巻の六十四 遠野物語
巻の六十四 遠野物語
直也と弥生は東へ向かって歩いていた。目指すは遠野郷である。
「あそこに見えるのが早池峰じゃ。早池峰、六角牛山、石神山それぞれには女神が棲もうておってのう、女人禁制になっておるのじゃよ」
今二人は猿ケ石川に沿って遠野へ向かっている。花巻から約十三里、二人の脚なら日の暮れる前に遠野へ着く事が出来た。
「さて、宿らしきものは見あたらんのう…どこかの百姓家に泊めて貰うとするか」
それで、構えの大きな家を見つけて、宿を乞う事にした。
「ここで頼むとしよう」
大きな萱葺き屋根、このあたりの家の造りは曲家と言って、厩が土間をはさんで母屋と繋がっており、馬を大事にしていることのわかる造りが特徴である。
「お武家様ですか、どんぞどんぞ、こんな田舎屋でがんすが、何日でもお泊まりくだせえ」
出て来た主人らしい初老の男がそう言ってくれたので、有難く泊めて貰う事にした。
「俺は上田直也、これは許嫁の弥生です」
弥生が何か言う前に、直也が自己紹介を済ませる。再び許嫁と紹介されて何か言いたげな弥生であったが、家人の前では何も言えなかった。
夕食には「ひっつみ」と呼ばれるものが出される。
「これはまんず、小麦粉を水で練って、汁で似たもんでがんす。その家ごとに味があるのっす」
給仕をしてくれたせつという女が説明してくれる。
「お武家様は、武者修行の旅ですかね」
この家の主人が尋ねてきた。
「ええ、それと見聞を広めるために」
「そんですか。この遠野はなんも無いとこでがんすが、静かないいとこでっす。笛吹峠に登ってみなしたらいいかもしれんす」
その時、赤ん坊の泣き声が聞こえた。せつが慌てて部屋を出て行く。
「お孫さんですか?」
そう直也が主人に尋ねると、
「はぃい、こっぱずかしながら、子連れで出戻ってきたんでがんす」
そう言ってせつが消えた方をちらりと見る。この事であまり詮索はしない方がいいと、直也はその話題は打ち切った。
食事が済むと布団まで敷いていってくれた。ぴったり付けた布団を引き離しながら、弥生がぶつぶつと呟く。
「直也め、また儂を許嫁と紹介しおって…」
歩き疲れていたので早々に床につくが、その夜は時々赤ん坊の泣き声が聞こえてきていた。夜泣きする質らしい。
直也はともかく、耳のいい弥生は少々辟易していたようだ。
翌朝はいい天気であった。直也は井戸端へ行き、顔を洗おうとすると、せつが出て来て、
「あんれ、おらが汲みますだに、ちょと待ってくんろ」
そう言ってつるべで水を汲んでくれた。
「お客様、ゆんべはうるさかったべ?…えれえすまんこって、あがんぼのこんだで、許してやってけろ」
更にそう言って頭を下げるので直也は、
「気にしなくていいから、赤ん坊が泣くのは当たり前だからね」
「赤子が夜泣きするにはそれなりの訳があるでのう、訳もなく夜中に泣き出すようなら、今は夏じゃ、一度外に連れ出してみるのもよいな」
「えっ」
いつの間にか弥生が直也の横に来ていた。
「それと昼間は外に連れ出したりして、明るい場所に出してやると良いかも知れぬ。さすれば夜はよく眠るようになるじゃろう」
「あんれ、あねこサ、詳すいなっす。おありがとがんす、さっそく今日がらやってみる事にしまっす」
そう言って頭を下げ、母屋に引っ込んでいった。直也は、
「弥生、詳しいな」
「ふふ、お主も生まれたばかりの時、ほんの一月ほどじゃが、夜泣きしていたこともあったのじゃぞ」
「そうなのか…」
「赤子は泣く事が仕事とはいえ、産後の肥立ちの悪かった八重には少々重荷でのう、儂がいろいろ手を尽くしてようやく夜泣きせんようになったのじゃ」
