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巻の七     漆器の店

しかし毎回毎回タイトルが酷いですよね…センス無くて済みません

巻の七   漆器の店


 春から夏へと装いを変えつつある山々を縫う道を抜けてきた直也と弥生の二人連れ。

 町へと続く街道、道脇の緑は濃く、夏が近いことを思わせた。

「もうじき喜多方の町じゃな」

「今度は宿に泊まるか?まだ路銀はそこそこあるから」

「そうじゃな、汗も流したいしのう…おや?」

 気が付けば、道端にうずくまる女が一人。身体をくの字に折り曲げ、脂汗を流している。服装からして、商家のお内儀のようだ。

「もし、どうされました?」

 直也が声をかける。

「は、はい、持病のしゃくが…」

 そう言ってまた苦しみ出す。直也が弥生の顔を見た。弥生は応急処置に留まらず、医術にも通じている。

 やれやれといった顔で弥生は女に近づくと、まず腹部をさすり、痛む場所を確認する。大体の見当を付けると、続いて脚を伸ばさせ、膝の下の経穴を押さえた。

 最後に背中側に回り、帯の下方の経穴を押さえる。

「どうじゃ?少しは楽になったであろう?」

 女は身体を起こすと、驚いた様に、

「…はい、楽になりました。…何と御礼を申したらいいやら」

「何、お互い様じゃ、気にせんでくれ」

 しかし女は、御礼をしたいので二人に是非家へ来てくれと言った。懇願するので二人はそれを受けることにした。

 

 女は加代と名乗った。喜多方の町にある漆器問屋、「井筒屋」のお内儀だそうだ。ご亭主は他界しており、息子と娘が一人ずついる。

 息子は市之助と言い二十歳、店を継ぐため懸命に仕事を覚えている最中だそうだ。娘は久美、よわい十五、そろそろ婿を探したい年頃。

 そんな話を道々語ってくれた。

 招いてもらった関係上、自分たちのことも紹介しなければならないので、

「この者は直也、さる旧家の跡取りでな、儂は後見人の弥生と申す。見聞を広めるために諸国を旅しておるところじゃ」

「そうでしたか、弥生様は医術の心得もおありになるんですか?先程の治療はとてもよく効きました」

「何、旅する以上、真似事を少々、な。それより、あれはあくまでも応急処置じゃから、帰ったらかかりつけの医者に看てもらう事じゃな」

「はい、そういたします。ところで差し支えなければお泊まりいただいて、先程の応急処置のやり方などお教え頂きたいのですが」

「いっこうに構わぬ。こちらも宿を探しているところじゃったから、お言葉に甘えさせて頂こう」

 こういう時は弥生の方が弁が立つし、何と言っても経験豊富だ。直也は話しっぱなしの二人の後を黙々と付いていった。

 やがて林が遠のき、畑中の道となる。大きな橋を渡ると町中に入り、少し往くと広い通りに面した店の前に着いた。

 間口の広い、いわゆる「大店おおだな」だ。

「こちらです、どうぞお入り下さい」

 中に入ると、番頭や手代が駆け寄ってきて遅い帰りなので心配した旨を述べる。お内儀の加代は、持病のしゃくで苦しんでいた時、

弥生と直也に助けてもらった、と告げた。それで二人は店中の者から歓迎されることになった。

「お内儀さんをお助け下さったそうで、ありがとうございます。私は番頭の茂平と申します」

「女中のおみねです、どうぞ、おすすぎをお持ちしました」

「手代の半次です、こちらのお部屋へどうぞ」

「小僧頭の松吉です、お茶をお持ちしました」

「女中のおよしです、お茶菓子いかがですか」

 名前を覚える間もなく、次から次へと奉公人が挨拶をかねて入れ替わり立ち替わり顔を出す。直也は圧倒されて言葉もない。

 弥生はと言えば気圧された風もなく、泰然としていた。


 奉公人の歓待が一通り終わったところで、加代が番頭に尋ねる。

「ところで、市之助と久美は?」

「若旦那は問屋仲間の寄り合いでお出かけになりました。お嬢様はお琴のお稽古に行かれて、もうお帰りになる頃です」

「そうですか、それでは弥生様、直也様、今日の所はゆっくりとお休み下さい。まずはお風呂へどうぞ」

 ここは敷地内に風呂があるらしい。江戸では火事防止のため、商家や普通の家では風呂は持てないのだが、地方ということもあるのだろうが、使用人の多い大店ともなると大した物だ。

