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巻の六十七   芝居の一座(前)

巻の六十七   芝居の一座(前)


 直也と弥生、それに千草を加えた三人は更に北を目指している。

 千草の足の事を考えて一日に歩くのは五里以内に収めていた。すると宿場にして一つか二つということになる。のんびり旅である。自然、宿に泊まる回数も増えるが、それは大丈夫。何故なら路銀には不自由しないからだ。それは千草の持っている財布にある。

「一文でもお金が残っていれば、次に開いた時には一杯になっているんですよ」

 と千草がいう。マヨヒガの物はそういう御利益があるそうだ。

「マヨヒガから流れてきたお椀で米を量っていたらいつまでたっても減らなかった、とかの言い伝えもあるそうじゃからな」

 弥生が言い伝えを口にすれば直也は不思議そうに、

「しかしその米や金はどこから来ているんだろう?」

「直也、あまり気にするでない。不可思議の器物を理詰めでわかろうとしても無駄じゃ」

 弥生はそう言って直也をなだめた。

「直也様もこういう財布がお入り用ですか?」

 千草が笑って尋ねる。それに対して直也は、

「いや、いらない。俺は金銭感覚が無いそうだから、そういう身に付かない金を持っていると良くないことになりそうだ」

 それを受けて千草は、

「弥生様はその点しっかりしてらっしゃいますわ、この旅が終わったら弥生様に進呈しましょうか」

「それならいいかもな」

 そんな話をしながら歩いていく。道はちょうど山道に差し掛かったところである。

 千草のことを考え、無駄話は止めて歩くことに専念する。

 それでも千草は遅れがちになるので、見かねた直也が手を差し出すと、千草は素直にその手を取った。

 直也はそのまま千草の手を引いて山道を登って行く。それを見つめる弥生はといえばなんとも複雑な気持ちであった。

(やはり儂は直也のことを…いや、いかん、今はそんな事を考えている時ではない)

 弥生はどこまでも直也第一である。その弥生が心配していたのは宿のこと。

 みちのくは、町と町の間が離れている場合がある。

 今歩いているのは沼宮内ぬまくない宿と一戸いちのへ宿の間、実はこの間は十里ほどあるのだ。しかも山越えである。

 千草と一緒ではまず無理な道のり、どこでもいいから見かけた家か寺に泊めて貰うつもりである。

 直也に出来るだけ不自由はさせたくないと、弥生はその目を見張って泊めて貰えそうな人家がないか探しながら歩いていた。


「おやあ?」

 直也が頓狂な声を上げた。

 峠近く、道の真ん中に人が倒れていたのだ。左右に気を配っていた弥生の方が見つけるのが遅れたのは皮肉である。

 一応生きているようであった。妖怪の類でも無さそうだ。その人間は、大の字になって道の真ん中に仰向けに横たわっていた。男である。服装もみすぼらしい、というよりぼろぼろである。

「もし、どうかしたんですか?」

 直也が覗き込みながら尋ねる。すると男は目を開け、

「腹が減って動けない…」

 と答えた。直也は笑って、

「握り飯ならあるよ」

 そう言うと男は上体を起こして、

「よかったら食べさせてくれ」

 そう言った。まさか嫌とも言えないので、直也は荷物の中から握り飯を出して差し出すと、男はそれをありがたそうに押しいただき、瞬く間に三個を平らげてしまった。竹筒の水を差し出すとそれも全部飲んでしまう。そして男は、