「……」
弥生にそう言われて一言もない直也であった。
朝食の時、せつは給仕しながら弥生にいろいろと話しかける。
「あがんぼが風邪引いたらどったらことすでやったらいいべか?」
「お乳飲まね時はどんすりゃいいべ?」
「あがんぼっていつごろから歯が生えてくんだべ?」
弥生はいちいちそれに答えてやっていたが、
「儂に聞くより母御…その子のばば様に聞けばよいのではないか?」
するとせつはうなだれて、
「あっぱ(母)はおらがまだ小さい時に亡くなったのっす。だで、おら、子育ての事よぐわからんくて…」
「そうであったか、それはお気の毒にのう。…じゃが、その子の父方のばば様もおろう、もし良かったら離縁したわけを聞かせてもらえんか」
食後、笹の葉で淹れたお茶をすすりながら弥生が言った。
「へえ、…この子の父親…おらの元の亭主は糠前ってとこの大百姓なんでがんすが、浮気なんぞしてくさって…」
せつによると、元の亭主は糠前の大百姓で喜八。二人は三年前に一緒になり、二年後せつが身重になったのを境に、喜八が浮気を始めたということである。お腹の大きくなったせつをさしおいて、花巻の女郎屋に何度か通ったのだそうな。
それを問いつめたところ喧嘩になって、とうとう生まれたばかりの赤ん坊を抱きかかえて実家に戻ってきたというわけであった。
「おらがあがんぼはらんでる間にべづの女に、ましてや女郎だというでねえか、おら頭サきつまっただよ」
「なるほどのう…それは許せんかも知れぬな」
「んだべ?…おらのお腹が大きぐなった間なんていっとぎま(ちょっとの間)でねえか。それをあんのろくでなすときたら…」
「結局、おせつさんは焼き餅を焼いた訳じゃな」
「やがねる(焼き餅を焼く)なんて、おら…」
話がそこまで来た時に、主人が顔を出した。
「おきゃぐ様、お話はせつが話した通りでがんす。それで、一つ困った事があるのっす」
それを聞いた直也が、
「何でしょう?」
「向こうの家から、あがんぼを引き取りたいと言ってきてるのっす。跡取り息子だからこちらに寄越せ、と…」
「おらやんだかんな、お父ぅ。この子はぜってぇわださねぞ」
「この通りでして、…私もめんこい孫ですんで、うちで育てたいと思ってるのでがんす」
「どんか、お武家様、むこうの家さ、あがんぼの事ははぁ諦めるよう言ってやって貰いてぇんで」
「……」
「どちらも親には違いないんだから、引けない所でしょうね、少し考えさせて貰えますか」
そう直也が答えると、
「是非お願いしまっす、上田様」
そう言って主人とせつは下がっていった。
二人になると直也は、
「弥生はどう思う?」
「そうじゃな、儂もこれでも一応女じゃからやはりせつの肩を持ちたいのう。…そう言うお主はどう思う?」
直也は直接それには答えず、
「なあ弥生、やっぱり…浮気って許せないものかな?」
「何じゃと?…お主は相手の亭主の肩を持つのか?」
「そうじゃない。だけど、一、二度の浮気で、子供までいるのに別れるのが正しいのかってさ」
弥生はそんな直也を見て、
「…そう言う事か、そうじゃなあ、獣であれば、雄が何頭もの雌を引き連れている事は珍しくはない。じゃが人は獣では無かろう?…それにじゃ…狐も夫婦は一対一じゃでのう、儂としては浮気は許せぬなあ」
「そうか…」
直也は考え込んでしまった。そんな直也を見て弥生は、
「直也、あまり深く考える事は無かろう、お主も母親に育てられたのじゃ。さっきの話ではないが、獣だって雌が育てるものは多い。それからしても子供は母親のそばにおるのが一番なんじゃよ」
「うん、…そうかな」
弥生の言葉に、一応の結論を見た直也は、