 直也と弥生は交代でゆっくりと湯に浸かり、久々に旅の垢を流すことが出来た。

 夕食も豪華な物だった。海の幸山の幸が並び、直也はもちろん、弥生も満足した。何と言っても弥生は御飯を四杯、味噌汁を三杯お代わりし、給仕してくれたおよしの目を丸くさせていたが。

 風呂と夕食が済み、部屋で二人きりになると、直也が弥生に尋ねた。

「弥生、今回はいやに愛想がいいじゃないか、何か理由があるのか?」

「ふむ、この家に年頃の娘がおるというからじゃ」

「…もしかして、それって…」

「そうじゃ。お主の嫁候補じゃよ」

 やっぱり。直也はため息をついた。そこへ、部屋の外から声がかかった。

「お客様、よろしいでしょうか」

「どうぞ」

 失礼します、と言ってお内儀が障子戸をあけた。娘が一緒に来ており、これが久美です、と紹介した。

 目鼻立ちの整った、母親似の愛らしい娘だ。

「今日は母をお助け下さってありがとうございました。大したおもてなしも出来ませんが、何日でも御逗留下さい」

「それで弥生様、もしよろしければ、この久美にしゃくの直し方などお教え頂けますでしょうか、もちろん今日はもうお休みになって頂いて、明日からで結構ですから」

 今日は紹介しただけ、ということらしい。

「わかり申した。…久美殿、少しお話、よろしいか?」

「はい」

 それでは、私は店がありますから、と言ってお内儀は戻っていった。部屋には久美と弥生、そして直也。弥生が尋ねる。

「久美殿、母御の病について、どの程度存じておられる?」

「若い頃から、と聞いております」

 そして久美は、加代の病状について、知っている限りの事を語った。弥生は満足そうに、

「ふむ、久美殿は親思いじゃな、それだけ母御の事を知っておられれば、儂も教え甲斐があろうというもの」

 久美はちょっと頬を染めた。そんな仕草が愛らしい。あとは世間話を少しして、久美は戻っていった。

「なかなか良い娘じゃ」

「……」

「どうした、何か気に入らんのか?」

「なあ、なんで弥生はそんなに熱心に俺の嫁を探すんだ?」

「言ったじゃろう、お主は嫁を取って一人前じゃ、一人前にならねば家へ帰れぬのじゃ」

「俺はまだそんな気は無いんだけどな…」

「まあそう言わず、あの娘と何日か顔を合わせておってみい。それでも好きになれぬのなら、儂も無理強いはせんから」

「そうか?」

 そして二間続きの部屋に別々に敷かれた布団、それもふかふかの五布いつの仕立ての布団にそれぞれ横になり、寝ることにした。

 筈だった。

 店の方が騒がしくなり、二人は起き出し簡単に身支度を調えると、耳を澄ました。

 

「市之助!大丈夫かい? しっかりおし!!」

「兄さま!兄さま!」

「若旦那!今医者を呼びにやりましたから、気をしっかり持って下さい」

 何やら、若旦那の市之助が大怪我をした様である。二人は店へ駆けつけた。

「あ、弥生様、直也様」

「お内儀、息子殿が怪我をなさったのか」

「はい、寄り合いの帰り、辻斬りに遭ったらしく…」

 見ると、右肩から右腕にかけて刀傷が走っており、血があふれている。

「いかん、血止めをせねば。さらしをよこせ」

 弥生はさらしを受け取ると、右肩に巻き付け、市之助がうめくのにもかまわず縛り上げた。出血が少し収まる。

 更に傷口にさらしをあて、その上から別のさらしでぐるぐる巻きに縛り上げる。更に市之助が痛がり、悲鳴を上げる。

「男ならこのくらいでわめくで無い。傷口はこれでよい。圧迫止血という方法じゃ。次は水じゃ。白湯を沢山飲ませるのじゃ」

 そう指示し、湯飲みに白湯を持ってこさせる。それを市之助に飲ませた。

 それが済むと、市之助を右腕を上にしてそっと寝かせておく様に指示し、

「あとは医者にまかせよう」

 そう言って部屋に戻った。

 直也はそんな弥生の手際の良さを黙って見つめるだけであった。

「しかし、驚いたな」

「何がじゃ?」

「弥生があれほど医術に通じているなんてなあ」

「ふん、あれは医術などと言えるものではない。あくまでも応急手当じゃ。旅をする者として、知っていた方がよい知識じゃ。直也、お主も見ていたから一通り覚えたであろう?」