「ああ、これでやっと人心地が付いた、ありがとう、恩に着る。俺は水無月博信みなづきひろのぶ

 男はそう名乗った。年格好は直也と同じくらい、汚れてはいるが整った顔立ち。

 この辺の出身ではないのだろう、その証拠に僅かな上方訛りがある。

「俺は上田直也、こっちは従妹の千草と許嫁の弥生」

 直也も自己紹介した。

 男、水無月博信みなづきひろのぶの話によると、五日前に山賊に襲われて身ぐるみ剥がされてしまったそうである。

 なんとか沼宮内宿を発ったものの、空腹のため峠を越えることが出来ず、誰かが通りかかるのを待っていたという。

「しかし何も道の真ん中に大の字になっていなくても…」

 直也が半ば呆れてそう言うと博信は、

「道脇で待っていて、誰かが通りかかった時に空腹で気を失っていたらまずいだろう? だから道の真ん中にいたのさ」

 と理にかなったようなそうでないような事を言った。

「さて、助けてくれたついでに、しばらく一緒にいさせてくれないか」

 路銀も何もないので、工面出来るまで、という。当てはあるのかと尋ねたら無いというので弥生も千草も呆れたが、

「いいですよ」

 と直也は即答した。まあ悪い人間では無さそうだし、金には困っていないので、弥生も千草もそれに異を唱えることはしなかった。

「ありがたい、よろしく頼む」

 そう言って、ふらふら歩き出した。見かねた直也が肩を貸そうと言うと、

「いや、大丈夫、なんとか歩ける」

 そう言ってよたよたと峠を登っていった。とはいうものの、千草の歩調とどっこいなので、一行はそのまま峠を目指す。

「直也様も物好きですわね」

「まあのう、あれが直也の良いところでもあるのじゃ」

「それにしてもあの方。臭いですわ…」

 何日風呂に入っていないのか、夏のこととて、弥生でなくても鼻をつまみたくなるような臭気である。

 だが直也は気にしないのか、平気でいろいろと話を交わしながら歩いていく。弥生はそんな直也に半ば感心、半ば呆れていた。

 