「少し遠野を見て回るとするか」
そう言って刀を腰に差し、外へと出る。弥生もそれに続いた。
八幡社に詣でてから二人は笛吹峠を目指した。二人の足は速い。心地よい汗をかきながら峠道を辿っていく。
直也と弥生がみちのくの爽やかな風が吹く峠に着いたのは昼前であった。峠からは遠野の郷が見渡せる。
「なかなかいい眺めじゃな」
「うん、少し早いけどここらで弁当にするか」
そこで、作ってもらった握り飯を出し、竹筒の水を飲む。風が汗ばんだ体に心地よい。
食べ終わると弥生は、
「さて、儂はちょっとこのあたりの山を見回ってこようと思う。直也は来た道を戻って先に帰っておれ」
直也は素直にその言葉に従ったが、腑に落ちないものを感じてはいた。今まで弥生が理由をはっきりさせずに直也と離れた事はほとんど無かったからだ。
まあ帰ったら理由を話してくれるだろう、と直也は来た道をゆっくりと下っていった。
峠から下りきり、ふと思いついて糠前へ行ってみる事にする。道を尋ね尋ね、直也は糠前に向かった。
一方弥生は笛吹峠から貞任山方面へ踏み込んでいた。道もない山中であるが、弥生にとっては苦にならない。そこから更に白見山へ。風のように弥生は山から山を経巡っていくのであった。
糠前に着いた直也は、さっそく喜八を訪ねる。ちょうど昼飯時で、喜八は家に戻っていた。
「喜八さん、ですね」
「んだ。お武家さんは?」
「上田直也と言います。せつさんと赤ん坊のことでお話をしに」
「…んだか、お武家さんにまで頼んで、おらからあがんぼを取り上げるだか」
しかし直也は首を振って、
「いいえ、そうじゃありません。俺はただ話を聞きに来ただけです。…喜八さん、本当に浮気をしたんですか?」
喜八は溜息を吐いて、
「うんにゃ。…おらはなんもそったらことすてね。たすかに、女郎屋いったこどはみどめる。んだども、おらは女郎には指一本触れてね。せつの奴は信じてくれねえけんどよ」
喜八の話によれば、女郎屋へは仲間に無理矢理引っ張っていかれたのだそうで、喜八は一晩何もせずに帰ってきたという。
ただ、女郎のいたずらで、肌着に紅を付けられていたのに気が付かず、それをせつに見咎められてこの騒動になったのだそうだ。
それからしばらくの間、直也は喜八と話をし、やがて喜八に見送られて帰途についた。
喜八は直也にせつの誤解を解いてくれるよう何度も頭を下げていた。
太陽は中天を過ぎ、すこし西に傾いた頃の事である。
帰り道、お寺があったので何気なく立ち寄ってみる。山門をくぐると、そこでは子供達が遊んでいた。五、六人がなにやら動物を取り囲んで悪戯している。近付いてみるとどうやら犬の子供のようだ。
首に縄を付けられ、引きずり回されたり、しっぽを引っ張られたり、それでも犬の子はきゃんとも鳴かないで耐えている。
可哀想になった直也は、
「坊や達、あんまり生き物を苛めるのは感心しないな」
そう言って、懐にあった銭十五文を渡してやって、かわりに犬の子を貰う事にした。子供達は銭を貰って喜び勇んで寺から駆け出して行った。
犬の子は銀灰色の毛並みをしており、まだ生まれて二箇月も経っていないくらいの小ささである。
直也が首の縄を解いてやると、直也が助けてくれたのがわかったのか、直也の脚に擦り寄ってきた。
親犬は近くにいないようだからせめて何か食べさせてやってから山にでも放すか、さもなくば百姓家で番犬に飼って貰えないか相談しようと、その子犬を抱き上げて歩き出す直也。
しかし弥生が犬を嫌いだということはすっかり忘れていた。
その弥生は、今は物思いにふけりながらゆっくりと山中の笹を掻き分け進んでいた。その足が止まる。
「…儂とした事が」
