巻の六 海辺の村
この物語は長編です。今のペースですと80から100話くらいを予定しております。初めのうちはストーリー展開優先、後半に行くにつれ描写や日常の割合が増えるかと思います。
巻の六 海辺の村
湿った風の吹く中、上州と越後の境、三国峠に立つ直也と弥生の姿があった。
「いい眺め…と言いたいところだけど何も見えないな」
「霧じゃのう」
背後に建つ御阪三社神社は見えるが、三国山となるともう見えない。
「こんな天気もあるじゃろう、下るとしよう」
ゆっくりと三国街道を下る二人。
「もう越後の国じゃ」
「なあ、越後と上州の境なのになんで『三国』峠なんだ?」
そう、三国峠は、べつに三国に跨っているわけではない。直也が当然の疑問を口にした。
「この先、越後に、三国村というのがあっての、そこの峠じゃから三国峠というらしい。三国村はちゃんと信濃、上野と隣り合っておる」
「ああ、そうか、なるほどな」
納得してうなずく直也。
「ところで、その手に持っているのは何だ?」
直也は、弥生が手にしている包みを指して言う。
「ん? これは鹿の角じゃ」
「何だってそんなものを?」
弥生が答えていうには、
「懐具合が寂しいからのう、鹿の角を取ってきたのじゃよ。これは鹿茸と言うてな、精力剤になるのじゃ。昨夜、山の中で十頭ほどからいただいてきた」
「え、生きた鹿の角を切り取ってきたのか?」
「そうじゃ。若い角でなければ薬効がないからの、売れんのじゃよ。まあ、殺したわけでもないし、また来年になれば角は生え替わるからのう」
「……」
「儂も里に長くいたためか少々金銭感覚がおかしくなっていたからのう、少し稼がないとこの先不便なこともあるじゃろうからな」
弥生はそう締めくくった。
峠を下った先の浅貝宿で、薬種問屋を探し出した弥生はその鹿の角を売ってきた。二両と二分になったという。これでしばらくは金には困らない、と、その晩は安いながらも宿屋に泊まる。高崎からこちら、ずっと野宿だったので直也はほっとしていた。
翌日は塩沢宿、そして六日町、長岡ときて、刃物の町与板を過ぎ、二人は寺泊に辿り着いた。
直也の目の前に青く広がる日本海、彼方には佐渡島が霞んで見えていた。昼の太陽が眼にまぶしい。
「これが海か…広いな」
「うむ、この遙か先に唐土や高麗があるのじゃ」
「弥生は行ったことあるのか?」
その直也の質問に、弥生はわずかばかり顔を曇らせたが、次の瞬間には元の表情に戻って、
「…『儂は』行ったことはない、知っているだけじゃ」
そう答えた。その中に含まれるかすかな違和感に直也は気づいたが、それについては何も言わず、
「今夜の宿はどうするんだ?」
そう聞くのみに留めた。
「さて、このあたりに宿があるのやら」
漁村ではあっても宿場は離れている。弥生はふと、半纏を着た娘が海を見つめているのを見つけ、そちらへ近づいていき、声をかけた。
「もし、娘さん」
「はい?」
振り向いた娘は日焼けしてはいたが、目鼻立ちの整った愛らしい娘だった。直也より二つ三つ上か。
「旅の者じゃが、この近くに宿はないかのう?」
「宿ねえ、この辺には無いねえ。宿場まで行けばあるんだけど」
そして直也に気が付き、
「もしよかったら、うちへ泊まらないかね? これでもこの辺りの網元なんで、部屋だけはたくさんあるよ」
「ほう、それは助かる、それじゃあ頼むとしますかのう」
「どうぞどうぞ。よかったら、旅の話を聞かせておくれ。弟がそういうの好きなんだよ」
そこで直也と弥生は娘に付いていくことにした。
「あたしはひさ。あんたたちは?」
「これは申し遅れた。これは直也、儂はその後見人で弥生じゃ」
「直也さんに弥生さんか。よろしくね。弟は与助、って言うんだけど身体が弱いすけ、網元継げんでね、家んなかで本読むのが好きなんだよ」
「すけ?」
聞き慣れない言い方に直也が思わず聞き返した。
「ああ、悪い。ついね。すけ、っていうんはこっちの言葉さ。「から」ってこと。身体弱いから、昔から本が好きでね。家になる本をみんな読んだ後は旅の人から話を聞いたりするのが楽しみでねえ」
