巻の六十一 杜の都にて(後)
巻の六十一 杜の都にて(後)
青葉屋に戻ると直に夕食であった。一兵衛は随分と良くなったと見え、食事後に自ら茶と茶菓子を持ってやって来た。
「何かあったそうではないですか」
そう言いだした。松吉から聞いたのであろう。それで直也は、黒い影のことを話した。
「ふうむ。それが辻斬りの正体ですかな?」
「いや、違うじゃろう。昨夜の辻斬りは明らかに人間じゃった。今日のそれは…妖じゃ」
一兵衛は驚いて、
「弥生様は妖を見分けられるのですか?…お詳しいようですが」
「…まあ、諸国を旅する為に役に立つ程度には、の」
そう言ってお茶を濁す弥生。一兵衛はその答えで納得したのか、話題を変えた。
「そのお武家様…千倉様と言いましたね、千倉様はうちのお得意様で、千石取りの大家です。今の御当主は町奉行を務めてらっしゃいます」
「そうすると怪我をしたのはその跡取りの若様ということかな?」
弥生の問いに、
「いえ、多分御次男の裕次郎様でしょう。御嫡男の正一郎様は江戸詰めですから」
「そうか…」
「裕次郎様は剣術がお好きでしてね。それ以上に刀がお好きで、名刀と聞けば何とかして手に入れようとなさっておられますよ」
「それで俺の刀を見たがったのか」
納得した直也である。しかし一目で刀の善し悪しを見分けるとは、並の刀好きではない。
一兵衛はその後、商売の話などをして、小半刻後、店へと戻っていった。一兵衛がいなくなったのを見定めた直也は、昼間から気になっていたことを弥生に尋ねる。
「弥生、石碑のところで何に気付いたんだ?」
「うむ。…昨日は確かにいた石碑の精が…おらなんだ」
「何だって?」
「物精というのは本体からそう離れることは無いはずじゃのに、気配が微塵も感じられなかった。 …その上、石碑に血が付いておった」
「え?」
「勘違いするでないぞ、石碑が血を流したのではない、何か動物の血が付いたのじゃ。…多分…あの臭いは…猫じゃろうな」
弥生の推測によると、昨夜の辻斬りが、直也に邪魔をされた腹いせに野良猫に八つ当たりをして斬りつけ、その血が石碑に飛び散ったのだろうという。
「猫の死骸は野犬か烏にでも食べられたのじゃろう」
直也達が見た時には猫の死骸など無かった、そのわけを推測する弥生。
その弥生は更に信じがたいことを語り出した。
「辻斬りの正体はあの裕次郎という若い武士じゃな」
「ええっ!?」
「何じゃ、気付いておらんかったか。…無理もない。昨夜は闇夜じゃったし、覆面をしていたしのう」
驚く直也に、
「臭いですぐにわかった。…刀好き、剣術好きと言ったな。おそらく刀の切れ味を試してみたかったのじゃろう」
「だからといって…」
「そうじゃ、許されることではない。…じゃが、裁くのは儂らではない。それにもう罰は受け始めておる」
「え?」
「今日の妖…おそらく石碑の精じゃ」
「えええっ!?…何故石碑の精が辻斬りを…」
驚いてばかりの直也に向かい、弥生は沈痛な顔で、
「おそらく…斬られた猫の恨みに取り込まれてしまったのじゃ。…猫の恨みが取り憑いて…化け猫と化したのじゃな。猫にしてみれば…理不尽に斬られ、息が絶える寸前、己の血を吸い込んだ石碑の精を取り込んだんじゃろう…」
「なんて事だ…」
「天狗の秘薬でも傷を完全には治せなかったのは恨みの念が込められた傷だからじゃな」
「ああ、そういうわけか…」
納得する直也。恨みとは恐ろしい。
「じゃが石碑の精と一体化したがため、かの妖はお主を傷つけることが出来ず、跳びかかった時にお主を避けことで僅かに爪が逸れ、完全に喉笛を掻き斬るには至らなかったのじゃ」
「そうすると…」
「うむ、今夜あたり、再び狙ってくることが考えられる。まあ自分の屋敷から出なければ命は助かるじゃろう」
弥生がそう言った刻、遠くで雷の音が聞こえた。
「今夜は雷雨になるやも知れぬな」
翌朝のことである。
食事を終えた直也と弥生に来客があった。離れに呼び出されてみると、初老の武士と、昨日の中間である。
「これは、昨日は不肖の倅のお命を救って頂いたというのに、何も御礼出来ず面目ない。儂は千倉宗右衛門、裕次郎の父でござる」
「上田直也と申します」
「弥生です」
互いに挨拶を交わすと、宗右衛門が、
「実は昨夜、化け物に襲われたのじゃ」