周囲では弥生を取り囲んで数十頭の狼が牙を剥きだしていたのだった。
* * *
帰ると直也は、せつにたのんであまりの飯を子犬に食べさせてやっていた。お腹が空いていたのだろう、よく食べる。
味を付けてやろうと冷や飯に味噌汁を掛けてやるとそれも全部むさぼるように食べてしまった。
食べ終わってお腹が膨れると、直也の足元にすりよってきて丸くなる。その可愛らしい仕草に直也の顔も自然とほころぶのであった。
そこに弥生が帰ってきた。
直也の足元の子犬を見るや否や、驚いた顔をする。
「直也…そやつは…」
「ああ、お帰り、弥生。…ん?…ああ、この子は白銀丸。いい名前だろう?」
弥生は厳しい顔で、
「そんなことを聞いているのではない。どうしたというのじゃ、その…白銀丸は?」
「ああ、峠からの帰り、子供達に捕まって苛められていたから可哀想でさ、ちょうど懐にあった十五文で子供達から譲って貰った」
弥生は深い溜息を吐いて、
「…直也、お主という奴は…」
そのとき突然直也は、弥生が狐だという事を思い出した。それで慌てて、
「や、弥生、別にお前に当てつけたとかそんなんじゃなくてだな、お前が犬嫌いだという事は忘れてたよ、たしかに…
…でもだな、こいつの事はただ可哀想だったから、つい…これから山へでも放してやろうかと…」
弥生はもう一度溜息を吐いて、
「儂が言っとるのはそんなことではない。狐も千年生きると犬ごときを恐れたりはせぬ。…大体じゃな、そやつは犬ではない」
「え?」
弥生は疲れたような目つきで、
「狼の子供じゃ」
「おお…かみ?」
「そうじゃ。しかもみちのく一帯の狼の長、黒金殿の孫じゃ」
それで弥生は、峠で別れてからの経緯を物語り始めた。
何故、そして何を探していたのかはまだ伏せながら、狼に取り囲まれたと説明する。
* * *
弥生を取り巻いた狼の群れ、中でも背が青光りする、とりわけ大きな狼が跳びかかろうとした、まさにその時。
「待て」
声が掛かった。
見ると、黒灰色の毛皮を持った、更に大きな狼である。狼どもの態度から察するに、群れの長らしい。
「青月、お前では相手にならぬ」
「長…」
長と呼ばれた狼は弥生の前に歩み出ると、
「霊狐殿、何用ですかな?」
と尋ねた。弥生は、
「申し訳ない、訪ねるところがあったため、貴公等の結界を侵してしまった。他意はござらぬ、許して貰いたい」
そう答えた。長はそんな弥生に、
「訪ねるとは? こんな山中でどなたを訪ねるおつもりだったのですかな?」
「山ン本五郎左衛門殿じゃ」
「なんと、山ン本様をご存じか」
弥生は頷いて、
「信州松本でお世話になった。こちらに立ち寄ったので挨拶を、とな」
長は、
「そうでしたか、…しかし山ン本様は今はおられません」
「おられぬと?…そうか、遊行に出ておられるのじゃな」
「左様です。盆過ぎにならないとお帰りにはならないでしょう」
弥生は頷くと、
「…邪魔をした。失礼はお詫び致す。直ちに立ち去る故、許して頂きたい」
そんな弥生に向けて長は、
「霊狐殿、詫びは要り申さぬ。…その代わりに、一つ願いを聞いて頂けぬだろうか?」
弥生は、自分に出来る事なら、とそれを肯った。
「早速お聞き届け下さってかたじけない。…実は、孫の一人が一昨日前から行方知れずでござってな」
「お孫さんが?」
「今年の春に生まれたばかりの奴でしてな、まだろくに牙も生え揃っていないのに外に出たがりまして、親…儂の倅夫婦の目を盗んでどこかへ行ってしまったのでござる」
それで弥生に探して貰いたい、と言うのであった。弥生なら人間の中に入っても何ら問題はないが、狼である長やその郎党が人里に現れたら大騒ぎになり、猟師が鉄砲を持ち出す事になりかねない。それは望むところではなかった。
