巻の七十四 閑話 紅緒の冒険
このへんで、巻の二十八で退場した紅緒がどうしているかのお話を。
巻の七十四 閑話 紅緒の冒険
「一年後くらいには戻ってくる、それまで紅緒を頼むぞ、環」
「わかりました。おまかせ下さい」
* * *
ここ、四谷追分稲荷社に預けられて半年。環さんに面倒を見てもらってるあたい、紅緒。
猫又。でも今は、いろいろあってただの猫になっちゃった。
直也様と弥生姉様の足手まといにならないように、力が戻るまでは大人しくしている…つもりだったんだけど。桜が咲く頃になって、なんだかじっとしていられなくなって来ちゃった。
環さんも今年から寄方になって、あんまりあたいを構ってくれなくなったこともあるけど…
無性に外の世界へ出たくなってきた。今はまだ結界の張られた境内の中しか歩けないの。
ああ、早く元のあたいに戻りたい。
身体は一人前になったけど、まだ力は完全には戻っていない。化けたりとか出来ないし。
「紅緒さん、紅緒さん」
環さんが呼んでる。お勉強の時間ね。
「はーい、ここです」
「紅緒さん、それでは今日もお勉強しましょう」
お勉強。それは、いろいろな知識。環さんは御先稲荷といってお稲荷様のお遣い。だからいろいろなことを知ってる。
あたいは元々野良猫だったから、無知もいいところ。それで環さんにいろいろ教えてもらってる。
面白いこともあるけど、つまらないこともある。でも将来、直也様のお役に立つためと思えば我慢出来る…かな?
まあ環さんも忙しいので一日のうち一刻くらいしか教えてもらえないから、あたいでも付いていけるようなものね。五行とか術とかの話は大好き。でも歴史とか算術とか大嫌い。
「今日は薬草の話をしましょう。山に生えるものには…」
薬草か。まあまあ面白いかな。あたいも少しは知ってるしね。
「南天の葉には防腐作用があって…」
それはあたいも知ってる。鼠にやられた仲間に付けてやったっけ。
「十薬ともいうどくだみは湿疹やかぶれに効きます。乾燥させたものは…」
どくだみ…お腹壊した時に食べたけどあんまり効かなかったなあ。
「…そういうわけで、木天蓼は滋養強壮として知られるだけでなく…」
またたびかあ。…箱根で失態やらかしちゃったなあ。…直也様、元気かしら。
「紅緒さん、聞いてますか?」
「あっ、はい!」
「…木天蓼はあなた達猫族には効果覿面ですからね、いろいろと注意なさい」
「はい、わかってます」
「それでは今日はここまで」
環さんは行ってしまった。暇になった。境内は小広いけれど、半年もいたら飽きちゃうわ。そろそろ外へ行きたいなあ…。
でも、環さんは、もうすぐ元の身体に戻れそうだから、それまで我慢しなさいって言うの。
猫又に戻れたら、怖いものはほとんど無くなるから、そうしたら外に出ていいって。
ああ、広い野原を駆け回りたいなあ。直也様と、弥生姉様と一緒だった旅が懐かしい…。
霊的な結界が張られているので、あたいみたいに中途半端な妖は出入り出来ないんだ。
だから今日も境内を徘徊。梅の木には小さな青い実が付いてる。これは不味くて食べられない。
枝垂れ桜が今を盛りと花を付けている。きれい。そう言えば、今は弥生。姉様、元気かなあ。
そんなある日、境内の丑寅の隅に、結界の綻びを見つけた。俗に言う「鬼門」、結界の効果が薄れているところに、一昨日の雨で少し築山が崩れたのが原因らしい。でも、そんなことはどうでもいい。
ここから外に出られる、そうわかった瞬間、あたいは外に走り出ていた。
久しぶりの外界。風の匂いが懐かしい。花の香り、人の匂い、馬糞の臭い...。雑多な臭いが漂っている。
