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巻の六十六   盛岡騒動(後)

巻の六十六   盛岡騒動(後)


 盛岡での翌朝。

 朝食後、弥生は昨夜見聞きしたことを直也と千草に簡単に話した。

「奉行とその丸屋というのが黒幕なのか…丸屋は何が目的なんだろう?」

「おそらくこの店が欲しいのじゃ。ここは街道沿いで、人の流れに恵まれておるしのう」

 一方千草は奉行のよこしまな目的に憤っていた。 

「およねさんと奉行にそんな因縁があったのですね。…お世話になったことですしなんとかしてさしあげたいですわ」

「いずれにせよ向こうから仕掛けてくる、それを受けて返さねばならぬ。それが難儀じゃのう」

 そんな折、武蔵屋に一人の役人がやってきた。奉行からの遣いだという。

 それによると、お城へ納める乾物の一部を武蔵屋にも任せたいので、昆布、鰹節などの見本を持って即刻奉行所まで持参するように、とのことであった。

 悪くない話なので、さっそくに店で最上等の昆布と鰹節、それに煮干しや海苔なども揃え、木箱に入れる。

 意外と大荷物になったので、直也も手伝って持って行くことになった。

「大事な御用です、昨日のような事があったら大変だ、奉行所までお供しますよ」

「それは助かります、上田様、どうぞよろしくお願いいたします」

 それで直也は奉行所の門前まで荷を持って付いていったのだが、特に何事も起こらなかった。これは弥生の予測範囲である。

 門前で荷物を奉行所の役人に渡し、政右衛門せいえもんと別れた直也は武蔵屋に戻ってきた。弥生に何事もなかった、と報告。弥生は、

「するとこの後何か仕掛けてくる気じゃな」

 そう言って何やら考え込んだ。

 