「ああ、一応な。なあ弥生、いつあんなことを覚えたんだ?」

「…昔、な」

 それきり弥生は布団にもぐり、答えなくなってしまった。何か弥生の辛い過去があるのかも知れない、そう思った直也はそれ以上聞かず、自分の床に戻った。

 やがて医者が来たらしく、店の方はまだ少しざわついていたが、やがて静かになり、直也も眠りに落ちた。

 

 翌朝。

 顔を洗い、部屋に戻ると、女中のおみねが朝食を運んできた。

 あれからどうなったか気になったので直也が尋ねると、食事が済んだらお内儀が挨拶に来るというのでそれ以上聞くのは止めておいた。

 弥生は黙々と食べていた。朝から四杯目である。昨夜の食べっぷりを知らないおみねが目を見張っていた。直也はただ苦笑するだけである。

 そして食後。

 加代が久美を伴ってやって来た。

「弥生様、私のみならず、市之助まで助けて頂きまして、何と御礼を言ってよいやら。お医者様が、実に適切な手当だったと驚いてらっしゃいました」

「市之助殿の御容態は?」

「はい、傷口を縫いまして出血も収まり、命には別状無いそうでございます」

「それは良かった。ところで、犯人は捕まったのかな?」

「それが、市之助を斬った後、逃げていったそうです。市之助も相手の顔は覆面で見えなかったため、犯人の目星も付いていない様でございます」

「そうか…」

 その話はそこまでとし、久美に癪の応急処置法を講義することになった。

「それでは直也、そこに横になってくれ」

「え?俺が?」

 そうじゃ、と弥生。続けて実際に人の身体で教えた方がわかりやすいからじゃ、と言った。

 しぶしぶ直也は横になる。その直也の着物の裾を捲る弥生。

「お、おい、弥生」

「じっとしとれ」

 弥生は直也の着物を捲り、膝から下を出した。

「ここが足三里の経穴じゃ。ここを刺激することで、胃の腑の緊張を和らげることが出来る。加代どのの癪は胃の腑が痙攣して起きるようじゃから、まずはここを覚えておくべきじゃ」

 少々恥じらいながらも、弥生に倣って経穴を探っていく久美。当の直也はくすぐったいやら照れくさいやらで落ち着かないが弥生に睨まれ、諦める。

 経穴の講義はその後、背中側まで行い、この日は終わりとなった。

「ありがとうございます、弥生様」

「うむ、足の経穴は自分の足でも練習しておく事じゃ。背中は、母者が休んでいる時などに刺激してあげるがよい」

 久美は二人に深々と礼をして、部屋を出て行った。

 入れ替わりに女中のおみねが茶を持ってやって来たので、二人は縁側に出てお茶をいただくことにした。

 さすが大店だけあって、中庭は手が込んだ作りになっている。小さな池を中心に、椿、山茶花さざんか木犀もくせいなどの常緑樹と楓、梅、紫陽花、木槿むくげなどが配され、見ていて飽きない。