そんな話をしているうちに海を離れ、少し陸側に入ると、松に囲まれた門構えの立派な家が立っていた。
「ここだよ。ささ、入って入って。茂平、お客さんだよ、すすぎ持ってきて」
「へーい」
おひさが呼ばわると、奥から下男らしい男が現れ、井戸から水を汲んで持ってきた。
「そこさえんちゃんこして下せえ」
「えんちゃんこ?」
「座って、ってこと。気をつけてるんだけど、ついこっちの言葉が出ちゃうね」
そう言っておひさは明るく笑った。
「与助ー、お客さんだよー」
直也達が足をすすぎ草鞋を脱ぐと、おひさは二人を座敷へ案内し、茂平にお茶の用意を言いつけ、弟を呼びに奥へと入っていった。
「旅の人なんてひっさしぶりだあ」
茂平はそう言いながらお茶とお茶請けの何かを差し出した。
「ふむ、塩がきいておるな」
弥生はそのお茶請けをひょいと摘んで手でちぎると口に運ぶ。直也も同様にしてみると、それは烏賊であった。
「一夜干しだすけやっこいが」
「うむ、よく噛むと味があって美味いのう」
弥生は早くも二つめを口に運んでいるが、直也は初めての味をゆっくりと味わっていた。そこへおひさがやってくる。
「弥生さん、直也さん、この子が弟の与助。ほら、挨拶せんと」
連れてこられた与助は直也より二つか三つ下であろうか、身体が弱いと言うだけあって、色白で線の細い少年だった。
「与助です。ようこそいらっしゃいました。何もできませんが、ゆっくりしていって下さい」
「直也です」
「弥生じゃ」
「与助、あたしは舟の帰りを待ちに海へ行ってるから、お客さんのことよろしくね」
そう言い残しておひさは外へ駆けだしていった。残された与助は苦笑いして、
「がさつな姉で済みません。姉から聞かれたかも知れませんが、僕は生まれつき身体が弱くて、網元を継げそうもなかったんで、姉が頑張っているんです」
「つかぬ事を聞くようじゃが、ご両親は?」
「母は僕を産んですぐに、父は五年前の時化で…」
「そうか、済まなんだ、もう聞かぬ」
済まなそうにあやまる弥生、だが与助は微笑んで、
「いえ、お気になさらないで下さい。今は姉が父母の代わりになってくれています」
そう言って与助は茂平が淹れたお茶を一口飲んだ。
「それよりも、珍しい旅のお話をお伺いしたいのですが」
「おお、おひさ殿もそう言っておったな。どんな話をお望みかな?」
弥生が詫びの意味も込めてそう言うと、
「何でもいいんですよ、町の話、人の話、山の話。僕はここの他は知らないので、何でも興味有るんです」
そうか、と一息置いて弥生が話し始めた。
「儂らは武蔵の国から来たのじゃが…」
* * *
夕食は炊きたての白米と焼き魚であった。
「越後は米所ですからね、美味しいですよ」
「うむ、本当に美味いのう」
「この魚…鯛ですか?」
「ええ、真鯛ですが小さくて卸せないものなんですよ」
弥生は相変わらず大食で、御飯を五杯もおかわりし、流石のおひさも眼を丸くしていた。
食事の後、おひさは直也と弥生を外へと誘った。小さな提灯の明かりを頼りに海辺へと向かう三人。
「ほら、見て」
暗い海の上にゆらゆらと灯りが漂っている。
「烏賊釣り船だよ、ああやって灯りで烏賊をおびき寄せて釣り上げるのさ」
海上にたゆたうように揺れ動く灯りは幻想的で、直也は初めて見るその光景にしばし時を忘れていた。
が。
「きゃっ!?」
一番海に近いところに立っていたおひさが尻餅をつき、悲鳴を上げた。提灯が水に落ちて消える。そしておひさはそのまま何かに引き摺られるように海に近づいていった。
「直也、海から離れよ」
「弥生!?」
弥生は直也の肩をつかみ、強引に海辺から引き離していく。その間にもおひさは海へと引き寄せられていった。
「弥生、おひささんが…!」
「わかっておる、まずはお主の安全じゃ」
浜から一段上がった場所まで直也を避難させた弥生は、暗闇をこれ幸いと狐耳と尻尾を出す。そしておひさに聞こえぬように小声で術を使う。
「木剋土、土剋水! 切り裂け、風の刃!」
ばしゃっ、とおひさの足元で水音がして、引き寄せられるのが止まった。立ち上がるおひさ。弥生は狐耳と尻尾を一瞬で隠し、