神社が有るのは尾張藩の屋敷の傍、そこから少し行けば大久保村。あたいが育った日本橋に比べたら、まるっきりの田舎ね。
それであたいは四谷まで一気に駆けることにした。
半刻くらいで四谷の大木戸を抜ける。ようやく人が増えてきた。
走る速度を落とし、景色を見ながら行く。そんな時、あたいに声を掛けてきた者があった。
「姐さん、見ない顔だね、どこから来なすった?」
声を掛けてきたのは若い雄猫。白と黒のぶちで、鼻の横のぶちがちょっと目立つ。ちんぴら風だ。こういうのには舐められたら駄目。咄嗟にあたいは、昔聞き覚えたはすっぱな言葉遣いで対応することにした。
「ああ、あたいは四谷追分から来たんだ。あんたはこの辺の猫かい?」
「へえ、安吉と申しやす」
「あたいは紅緒。安吉、この辺の元締めは?…一応挨拶しとかないとねぇ」
「そんなもんいませんや。猫の数が少ないっすから」
そう言って笑った安吉は、
「もし良かったらこの辺案内させてもらいやすが」
「そうね、頼もうか」
「へいっ」
そんなわけで、あたいは安吉の案内で四谷界隈を見て回ることにした。
とはいえ半分は武家屋敷だから、残り半分の町屋が対象、それほど広い範囲じゃない。
「さむれえが多いとはいえ、生活に必要なものがなきゃあいつらだって暮らせねえ、魚屋も八百屋もありますぜ」
そう言いながら、安吉は小さな屋敷の中へと入っていった。
「ここのかみさんは猫好きでね、あっしたちが行くと魚の骨やら鰹節の出し殻やらくれるんですよ」
…やっぱり田舎だ。あたいが昔いた葺屋町(現人形町)のお妾さんたちは魚なんて丸ごと一匹くれたりした。
でもあたいはそんな事を口にするほど馬鹿じゃない。安吉と一緒に庭を抜け、台所へと向かう。
ちょうどお昼時、おかみさんがあたいたちを見つけ、
「おや、今日は二人連れだね。そっちの灰色の子は初めて見る顔だけど、ぶちや、あんたのお嫁さんかい?」
安吉には人間の言葉はわからなかったらしく、ただ「にゃーん」と猫なで声を出して、差し出された骨をぱくついていた。
あたいはお嫁さん扱いされたのが気に入らなかったけど、好物の鰹節を頂くことにした。とはいえ、出し殻なのであまり美味しくないけど。
「よしよし、またお出で」
食べ終わったあたいたちはその屋敷を後にした。
「どうでした? いいおかみさんだったでしょう」
あたいは、
「そうだねぇ」
とだけ答えておいた。
「これからどうします?」
と聞くので、あたいは、今日のねぐらにする場所はないか尋ねる。今更環さんの所に戻れないしね。
「いい場所がありやすぜ。古いお寺の縁の下でさあ」
案内してもらう。すぐ近くだった。古寺の縁の下は乾燥していて居心地良さそうだ。
ねぐらを確保したあたいは、夜に備えて寝ることにした。本来猫の活動時間帯は夜なのだから。
「あっしも横で寝て…いいすか」
安吉がそう聞くので、いいよ、と言ってやったら喜々としてあたいに背中を擦りつけてきた。
まあそれくらいは勘弁してやるか。
一眠りして目が覚めたら辺りは真っ暗。すっかり夜になったようだ。あたいは伸びをする。
安吉も目を覚まして伸びをし、ひげをなでつける。
若いこいつはひげがまだぴんと伸びており、それを前足を舐め舐めしごいている様子は微笑ましかった。
「さて、姐さん、行きましょうかい」
そう言って先に立って歩き始める。
「どこ行くんだい?」
そう聞くと、
「元締めはいねえけれど、ここらの猫たちに紹介しますぜ」
そう言って、猫のたまり場になっているらしい場所…小さな神社の境内へと案内してくれた。
そこにいたのは半分眠ったようにしている年取った三毛婆さん、太った中年の白猫小母さん、そして若い黒猫の雄と三毛猫の娘。