と切り出した。聞けば、昨日、担ぎ込まれた裕次郎を医者に見せ、命に別状無い事を確認した後、腰元に看病を任せていたところ、夜中に突然、黒い影に襲われたそうだ。その時は腰元が大声を上げたためか、影は雷の鳴る中、姿をくらましたという。
「この中間の話によると、上田殿はその化け物と対峙なさって一歩も引かれなかったとか。また、そちらの弥生殿も、ここの主、一兵衛に聞けば呪術を心得ておられるとか。…どうか、我が家に来て、化け物から倅を守ってくれぬか」
どこがどうなって弥生が妖怪を見分けられると言う話が呪術を心得ていると言う話になったのか。うっかりしたことも言えない。
直也は少し考えて、
「わかりました。今日の午後にでも伺いましょう」
と返事をする。宗右衛門は喜んで、
「や、来てくれるか。かたじけない。…これは些少ながら支度金じゃ」
そう言って、辞退する直也の手に、半ば無理矢理袱紗に包んだ金を押しつけて帰って行った。
「…直也、やはり…行くのじゃな」
「ああ。辻斬りとはいえ、命を狙われているのを見過ごすわけにはいかないし、…それよりも」
「?」
「…石碑の精が哀れでさ」
人間だけでなく、妖にも同情をする直也を、人間でない弥生は微笑ましく思った。
「そうじゃな、今ならまだ間に合うかも知れん、化け猫の恨みを解いてやれば、なんとかなるじゃろう」
そう言うと、
「じゃが、宗右衛門が儂らに頼みに来た、その裏には…家の恥を藩の者に知られたくないという気持ちもあったと思うぞ」
と言い添えたのだった。
約束通りその日の午後、直也と弥生は青葉屋一兵衛に世話になった礼を言って、千倉家へ向かった。
一兵衛は名残惜しそうに、
「またこちらへ来る機会がございましたら是非お立ち寄り下さい」
そう言って幾ばくかの餞別まで呉れたのである。
弥生はと見れば何やら小さな包みを抱えている。聞けば、化け猫退治の道具だそうだ。直也もそれ以上聞くことはしなかった。
「良く来て下さいました」
千倉邸では昨日の中間が出迎えてくれた。奥に通される。
奥の間に宗右衛門が待っていた。あらためて裕次郎のことを頼まれる。直也は頷き、裕次郎の容態を尋ねると、命に別状はないが、ほとんど声を出せなくなっているという。
秘薬で傷は塞がり、命に別状はなくなったものの声が出なくなったのは恨みによるものであろう。
それもこれも辻斬りの報いと言えよう。直也はそれ以上その件に突っ込むのは止めた。
直也と弥生は裕次郎の寝ている部屋の隣にいて、様子を見ることにする。足手まといなので、腰元や中間は近付かせない様に頼んでおいた。
部屋に落ち着くと直也は、
「だけどその腰元、どうやって追い払ったんだろう?」
直也が疑問を口にする。すると弥生は、
「ふん、腰元の手柄ではない」
「どういうことだ?」
「昨夜は雷雨じゃったろう、石碑の精は土気、雷は木気。木剋土、雷を嫌ったのじゃ。おまけに猫は水が嫌いじゃしな」
「そういうことか…」
「じゃが今夜はまず雨は降らぬ。来るとすれば今夜じゃ」
そう言って弥生は包みから呪符を取り出し、部屋の入口に貼った。
「これで並の妖ならこの部屋に入ることは出来ぬ。じゃが相手の力量が分からん。油断はできんぞ」
「そうだな、俺も庭を見回ってくるよ」
そう言って直也は庭の方へ消えた。弥生は包みを解き、中から出した物を使って何か仕掛けをしていた。
「さて、儂の策が上か、恨みが上か…勝負じゃな」
ひとりごちた弥生は、部屋の中の裕次郎の様子を眺める。声が出ない上、食べ物がほとんど飲み込めないため、衰弱していた。
その裕次郎の耳元で何事かを囁く。裕次郎は目を見開き、弥生の顔を見つめ、…目を逸らした。
そこへ直也が戻ってくる。
「弥生?…ああ、裕次郎さんの部屋か。容態はどうなんだ?」
「傷は大分良いが、喉をやられておるので声を出せない上、ろくろく食事が出来ぬようじゃ」
「そうか…」
同情する直也。その直也に向かって弥生は、
「そろそろ日が暮れる。化け猫の動き出す時間じゃ。お主は裕次郎殿の部屋の前におれ。儂は庭を見張る」
そう直也に指示をし、弥生は縁側に出た。
空は黄昏。いくらか雲が色づいており、雨は降りそうもない。夏間近の少し蒸し暑い夕暮れであった。
待つ時間は長い。日が暮れ、雲の間から星が見える時間になっても何事も起こらない。
