巻の六十三 狐駆け落ち(後)
巻の六十三 狐駆け落ち(後)
翌日、水沢の宿を発って花巻へと向かう四人。水沢から花巻へは北上を経由しておよそ六里(約24キロ)、明るいうちに着ける距離である。
なのでのんびりと歩いていく一行。その実、それぞれの胸の内にはさまざまな想いが去来している。
直也は二人を自分と弥生に重ね合わせ、是非とも添い遂げさせてやりたいという気持ち。
弥生は達吉が本当におるいの事を思っているのか確かめたいという考え。
達吉は花巻という新天地でおるいと二人、細々とでいいから穏やかに暮らしたいという想い。
おるいは追っ手から何とか逃れて達吉と添い遂げたいという願い。
口には出さないが、それぞれの考えにふけっているので口数は少なく、歩みも自然遅くなるのであった。
そんな中、弥生だけは周りへの注意も怠っていない。その弥生の感覚網が反応した。
「直也、達吉殿の横へ。…おるい、二人の後ろへ」
あたりは一面の草原。夏草が人の背丈ほどにも生い茂っている。他に人影はない。
「弥生、いったい…?」
「しっ!…来るぞ」
いきなり霧があたりをおしつつむ。僅かの間に灰色一色の世界になってしまった。
「白昼にこれだけの術を使えるとは、ただならぬ相手じゃな」
おるいは達吉にしがみついてぶるぶる震えている。直也は刀に手を掛け、いつでも抜ける体勢。
弥生はそんな直也に、
「儂が交渉に行ってくる。何があっても儂に任せてくれるか?」
「もちろんだ、頼む」
頷いて弥生は歩き出す。
「その間二人を頼むぞ」
そう言い残して霧の中へと向かう。
「弥生!気をつけろよ」
そんな直也の声に、弥生は軽く右手を振って答えると、霧に融け込むように姿を消した。
「大丈夫でしょうか…」
達吉の心配そうな声。
「弥生なら大丈夫、信じて待っていよう」
そう答えた直也であったが、一抹の不安は残っていた。
弥生が霧の中を歩いていくと、前から巨大な光の玉が飛んできた。直径三尺はありそうなそれを片手で止めると、
「…カンマーン」
不動明王の種子。光の玉はたちまちにして地に落ち、一匹の狐になった。
その狐に命じる。
「儂は争いに来たのではない。長の所まで案内せい」
その狐は尻尾を丸めると、弥生の威に気圧されたように、後ろを振り返り振り返り、霧の中を歩いていく。
弥生がその後を付いていくと、野原の中に陣が築かれており、その正面に白髪白髯の翁が座っている。そして左右には武装した狐の武者が何十人も並んでいた。
一番端の武者が刀に手を掛けた時、翁がそれを遮って、
「やめよ。お前達の叶う相手ではない」
そして弥生に向き直り、
「霊狐殿、何の御用ですかな?」
弥生は臆することなく武者達の間を通り抜け、翁の前に立つと、
「おるい殿の事で話をしに来た」
「…伺いましょう」
* * *
「遅いですね、弥生様...」
ぽつりとおるいが心配そうに呟く。
「今まで弥生はどんな相手にもおくれを取ったことはない、心配しないで待っていよう」
「でも、父は王子の稲荷様も一目置く程の剛の者で、千を越える眷属を従えているんです…」
「大丈夫だって」
直也がそう言った時、霧の奥が光った。何かが爆発したように、それは幾度も繰り返し発光する。
それはしばらく続き、やがて静かになった。
「何だったんだ?」
そう思った矢先、霧の奥から人影が近付いてきた。
「弥生!?」
そう思ったが、現れたのは三人。一人は白髪白髯の翁、左右に屈強な武者が付き従っている。
「お父様…!」
おるいが叫んだ。
「るい、帰るぞ」
そう言って手招きする翁。
「嫌です!…わたしは達吉さんと一緒に行きます!!」
「馬鹿なことを。人間と添い遂げられると思っておるのか?」
「…添い遂げて見せます…」
「辛い思いをするのはるい、お前だぞ」
「……」
そんな父と娘の会話に割り込んだのは直也。
「弥生はどうした」
翁は直也をちらりと見ると、
「あのおせっかい狐か。…返してやろう」
そう言うと右にいた武者に目配せをする。
武者は軽く右手を振る。するとどこからともなく落ちてきたものがあった。
見れば弥生である。満身創痍でぐったりしている。そうとう手ひどくやられたらしい。