「たまにはこういうのもいいもんだな」

 直也がしみじみと呟く。

「家に帰ればこんなものではない、本当の山川がお主の物じゃぞ」

 弥生が暗に、嫁を決めろと言っているのがわかり、直也は落ち着かなくなり、

「ちょっと漆器とか見せてもらってくるよ」

 そう言い残してその場を離れた。

「ふふ…」

 忍び笑いをする弥生の耳に、足音が聞こえた。

「弥生さん、ですね」

 呼ぶ声に振り向くと、この店の跡取り、市之助が立っていた。右腕はさらしで吊られている。

「昨夜は手当をして下さってありがとうございました。隣、よろしいでしょうか」

 市之助はそう断ると、弥生の横に腰を下ろした。

「昨夜はご挨拶はおろか手当のお礼も出来ませんで、大変失礼致しました」

 そう言って頭を下げる。弥生はそんな市之助を観察してみる。

 あまり外で遊ばないのか、やや痩せ気味で色は白い。顔は久美同様、母親似の様だ。生真面目そうで、大店の跡取りらしく、話し方はおっとりしている。

「もう動いてもよいのかな?」

「ええ、幸い傷は深くなかったので。弥生さん、昨夜はお見苦しいところをお見せしました」

「何、気にすることはない。怪我人を叱咤するのも応急処置の一つじゃからな」

「弥生さんは不思議な方ですね。あれほどの手当ができるなんて、ただの人とも思われません」

 一度話し始めると、市之助の口は止まらなくなった。弥生はその都度適当に相槌を打っていたが、

「旅をされてらっしゃるそうですが、今までどのような土地を訪れられましたか」

「訛りがないところを見ると、お生まれは東国ですか?」

 更に「ご両親は?」「失礼ですがお年は?」などと聞いてくるので、いいかげん辟易した弥生は、

「失礼」

 と断って、直也を捜しに立ち上がったのである。

 

 当の直也は、店の奥で久美に漆器を見せてもらっているところだった。椀物が多く、黒や朱の地に、金粉であしらった紋様が美しい。

 そこへやってきた弥生は、

「ほう、会津塗りというのがこれか」

「あ、弥生様、会津塗りをご存じでしたか」

 いや、と弥生はことわって、話に聞いてはいるが実物を見るのは初めてだ、と言うと、

「ちょうど今まで、直也様に漆器の出来るまでをご説明していた所なんです。それでは弥生様もご一緒に、うちの店の品揃えを御覧になって下さい」

 そう言って、先立って店の方へ案内していく。店にはちょうど加代もいた。

「おっ母さん、弥生様と直也様に漆器をお見せしたいのですけど」

「おお、久美、それはいいことですね。番頭さん、それとあれと、あれもお持ちして」

 たちまち二人の目の前に、漆器が山と積まれた。

「この三つ組みの屠蘇器とそきが店自慢の品ですの、消しけしふんという細かい金粉で描いた紋様が特徴です」

 さすがにお内儀は説明も上手い。

「会津塗りの本場はやはり会津若松ですが、この喜多方でも作っておりますの。この井筒屋は藩御用達の店でして、今回、お殿様への献上品を承っているんです」

「それは名誉なことですね」

 と直也。

「昨夜の寄り合いもその件なのかな?」

 弥生が尋ねると、お内儀は少し言い淀んだものの、

「ええ…」

 もう一軒、藩御用達の漆器問屋、尾張屋というのがあって、今回はどちらが優れた椀を納めるかを競い、勝った方の椀は更に将軍家へ献じられることになったと説明した。

 店の名誉と共に、売り上げにも繋がるので、出来るだけ良いものを揃えようと、皆手を尽くしているということであった。

 漆を塗る塗師ぬしも店に一番腕のいい職人を招いているという。

 お内儀である加代も、良い漆を手に入れようと、漆掻きを回ってきた帰り、癪が起こって、そこを弥生達に助けられたということだった。

「我々にも何か出来ればなあ」

 直也が呟くと、加代が、

「いえ、直也様、弥生様にはもう十分お助け頂いてます。これ以上ご迷惑おかけできませんわ」

「いいえ、大したことではないのですが、ちょっと思いついたことがあるのです、紙と筆をお借りできませんか?」

 すぐに手代の半次が言われたものを持ってきた。

「例えば、椀の紋様なんですが、こういうのはどうでしょう?」

 直也は紙にさらさらと思いついた紋様を描いていく。

「あの金粉で描かれた紋様は会津若松に因んで松でしたよね、でしたらこういう形も有りかと思いますが」

 直也の描いた下絵は、今までの伝統を踏襲しつつ、新しさを感じさせる物で、その場にいた者皆感心するほど、それは見事なものであった。

「さっそく、塗師ぬしに相談してみましょう」

 加代はそう言って、直也の描いた下絵を押し頂いてその場を離れた。

「直也様は絵心がおありなんですのね」

 久美が尊敬を込めて言う。

「本当じゃな、小さい頃から絵を描くのが好きだったのは知っておったが、こんな所で役立つとはな」

「あまりおだてるなよ、素人の思いつきだよ」

「いいえ、こういうことは頭の硬い人では出来ません。直也様は形に囚われることなく、会津塗りの心を表現されました」

「ほ、褒めすぎだよ」

 照れた直也はその場を離れて縁側に逃げ出した。

 