「おひさ殿、無事か?」
「あ、あ、弥生さん、なんとか、大、丈、夫…」
気丈に答えたが、弥生には暗闇の中でもおひさの顔が真っ青なのが見て取れた。
「おひさ殿、帰ろう」
「え、ええ…」
そう言いながら足元を見るおひさ。その足首には何かが巻き付いていた痕がくっきりと残っていた。弥生は闇の中でもそれが見え、目が一瞬鋭くなる。それに気づかないおひさは、
「海蛇かな…?」
「海蛇?」
「ええ、弥生さん、この辺にはたまに海蛇が来るんだ。こんな時期には珍しいけんど」
帰りながらおひさは、暮れ近くになり、海が荒れた翌日などに、浜辺に海蛇が打ち上げられていることがまれにあるという。
「でもあれが海蛇だったらかなりの大きさだったろうね」
「引きずり込まれないでよかったのう」
そう返しながらも弥生は、あれは多分海蛇ではないと感じていた。なにせ軽い術とはいえ、弥生の風の刃で断ち切る事が出来ず、追い払うに留まった相手であるから。
「大丈夫かい、おひささん?」
「直也さん、心配掛けたね、あたしは大丈夫」
家へ戻るとすぐに弥生はおひさの足を清水ですすぐ。
「青くなってるね、相当な力で締め付けられたんだな」
「うん、海に引きずり込まれることをおっかながるより、締め付けられた足の痛みの方がつらかった」
「膏薬でも貼ってもう休んだ方がいいのう」
「うん、そうするよ。弥生さん、ありがと。直也さん、おやすみ」
おひさが自分の部屋へと引っ込んだので直也と弥生も自分たちにあてがわれた部屋へと戻った。枕元には魚油で灯った有明行灯が一つ。
「直也、明日にはここを発とう」
布団に横になりながら弥生が言う。
「なぜ? 与助さんのところにはいろいろな本があったから、明日見せてもらおうと思ってるんだが」
「そう、か…。それならよい」
歯切れの悪い弥生だったが、直也はそれ以上問い詰めることをせず、布団にもぐる。じきに睡魔が訪れ、眠りに落ちた。
* * *
翌日は、言っていたように、朝食後、与助の部屋で本を見せてもらう直也。
「捜神記に山川経…? こんな本も持っているんですか」
「山川経でなくて山海経ですよ。船で来る商人に頼んで上方から取り寄せたんです」
「なになに、…読めない」
「ははは、僕も読めません。でも絵を見てから字を見ると少しはわかる箇所もあります」
そう言って与助は本をめくっていく。馬のような鹿のような鹿蜀、羽の生えた魚、ろく魚。そして…九尾狐。
直也が九尾狐の絵を見つめていると、
「九尾の狐ですね、向こうでは瑞獣らしいですが、我が国では妖怪ですよね」
与助が語り出した。興味を覚えた直也は黙って耳を傾ける。
「何で読んだのか忘れましたが、『狐寿八百歳也、三百歳後変化して人形と為る。夜、尾を撃げて火を出し、髑髏を載せて北斗を拝す。落ちざれば則ち人に変化す』とあった気が」
「へえ…」
「唐の狐が人間に化けるには髑髏を頭に乗せて北斗を拝むんですかね。この辺では木の葉を被るとか言ってますけどね」
弥生はどうやって人間に化けているんだろう、と頭の隅で考える直也。与助はそんな直也を知るはずもなく、
「佐渡は面白いんですよ、狐がいなくて狸ばかりなんです。その頭領は二つ岩団三郎、またの名を二ッ岩大明神と言って、その昔狐を騙して草履に化けさせ、船の上から海へ投げ捨てたとか」
「……」
直也は黙って聞くばかり。今更ながら、里ではいくらでも本を読む機会があったのに読まなかった自分を後悔していた。
一方弥生は一人浜辺にやって来ていた。昨夜の海蛇は歴とした妖であろう。その手がかりを求めて。
今日発ってしまえば関わり合いになる事ももう無いだろうと思ったのだが、直也はもう一泊するという。無理矢理発とうとすれば直也はその理由を尋ねるだろう。そしてその理由が直也を妖から遠ざけるためと知れば、なおのこと発とうとは言わなくなるだろう…。
「まったく、儂にとっては直也以外の人間は知ったことではないのじゃが。あのおひさと言う娘も直也の嫁には向かぬじゃろうし」
あくまでも弥生の考えは直也を中心にしているのであった。
「ふむ、今は潮が引いておるか。たしかこのあたりじゃったが、何か気配でも残っておらぬかのう」