 こちらは奉行所。盛岡藩町奉行、岡部監物おかべけんもつは、運び込まれた乾物を検分していた。

「なかなか上等な昆布じゃのう」

「ありがとうございます」

「こちらは鰹節じゃな…な、な、何だこれは!!」

 岡部監物が蓋を開けると、中から数匹の虫が飛び出したのだ。

 それはすぐに飛んで見えなくなったが、居合わせた奉行、政右衛門、それに奉行所小者は皆それを目にしていた。

「無礼者! このような物を殿に差し上げられると思うか! こやつを牢にぶちこめい!!」

「お、お奉行様、これは何かの間違いです。…箱に入れたときは虫など付いていませんでした…」

 何を言っても聞き入れて貰えず、政右衛門は奉行所の牢に入れられてしまった。それと同時に、武蔵屋へ遣いが走る。

「武蔵屋政右衛門は奉行所を侮り虫の入った鰹節を持参したかどで受牢申しつけた。この後お取り調べがあるが、それまで営業はあいならぬ」

「主人が!…そんな筈ございません! 何かの間違いです! どうかお取り調べを!」

 およねが懇願するが、遣いの役人は冷淡に、

「やかましい。これから詮議じゃ。言いたいことがあれば奉行所へまいれ」

 そう言い残して去っていった。

「…あああ、…おまえさん…」

 泣き崩れるおよね、そんな彼女に弥生は、

「およね殿、大丈夫、直也と儂も口添えしよう、悲しんでおらずに政右衛門殿を助けに行かねば」

「は、はい、弥生様、ありがとうございます…」

 そう言って涙をぬぐい、着物を着替えると番頭に後を任せ、およねは直也と弥生に付き添われて出かけた。

 出がけに弥生は千草に、

「千草殿、さっきの打ち合わせ通りに、後を頼む」

 とだけ告げて行ったのである。


 奉行所に着いた直也達は一室に通された。程なく奉行、岡部監物おかべけんもつがやって来る。礼をする三人。

「奉行の岡部監物である、楽にいたせ」

 そう言われ、三人は顔を上げる。およねの顔に驚きの表情が浮かんだ。

「ふふふ、久しぶりじゃのう、お蝶。…いや、今はおよねだったか」

「……」

「お前の亭主、武蔵屋は牢の中だ。このままだと不敬罪で打ち首だな」

「…お奉行様、どうかそれだけは」

 およねは平伏して嘆願する。直也も、

「お奉行、お慈悲をもって武蔵屋さんの命は助けて下さい」

 そう口添えをするが、奉行は、

「うんうん、どうするかのう…まあおよね、お前次第じゃな」

「…どういう事でしょう?」

 すると奉行はにたりと笑って、

「武蔵屋と別れ、わしの妾にならぬか?…昔のように可愛がってやるぞ」

 それを聞いたおよねが青ざめる。

「お奉行様の言葉とも思えません。そんな無理難題は聞けません」

 その時、

「お奉行はおよね殿が欲しい。丸屋は武蔵屋を乗っ取りたい。悪と悪が手を組んでおる。まったくこの盛岡という町はどうなっておるのじゃ」

 声高々と弥生が言い放つ。うろたえた奉行は、

「…や、やかましい! ここをどこだと心得る。誰か、この二人を牢にぶちこめ!」

 無茶苦茶である。その奉行の声で奉行所の小者がやって来て二人を引き立てる。

 だが何故か、直也も弥生も逆らわずに無抵抗で連れられて行く。その際、弥生は、

「およね殿、案ずることはない。それより奉行の言うことなぞ聞いてはならぬぞ」

「上田様…」

「さっさと連れて行け!」

 直也と弥生は牢に連れられて行ってしまった。残ったのはおよねと奉行。

「江戸詰からこの国元に戻って早十年。去年だったか、お前を見た時は驚いたぞ。てっきりわしを追って盛岡までやって来たのだと思うたわ。じゃが武蔵屋の女房とはな」

 そこで一息入れ、顎をさすりながら、

「わしは、今は奉行だが、いずれは家老にもなって見せよう、どうだ、およね、わしの妾になれ」

「お断り致します」

「強情じゃのう。浅草の水茶屋で働いていたお前を可愛がってやったのはわしじゃぞ」

「……」

「のう、江戸を離れる時にお前を連れて行かなかったのは悪かった。だからこうして、妾にしようと言うのではないか」

「わたしには主人が居ます」

「そうか、武蔵屋がいなければ再びわしのものになるというのだな?…ならば武蔵屋は打ち首に決まりじゃ」

「そ、そんな!」