流石に衰弱している裕次郎は眠りに落ちたようだが、直也はじりじりする気持ちを抑え、来るはずの化け猫を待ちかまえていた。
そして、子の刻(午前0時前後)を回った頃、弥生の灯した青い狐火が反応して明るさを増した。
「来た」
弥生の目が光った。同時に狐耳としっぽを生やす。跳躍。その弥生のいた場所に、石つぶてが飛んできた。
「石妖の力を使っておるのか」
かわす弥生目掛け、四方八方から石つぶてが襲いかかる。
「鬱陶しいのう…」
そう呟きつつ手に黄色の狐火を灯す。木気の狐火。それを植え込みに向けて放った。
狐火は植え込みの手前で弾ける。石つぶてがぶつかったのだ。だが、植え込みの影から黒い影が姿を現した。
若い女の姿だが、耳としっぽが生えており、それは黒猫のものである。
「姿を現したか」
そう言って両手から蒼緑色の狐火を放つ弥生。木気の狐火である。土気の妖は苦手なはずだ。化け猫はそれを跳躍してかわす。
身のこなしは猫のもの、弥生と同等の素早さだ。その化け猫が反撃してきた。爪を伸ばし、斬り掛かる。弥生は紙一重でそれをかわしていく。
奥の部屋からそれを見ていた直也は、かつて紅緒がマーラに取り憑かれていた時に弥生とやりあった事を思い出していた。
「あの時の紅緒より遅いな」
しかし何があるか分からない。
その上、弥生は直也が石碑の精を助けたがっていることを知っている。手加減せざるを得ないだろう。
直也は刀の柄に手を掛け、いつでも抜けるよう身構えていた。
更に化け猫は石つぶてを使う。四方から飛んでくる石をかわしながら、化け猫の爪をかわすのは容易なことではない。
流石の弥生も、体勢を立て直すべく、後ろに下がる。そこへ石つぶてを集中させる化け猫。
「くっ」
空中高く跳び上がってそれをかわす弥生、だがそれこそ化け猫の思うつぼであった。二百貫(約750kg)もあろうかという大岩が弥生を襲う。
地上なら軽くかわせるのだが、空中にあっては避けようがない。
まさかこのような大きな岩まで操れると思っていなかった弥生の不覚であった。
「破!」
狐火を放ち、辛うじて大岩を粉砕する。
が、二つ目の大岩が背後から襲いかかった。
「何…!」
大岩が背中に激突する。
「げほっ!…」
肺の中の空気が吐き出され、呼吸もままならない。呪を唱えることも叶わず、そのまま落下する弥生。
地面に激突する刹那、身体を丸めて着地。続いて落下してくる大岩を紙一重で避けた。
…筈であった。
大岩はその落下軌道を逸らされ、避けたはずの弥生の真上に落下してきた。
「ぎゃあっ!」
咄嗟に身体を捻り、直撃は避けたものの、右足を潰されてしまった。岩と地面に挟まれ、身動きが取れない。
「く…恨みの念がこれ程強いとは…誤算じゃった…」
足を抜こうとする弥生を尻目に、化け猫は屋敷へ近付いていく。
それを見て取った直也は、弥生が心配であったがまずは目の前の妖だと思い直し、刀を抜き身構えた。
その化け猫は直也を見るとにっこりと笑った。どうやら弥生の言う通り、石碑の精の影響が化け猫に残っているようだ。今はどこから見ても人間の娘、人なつこい笑顔である。
「なあ、もうやめろよ、狙っている裕次郎はもう喋れなくなっているんだ、もう十分だろう?」
直也は説得を試みた。
だが化け猫は歩みを止めなかった。直也に対して見せていた笑顔を消すと、直也の背後を睨み据える。
そこには弥生が貼った呪符があった。これがある限り、妖は中に入れない。それを見た女のまなじりが見る見る吊り上がり、口が耳まで裂けた。正しく化け猫である。
化け猫が右手を一振り。
庭に転がっていた石が一斉に浮き上がり、裕次郎のいる部屋目掛けて矢のように襲いかかった。石は妖ではない。呪符では防ぐことは出来ない。
「やめろ!!」
直也が身体を張って防ごうとするが、防げるものではない。直也に当たる寸前、石は勢いを無くして床に落ちるか、左右に逸れてしまうのだが、大半の石は障子を突き破り、裕次郎目掛けて襲いかかっていた。
「…!」
声にならない声を上げ、裕次郎が悶える。
頭、胸、腹、両腕、両脚。人間の頭ほどもある石が七つ、裕次郎の身体にめり込んでいた。
「ああ…裕次郎さん…」
あまりの惨状に直也も呆然となる。
そこへ弥生が右足を引き摺りながらやってきた。