「わかり申した。それで、お孫さんの名前は? 特徴は?」
「名はまだ半人前ゆえありませぬ。…銀灰色の毛並みで、金茶色の目をしております。右耳の先がほんの少し白くなっております」
「承知した、吉報をお待ち下され」
そう言うと弥生はそこを後にした。
* * *
「…と、言う訳じゃ」
弥生の話は終わった。直也は頷いて、
「そうか、この子の親はわかってるのか、それなら返してきてやってくれ」
そう言って弥生に白銀丸を手渡そうとするが、嫌がって直也の後ろに隠れてしまう。
「…儂は嫌われているようじゃな…仕方ない、直也、その子を連れて一緒に来てくれぬか」
それで直也は白銀丸を抱き上げ、弥生の後を付いて行く。
どこまで行くのかと思ったが、村はずれの人気のない林に着いたところで、弥生は小さな狐火を灯して、彼方の森に向けて放った。取り決めておいた合図である。
それから四半刻も経たないうちに、狼の群れがやって来た。
「霊狐殿、早速に見つけて頂いたようで、まことにかたじけない」
長がそう口上を述べると、
「何の、実際にお助けしたのは儂が仕えているこの直也ですわい」
そう言って直也を紹介する。直也は腕に抱えた白銀丸をそっと地面に下ろす。
すると二頭の狼がやってきた。一頭がその顔を舐めると、白銀丸は嬉しそうに舐め返す。
もう一頭は直也の前にやってきて頭を下げた。
「直也様とおっしゃるか、かたじけない、私は長の息子で東の群れを率いている銀月と申します。不肖の倅がお世話になりましたようで、礼を申し上げますぞ」
直也は照れて、
「いやあ、たまたま見かけただけで、俺は何も…」
そこへ長が、
「直也殿は隠れ里の次期当主になられるお方だとか。そのような方に助けられたばかりか、名まで付けて頂いたそうですな」
そう言うと銀月が、
「何と」
驚いた様子で、
「名付け親にまでなって下さったとは。重ねて礼を申します」
「い、いや、俺なんかが余計な事をして申し訳なかったと思っています」
「ご謙遜めさるな。直也殿のまとっておられる気は凡人のものとは比べものに成り申さぬ。かといって刺々しいものではなく、大地の如く柔らかなもの、そんな方と縁が出来た事を喜びこそすれ、迷惑などとは言い申さん」
長が、
「銀月、孫の名は『白銀丸』と付けて頂いたそうだ。孫にぴったりの名ではないか」
そう言って、何やら銜えて直也の前に持ってきた。見ればお守り袋のようである。
「直也殿、ささやかな礼ではあるが、これをお受け取り頂きたい」
「これは?」
直也がそのお守り袋を受け取りながら訪ねると、
「我らの宝…『眉毛』でござる」
「眉毛?」
「左様、これをかざしてみる事で、変化の正体を見破る事が出来申す。更に、これを見せればこの国の狼は直也殿に害をなす事はありませぬ」
「そんな貴重なものを…いいのですか?」
「聞けば旅をされているとの由、何かとお役に立つと思いまするが」
「はい、ありがとうございます」
礼を言って直也はそれを受け取り、懐深く大事にしまった。
「さて、人に見咎められるのもまずいゆえ、これで我らは失礼致す」
そう言って長は身を翻した。伴の狼も次々と身を翻し、木立の奥深くへ消えていく。
最後に残ったのは白銀丸とその親狼。
「白銀丸、元気で」
まだ人語を話せない白銀丸はくうん、と小さく唸ると、直也の差し出した手をぺろり、と舐めた。そして父狼、銀月の背に飛び乗る。
「それでは直也様、失礼致します」
その言葉を最後に、直也の目の前から狼の群れは消え去った。
後に残ったのは直也と弥生。その弥生が、