「よう、安吉、そっちの姐さんは?…美人じゃねえか」
黒猫が声を掛けてきた。安吉は得意気に、
「へへえ、紅緒さんて言うんだ、四谷追分から来なすった。俺がこの辺案内してるんだぜ」
そう説明する。三毛婆さんは眠たげにちょっとこっちを見たけど、また眼を瞑ってしまう。一方同じ三毛でも、娘の方は安吉とあたいを交互に見て、
「安吉さん、そのひとここに住むの?」
と尋ねた。それに答えて安吉が何か言う前にあたいは、
「お嬢ちゃん、住むつもりは無いから安心おし。二、三日遊ばせてもらったら帰るから」
そう言うと、娘は安心したような顔になり、安吉は残念そうな顔をした。あのお嬢ちゃんは安吉に気があると見たあたいは、
「お嬢ちゃん、お名前は?」
と尋ねる。その子は慌てて、
「あ…あたしはまゆ…といいます」
「まゆちゃんかい、いい名前だね。安吉、この子も連れて遊びに行こうよ」
安吉はちょっと面食らったようだけど、二つ返事で承諾した。一方、雄の黒猫は、
「姐さん、あっしも連れてっておくんなさい」
というのであたいは承知した。その黒猫は六助と名乗った。
「あのですね、この先に面白いところがあるんでさあ」
六助が得意気に語ったところによると、猫好きの男がいて、しょっちゅう食べ物を置いていってくれるお堂があるというのだ。そして食べ物を置いたら男は帰ってしまうので、安心して食べていられるという。
「六助、てめえそんないい所、今まで黙って独り占めしていやがったのか」
「へへ、安吉兄い、人聞きの悪いこと言わねえでおくんなさいよ。そこを見つけたのはつい昨日のことだったんすから」
あたいはその話を聞いてちょっとおかしいと思った。人間が理由も無しにあたいたち猫に食べ物をくれるはずがない。
大半の人間は自分の食べ物にも困っている。食べ物に困っていない人間は暇に任せてあたいたちを構おうとしている。
だからただ食べ物を置いていくというその場所にあたいは微かな疑惑を憶えた。
それはまだ口に出さず、黙って一緒に連れ立っていくことにした。
そこに付いたのは夜明け前。川のほとりの小さなお堂。周りは大きな木に囲まれている。確かに、中には鰹節、鰯の干物なんかが置いてある。
別の所から来たのだろう、太った虎毛の雄猫がそれを食べている所だった。
「おい、そこをどけ」
安吉が雄猫にそう言うや否や、雄猫が振り返り、
「なんだてめえは、後から来てでけえ面すんじゃねえよ」
「なんだとこの? ここは俺っちが見つけて、今この姐さん達を案内してきた所だ。どきゃあがれ」
「若僧、威勢だけはいいな。俺様を誰だと思ってる。千駄ヶ谷ではちったあ名の売れた、虎猫の銀次ってえもんだ」
その名を聞いた六助が震え上がる。
「ぎ、銀次…」
「おう、そっちの三下は知ってるらしいな。今だって俺様が一声啼けば、十匹を越える子分が集まってくるんだ。大人しくしておいた方が身のためだぜ」
六助は尻尾を垂れた。降参したようだ。
あたいは別にこんな食べ物どうでも良かったんだけど、良くしてくれた安吉が痛めつけられるのは可哀想だと思ったから、
「銀次さんとやら、いい男ぶりだねぇ。…どうだい、見たところ、食べ物は一人や二人では食べきれないくらいあるじゃないか。ひとつあたいたちにもお裾分けしておくれでないか」
そう言ってみた。すると銀次は、
「あ?…お、おお、あんたすげえ別嬪じゃねえか。その後ろの娘っ子もなかなかの器量だ。ようし、おまえさんとそっちの娘っ子はこっち来て食べていいぜ」
そう言うので仕方なく、あたいとまゆはそのお堂に入り、一口二口、干物を囓った。
「なあ姐さん、どうだい、俺の女房にならねえか?…喰いもんには不自由させねえからよ」