*   *   *

 

 今日は市之助、久美と一緒に弥生と直也は山へ来た。初夏の山は緑に溢れ、草木が生い茂り、生気に満ち溢れている。

「いい天気ですね」

「少し休憩しますか」

 久美に薬草の知識を伝授するのが主な目的だが、襲われて以来、ふさぎがちな市之助の気晴らしも兼ねていた。

 市之助は怪我をして以来、外出を極度に嫌ったが、弥生達と出かけるとなったら二つ返事で付いてきた。

「この辺には珍しい薬草があるのう」

 弥生が久美に説明し始める。

「これは当帰とうきと言って、婦人病全般に効くのじゃ。血行障害や強壮にも効果がある」

「こちらの車前草おおばこはどこにでもある草じゃが、健胃に効果がある」

「この数珠玉じゅずだまの実を砕いて煎じると胃の腑の潰瘍に効果がある」

 久美は懸命に覚えようとしている。そんな二人を市之助は黙って見ていた。直也は矢立を出し、久美の参考にと簡単に薬草の絵を書き付けていく。

 やがて弥生も一通り教え終わり、四人は持ってきた弁当を食べることにした。

 景色の良い場所を選んで、毛氈を敷き、弁当の包みを開ける。

 弁当と言うが重箱に入れた豪華な物で、食べでもある。健啖家の弥生のために用意されたことは明らかである。

 知ってか知らずか、弥生は黙々と食べ続けている。市之助はそんな弥生をじっと見ていたが、直也に向き直って、

「直也さん、あの…」

 と言いかけた時。

 獣の唸り声がした。それも一匹や二匹ではなさそうだ。弥生は素早く立ち上がると、辺りを見回す。さすがに久美や市之助の前で狐耳を出すわけにはいかない。

 直也も身構える。市之助は久美をかばう様にして立つ。

 四人の前に唸り声の主が現れた。野犬である。十頭はいそうだ。弁当の匂いに引き寄せられたらしい。

 弥生は、

「直也、儂がこいつらを引きつける。お主は二人を連れ、急ぎ山を下りよ」

「わかった」

 短く答え、市之助と久美を促し、逃げる準備をする。

 弥生がいきなり走り出した。野犬達は本能的に、逃げた弥生を追って走り出す。

「弥生様!」「弥生さん!」

 久美と市之助が驚いて叫ぶが、直也は二人を麓へ向けて引っ張っていく。

「直也さん、弥生さんが心配じゃないんですか?」

「心配じゃないと言ったら嘘になるけれど、弥生なら大丈夫、そう信じてもいます。今は弥生の意志を無駄にしない事です」

 そう言って走り出す。市之助と久美は心配そうにそれに続いた。

 

 弥生は走っていた。直也達の姿が見えなくなるとすぐ狐の耳と尻尾を生やす。野犬たちは狐の臭いに一層引き付けられる。

「そうじゃ、追って来い」

 藪をくぐり、茂みを飛び越して弥生は走る。着物の裾が乱れ、白い脚がのぞくが意に関せず走り続ける。

 野犬たちは牙を剥きだし、荒い息を吐きながら弥生を追い続けていた。捕まればたちまちのうちに咬み裂かれるだろう。

 犬の嗅覚は鋭い。弥生が跳躍しても数間先の臭いを感じ取って追い続ける。臭いを途切れさせるには水に入るのが一番良いのだが、この尾根筋には沢はなかった。そして野犬たちは弥生を上へ上へと追い込んでいるのである。

 更に野犬の数が増えた。今や二十を越える数の野犬が弥生を追っている。

 さすがに疲れてきたのか、弥生の速度が少し鈍った。野犬どもは勢いづいて迫っていく。後を気にしながら弥生は走り続ける。野犬どもはひとかたまりになって弥生を追い詰める。