「さて、儂等も戻るか」
既に日が傾き、空には宵の明星が輝いていた。
せつの家へ戻った直也と弥生は、夕食の際、翌日、元の夫である喜八が訪ねてくる事を聞いた。
せつ達は直也の立ち合いの元で、はっきりとけりを付けたいらしい。
直也は敢えて、
「せつさん、喜八さんのこと、憎んでるんですか?」
そう聞いてみた。するとせつは、切なそうに顔を歪めて、
「…んだども、許せねえこともあるのっす…」
それだけ言うと部屋を出て行ったのだった。
夕食後、湯を浴びさせて貰った後、部屋で二人きりになった直也は、弥生に話しかけた。
「なあ弥生、昼はどこへ行っていたんだ?」
「ん?…実はな、山ン本殿を訪ねていったのじゃよ」
「ああ、妖の元締めの。松本じゃあお世話になったな」
「そうじゃ。ここ遠野が本拠じゃから、折角ここまで来たのじゃから、挨拶でもと思ってのう」
「そうだったのか。…でもなんで一人で?…俺にも声を掛けてくれれば良かったのに」
弥生は一瞬返答に詰まったようだったがすぐに、
「マヨヒガはどこにあるかわからぬ。山の中を何十里も駆け抜けねばならないかも知れん。何せ普通ならこちらから訪ねていけるようなお方ではないからのう」
「そうか…」
「儂も白見山を越えた方まで行って見たが会えんかった。夏は遊行に出ておられるようじゃ」
直也はそれで納得した。
「さて、それじゃあ休むとするか。弥生も疲れたろう」
「うむ。明日はせつ殿の子の事で言い渡さねばならんからのう。それが済んだら出立することにしよう」
「ん」
二人とも昼間の疲れもあってぐっすりと休んだのであった。
翌朝、朝食が済むと、奥座敷が掃除された。ここで話を付けるらしい。
初めて奥座敷を見た直也は、そこに小さな子供がいるのを見て驚き、弥生に声を掛けた。
弥生もその子を見て驚きの声を上げた。但し弥生の驚きは直也のそれとは違う理由からである。
子供と見えたのは、直也の何倍もの年月を過ごしてきた存在ーーー座敷童であった。
座敷童は臆病である。驚かせばすぐに姿をくらましてしまう。それで弥生は、笑顔を作って見せた。直也もそれに倣う。すると座敷童は、哀しげな顔をして首を振り、直也が声を掛ける暇もなく姿を消してしまったのである。
「……」
「弥生、今のは…」
「座敷童じゃ」
「やはりな。…何か言いたいことがあったんだろう」
直也はそれから口を噤み、考え込んでいたが、やがて顔を上げると、その顔は清々しさに満ちていた。
弥生は密かに驚いた。直也の中に何か吹っ切れた物があったのだろうが、それが何かわからなかったからである。
直也を育て、教え導いてきた弥生にとって直也のことは何でもわかっているつもりだった。
だが今そこにいる直也は、確かに弥生の知らない直也であったのだ。
昼前、喜八がやって来た。直也に頼みはしたものの、やはり自分でも誠意を見せねばならないと思ったのであろう。そんな喜八に直也は好感を覚えた。
直也が中央、上座に座り、直也の右手に喜八が、左手にせつが座る。せつの父親はせつの斜め後ろに座った。喜八は一人である。
その喜八は、まず浮気はしていない、女郎屋へは行ったがせつを裏切る様なことはしていない、と繰り返し説明した。せつはそれを聞き流している。半分は意地になっているようにも見える。
赤ん坊をどちらが引き取るか、と言うことについてはさんざん今まで言い争われてきた事なので、この場で決着が付くはずもない。
故に武士である直也の鶴の一声が重みを持つと言える。一息吐いた時にせつは直也の顔を見、
「上田様、どんぞ御裁決をおねげえしますだ」
喜八も直也を見て、