 十三本木峠と呼ばれる峠を越すと、ようやく道は下りとなったが、そろそろ夕暮れが近付いてきていた。

「まずいのう、このままでは山の中で野宿じゃぞ」

 すると博信は笑って、

「大丈夫大丈夫、なんとかなるさ」

 そう言うので弥生は、

「そんなに世の中は甘くないぞ、千草殿は野宿になれておらぬ、早くどこか雨露をしのげる場所を探さんと…」

「なんとかなるって、今まで俺はそうだったんだから」

 それに対して弥生は、

「あんな状態でのたれ死にしかけてもか?」

 そう言い返したが、

「でも君たちが通りかかったろう? 何とかなったじゃないか」

 そううそぶくのでもう何も言えなくなった弥生である。その時直也が、

「おや? あそこに灯りがある。なんだろう? 行ってみよう」

 そう指差す方を見れば、行く手に明かりが見える。それで四人は足を速めた。


 そこには、道脇の広場に天幕を張り、今しも夕餉ゆうげの仕度をしている集団があった。男が三人、女が二人。脇に置かれた荷車の荷から察するに旅役者の一行のようだ。

「こんばんは」

 直也が気さくに声を掛けると、

「おや、旅のお方ですか、あなた方も野宿ですかな」

 一座の座長らしい男がそう返事をしてきた。それで直也は、そのつもりだがと答えると、

「見れば女連れ、どうです、旅は道連れ、我々の天幕にいらっしゃっては。むさ苦しいですが、夜露はしのげます」

 そう言ってくれたので、素直に好意に甘えることにした。

 自己紹介もそこそこに、夕餉が振る舞われた。といっても簡単な雑炊ではあるが、空きっ腹にはありがたい。

 博信などは無遠慮にも三杯もおかわりをする始末。千草は眉をひそめてそれを見ていた。

 食事時は話が弾む。男役者は梅之丞と竹之丞。二人とも若い、二十台だろう。梅之丞の方が先輩らしい。

 女役者はお菊とおもと。姉妹だそうだ。お菊は十八、細面ですらりとしており、おもとは十六、丸顔でぽっちゃりしている。

 一座の座長は松之丞といい、四十そこそこ。脚本も書くそうだ。直也が少し旅の話をすると、喜んでいろいろと書き留めていた。

 直也も食事や寝場所の礼にと、旅で見たいろいろの話、自分たちが出会った不思議の話、をうまくまとめて話してやった。

 松之丞は夢中でそれらを皆書き留めていくが、夜はすぐそこまで来ている。一行は大急ぎで寝床を整えることにした。

 彼等の天幕は大きく、一座の五名と直也達四名が入ってもまだ大丈夫だ。

「実は別行動をしている座員がいましてな、八戸で興行をやっていて、この先で合流する手筈なのですよ」

 この峠から先は山らしい山は無いため、別行動の者は宿屋泊まりで、天幕はこちらの一団が使用しているのだそうだ。

 一座の女二人と弥生、千草を奥にして一座の男三人が手前、更に直也、博信が出口寄りに寝ることにした。

 皆、山道を歩いて疲れているため、じきに眠りに落ちる。直也も遠くで鳴くふくろうの声を聞いているうちに眠りに落ちた。

 そんな中、千草は弥生に、

「…あの方、夜中に何かするつもりじゃないでしょうね」

 千草に言われるまでもなく、弥生は念のため博信の行動に気を配っていたが、その夜は何事もなく過ぎていく。

 博信が直也を害するものではないらしいと見た弥生はほっとした。言い出した千草は早々と寝息を立てている。

 弥生も直也のそばに小さな結界を張り、何かあったらすぐにわかるようにし、自分も眠りに就いたのだった。


 結局何事もなく夜は明け、一行は薄明るくなるとすぐに起き、朝食の仕度を始めた。

 弥生も手伝う。直也と博信は天幕を畳むのを手伝った。さすがにお嬢様育ちの千草は見ているだけである。

 そして朝食を済ませると一座は出発した。目的地は三戸だそうだ。

 直也は世話になった礼にと、荷車を引くのを手伝っている。

 正確には、この先は下り坂なので、荷車が転がり落ちないように引っ張るのである。

 博信は一座の古着を貰い、峠からの下りで沢を見つけると、身体を洗ってそれを身に付ける。

 埃と泥にまみれてぼろぼろの着物を着ていた時に比べたら見違えるようになった。

「はは、これでようやく人間らしくなった」

 そう言って笑っている。臭いも取れ、千草も顔をしかめることは無くなった。そればかりか、綺麗になった博信の顔を見て、

「あの汚れようからは考えられないような整った顔ですわね」

 と感心することしきり。弥生は内心苦笑していた。

 坂が終われば、荷車の扱いはぐっと楽になり、話をする余裕もでてくる。それで直也は、

「そう言えば、一座の出し物って何なんですか?」

 と聞いてみた。すると座長の松之丞は胸を張って、

「演目は『玉藻前悲恋草紙たまものまえひれんぞうし』と言います」

「えっ…」

 直也も驚いたが、弥生はもっと驚いた。しかしそれを辛うじて顔に出さずに済ませると、

「そ…それはどのような芝居なのじゃな?」

 そう尋ねたのだった。そんな弥生の質問に、

「そうですね、玉藻の前はご存じですか?」

「…まあ、人並みには知っておる」

 そう答えると、

「そうですか。…玉藻の前は金毛白面九尾の狐の化身で、唐、天竺、この日の本、と三国を荒らした妖怪という…」

 それを聞いて弥生は暗い気持ちになった。が、

「…話が一般的ですが、私は違うと思っているのですよ」

 えっ、とそれを聞いた弥生は思う。

「私の書いた台本ではですね、玉藻の前は…」

 松之丞の説明は続く。

「玉藻の前は藻女みずくめと言って、彼女の父は北面の武士でしたが、とあることで勅勘を被り、お役御免になったのです。そんな彼女には千住丸という幼馴染みがありまして、好き合っていました」

 直也はもちろん、弥生はその話に吸い込まれるように聞き耳を立てている。

「しかしある日、野に出て若菜を摘んでいる所を時の関白、藤原忠通に見初められ、禁裏へ上がることになります。その際、邪魔なのは幼馴染みの千住丸、藻女の執心を絶つために、彼は無惨にも殺されます」

 弥生の胸がざわついた。

「それを知った藻女は、血の涙を流し、密かに復讐を誓い、禁裏に上がります。

 そして玉藻の前として、居並ぶ公家、関白、そして上皇までをたぶらかし、復讐を遂げようとしますが、

 陰陽師、安倍晴明に邪魔をされます。

 …実際は安倍晴明と玉藻の前とは時代が違うのですが、そこはお芝居ということで。…

 安倍晴明は玉藻の前が人間であることを承知の上で、彼女を化け物として扱い、祈り殺そうとします。

 彼女は恨みを抱いて死んでゆき、その怨念が石となる…

 …とまあ、こんなあらすじなんですがね」

 弥生は返事が出来なかった。松之丞は続けて、

「玉藻の前や九尾狐が悪者として描かれてばかりなのがつまらなくて、こういう話にしてみました。いまは将軍様が世を治めてらっしゃいますので、公家を悪者にしても文句は出ないだろうと」