「まあ今日のところはゆっくり考えるのじゃな。…誰かある、この者も牢に入れておけ」

 およねまで牢に入れられてしまったのだった。


 一方、牢では。

 直也と弥生は、牢で武蔵屋政右衛門に再会していた。別々の牢で、格子越しだったが。

「武蔵屋さん、無事でしたか」

「上田様!…どうしてあなた方が」

 そこで直也は、およねが嘆願にやって来ていること、自分たちも口添えに付いてきたこと等を話した。

 およねと奉行が昔馴染みだったことは黙っておく。

「…絶対にあの虫はありえません、新しい箱に、私が自分で詰めたのですから」

「わかっておる。これは奉行の陰謀じゃ。武蔵屋を取り潰し、丸屋に下げ渡す、とな…」

 政右衛門は驚く。

「何ですって!?…確かに丸屋さんは何度も私どもの店を譲れと言ってきましたが全て断りました。それが…」

「そうじゃ。あの場所は人の流れに恵まれておる。いずれ武蔵屋は大きくなるじゃろう。そんな場所だから丸屋も目を付けたのじゃな」

 話はそこまでであった。そこへおよねも引き立てられてきたからだ。

「お前さん!」

「およね!」

 およねは政右衛門とは別の牢に入れられた。弥生は直也と一緒の牢である。一応武士姿なので町人とはやや待遇が違う。

「およね!」

「お前さん!」…

 二人は大声で名前を呼び合っている。一方同じ牢内の直也は弥生と小声で話をしていた。

「しかしどうしようもない奉行だな」

「うむ、…面と向かってわかったが、僅かにマーラの臭いがする」

「何?」

「…マーラに憑かれているわけではない。じゃが、江戸詰だった時にマーラにそそのかされた事は間違いない」

 今はマーラの影響はないのだが、本性が本性だったためにあのていたらく、というわけである。

「それならどうする?」

「こんな牢、破るのは訳はないがそれではお主に傷が付く。理不尽な理由でとはいえ、投獄された牢を破るというのはな」

「俺は気にしないぜ」

「儂が気にする。お主にはそんな汚点を残したくないのじゃ」

 弥生はあくまでも直也一筋である。

「奉行を罰するのは領主の役目じゃ。今は参勤交代から戻って城にいるはず。夜になったら行ってこよう」

 事も無げに言う弥生。直也はそんな弥生に、

「弥生と一緒だから俺も安心だよ」

「じゃがお主も遠くない将来、当主にならねばいかん。その時に隣にいるのは…」

「弥生…」

 直也が弥生の肩へ手を伸ばし掛ける。が、弥生はその手をやんわりと払いのけ、

「…駄目じゃ、儂の手は汚れておる」

「弥生!」

 だが直也はそんな弥生の眼を真っ直ぐに見つめ、その手を取った。

「弥生…、この手で俺は育てられた。この手に俺は守って貰った。…この手は母さんと同じくらいに大事な手だった」

 そして握る手に力を込め、

「誰が何と言っても、弥生の手は汚れてなんかいない。弥生は…きれいだ」

「直也…」

 弥生はその手を振り解き、

「今はそんな話をしている場合ではない。…千草殿が気になるしのう」

 直也は溜息を一つ吐くと、

「…そうだな、俺もちょっと心配だよ」

 すると弥生は、

「…心配はいらぬ」

「え?…だって…」

「気になる、と言ったのじゃ。心配しているのではない。…むし心配なのは盛岡の町じゃ」

「盛岡の町が心配?」

 鸚鵡返しに直也が聞く。

「そうじゃ。…直也にはわからぬかも知れぬが、千草殿はあの山ン本殿の孫じゃぞ?」

 直也はまだわからないといった顔である。

「千草殿が子供っぽい振る舞いをするからといってその中身も子供というわけではない。その気になったらこの町の一つや二つ、軽く焼け野原にしてしまうじゃろう」

「……」

 直也は絶句した。あの千草が…

「よいか、伊達に妖怪の束ねをしているわけではない。それ相応の実力有っての事じゃ。それ故に儂は、出がけに『儂らが戻るまでこの店を護ってやってくれ』と言い残してきたのじゃ。それとて一日二日が限度じゃろう」

 それが過ぎれば、痺れを切らした千草は何をするかわからない、という。祖父の山ン本五郎左衛門程の自制を持たない千草は、怒った時が怖い。

 それを聞いた直也は落ち着かなくなった。

「安心せい、今夜中に何とかする」

 そう言って直也をなだめる弥生であった。

 