「もうこのままではいつまで経っても終わらねえだ。こうなったらお武家様に決めてもらうよりねえだよ」
そう言われた直也が一息吸い込むと、口を開こうとした、その時。奥に寝かされていたはずの赤ん坊が這いずって奥座敷にやって来たのである。まだ目も開いていないような赤ん坊が、である。
いや、人々の目にはそう見えた。その実、赤ん坊をそっと支えていたのは座敷童であったが。
「お、おお、なすてこんただとこさやってきた?」
皆驚いているうちに、赤ん坊は直也の前までやって来て、そこで止まる。正確には座敷童が赤ん坊を直也に委ねたのである。
その直也はあらためて口を開いた。
「喜八さん、せつさん、この子が可愛いですか?」
そう尋ねた直也に、
「あたりまえでねえか、わが子が可愛くない親はいねえだ」
「おらが腹さいだめで産んだ子だ、かわいぐねえわけねえべ」
直也は赤ん坊を抱き上げて、
「それでしたら、まずこの子のことを考えて上げて下さい」
と言った。
「俺は若輩者で、子供はおろか、妻もいませんが、一つだけ言えることがあります。
それは、子供には両親が必要だと言うことです。俺には母はいますが、父は俺が生まれてすぐに亡くなりました。その俺だからわかることがあります。
この子の幸せは母親だけ、父親だけ、が与えられるのではありません。両親が揃っていて初めてこの子は幸せになれるのです」
直也のその言葉は喜八とせつ、特にせつの胸に染みた。意地のために子供の幸せを奪って良いものか。
「この子の幸せは他人が決めるものではありません。俺がどちらかの親元で育てるべきだ、そう言った瞬間、この子は片親を亡くすに等しいんです」
直也が続けて言葉を発しようとしたその時、せつが泣き崩れた。
「上田様、おらが悪うございましただ。意地はって、子供の幸せ奪うような真似して…こっぱずかしいだ。…あんた、許してけろ」
「せつ、おらも悪かっただ。つい誘いに乗って女郎屋へ行っちまってよう、.…もう二度とすねえかんら、許してけれ」
「よかった…」
微笑んだ直也の視界の隅で、座敷童も確かに微笑んでいた。
* * *
直也と弥生は今、遠野を後に盛岡へと向かっているところ。
直也の顔は晴れ晴れとしている。彼の忠告に従って、喜八とせつはよりを戻したのである。
一方、弥生の胸中には一抹の寂しさがあった。それを胸に納めておけなくなり、弥生は口を開く。だが口から出て来たのは思ったこととは違う言葉であった。
「直也、よくやったのう、儂は、どちらが赤子を引き取るのがより良いか、そればかりを考えていたというに」
直也は笑って、
「元々誤解から生まれた行き違いみたいだったからな。子供にとって両親が揃っている方がいいに違いないだろ?」
その言葉を聞いた弥生はその場に足を止め、ついに本心を口にする。
「…直也…、お主、…やはり、…寂しかったのか?」
振り返った直也は驚いたような目で弥生を見つめた。そして弥生が言わんとするところを察した。
「…優しい母さんがいてくれた。じいちゃんもばあちゃんも可愛がってくれた。…そして弥生がいつも傍にいてくれた。…寂しいなんて言ったら罰が当たるかも知れないけれど…父さんが欲しい時もあったさ」
そう言った直也の顔も寂しげであった。弥生はそんな直也に、
「…済まぬ。儂の力不足で直衛殿を護りきることが出来なかった所為じゃ」
そう言った弥生に向かって直也は、
「違う!…弥生、それは違う!…上手く言えないけれど、弥生の所為なんかじゃ断じてない!」
しかし弥生は、
「…前世で儂は大勢の人を苦しめた。今生での儂は人一人助けることも出来なかった。…儂はどうしようもない狐じゃ」
直也はそんな弥生を不意に抱き締めて、