「……」

『あの』事件を、玉藻側から見てくれる人間がいるとは思わなかった…そんな感情が弥生の頭の中を駆け巡っている。

「それは面白そうですね、是非見てみたいです」

 弥生の想いを知ってか知らずか、直也は素直な感想を漏らしていた。

「はは、いいですよ、三戸で興行しますので、そこでご覧になって下さい。もちろん木戸銭はいりませんから」

「ありがとうございます」

 そんなやりとりも上の空、弥生は一人、昔を思い返していた。人間と狐の違いはあれど、自分も幼馴染みを殺され、復讐の念に燃えたのだった…しかし今はそれも遠い昔。幼馴染み、千枝丸の魂は輪廻の輪に融け、自分には直也がいる…。

「弥生様?」

 そんな物思いは千草の声で破られた。

「どちらへいらっしゃるのです? そちらは脇街道ですわよ。…どこかお悪いのではないのですか?」

 気が付けば分かれ道で、知らぬうちに道をそれかけていたのであった。弥生は強引に思い出を振り払い、

「…ちょっと考え事をしていた。もう大丈夫じゃ」

 そう答え、荷車の後を追いかける弥生であった。

 

 その夜は奥州福岡宿泊まり。同宿した宿で直也は台本を見せてもらった。

 興味のない顔をしていた弥生も、いつしか直也の隣にやって来て覗き込んでいる。

 直也は笑って弥生に台本を渡した。弥生はちょっと恥ずかしそうにそれを受け取り、読み耽る。そんな弥生の姿が珍しくて、直也はしみじみと弥生の横顔を見つめていた。

 一方、博信は湯を使い、髪も洗ったので、更に見違えるようになった。一座の女役者、お菊とおもとは彼の噂話をしている。

 千草はなんとなく不機嫌そうに窓から外を見つめていた。そんな千草の横にやってきたのは当の博信。

「千草さん、だったよね。どうしたのかな、疲れた?」

「…別に、何でもありませんわ」

 そうぶっきらぼうに答える千草。そんな千草に博信は、

「千草さん達は旅をしているんだよね、そうしたら、珍しい歌や楽を知らないかな?」

がくですか?」

 そう聞き返した千草に博信は、

「そう、楽。…俺、楽が好きでさ、珍しい歌や曲を探して歩いてるんだ。…そして昔の楽を」

「昔の楽、ですの?」

 つい聞き返してしまう千草。

「うん、…今に伝わっている曲は、淘汰されたものらしい。その昔…京の都で公家達が華やかだった頃は、唐から渡ってきた珍しい楽器や歌もあったはずなんだ。それが、この国に合わないというので、淘汰された結果が今の楽さ」

 熱っぽく語る博信。知らず知らずに千草は博信に向き合っていた。

「そうですわね、普通の琵琶は四絃ですが、当時は五絃の琵琶もあったという話は聞いたことがありますわ」

「千草さんも知っているのか、いやあ、うれしいなあ」

 子供のようにはしゃぐ博信。そんな彼の顔を見つめて、千草は心安らぐものを感じていた。

「…管絃に用いられているのは笙、(しょう)、篳篥ひちりき、笛、そう、四絃の琵琶、和琴わごん

 太鼓、鉦鼓しょうこ鞨鼓かっこ、三のつづみ笏拍子しゃくびょうし、これだけなんだけど、

 当時はまだまだ色々な楽器もあったし、そのための曲もあったと思うんだ」

「そういう曲をさがしてらっしゃるんですのね?」

「うん、このみちのくは、平家の落人伝説とかも多い。もしかしたら、今の都には無いものが残っているかも知れないじゃないか」

「それでみちのくへいらしたんですの…」

 見かけによらない純粋な動機に、千草はこの男の楽に懸ける情熱を感じ取った。

 マヨヒガにはその頃の楽譜も楽器もある…そう教えられないことに僅かにいらだちを感じながら、

「見つかるとよろしいですわね」

 そう言って心からの笑顔を作る千草であった。

 