 ついに弥生が立ち止まった。野犬どもは一斉に飛びかかる。野犬の牙が弥生に届く、その刹那。

 弥生が消えた。

 野犬どもは止まれず、そのままの勢いで突っ込んだ。突っ込んだ先は崖であった。追って来た野犬は残らず崖下に消えた。

 弥生は、五間(約9m)以上ある対岸まで跳躍していたのだ。

「お前たちに恨みはないが…」

 そう呟くと、直也達の後を追うべく、元来た道を駆け戻っていった。

「弥生様、良く無事で…」

 追いついた弥生を、久美は涙目で迎えた。

「弥生さん、お怪我はありませんか?」

 市之助もほっとしている。

「……」

「直也、お主は無事を喜んでくれぬのか?」

 無言の直也に弥生が尋ねる。直也は微笑み、

「弥生ならきっと大丈夫だと信じてるからな」

 それを聞いた弥生も微笑み、

「ふ、そうじゃな」

 それからは何事もなく、三人は無事井筒屋に戻った。

 

*  *  *

 

「……」

「何を考え込んでおるのじゃ?」

 夕食の後、何やら考え込んでいる直也に、弥生が声をかけた。

「うん、ちょっと気にかかることがあって」

「何が気にかかると?」

「昼間の野犬なんだが、本当に野犬だったんだろうか?」

「何が言いたい?」

「野犬にしては毛並みが綺麗だったと思わないか?」

 弥生は思い返してみた。確かに。後から加わった野犬は別にすると、最初四人を襲おうとした犬は、毛並みが整っていた。まるで飼い犬の様に。

「あの最中、良く観察しておったな。確かに、野犬ではなかったようじゃ」

「だとすると、犬を我々にけしかけた理由は何か? ということを考えていたんだ」

 直也曰く、自分や弥生は、このあたりの人間に犬をけしかけられる様な恨みを買った覚えはない。そもそも面識がないのだから。

 すると久美か市之助を狙ったものということになる。どちらを狙ったのか?それは何の為か?

「…多分、狙われているのは市之助さんだよ」

 直也が自分の推理を述べる。

「辻斬りだって、あんな程度の傷で済ませたのはおかしいと思ったんだ。助けが入ったわけでもないのにな。脅し、と考えるのが妥当なところだろう。そして今日の犬の一件にしても、多分近くにけしかけた奴がいたに違いない」

 なるほど、と弥生が頷く。

「そう考えてもおかしくなさそうじゃな。直也、大したものではないか。そんじょそこらの目明かしより冴えておるぞ」

「…あとは黒幕だ。理由を探してみると、例の献上品の漆器がくさい」

 将軍様への献上品がらみという事である。それならばもう一軒の藩御用達漆器問屋、尾張屋が黒幕と言う事になる。

 市之助に脅しをかけて、椀比べに負けさせよう、あるいは棄権させようとしているのではないのか。今のところ、市之助は脅しに屈した様には見えないから、まだ何か仕掛けてくる可能性が高い。

 直也は自分の考えを述べる。

「椀比べは間近に迫っている。これからはもっと強引な手を使ってくることが考えられるな。市之助さんが椀比べ当日まで家から出なければ何をしてくるかだ」

「強引な手か、いろいろありすぎて困るのう。家族を狙う、店の者を狙う、出品する椀を狙う」

「表だった事はしないと思う。少なくとも人目のあるところでは。あまりにも露骨すぎて、だれでも事件と椀比べを結びつけられるからな」

「とすると? 直也の考えを言うて見い」

「多分、この店を襲ってくる」

 店にはお抱えの塗師ぬし、(漆器職人)がいて、椀の最終仕上げにかかっている。尾張屋がやらせたとわからないように妨害する手はいくつか考えられる。その中で最も可能性の高いのが…直也は言う。

「付け火だ」

「付け火か」

 鸚鵡返しに弥生が呟く。付け火、放火。夜中にこっそり火を付けられれば、椀どころか井筒屋が無くなる。もし消し止められたとしても、不審火を出したと言うことで、藩御用達の看板は下ろさなければならないだろう。悪くすれば店が取り潰しになることだってあり得る。

「確かに、一番ありそうじゃな」

 今度は弥生が何か考え込む番だった。

「椀比べまであと二日。襲ってくるなら今夜か、明日の晩じゃろうな。付け火以外の可能性も考えられるから、出来るだけの事はしておくに限るな」

「何をする気だ?」

「何、結界を張っておくだけじゃ。不審者が近付けない様にな」

 そう言って、弥生は部屋を出て行った。

 一人残った直也は、

「そういえば、市之助さん、昼間は何を言いかけたんだろう…」

 と別のことを考えていた。


 その夜は何事もなく過ぎた。

 翌朝、朝食の後の事。

 弥生は久美に薬草の煎じ方や保存のしかたを教えている間、直也は暇なので縁側に座り、庭を見るとも無しに眺めていた。そこへ市之助がお茶を持ってやって来た。

「直也さん、ちょっとよろしいですか?」

「あ、ああ、どうぞ」

 それでは、と言って市之助は直也の隣に座り、湯飲みを手渡した。しばらく二人は無言で茶をすする。

(何なんだ…)