「弥生、そんな事はないよ。これまで弥生はたくさんの人を救ってきたじゃないか。何年、何十年、何百年かの先に、その人の子孫はきっと感謝してくれる。人が感謝してくれなくても…天と地が…何より俺が知っている」
「直也…」
弥生は直也の腕をゆっくりと振り解くと、
「人は…成長するのじゃな」
そう呟いたのだった。
弥生のような霊狐は人に比べたら無限に近い寿命を持っている。だが長寿であるということは成長を急がないという事でもある。
人である直也は短命であるが故に、生まれ落ちた時から成長を続け、いつの間にか弥生の知らない面を持つに至った。
そんな直也が今は眩しい。一時でもいい、直也の伴侶として傍にいられたら、どれほど安らぐことか。そんな暮らしを思わないでもない弥生であったが、いつもそれを打ち消してきた。
あの赤子と同じように、直也の幸せを考えたら、どうすることが一番良いのか…本当はそんな問いを山ン本五郎左衛門にしてみたかったのだ。
そんな思索は、別の出来事で中断された。
「おや?、どうしたんだろう」
直也の声。その声に顔をあげて先を見ると、行く手、緩やかな登り坂の途中に、しゃがみ込んでいる娘がいた。
「どうかしたのかな」
直也が呟きながら足早にそちらへと向かう。少し遅れて弥生もその後を追った…が、突然弥生は、
「直也、止まれ!その娘、人ではない!」
その声に直也は足を止め、娘も顔を上げた。その顔に見覚えがあった。
「あ、直也様、弥生様」
「あなたは…」
「千草です、その節は失礼致しました」
娘は千草であった。そう、山ン本五郎左衛門の孫娘である。
「いったいこんなところでどうしたのですか?」
そう直也が聞くと、
「祖父は出かけてしまったし、マヨヒガに独りでいるのも退屈なのでこっそり旅に出たのですがお腹が空いてしまって…」
「…はあ?」
仕方なく直也はせつの所で作ってもらった握り飯を差し出す。千草はそれを瞬く間に平らげてしまった。
「ごちそうさまでした、たすかりました」
「それで、これからどうするおつもりなんですか?」
「そうですわね…」
千草は一寸考えたが、すぐに顔を上げて、
「直也様と弥生様、一緒に旅していただけませんか?」
そうにっこり笑って言うのだった。
断るわけにも行かず、それを承知した二人。北の国の短い夏はこれからが盛りの頃であった。
遠野編、です。いくら遠野とはいえ河童や座敷童や山男や狐や狼が跳梁跋扈しているわけではないのでこんな話に。
とにかく直也の成長を描きたかったことと、狼との縁を結ばせたかったのです。そしてちょっとだけ座敷童登場。
指摘される前に告白しておくと、離婚訴訟中の夫婦が、どちらが子供を引き取るか、という時、
両親がいることがベストだ、というのは「家栽の人」で見た解決法です。でも父親がいない直也にはふさわしい結論だと思うのです。
さらに、弥生が山ン本五郎左衛門を探していたのは、実は相談したかったから。自分と直也のことを、です。結局会えませんでしたけどね。
不死になると繁殖能力を無くす、というのはSFでよくある設定ですが、弥生はそれに近い存在であっても、恋愛感情は持っています。
ただ普通の妖狐などに比べたらかなり稀薄でしょうけれど。ですから落ち着き先を求めてはいるのに、積極的になれずにいる。そんな弥生と直也の間に、千草という楔を打ち込んだらどうなるか。紅緒とはまた違った道中になることでしょう。
最後に、東北弁(遠野地方の方言)は難しすぎます…。ご存じな方がいらっしゃいましたら是非添削をお願い致します…m(_ _)m
それでは、次回も読んで頂けたら幸いです。