 その夜。夜更け近く弥生は、髪を一本抜いて自分の身代わりを作ると、直也に、

「では行ってくる。…儂の身代わりには話しかけるでないぞ?…夜明けまでには戻れるじゃろう」

 そう言って、牢の格子をすり抜けて出て行ってしまった。どうやったのか直也には見当も付かなかったが。

 まず弥生は奉行の部屋へ行き、丸屋との談合の証拠になりそうな書類を探す。

 丸屋からの手紙が見つかった。それを懐に丸屋へと向かう。場所はわかっている。

 そこでは賄賂と引き替えに便宜を計るという奉行の念書を初め、いくつかの書類が見つかった。

 最後に武蔵屋に向かう。番頭、小僧に気付かれないように入り込み、千草の枕元に座り、

「千草殿、起きてくだされ」

 その声に千草が目を覚ました。闇の中でも弥生の顔を見分けたらしく、

「弥生様、どうなさったのです? お帰りが遅いので心配しましたわよ」

 そこで弥生はこれまでの経緯を一通り話して聞かせた。頷く千草。

「それでどうなさるおつもりですか?」

「千草殿にも手伝って頂き、領主を動かそうと思う」

 そして何事かを千草に囁いた。千草は小躍りして、

「面白そうですわね」

 とすぐに承知した。それで二人は連れ立って武蔵屋を抜け出す。弥生は千草の手を取って、

「それでは飛びますでな、手を放さぬようにして下され」

 そう言うと、口の中で呪を唱えると、一蹴り地を蹴った。

 すると二人の身体は羽根のように舞い上がる。「軽身法」である。

 屋根から屋根へ、数十丈も飛び跳ねながら、城へと向かう。千草は声を立てずにはしゃいでいるようだ。

 小半時で領主の住まう盛岡城に着いた。易々と中へ忍び込む。弥生の勘で、領主、南部重信なんぶしげのぶの寝室はすぐにわかった。

 部屋の外で千草と自分に術を掛ける。千草は十二単姿の姫神風に、自分はその侍女風に。

 そうして姿を変えてから、千草には喋らないように指示した後、寝室に音もなく入り込み、枕元に立って、

「起きよ、彦六郎」

 と幼名で呼びかけた。南部重信はすぐに眼を覚まし、枕元の人影を見ると、刀に手を掛け、

「何者!!」

 と叫んで刀を抜こうとする。それを制して弥生は、

「控えよ、彦六郎。こちらは姫神山の姫大明神であらせられる」

 それを聞いた南部重信は、はっとかしこまる。そこへ弥生は、

「そなたは領主としてこの地方をよく治めておるが、城下に不埒な家臣がおることに気付かぬようではまだまだじゃな」

 南部重信は平身低頭してその言葉を聞いている。まだ弥生の言葉は続く。

「領外商人を使っての物流興隆は褒めてとらすがそれが故に悪徳商人もやって来ておる。更にその商人と組んで私腹を肥やし、領民を圧迫する奉行がおる」

「何と!」

 驚いて顔を上げた南部重信の前に、帳面や念書が差し出される。

「現に今、いわれ無き罪で牢に繋がれている者達がおる。彦六郎、姫神様は少しでも早い処断をお望みじゃ。よいか、早い処断をな…」

 そう告げながら弥生と千草の姿が消えていく。領主南部重信は平伏してそれを見送った。


「ああ、面白かったですわ」

 帰る道々、千草がはしゃぐ。一言も喋らずにいた反動だろう、喋る喋る。千草の機嫌がいいのは良いことだ、と弥生は笑って相手をしていた。

「それでは儂は一旦牢に戻る。千草殿は儂等が戻るまで武蔵屋を護ってやって下され」

「ええ、おまかせ下さい」

 そう言って千草を武蔵屋に残し、弥生は奉行所の牢に戻った。短い夏の夜がまだ明ける前のことである。

 眠っていた直也を起こさないよう、身代わりと入れ替わる。眠る直也の横顔を見つめ、

「直也…」

 一声、愛おしそうに直也の名を呟くと弥生も朝までの短い眠りに就いた。

 

 その日、朝いくらもたたないうちに城から目付がやってきた。

 そして型どおりに奉行所を調べた後、「上意」として岡部監物おかべけんもつは奉行を免職、蟄居閉門ちっきょへいもんを申しつけられた。

 同時に丸屋にも役人が入り、丸屋は鑑札を召し上げられた上、所払いを命じられる。

 牢に入れられていた直也と弥生、それに武蔵屋夫妻は解き放たれた。

「すごいな、昨夜弥生が何かしたんだろ?」

「ふふ、領主に本当のことを教えてやっただけじゃよ。今の領主、南部重信公はなかなかの名君との噂じゃったからのう」

 牢から出ると、武蔵屋夫妻と顔を見合わせる。二人は何故急に奉行が免職になったのかわからずに面食らっていた。

「運が良かったんですよ、御領主様は名君ですから、ちょうどお調べになって不正を見つけられての事でしょう」

 そう直也は説明しておく。一応政右衛門はそれで納得したようだ。他に説明は付かない。およねは政右衛門に寄り添い、目に涙を浮かべていた。

 奉行所を出る際、ばったりと岡部監物と出会ってしまった。監物は目付に付き添われ、腰の刀も取り上げられてはいたが、流石に縄まではかけられていない。

 その監物は武蔵屋夫妻を見ると悔しそうに、

「およね、今回は運が良かったな、…武蔵屋、残念だがおよねは貴様にまかせよう、だが憶えておけ、およねは昔わしが面倒を見ておったのだ。そう、貴様は知るまい。およねがまだお蝶と言って水茶屋の小女をしていた頃からな」

「……!」

 真っ青になるおよね。政右衛門にだけは知られたくない過去を、監物は腹いせに口にしたのだ。

 だが政右衛門はそんなおよねをじっと見て、それから監物に向き直り、

「そんなことは知っていましたよ。およねは知られたくないようなのでその事には触れませんでしたがね。私が好いたのはおよねの過去じゃない、今のおよねです。どんな過去があったかは大きな問題じゃない。過去は今のための肥やしでしかない。

 ...監物様、あなたとおよねの間に何があったとしても、それはいまのおよねの肥やしとなったのです。むしろあなたにお礼を言いたいくらいですよ。それ程に今のおよねはいい女房だ」

