤク ピリカ」
あとの方は女の子に向けて言った言葉だ。アイヌ語らしい。女の子はハルコロ、という名前のようだ。
「エー」
ハルコロはそう言って肯くと、
「コチラ。…クル」
そう言って直也を誘った。
案内されて入った家は集落の中程。途中、直也達を見る奇異の視線があったが直也は気にしなかった。弥生も何も言わず直也に従っている。
「チチ。ケガ」
家の中には怪我人が横たわっていた。蓬髪、そして濃い髭の男、これがハルコロの父親であろう。
薄汚れた布を包帯にしており、顔色も悪い。かなり重い怪我のようである。
「xxxxxxx」
ハルコロが小声で何かささやくと、男は目を開け、
「…怪我を治せるのか」
と、達者な言葉で訊いてきた。
「ああ、怪我なら治せる。診せてくれ」
直也がそう言って、包帯を外す。男は何も言わず、直也のするに任せていた。
「…これは…ひどい…」
男の胸から腹にかけて、動物の爪で抉られたと思われる深い傷が走っている。しかもその後の手当が杜撰だったとみえ、膿み始めてもいた。
「まずは傷口を洗わないとのう」
傷のひどさを見て絶句した直也を見て、この集落に来て初めて弥生が言葉を発した。
「ハルコロ、でいいのか?…綺麗な水を汲んできてくれ」
「エー」
そう答えて表へ出て行くと、直に水を汲んで戻ってきた。
「ちょっと痛むかもしれませんが我慢して下さい」
そう断ってから、傷口に水を注ぎ、膿を洗い流す。綺麗になったところで、天狗の秘薬を塗りつけた。
古い傷なのですぐに治るとは行かなかったが、秘薬の効き目は確かで、傷口には薄皮が張り、痛みも消えたようである。
「…これは…!…すごい…!」
痛みの消えた男は床から起き上がり、
「和人、感謝する。儂はホロケウ、この里の長の息子だ」
「俺は直也。こっちは弥生」
「直也、弥生。今夜は是非泊まっていって欲しい。里の皆にも紹介したい」
「…どうする、弥生?」
「良いではないか、お世話になろう」
「よし、…ハルコロ、ウト タク ヤク ピリカ!」
「エー」
ハルコロはそう言って出ていった。
「ウト マク テッ カ、今夜は皆で宴を開こう」
そして、集落の中央にある広場に火が焚かれ、その周りには住民が車座になって座り、宴が始まった。まず里の長であるホロケウの父親ーーーラルマニと言うらしいーーーが挨拶。
「皆、今日、客人のおかげで、儂の、息子、ホロケウ、が、傷、治った! 治してくれたのは和人の客人、直也、と、弥生だ!」
直也達にもわかるような言葉でそう述べると、集まった住民が歓声を上げた。
「直也、弥生、あんたがたは和人だが、ウタリだ!」
友人、いや、仲間、という意味らしい。
それからは酒が回され、宴会となる。
「直也、コレ、タベル」
ハルコロは直也の隣に座り、しきりに世話を焼いてくれていた。ホロケウは弥生の隣に座り、さすがに傷に障ると思っているのだろう、静かに飲んでいる。
「コレ、トゥレプシト。オイシイ」
植物の根をすり潰して団子にしたもののようで、百合の根のようであった。後で聞いたところ、姥百合の球根で作った団子だそうだ。
「コレモコレモ。キトピロ。ゲンキ、デル」
葱か大蒜のようであった。交易で得た味噌を付けて食べるとなかなかいける。
弥生はと見るとしきりにホロケウに話しかけ、アイヌ語を覚えようとしているようであったので、直也はそのままにしておいた。
「直也、優しい。和人、見直した」
そう言いながら酒を注ぎに来た男がいた。
「和人、ずるい、多い。アイヌ、困る」
交易は基本的に物々交換で行われる。その際、アイヌに文字がないことを良いことに、約束を違えたり、誤魔化したりされ、搾取されているのだ、ということを、たどたどしい言葉から直也は察した。
「同じ和人として恥ずかしいよ。皆が皆、そんな奴ばかりじゃないことだけは信じてくれ」
直也がそう言うと、集まった者達は皆大声で肯いたのである。
「直也、イヤイライケレ、イヤイライケレ…アリガト、アリガト」
今度はハルコロによく似た女性がそう言いながら食べ物を持ってきた。
「ク コル ハポ、…ワタシノ カアサン」
似ているのも当たり前、ハルコロの母である。口の周りの黒い刺青にはやはり慣れないが。
「カアサン、ユカル、ジョウズ」
「ユカル?」
直也が聞き返すと、
「ハポ カムイユカル エン ヌレ…カアサン、カムイユカル聞かせてくれる」