そう言ってあたいの尻尾の付け根を嗅ごうとした。でもあたいはこんな奴の傍にいるのさえ嫌だったから、
「おふざけでないよ! はばかりながらこの紅緒姐さんは、小伝馬町で生まれて日本橋で育った江戸っ子なんだ。あんたみたいな田舎猫になびいてたまるもんかい」
そう啖呵を切ってやった。銀次は一瞬気圧されたが、
「いい度胸だな、だが俺を甘く見たな?…集まれ、野郎ども!」
そう言って一声高く鳴いた。するとたちまちのうちに柄の悪い猫たちが集まり、その数は十一を数えた。
「…ふふ、力ずくで言うことを聞かせることも出来るんだぜ?」
そう言って不敵に笑う銀次。あたいは昔襲われたことを思い出した。もう二度とあんな目にあってたまるものか。あたいは身構える。猫又の力が戻っていなくても、こんな奴等には負けない。
その時。
不意に、木の上から網が降ってきて、そこにいた猫はあたいも含めて全部絡め取られてしまった。
「大漁大漁。ひい、ふう、みい…十八匹か、上出来だぜ」
それは人間の声。やっぱり、ただ食べ物を置いてあるだけじゃなかったか…。
あたいは臍を噛む思いだったがもう手遅れだった。暴れれば暴れるほど網が手足に絡んで身動きが取れなくなる。
あたいたち十八匹は網ごと大きな袋に入れられ、どこかへ運んで行かれた…。
あたい達が解放されたのは小屋の中だった。
四畳半くらいの大きさで、板敷き、隅には用を足せるように砂が敷かれている。
窓には金網が張られていて、逃げ出せそうもない。出入り口は一つだけ、でも外から閂がかけられている。
あたいたちをどうするつもりだろう。あたいは考えたけど、わからなかった。
銀次とその子分達は、壁を引っ掻いたりにゃあにゃあ鳴き叫んだり、うるさいことこの上ない。
安吉、まゆ、六助はというとあたいにすりよって震えているし。まったくたよりにならない連中ばかり…。
そんな時。
「ほい、飯だ」
その声と共に、出入り口の下にあった小さな口が開いて、食べ物を乗せたお盆が差し込まれた。
騒いでいた銀次達は我先にとそれに群がる。全くあさましいったらありゃしない…。
「姐さん、これから俺たちどうなるんでしょう?」
六助が心配そうに言う。それはあたいが聞きたいくらいよ。とりあえずくれた食べ物を食べる。
十八匹がたらふく食べても余るくらいだったから、みんなお腹をぱんぱんに膨らませて寝てしまった。いい気なもんだ…。
捕まえてきて、食べ物をくれる。一体何が目的だろう?
まず思いついたのは、あたいたちをどこか、または誰か、猫好きな人間に売り飛ばそうとしているかも知れないこと。
痩せた猫じゃまずいので太らせ、毛並みを良くすれば高く売れるだろうからね。
それから、考えられるのはどこかに送って鼠退治をさせようとしているかも知れないこと。鼠で困っている家屋敷は多いだろうしね。
とにかく、今のままでは食べて寝るしか出来ないから、あたいたちは仲違いも忘れて、食っちゃ寝して過ごすしかなかった。
そして十日が経った。
相変わらず食べ物は沢山差し入れられている。痩せていた六助ですら肉が付いて太ってきた。
あたいはさほど食べ物には執着しないからそんなに太ったりしてはいないけど、元々太っていた銀次なんて丸々してきている。
「最初はどんな目に遭うかと心配したけど、ここは天国だぜ」
そんな事を呟いては食っちゃ寝してりゃあ太るわね。あたいはといえば胡散臭さが気になって仕方がなかった。
そしてついに、あたい達が捕まえられた訳がわかった。
きっかけは、聞こえてきた音。糸を弾く音。
そう、「三味線」。
その音を聞いた時、あたいは全てを悟った。あたいたちは三味線の皮にされるんだ!