「く…!…間に合わなかったか…」
その場にくずおれる弥生。直也も守りきれなかった脱力感に、膝を付いてしまう。
一方、化け猫はというと、さも嬉しそうににたりと笑った。凄愴な笑みである。
その笑みから次第に邪気が抜けていく。
「どうしたんだ?」
「…恨みを晴らし、満足したのじゃな」
いつの間にか弥生が直也の隣に来ている。
「恨みを晴らし、満足したのなら成仏するがいい。おんあみりとどはんばうんはったそはか…」
弥生が馬頭観音の真言を唱えた。
すると、化け猫の周りに淡い光が満ち、それは次第に上へと移っていき、最後には頭に集まる。
「成仏せよ、おんあぼきゃべいろしゃなぅ…まかぼだら まに はんどまじんばらはらばりたや…うん!」
弥生が光明真言を唱え終わると同時に、その光は浮き上がり、弾けて、夜空に吸い込まれるようにして消えていった。
すっかり邪気の抜けた石碑の精は目をしばたたかせると、目の前にいる直也に向かってにっこりと微笑み、たちまちにして夜の闇に消えてしまった。
「終わったか…」
小さく息をつく弥生。その弥生に直也は、
「弥生、今回は…駄目だったな」
そんなうち萎れた直也に向かって弥生は、
「いや、上手くいった」
「え?」
「見よ」
そう言って弥生は、裕次郎の部屋の入口に貼った呪符を剥がした。
すると石に潰された裕次郎の身体が見る見る縮み、藁人形になってしまったではないか。
「これは…?」
「ふふ、身代わりじゃ。中に一本、裕次郎の髪の毛が入っておる。儂の術で裕次郎に見せかけ、代わって化け猫の恨みを受けて貰ったのじゃよ」
「そうだったのか…」
安堵の息をつく直也。
「良かった。…恨みは解くもの、結ぶべきものじゃあないからな」
「見破られるか否か、賭けじゃったがのう」
「弥生の術だ、滅多なことで見破れるわけはないさ」
「お主まで騙して済まんかったのう、しかしほんの僅かでも見破られる危険は冒したくなかったのじゃ」
直也は笑って、
「いいさ、そんな事。…それじゃあ、岩に足を潰されたのも幻なんだな?」
「うむ。…ほれ」
弥生は微笑み、着物の裾を少し捲って脚を見せる。白くなめらかなその脚には傷一つ付いていない。
直也はどぎまぎして、
「わ、わかったよ、わかったからもういいって」
弥生はくすりと笑いながら裾を直した。
「さて、夜明けまでまだ間があるから、少し眠るとしようかのう」
「おい、転がった石は?」
「屋敷の者に明日片づけさせれば良い。…おおそうじゃ、本物の裕次郎を出してやらねば」
そう言うと弥生は裕次郎の部屋の押し入れを開けた。中には呪符を貼られた裕次郎がいた。
直也が裕次郎を布団に横たえると、裕次郎は涙を流して首を振った。声の出ない今、彼なりの礼をしたらしい。
直也はそれでいい、と思った。辻斬りの罪を裁くのは自分ではない。
天は既に十分な裁きを下している、そう感じた直也である。
二人は隣の部屋に布団を敷き、短い間ではあるが眠ることにした。
夏が近いとはいえまだ明ける時刻には早く、いずこからか不如帰の声が聞こえてくるだけの静かな夜であった。
今回は東北編その1、仙台です。
今回は石妖+化け猫です。今までにないパターンの話にしたかったのと、新たなキャラを出したかったのがこういう結果に…。
商人は描くの難しいですね。一兵衛、何の意味があったのかさっぱりな登場人物でした。この辺は要精進です。
ただ大局的にみると、意味がありそうで意味のない登場人物というのもパターン破りなので推敲のときにあまり直しませんでした。(言い訳)
話中で弥生が言った通り、籠もった念が精になるのは万に一つも無いこと、でも今回は偶々条件が揃ったため遭遇。
辻斬りと直也との一騎打ちとかも描きたかったのですがそう言う展開にはなりませんでしたね。
直也が「太刀薙」で辻斬り自慢の刀を叩き折るシーンが描きたかったのですが、何故か書いていくうちにこういう展開に。
そして今回、直也は自分の気持ちに気付き始めました。弥生は今のところ自分にはそんな資格はない、で逃げ続けています。
結局今回は欲張りすぎて掘り下げ不足になった感があります。まあ伏線が幾つかあるのでそう言う話ということで。
次回は更に精進します。
それでは、次回も読んで頂けたら幸いです。