 沈黙に耐えかねて直也が口を開こうとした時。

「直也さん、伺いたいことがあります」

 市之助が先に口を開いた。

「…弥生さん…なんですが、国元に許嫁とかいらっしゃるのしょうか?それとも既にご亭主がいるとか?」

「へ?」

 予期していなかった質問に直也は間抜けな返事を返してしまった。

「いや、そういうのは…いませんが」

「そうですか」

 市之助はそう言ってまた黙り込み、再び沈黙の時が流れた。

「あれ、兄さん、何やってるの」

 弥生の講義が終わった久美がやって来た。

「直也、ここにいたのか、ちょっとこちらへ来て見い」

 弥生が直也を呼ぶ。これ幸いと、直也は市之助の隣を離れた。

 

 弥生に連れられやって来たのは店の裏手。弥生の指差すところを見ると、無数の足跡があった。

「直也の読み通りじゃな。昨夜やって来たものと見える。儂が結界を張っておいたから何も出来なかったのじゃ」

 弥生に化かされて同じ所をぐるぐる回っていた奴らの顔が見える様だ。

「じゃあ、今夜もう一度結界を…」

「いや、同じ手を二度使うと、効果が薄れて、引っかからない手合いが出てくるものなのじゃ。今宵は儂が番をしてやろう」

「おもしろがっていないか?」

「そ、そんなことはないぞ」

 どうだか。弥生も狐。そして狐は他人を化かして楽しむのが好きなのだ。

 

 その夜。草木も眠る丑三つ時、井筒屋に近づく人影が二つ。

「畜生、昨夜は何だか狐につままれたようになって何が何だかわからねぇうちに夜が明けちまったが、今夜こそ」

 井筒屋の裏手、用水桶から最も遠い辺りを選んだ。そこに一人が油を撒き、もう一人が火を付ける。たちまちのうちに火が燃え上がり…

…炎が一つにまとまって浮き上がった。

「あ?」

それをぽかんと見つめる二人。炎はふわふわと空中を漂い、二人の周りを回り出す。

「な、何だ?」

「あ、兄貴ぃ」

「わっ、わっ、何だこれ」

「ひいっ」

「「たすけてくれえええーーーー」」

 這々(ほうほう)のていで逃げ出す二人。その後を炎が追いかける。二人の尻が焦げる。

「あっ、あちっ」

「くっ、くるなぁあああ」

 たまらず二人は堀の中へ飛び込んだ。追いかけた炎も飛び込み、炎は消えた。

「もう終わりか。つまらん」

 屋根の上で一部始終を見ていた弥生が呟いた。

 

「と、いうわけで撃退してやった。もう少し骨のある奴らかと思ったのじゃが、何じゃ、からかい甲斐のない」

 普通の人間にそれは酷というものだろう、聞いていた直也はほんのちょっとだけ同情を覚えた。

「とにかく、これでもう妨害は無かろうな」

「ああ、弥生、ごくろうさん」

「なに、直也の嫁御になるやも知れぬのじゃ。こんなこと何でもない」

「またそれかよ」

 

 そして椀比べの当日。市之助と加代が椀を持って奉行所へと出かけていった。残った久美は落ち着かない様子で、そわそわしている。

「久美さん、大丈夫、さっきちょっと見せてもらったけれど、素晴らしい出来だったから、きっと献上品に選ばれるよ」

「そうだといいんですが…」

「そうだとも、だから落ち着いて」

「はい…」

 弥生はそんな二人の様子をにこにこしながら見つめていた。

 

 午後。二人が戻ってきた。結果がどうだったかは、聞くまでもないくらい、態度に表れていた。

「久美、やったよ、うちの店が選ばれた!」

「おめでとう、母さま」

「よかったな」

「お内儀さん、若旦那、おめでとうございます」

「おめでとうございます!」

「これで井筒屋はますます栄えますな!」

「直也さん、貴方の助言のおかげでした」

「だったら嬉しいですね」

 奉公人も加わって、店の中はひとしきり喜びに包まれた。

 