それで食べ物を与えて、皮の張り艶を良くしたと言うわけだったんだ…。
あたいがそう言うと、銀次達はがたがたがたがた震え始めた。
「しゃ、三味線…?…」
「そうよ。皮を剥がれて、三味線に貼られちゃうんだよ」
「か、皮を剥がれたら痛いよね?」
まゆもぶるぶる震えている。
「そりゃあ痛いだろうね。…というか生きてられないわよ」
あたいがそう言うと、全員が泣き叫び始めた。にゃあにゃあぎゃあぎゃあ五月蝿すぎ。
「ちょっとお黙りよ。…そうならないように今考えてるんだから」
あたいがそう言うと、
「べ、紅緒の姉御、どうか助けておくんなさい…」
銀次までがそう言って泣きついてきた。
猫又の力が戻っていれば、こんな小屋、訳なく抜け出せるんだけど…今はまだ無理。そうすると知恵と計略でなんとかしなければならない。
あたいは考えた末、一つの計略を練り上げた。それを全員に伝える。
「…わかりやした、生きるか死ぬかだ、いっちょうやったりましょう」
安吉は威勢良く答えた、それに続いて銀次も、
「姉御の案に乗りますぜ。…いいか、野郎ども!」
「へいっ、わかりやした!」
他の猫たちも希望が出て来たらしい。
あとは機会を待つだけだった。
それから更に二日後。いつもと違って、袋を持った男が顔を出した。何匹か捕まえていくつもりらしい。
あたいたちは全員、打ち合わせ通りに部屋の一番奥に固まる。
「何だ? そんな奥にひっかたまりやがって。…おいでおいで、こっちへおいで…」
そう言いながら手招きするが、あたいたちは無視した。すると男は、
「くそっ、勘づきやがったかな?」
そう言いながら、扉から部屋の中へ入ってきた。扉はすぐ閉めたけれど、鍵は掛かっていない。
「ほーら、こっちにこい…」
そう言って手を伸ばしてきた、そいつの顔に、安吉と六助が後ろ足で砂をぶっかけた。一時的な目つぶし。
「ぷっ、ぺっぺっ…!…こいつら、なにしやがる!」
「今よ!」
あたいの掛け声で、猫たちは一斉に出口に殺到。男の頭や背中を踏み台にするものもいる。
銀次以下、五匹の猫が扉に体当たり。扉がゆっくりと開いていく。やった!
「さあ、逃げるんだよっ!…外に出たらあとは各自、ばらばらに逃げるんだ!…上手くやんなよ!」
そう言うとみんな、我先にと隙間から外へ出て行く。あたいは最後にそこを出る。
行きがけの駄賃に、扉を思いっきり蹴り飛ばして閉めてやった。外に出ようとしていた男が頭をぶつける。いい気味だ。
あたいたちが捕まっていた部屋は中庭に建てられていたらしい。庭を突っ切って塀に登ればもう安心…な筈だったんだけど、一つ誤算があった。それは、男が一人じゃなかったこと。
もう一人、万が一を考えて、手網を持った男が待ちかまえていた。
「こいつら! 逃がすものか!」
手網を振り回して追いかけてくる。ここでばらばらに逃げたのが役に立った。
男が狙いを絞りきれずにいるうちに、あたいたちは皆塀によじ登った。もう手網も届かない。一安心。
…の筈だった。
「わああ、助けてくれええ」
その声に振り向くと、銀次が捕まっていた。食っちゃ寝して太るだけ太った身体は逃げるにはちょいと重かったようだ。
「姐さん、あんな奴の一匹くらいほっといて逃げやしょうぜ」
安吉があたいをせかす。
「そうですよ、やっと逃げ出したんだ。捕まったのだって自業自得。ましてやあいつは俺たちの仲間じゃねえですし」
六助もそう言って安吉に賛同する。
「あいつの子分たちもみんな逃げちゃったじゃないですか。あたしたちも逃げましょうよ」
まゆもそう言う。
でもあたいは。
あたいは。
あたいは、直也様の身内だ。
直也様ならこんな時どうするだろう。
考えるまでもない。直也様なら…。
「安吉、六助、まゆ、あんたたちはこのままお逃げ」
「まさか、姐さん…」
「元気でね」
そう言うとあたいは塀から飛び降り、銀次を捕まえた男目掛けてまっしぐらに走った。
今しも銀次は網から引き出され、首っ玉を掴まれていたところ。その首を掴んだ男の手にあたいは噛み付いた。
「痛ててててて」
男は銀次を放した。
「あ、姉御…」
「銀次! さっさとお逃げ!」
あたいはそう言うと、男の顔に飛びついた。
「ぷっ、何しやがる!」
目を塞ぐように覆い被さる。男は慌てて脚をもつれさせ、仰向けにひっくり返った。上手くいった、あたいは男の顔から離れようとした。その時。
「このどら猫め、勘弁出来ねえ」