「弥生!」
直也が抱き起こすと弥生は目を開けて、
「…直也か…少々相手が多すぎた。…不覚じゃった」
そう言って再び目を閉じた。話をするのも辛そうである。直也は怒った。
「貴様ら…弥生を…!」
懐の翠龍を掴もうとした直也に向かって翁は、
「動くな、直也」
その声を聞いた直也は身動き出来なくなってしまった。愕然とする直也。
(何故…ミナモを身に付けているのになぜ術が掛かるんだ…それほどこいつの力が強いのか?…ミナモの力を凌ぐほど?…)
まばたきと呼吸は出来るものの、声すら出せない状態になり、直也は弥生を抱きかかえたままどうすることも出来なかった。
「さあ来い、るい。…夜星、連れてこい」
そう言って翁は左に控えていた武者におるいを連れて来るよう命じた。命じられた夜星がおるいの手を掴んだその時。
「お、おるいを…放せ!」
そう叫んだのは達吉。そこらに落ちていた枝を拾い、武者に殴りかかっていった。
「こざかしい」
右に控えていた武者はその枝を無造作に掴むと達吉の手からむしり取り、二つにへし折る。
「く、くそっ!」
素手で殴りかかる達吉だが、武者はそれを軽々とかわしていく。
「達吉さん! やめて!…そのひとは父の一の家来、蓑火!、それ以上やったらただじゃ済まないわ!」
「お前をとられちまうのならこの命なんぞ惜しくない!…くそっ、おるいを返せ!!」
猶も向かっていく達吉に業を煮やしたのか、武者は手に狐火を灯す。色は青緑色。木気の火である。
ごく小さいものだが、それを喰らえば人間だったら気絶は免れまい。
身動き一つ出来ない直也はその有様を歯噛みしてみているより他になかった。
「五月蝿い」
ついに狐火が放たれた。達吉は必死にそれをかわそうとするが叶わず。僅かに逸れたものの右半身を直撃した。
「ぎゃああっ!」
辛うじて気絶しなかったものの、半身が麻痺し、その場に倒れ込む達吉。それを見たおるいは、
「達吉さん! 達吉さん!」
必死に叫ぶが、もう一人の武者の掴む手は緩まない。
「…放してよ!…お願い、夜星!」
「駄目です。長の言いつけですから」
達吉は地面に倒れながらもまだ動く左腕で必死に蓑火の脚を掴んだ。
「おるいを…返せ…!」
ものも言わず、蓑火はその手を振り解くと、はいつくばる達吉の頭を蹴り飛ばした。
「ぐあっ!」
「やめて!蓑火!…お願い、もうそれ以上達吉さんに非道いことしないで!」
「…るい」
翁が口を開いた。
「その人間を痛いめに遭わせたくないのなら、わしと一緒に戻るか?」
「えっ…」
「狐は狐同士、一緒にいるのが一番なのだ。戻ろうぞ」
「……」
「さあ」
俯いていたおるいは顔を上げると、
「…嫌です」
毅然と言い放った。
「お願いです、お父様。…どうか達吉さんと一緒にさせて下さい」
翁は難しい顔をしていたが、
「るいの気持ちは分からんでも無いが。…それなら、その人間の気持ちを確かめてやるとしよう」
「これ以上何を!」
そう叫んだおるいの身体を衝撃が走り抜けた。翁がおるいの変化を無効にする術を掛けたのだ。
「あ、あ、あ…」
みるみるうちにおるいの身体が縮んでいき、一匹の狐と化してしまった。
「お父様…」
そう呟いた筈の声も、狐の鳴き声になっている。
そんなおるいを前に、達吉は呆然とした目で横たわっていた。
「人間、これがるいの正体だ。…これでも汝はるいを妻にしたいか?」
翁は冷たい声でそう問いかけた。
「…」
横たわった達吉は言葉が出ないようであった。
無理もない、頭で狐とわかった気でいるのと、実際に目の前で狐の姿に戻るのを見たのとでは。
おるい狐は哀しそうな目で横たわる達吉の額をぺろりと舐めると、身を翻した。
「るい、帰る気になったか」
その翁の問いにおるいが答える前に、
「おるい!…戻ってこい!…お前は俺の女房だ!」
達吉の声が響いた。
その言葉におるい狐は振り返ると、一跳びで達吉の元へ。
達吉も痺れた身体を動く左手だけでやっとの思いで起き上がらせると、駆け込んできたおるい狐を受け止めた。
「おるい…!」
左手だけでおるい狐を抱きしめる達吉。おるいもその胸に顔を埋め、甘えるのであった。