 その日は献上品に選ばれた祝いと言うことで商品を半額で売る旨を掲げたところ、客がいつもの倍以上押し寄せ、終日忙しかった。

 夜にはお内儀加代、市之助、久美に直也、弥生が加わってささやかな宴が催された。鯛の尾頭付きを初めとする膳が並び、御馳走ずくめであった。

 そんな宴の後、加代があらたまって切り出した。

「実は、お願いがあるのですが...」

 きた、と弥生が身構える。久美を直也の嫁に貰えたら、と秘かに目論んでいたのだ。

「弥生様を市之助の嫁に迎えたいのですが」

「「は?」」

 弥生と直也が頓狂な声を上げる。一瞬、聞き間違えかと思った。

「市之助が直也様にお聞きしたところ、弥生様にはまだ決まった方がいらっしゃらないとのこと。でしたら是非、当家にお迎えしたいのです」

「……」

 絶句する弥生。まさか自分が目当てだったとは思わなかったらしい。

「いや、儂は直也の後見人じゃから」

「重々承知しております。直也様には申し訳ないことでございますが、当家からも出来るだけのことはさせて頂きますので」

「いや、そういうことではなくてじゃな」

「市之助がお気に召しませんか? まだ少々頼りないかも知れませんが、こう申したら何ですが、親の欲目でなしに、出来た息子だと思います。きっと弥生様を幸せに出来ると思います。私も隠居いたします。お若いお二人の邪魔は致しません」

 それを聞いた弥生はしばらく俯いていたが、やがて顔を上げると、口を開いた。

「…お申し出は有難いのじゃがな」

「はい?」

「儂は貴家に嫁ぐことは出来ぬ」

「それはまた、何故ですか?」

「これを見よ」

「お、おい、弥生…ちょっと…」

直也の制止も聞かず、いきなり狐の耳と尻尾を生やす弥生。

「…」

「……」

「………」

「きゃああああっっ!」

久美の口から悲鳴が上がった。加代は市之助に縋り、震えている。市之助も蒼い顔をし、言葉が出ない様だ。

「そういうわけじゃ。儂は人間ではないのでな」

 弥生が少しだけ寂しそうに、呟く様に言う。

「長々世話になった。加代殿、身体を労りなさい。久美殿、母御を大切に。市之助殿、息災でな。…直也、行くぞ」

 直也にそう声をかけ、席を立つ。直也は三人に一礼した後、無言でそれに続く。三人は最早声も無く、二人の後ろ姿を見送るだけであった。

 

「すまぬ、直也」

 夜道を辿りながら弥生が謝る。

「何で弥生が謝るんだ?」

「またお主の嫁を見つけ損なった」

「なんだそんなことか。久美さんはな、妙斎っていうかかりつけの医者が好きなんだそうだ」

 なぜそんなことを知っている、と問い返す弥生に、

「久美さんから聞いた」

「儂に黙っていたのか」

「なんとなく弥生に話しづらくてさ」

「儂が莫迦みたいではないか」

「そんなことないさ、弥生の心遣いはすごく嬉しいよ。…ただ…」

「ただ?」

「…そういうのって、まだ良くわからないんだよなぁ…」

「ふふ、そうか、儂も焦りすぎていたのかもな」

「ぼちぼち行こうぜ、俺もまだまだ未熟だからさ」

「そうじゃな…」

 二人の影はゆっくりと夜の闇に溶けていった。

作中のツボや薬草については一応資料を確認して描いてありますので、大きな間違いは無いはずなのですが、お気づきの点がありましたら是非ご指摘下さい。

 手当について補足しますと、切り傷などで細胞が破壊されると、内部にあったカリウムが流れ出し(細胞内にはカリウム、細胞外にはナトリウムが多い)、高カリウム血症を引き起こすので、当時としては、水を飲んで濃度を薄めたわけです。また脱水症状を起こさないためにも水分の補給が欠かせません。

(ただ市之助の怪我はそこまで酷いものではなかったでしょう)

 喜多方は会津若松と並んで会津塗りの産地だそうです。どちらかというと素朴な味を出しているそうです。

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