そう声がして、あたいの首が後ろから締め付けられた。しまった、もう一人の男が小屋から出て来たんだ。
あたいは手足を振り回すが、背中側から首を絞められているので爪も届かない。
「このまま絞め殺してやる」
息が出来ない。首の骨が軋んでいるのがわかる。あたいっていつも最後はこんなだなあ…。
霞んだ目で、銀次が塀を乗り越えるのが見えた。まあいいか、大勢の仲間の命と引き替えなら。
…直也様、弥生姉様、…もう一度会いたかったなあ…ごめんなさい、あたい…
それきりあたいの意識は闇の中へ沈んでいった。
「……」
あたいは目を覚ました。まだ生きている。皮も剥がれていない。
見わたせば、見慣れた部屋の中。
「気が付いたわね」
その声に振り向けば、環さんがいた。
「紅緒さん、あれほど外に出てはいけないと言ったでしょう?」
環さんが助けてくれたのか…
「まさかあんな遠くに行っていると思わないから、十日以上も探し回っちゃったわ」
「環さん、…あたい…」
「ああ、言わなくていいわ。わかってるから。三味線屋に捕まっていたのね。で、お仲間と一緒に逃げ出した。そして再度捕まったお仲間を助けようとしてあんなことに…」
「…ごめんなさい」
あたいは頭を下げた。危ない所で環さんが助けてくれなかったら、今頃あたいは三味線の皮になっていたところだ。
「弥生様からお預かりした大事なお客様ですからね、万が一のことがあったらあたしが皮にされちゃうかも知れないわ」
冗談めかしてそう言ってくれたので、あたいは気が楽になった。それでもう一度、
「ごめんなさい」
と頭を下げた。
* * *
桜が散り、藤が咲いて、八十八夜を過ぎた頃、ようやくあたいは猫又の力を取り戻せた。
尻尾も二叉に分かれたし、化ける事も出来るようになった。
それで環さんは着物を持ってきてくれた。狐族と違って、猫又は着物までは化けられないから。
「どうかしら? できるだけ以前着ていた着物と似た柄を選んだんだけどね」
そう言って着付けてくれる。あたいは、
「ありがとうございます。気に入りました」
そう御礼を言う。着付けが終わると、
「うん、これでもう大丈夫。外に出てもいいわ。でも、夜はこっちに帰っていらっしゃいね」
「はい」
ようやく人型になれたので、外出解禁。あたいはのびを一つすると、開けてもらった結界から外へ、足を踏み出した。
あれから大人しくしていたけれど、やっぱり外はいいわ。風の匂いが違う。
まず向かったのは四谷。足早に歩いて、あの神社に行ってみる。縁の下には三毛婆さんが寝ていた。
「こんにちは」
あたいがそう声を掛けると、片目だけ開けてこっちを見たけど、またすぐ目を閉じてしまった。長生きしてね。
そのまま猫好きなおかみさんのいる屋敷の前を通りかかると、雄のぶち猫と雌の三毛猫が一緒に歩いていた。
二匹はあたいをみると、ちょっと首を傾げ、ぱっと横に飛んで、どこかの屋敷に逃げ込んでいった。
あたいだとはわからなかったか…。でも元気そうだね、安吉、まゆ。
古寺を覗いてみたら、縁の下に黒猫が寝ていた。起こさないようにそっとあたいは境内を出る。
まだ独り身かい、六助。でもあんたはまだこれからだ。
まだ日は高かったから、千駄ヶ谷まで足を伸ばしてみる。この辺は初めてだ。
でも臭いで猫のたまり場はすぐにわかった。そっと様子を窺うと、太った虎猫が子分達の持ってきた魚の骨とかの上前をはねているところだった。相変わらずだね、銀次。
あたいはほのぼのした心持ちでゆっくり歩いて四谷追分へと戻ってきた。
ここがあたいの家、あたいの居場所。
でも本当にあたいがいたいのは...
直也様の傍。弥生姉様の傍。
そこが本当のあたいの居場所。
直也様、早く迎えに来てね。あたい、待ってます。
直也と弥生が旅をしている間、紅緒がどうしているか...ということで描いてみました。
基本的に紅緒は詰めが甘いです。それは多分性格なので、生まれ変わっても治りません。
桜のころ、紅緒が落ち着かなくなったのは猫にさかりがつく頃だからです。本人は気が付いていません。というか猫又になった時点で普通の猫とは違ってしまっているのですが。
三味線は15ー6世紀に成立した和楽器です。胴は花梨やケヤキ、桑、紫檀などで作り、猫の皮を張りますが、近年は安いものは犬の皮を使うそうです。また雌猫の皮は交尾の際に爪で引っ掻かれる為、雄猫の方がいいらしいですね。