対峙する可能性のある相手、少しでも知っておきたい弥生である。
「うむ、これは、まさか」
かすかに残る妖気に弥生は覚えがあった。
「じゃが、あやつはもっと北にいた筈なのじゃがな」
そう独りごち、沖を見つめる弥生。その瞳はただ青く広がる海原を映していた。そして再び足元に目をやって、
「何事も無ければ良し、一応準備をしておくか」
その夜、夕食を済ませ、茶を飲んでいる時にそれは起こった。
「網元! おひさ様!」
けたたましい物音、叫び声におひさは急いで戸締まりを外す。
「どうしたの!?」
「大蛇だ! 海蛇が舟をひっくりけえして二人引きずり込まれた」
「何だって!?」
それを聞いた直也も、
「弥生、昨夜おひささんが引きずり込まれそうになったのももしかして」
「うむ、そうかもしれぬ」
「弥生、二日もお世話になってるんだ、力になってやれないか?」
弥生はやはりな、と溜め息をそっと吐いて、
「直也、やはりお主じゃのう。それはお主の望みなのじゃな?」
「ああ、助けることが出来るなら助けてやって欲しい。やってくれるのか、弥生?」
弥生は薄く微笑み、
「それがお主の望みなら、儂はそれをかなえるだけじゃ。じゃが、間違っても海へくるでないぞ? 相手はおそらく濡女じゃ。濡女の体は三町(約327m)もあるという。お主を守りながらでは儂とて危うい」
それを聞いた直也は沈痛な顔で、
「わかった。弥生だけを危ない目に遭わせて済まないけど、頼む」
「承知じゃ」
そう答えた弥生は、おひさ達に気取られることもなく、家の外へと抜け出し、海へと向かった。
海辺では篝火や松明がたかれ、海を照らしている。が、松明を持った一人が急に体勢を崩し、倒れ込む。そしてそのまま海へと引き寄せられていく。
「権次! どうした!」
それに気づいた男達が権次を助けようとその手を引くが、それでも権次の体は海へと向かい続ける。しかも権次は、
「痛え! 痛え! やめちくれ、引っぱらんでくれ!」
そう言って苦しがる。その足には青黒い尻尾のような物が巻き付いていた。
そんな浜辺の騒ぎを横目に、弥生は周囲に狐火を灯し、海面を照らしながら術を使い、波を踏んで沖へと向かった。
それこそ三町ほど沖へ出たと思われる頃。
「狐、かい? これはまた珍しい妖だね。いったい何しに来たんだい?」
しわがれた女の声が響いた。足を止めた弥生が波間に見た物は。
「まさかとは思うけどあたしの邪魔をしに来たんじゃないだろうね?」
予想通り、濡女の蛇体であった。
「やはり濡女か、お前はもっと北、会津寄りが住処ではなかったのか?」
すると濡女はふんと鼻で笑い、
「そんなことあたしの勝手さね。この辺りの海はちょうど棲みよくてね。なのに夜になると灯を灯した舟がやって来てうるさいったらありゃしない」
「なるほど、それが理由か。ならばここを立ち退けば良かろう」
「何故あたしが立ち退かなきゃならないんだい。うるさい人間共を追い払う方が面白いじゃないか」
その言葉に弥生が反応した。
「今、面白いと言うたな」
「言ったがどうした、狐」
そう言って両手に抱えた物をこれ見よがしに見せつける。それは気を失った漁師。先ほど引きずり込まれたという二人であろう。
「面白半分に狼藉をするなら見過ごしてはおけぬぞ」
その言葉に濡女も鱗を逆立てる。
「何様だと思ってるんだい。お前なんかに見過ごしてもらおうなんて思っちゃいないさ。邪魔するならお前から片付けてやるよ!」
そう言って身構える。その時既に弥生は手にした白い狐火を放っていた。
「しゃらくさい!」
濡女は手にしていた漁師を投げ出し、自由になった両手で波の幕を作り出した。
白い狐火の熱と水の壁がぶつかり、もうもうと蒸気が上がり、一面を白く閉ざす。が、さしもの白い狐火も大量の水の壁を貫く事は出来ずに消えた。
「今度はこちらの番だ!」
そう濡女が叫ぶや否や、弥生の体が絡め取られた。濡女はとうに権次の足も放し、その長い尾を密かに弥生の背後へ近づけていたのだ。
「ぐううっ…」