 翌日、一行は三戸に入った。興行予定の三日前である。芝居小屋は一行を待ちわびていた。

「やあ松之丞さん、よう来んさった」

「寿座さん、お世話になりますぞ」

 そう言って荷を下ろす一行。行きがかり上ここまで付いてきた直也も手伝う。そして荷を下ろし終わった直也が宿を探しに行こうとすると、

「直也さん、もしよろしかったらこの芝居小屋にお泊まり下さいよ、練習もご覧になって下さって構いませんから」

 この三日間で一座に馴染んだ直也は、喜んでその申し出を受けた。弥生も渋々、に見せてはいたが内心は芝居を見たいと思っていた。

 そして千草は、

「博信様はどうしますの?」

 そう博信に尋ねていた。

「うーん、俺に何か手伝えることがあればいいんだが…」

 そんな博信に、

「楽器の演奏がお出来になるのでしょう?それなら大丈夫ですわ。…ねえ、座長さん?」

 話を振られた座長の松之丞は、

「そうですね、この芝居は王朝の雰囲気を出したいので楽人は多いほど歓迎です。…え、と、博信さん、楽器は何がお出来に?」

「…一通りは何でも。…笛が一番得意かな」

「ほう、それでは笛と、出来れば琴をお願いしましょうかな」

 博信は、

「まかせてくれ」

 そう言って笑った。そんな博信を見て、お菊とおもとは明るい歓声を上げていた。

「寿座さん、そう言えば他の連中は? まだ来てないのですか?」

 松之丞が尋ねる。すると寿座の主人は、

「ああ、由之丞よしのじょうさんとあやめさんは、はあ、なんだかあんべ悪ぐなっで遅うなると八戸から連絡があっただ」

「何ですって!?…困ったな…どうしよう…」

 団員が揃わないと芝居にならない。悩む松之丞を見て、直也が声を掛けた。

「座長さん、どうしたんです?」

「直也さん、実は玉藻役と千住丸役の役者が急病で来られなくなってしまって…まいりました」

「それは困りましたね」

「まったくです…そうだ!」

 直也を見つめる松之丞。

「座長さん?」

 松之丞は直也の前に諸手を付くと、

「お願いです、直也さん、どうか千住丸役をやって頂けますまいか。…ほんの三日の間ですので」

 小さな町、一日三回の上演でも三日やればあらかたの客は見飽きてしまうだろう。しかし直也は、

「…俺が?…役者を?」

 今まで芝居など見たこともなかったし、ましてや役者をやるとなると…

 だがそれを聞いた弥生は、

「直也、いいではないか。何事も経験じゃ」

 そんな弥生に向かって松之丞は、

「いえ、弥生さんには是非、玉藻の前役をお願いしたく…」

「な、なんじゃと…」

 絶句する弥生。まさか、自身が玉藻の前役を頼まれるとは…

「しょうがない、弥生、こうなったら乗りかかった舟だ、協力してあげようじゃないか」

「おお、直也様、ありがとうございます。台本には目を通して貰ってましたな、それでは早速練習を」

「…やれやれ、えらいことになったわい」

 渋々腰を上げる弥生。まさか自分で自分の過去の役をやる羽目になるとは思わなかったという顔である。

「素敵ですわ、直也様、弥生様、頑張って下さいませね」

 二人のことを知っている千草は面白がって声援を送ってくる。直也と弥生は苦笑するばかりだ。

 早速台本を憶え、練習を始めなくてはならない。直也の役は出番が短いので楽であるが、弥生は通しで舞台に出なければならない。しかし弥生は台本を一度読んだだけで台詞を全部憶えてしまった。

「…すごい、弥生さん、あなたは天才だ!」

 座長の松之丞は感心することしきり。直也も何とか台詞を憶え、午後から練習に入る。

 博信も曲は全て憶えたらしく、琴をかき鳴らしており、なかなかいい音をさせている。直也は自分だけ素人のようで少し焦っていた。

 

「…みくず、そなたのおもかげ、かたときたりとてわすれたことはない…」

「千住丸様、わたくしも同じでございます。例え現身うつしみは千里を隔てようとも、心はいつもお側に居りまする」

 直也はまだまだ棒読み、いかにも素人丸出しであるが、弥生は流石に化けるのが得意な狐の化身だけあって、玄人はだしの演技力であった。

 一刻程の稽古のあと、少し休憩。直也は弥生に、

「…やっぱり弥生は上手いな、大したもんだよ」

「ふふ、お主も初めてにしてはいい線行っておるぞ」

「そ、そうか?…おだてても何も出ないぞ」

「いや、本当の事じゃ。今まで芝居などしたことも無かったじゃろうが。…まあ良い経験じゃな」

 そんな時、外が騒がしくなった。

7/8、誤字修正しました

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