「…よかった」
一部始終を動かない身体で見つけ続けていた直也は、我が事のようにほっとした、その時。
辺りを覆っていた霧が急速に薄れはじめ、気が付けば四人は陽光降り注ぐ草原に佇んでいた。
直也の前には弥生、達吉の腕の中には人の姿のおるい。
「あ、あれ?」
怪訝な顔をする達吉。
そこにどこからともなく声が聞こえてくる。
「達吉殿、いたらぬ娘ではあるが、末永くよろしく頼む」
あとは何の変わりもない、昼前の草原。
「…よかったのう、二人とも。おるい殿、長殿はそなた達二人の仲を認めてくれたぞ」
「あ…あの…」
言い淀むおるいに、
「ん?…今の一連の騒動か?…済まぬな、儂の術じゃ。長殿と話し会った末、達吉殿が本当におるい殿を想ってくれているのかがわかれば仲を認めると言うたのでな」
直也が渋い顔で、
「…それで俺まで騙したのか」
弥生は直也に向かって頭を下げ、
「…お主には済まぬことをした。心配かけたな、じゃがあそこでお主に翠龍を振るわれたらぶちこわしじゃ。どうしても達吉殿の誠意を見たかったからの」
「術って…あなたはいったい?」
驚く達吉。弥生は、
「なんじゃ、直也、話しておらなかったのか」
そう言うや、狐耳と尻尾を出して見せた。達吉は、
「あなたも…きつね」
「そうじゃ。儂は狐、この直也は人間。それでも仲良くやっておる。そなた達も出来るはずじゃ」
達吉とおるいは頭を下げ、
「ありがとうございました」
「ありがとう…ございました」
二人揃って礼を言った。
「さあ、それじゃあ花巻へ行こうか」
直也の声に、一行は花巻へと道を辿るのであった。
* * *
「それでは、お世話になりました、上田様、弥生様」
花巻で小さな店を借り、小間物屋を始めることにした達吉とおるい。店の名は達吉のたっての頼みで「弥生堂」となった。
春たけなわの季節の名前は、小間物屋にふさわしい。
それを見届けた直也と弥生は再び旅立つことにしたのだ。
「お幸せに」
「達者でな、二人とも」
別れの言葉を交わすと、直也と弥生は更に北へと足を向ける。
道々直也は弥生に、疑問をぶつけてみた。
「なあ弥生、俺はミナモを身に付けていたのに、なんで金縛りに掛けられたんだ?」
「ふふ、ミナモがはね返すのは悪意ある術。あの時、儂はお主を動けぬようにして守りたかった、それを察してくれたのじゃろう」
「ミナモが?弥生の意を?」
「そうじゃ。さすが宝具じゃなあ」
直也は苦笑して、
「弥生が落ちてきた時は心臓が止まるかと思ったよ」
「済まぬ。お主にあらかじめ伝える余裕がなかったのじゃ。かといってなまなかの術ではおるいを化かせないからのう」
そう言って目を伏せる弥生。そんな弥生に直也は、
「まあいいさ。…だけどな、弥生」
「ん?」
「…俺だって…達吉さんには負けないぜ」
「何の話じゃ?」
「弥生が狐だろうがなんだろうが、俺の気持ちは変わらないって事さ」
「…どういう意味じゃ」
「今回、あの二人を見ていてつくづく思った。…弥生、俺と…」
そんな直也を弥生は制して、
「それ以上言うてはならぬ」
「弥生…」
「お主の伴侶は人間の娘。それを見つけるために旅しておる」
そう言ってさっさと歩いていく弥生。その後ろ姿に向かって、
「わかったよ、弥生」
そう答える直也。
(いつか必ず、お前に認めて貰える男になってやるからな)
そんな想いを胸に、雲流れる北への道を歩む直也であった。
今回は駆け落ち話。ネタ自体は早々に思いついていたのですが、書く時期として直也が弥生を意識しだしてから、と決めていました。
今回のカップルは相思相愛で、これからも仲良くやっていくでしょう。そんな二人を見て、直也もはっきりと自覚する、そんな裏での流れを書きたかったのです。演出がくさかったりくどかったりしたならそれはひとえに作者の経験不足(恋愛事の(泣)です。
さて、こうなると弥生の気持ちが気になってきます。それはこの先のお話で。
それでは、次回も読んで頂けたら幸いです。
20140709 修正
(誤)野原の中に陣が気づかれており
(正)野原の中に陣が築かれており