ハルコロの母が静かに立ち上がると、場は静かになった。皆、彼女がユカルを謡うのを期待しているようだ。
「ポン オキキリムイ ヤイエユカル、トノタ フレフレ」
そう前置きを置いて彼女は歌い出した。
「トノタ フレフレ(この砂 赤い赤い)」
「シネアントタ ペッツラシ シノタシュ クシュ パエアシュ ア ワ、ポン ニトネカムイ チコエカリ(ある日に流れをさかのぼって遊びに出掛けたら、悪魔の子に出会った)…」
意味はわからないが、雰囲気だけでも楽しめた。
ユカルを語り終えると皆拍手したり歓声を上げたりと、また元の賑やかさが戻ってきて、それからも代わる代わる直也の所へ挨拶に来たり、大勢で踊りを踊ったりして夜は更けていったのである。
深夜を回り、ハルコロは直也の横で眠ってしまった。他の男達も酔いつぶれ、女達は家に帰ったりと、宴も終わり、だがその時。
集落の北にある森から、獣の咆吼が響いてきた。それを聞いたホロケウは顔色が真っ青になる。
「…あれは…!…ニトネ…カムイ…!」
「え?」
「儂に怪我をさせた獣だ。儂も手傷を負わせたが、またやって来るのか…! 奴はキムンカムイの姿をしているが、悪魔だ。客人、儂の家へ、ハルコロと一緒に!」
そう言うと、まだ残っていた女達に家へ入るよう、そして男達には家を守れと指示を出す。自分は山刀を手に立ち上がった。直也はそれを制し、
「ホロケウさん、まだ傷が塞がったとはいえ、体力は戻ってないでしょう。その体では危険です」
「だが、この里には儂以上の強者はおらぬ。儂がやらねば、悪魔に皆、殺されてしまうかもしれぬのだ」
「イャポ…」
いつの間にか目を覚ましたらしいハルコロが、心配そうな目でホロケウを見つめている。直也はそんなハルコロに向かい、優しく微笑むと、
「心配しなくていいよ。俺が行ってくるから」
そう言って、声の方へと走り出した。弥生は無言でそんな直也に付いていく。
「客人!」
背中にホロケウの声を聞くが、直也は止まらない。短い間であったが、アイヌの里の情に触れ、そして何よりもハルコロの笑顔を守ってやりたいと思ったのだ。
「直也、あの声は多分熊じゃ」
付いてきた弥生がそう言った。
「熊の化け物ということか」
「そうじゃ。熊はアイヌではキムンカムイ、『山の神』と呼ぶらしい。神扱いするほどに恐ろしい相手なのじゃろう、油断するでないぞ」
「わかった。…しかし、神様が悪魔扱いとは、…もしやマーラの仕業なんだろうか?」
その問いに弥生は首を振って、
「わからぬ。…マーラもまさかこの蝦夷地にまで手を伸ばすとは思えぬ…いや、そうでもないか」
「シャクシャインの件か?」
弥生の思考を読んだ直也が尋ねる。
「そうじゃ。松前が駄目になれば、それだけ幕府の権威も落ち、争乱の火種になりうる」
「なおさら放っとけないな」
それから二人は無言で北の森へ向かったのである。
そんな二人を追いかける小さな影が一つ。その先に待つ怪物のことに気を取られていた二人は、まさかハルコロが付いてきていようとは思わなかった。
北の森手前の草原に二人が辿り着くと、そこには身の丈一丈(約3m)を超えようかという巨大な赤い熊が二本脚で立ちはだかっていた。
「でかい…」
「正に怪物じゃな」
その熊はやって来た二人を見ると、
「…フンナ アン?…シャモ?…」
そう聞こえる唸り声を上げた。
「…こやつ…やはりマーラの気配がする。こんな北の果てにまで…」
狐耳と尻尾を出し、霊気を体に巡らせる弥生。直也も刀を抜き、正眼に構えた。
「気をつけよ、来るぞ」
弥生がそう言うが早いか、熊は雄叫びを上げて二人目掛けて跳びかかってきた。巨体とは思えぬ素早さ、紙一重で避けた二人は、地を抉り岩を砕くその怪力に驚く。
「油断できぬな」
そう言って弥生は赤い狐火を放った。熊はその火を右前脚で払いのける。その隙に直也は左から熊の脇腹を斬り払った。
が、針金のような剛毛に阻まれ、浅く斬り裂いただけ。手傷を負った熊は頭に血が上ったか、前脚を振り回しながら直也に跳びかかった。
「おっと」
それを飛び下がってかわしながら、切り上げでその前脚を斬る。血飛沫を上げながらも熊は更に怒り狂い、直也目掛けて突進していった。
「来い!」
直也はその突進を冷静に見極め、振り下ろされた前脚を横に躱すと、下がった鼻面に横薙ぎ。熊の顔が切れた。
さしもの大熊も顔を傷付けられ、その突進の勢いのまま、大岩に衝突した。