 毅然とした態度でそう言ってのけた。それを聞いた監物はもはや言葉もなくうなだれ、目付に伴われて自分の屋敷へと謹慎するために戻って行ったのだった。

 いずれ正式な処罰が下されるであろう。

 およねは涙を拭おうともせず、政右衛門に縋り、泣きじゃくっている。そんなおよねの背を政右衛門は優しく撫でるのであった。

 ひとしきり泣いたおよねの感情が落ち着くのを待って弥生は、

「およね殿、政右衛門殿、仲のよろしいのは構わぬが、昼日中、天下の往来では…ちょっとな」

 そう言葉を掛けると、気がついたおよねは真っ赤になって、

「わ…わたし…一足先に帰って、旦那様が帰ると店の者に伝えておきますね」

 そう言って小走りに駆け出していってしまった。取り残された政右衛門は頭を掻いて、

「…一緒に帰ればいいものを」

 そんな政右衛門に直也は、

「政右衛門さん、ご立派でしたね。感心しました」

 そう言うと政右衛門は苦笑いして、

「いやあ、実を言うと初めておよねの過去を聞いてびっくりしましたよ。なんとか顔色を変えずに話せたようですね」

「え、それじゃあ…」

「ええ、初耳でした。およねの顔を見て、知られたくなかった話だということが見て取れたので咄嗟にああ言いましたがね」

「そうでしたか…」

 政右衛門は笑って、

「でもあれは本心ですよ。私はおよねという女が気に入って女房にしたんです。それは過去を含めたおよねという人間全部を受け入れたということですから」

 直也と政右衛門の会話を後ろで聞きながら、弥生は物思いにふけっていた。


 騒動が収まった翌々日、直也達は武蔵屋を辞した。

「こちらにお越しの際は是非またお立ち寄り下さい」

 政右衛門とおよねが、掛け値無しにそう言ってくれる。

「その時にはきっと可愛いやや子を見せて下さいませね」

 そう千草が言うと、

「まあ…」

 およねは頬を赤らめ、政右衛門は頭を掻く。そんな二人を弥生は微笑ましそうに見つめていた。

「それではお世話になりました」

 笑顔で手を振り、旅立つ一行。目指すは更に北である。もう松前道を歩くので、千草にも無理のない行程で行くつもりだ。

 であるからおのずと歩みもゆっくりになる。木陰を見つければ休み、茶店があれば茶をすすりながら。

 北の地とはいえ、夏の日差しは暑い、喉が渇くので水を飲みすぎ、竹筒の水が無くなってしまった。

 ちょうど道脇、下の方に水の音がしたので、

「俺が汲んでくる。ちょっと待っててくれ」

 直也はそう言って三人分の水筒を持ち、小径を探して土手を下りていった。

 弥生と千草は木陰で待つことにする。待つ間、千草が弥生に話しかけた。

「弥生様、…あの政右衛門という商人、なかなかの男でしたわね」

「うむ、そうじゃな、風采は上がらぬが、中身は剛毅そのもの、本物の丈夫ますらおじゃった」

 千草は悪戯っぽく笑いながら、

「政右衛門と直也様、どちらが上だと思われますか?」

 そう尋ねた。弥生はその問いに一瞬虚を突かれたが、すぐに意味を悟り、

「千草殿。…直也も、儂の過去など問題にしない、と言いたいのじゃろう?」

 そうやり返した。千草は破顔して、

「そうですわ。直也様が弥生様を思われる気持ちは政右衛門がおよねを思う気持ちと同じ、いえもっと強く、もっと純粋です」

「わかっておる、わかっておるからこそ苦しい」

「弥生様…」

「済まぬ、千草殿、今はまだ儂も自身の気持ちがわからぬ。しばらくは何も言わんで欲しい」

 千草は少し悲しそうな顔になって、

「わかりました、…でも直也様のお気持ちも察して上げて下さいませね」

 そう言った所へ、直也が水を汲んで帰ってきた。

「冷たい水だったよ。一杯にしてきたから、次の宿場まで十分持つだろう。さあ、行こうか」

「はい、直也様」

 そしてまた三人は歩き出した。今日の宿は渋民しぶたみ宿になるだろう。

 みちのくの道、夏雲が湧き、木立の緑溢れる中を三人はゆっくりと北へ歩いていく。短いみちのくの夏は今が盛り、名もない路傍の花が一行を見送っていた。


 みちのく編、です。今回は盛岡。千草が加わって、少し変化が出て来ました。

 千草はああ見えても三百歳を超えており、直也よりずっと年上です。

 しかし長寿ゆえの成熟の遅さで、まだまだ無邪気な面を持ち合わせているのです。

 

 さて、直也と弥生の仲、特に弥生の気持ちを揺さぶってみたくて今回の展開になりました。

 およねと監物の関係の表記には気を使いましたね。露骨にならないよう、かといってわかりにくくならないよう。

 上手くいったかどうかは読んだ皆さんの判断にお委せします。でも難しい問題です。重いです。

 政右衛門も直也も強いと思います。同じ立場だったら作者には自信ありません。それはきっと、取りも直さず、自分についての自信、自分が今の自分であることに自信を持てないからなのかも知れません。自分という者がしっかり立ってさえいれば、ひとを愛することに揺らぎはないのでしょう...きっと。

 

 さて、もうしばらく千草との旅は続きそうです。

 それでは、次回も読んで頂けたら幸いです。

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