「きゃあ!」
その時聞こえた悲鳴。
「!?」
「ハルコロ!」
大岩に隠れて見ていたハルコロ、その大岩に熊が衝突したため大岩が傾き、驚いて飛び出してきたのだ。
「危ない!」
熊の振り回す前脚をかいくぐり、弥生がハルコロを救い出した。ハルコロは震えている。
「ハルコロ、危ないからもっと離れておれ」
そう短く注意をした弥生は十分離れた場所にハルコロを下ろすと、熊と戦っている直也の下へ急いで戻った。
「これでどうだ!」
今、直也は熊の左後脚に斬りつけたところである。これで動きが目に見えて鈍った。そこへ弥生の狐火が襲いかかる。
「喰らえ、化け物」
白い狐火である。これにはさしもの大熊も、その身を灼かれるようだ。が、それでも戦意を喪失する様子はない。
「うむう…恐山の鬼以上に頑丈な奴じゃな」
弥生もあきれ顔である。直也は、
「こうなったら翠龍で頭を断ち割るしかないかな?」
「そうじゃのう…じゃが、危険じゃぞ? まだ左前脚が無事じゃ。あれの直撃を受けたら只では済まぬ。…じゃから…こうじゃ!」
巨大な『蒼』い狐火…『青』ではない…を灯す弥生。青緑色の物より更に上位の木気の狐火である。それを大熊目掛けて放った。
一瞬、あたりが青白い光に照らされるほどの威力で大熊に直撃。焦げ臭い臭いと共に大熊の動きが鈍った。
「今じゃ!」
「応!」
その隙を逃さず、翠龍を抜いた直也は飛び上がって唐竹割りに大熊の頭を斬り割った。さしもの大熊も頭を割られてはたまらず絶命する。
斃れた大熊の体から立ち上る黒い煙、やはりマーラの仕業であった、と直也は再度翠龍を振るう。
「…終わったな」
「うむ」
そうして二人は離れたところから見ていたハルコロのところに歩み寄る。
「…ポイヤウンペ…チロンヌプカムイ…」
そんな二人の姿を見てハルコロはぽつりと呟いた。
里に帰り、ハルコロが叱られたのは言うまでもない。
翌朝、集落のアイヌ達に別れを告げる二人。
「直也、弥生、二人には感謝してもしきれない。友情の印にこれを受け取って欲しい」
そう言ってホロケウから手渡されたのは見事な首飾り(タマサイ)であった。白い玉、青い玉が綺麗に繋がれている。
「ありがとう、俺からはこれを」
天狗の秘薬を少し取り分け、ホタテ貝の貝殻に詰めておいたのである。
「傷薬です、大怪我をした時に使って下さい」
「ありがとう、儂の怪我を治してくれた薬だな」
ホロケウもそれを喜んで受け取った。
直也はもらったタマサイを弥生の首に掛ける。
「な、直也…?」
「似合うぜ、弥生」
そう言われた弥生は珍しく慌てて、
「…さ、さあ、急いで戻るとしよう」
そんな二人を見て、里のアイヌ達は、口々に
「アプンノ パイェ ヤン」
そう言って二人を見送った。ハルコロも、目に涙を溜めながら、
「…アプンノ パイェ ヤン…」
そう小さい声でさよならを言った。
松前の町では取り立てて何も起こらなかった。
予定通りに荷を受け取り、積み込みが行われる。その夜は水夫達も羽目を外すことなく、翌朝早くには出港の運びとなる。
「…慌ただしかったけど、来て良かったな」
「そうじゃのう」
帰りの船の甲板で、遠ざかる蝦夷地を見ながら会話する二人。
青く広がる大海原の彼方に蝦夷地は茫として霞み、行く手にはお岩木山が目印のように聳え立っていた。
ユーカラは樺太方言だそうで、より正規の発音に近いのはユカル、ラテン文字表記はyukarだそうです。作者のアイヌ語知識は拙いので、間違っていましたらご指摘下さると幸いです。
ハルコロは「食べ物・持つ」という意味で、「食べ物に困らない」という意味、ホロケウは狼。ラルマニはイチイの木のことです。
ヒグマの雄は大きなものは3m、500kgになるそうなので、この話の熊はそれに当たります。
ポンヤウンペ、もしくはポイヤウンペはユカルの主人公の一人で、神と人間の間に生まれた英雄です。蛇足ながらチロンヌプはキタキツネ。
今回はおまけ的な冒険譚として蝦夷をちょっとだけ訪れさせました。この時代、観光旅行的に蝦夷を訪れることは多分出来なかったでしょう。ゆえにこんな話に。
本当はアイヌ話、もっと膨らませたかったのですが、前記の理由と全体からみたバランスとでこんな形に落ち着きました。極論すれば無くても済む巻ではあります…
それでは、次回もまた読んでいただけたら幸いです。