三町もあるという濡女の蛇体が十重二十重に弥生に巻き付き、締め上げる。弥生は妖力を体に満たし、その力に対抗するが、明らかに分が悪い。
「なかなか耐えるじゃないか、大口叩くだけのことはあるよ。でもこうしたらどうだい?」
濡女は弥生を締め付けながら海へと潜った。弥生といえども水中では呼吸できない。一方濡女は水中の妖怪であり、その長い体を生かし、頭は海上に、尾は海中に、ということも自由自在である。
「千尋の水底でどうなるか、楽しみだねえ」
深いところに棲む真鯛などが釣り上げられると、その急激な減圧により浮き袋が口からはみ出してしまうことがある。それほど水圧という物は強い。
そしてその深みへと弥生は沈められつつあった。しかも濡女に締め付けられながらである。呼吸も出来ない弥生、じきに限界がやってきた。
「そろそろ肋骨が砕けたかねえ?」
濡女の締め付けに加え、水圧に曝された弥生の体。
まず肋骨が折れ、肺が潰されることで体内の空気が全て吐き出された。それにより内部から水圧に抗していた力が無くなり、目玉が水圧でひしゃげ、頭蓋内にめり込む。
その頭蓋も歪み、脳漿がはみ出した。内臓は全て潰れ、血が海中に絞り出される。
「ははは、くたばったかい」
濡女は舌なめずりをしてその血を飲み込み、
「な…なんだい、この味は!?」
異様な味に驚いた濡女が、締め付けている弥生の体を見ると。
「藁人形!?」
そう、弥生だと思って締め付けていたのは藁の人形であったのだ。しかも、流れ出した血と思ったものはなんと煙草のやに。蛇の苦手なやにであった。それを少量とはいえ舐めてしまった濡女は怒り心頭で海上に浮かび上がった。
が、その時には既に弥生は気を失った漁師二人をそっと岸へと送り届けていたのである。
「うぬう、小賢しい狐めえ!」
濡女は全力で岸へと向かう。向かう先は弥生。弥生は漁師達がいる浜辺ではなく、もう少し北寄り、岩が突き出す磯になっている場所に悠然と立っていた。
「狐、覚悟!」
怒りに目がくらんだ濡女は弥生目掛けて突っ込む。石を跳ね飛ばし、岩を砕き、弥生に迫る。
もう少しでその牙が弥生に届く、その刹那。
「おん がるだや そわか」
印を組んだ弥生の口から真言が流れ出す。称えるは八部衆、迦楼羅の真言。
濡女の体が硬直し、そのまま頭から岩場に突っ込んだ。そして岩を跳ね飛ばしながらのたうち回る。
「ぐ、ぎ、ぎ」
「濡女、海蛇の化身である貴様は蛇を喰らう金翅鳥、迦楼羅の真言で成仏するがよい」
そう言って更に真言を紡ぐ。
「おん きしは そわか」
のたうつ濡女は仰向けにひっくり返り、痙攣し始めた。
「ぐがああああぁぁぁ…」
痙攣する濡女の体が次第に縮んでいき、ついには一匹の小さな海蛇となる。
「おん はきしゃ そわか」
弥生が真言を称え終わると、ついに海蛇は動かなくなった。
「終わったか」
弥生は大きく息を吐く。誰にも気づかれないうちに濡女を退治する事が出来たようだ。
「やれやれ、直也のお守りは大変じゃ」
そう呟きながらゆっくりと闇の中を歩き出す弥生だったが、その言葉に反し、顔には優しげな微笑みが浮かんでいた。
* * *
「それじゃあお世話になりました」
「直也さん、弥生さん、お元気で」
「長々世話になったのう」
「こちらにおいでの際はまたお立ち寄り下さい」
挨拶を交わし、海辺の村を離れる直也と弥生。今日は梅雨の中休みか、空は晴れ渡り、海の向こうには佐渡島が霞んで見えている。それを見ながら直也は、
「なあ弥生、佐渡って狐がいなくて狸ばかりだっていうのは本当か?」
「うん? 誰に聞いた?」
「与助さんに」
「そうか。それは本当じゃよ。それと四国も狸の土地じゃ」
「そうなのか…」
直也はもう一つ、狐が人間に化ける際に髑髏を使うのかどうか聞いてみたかったが、何故か弥生の顔を見ているとそれを聞くのは憚られた。
そのかわりに、
「これからどこへ行くんだ?」
「そうじゃのう、梅雨を避けて北へ行くとしようか。まずは会津じゃな」
「そうか、楽しみだ」
梅雨の晴れ間、夏の様な日射しの元、二人の影は立ち上る陽炎の中へと消えていくのであった。
濡女はWikiによると越後国と会津の境のとある川岸に出たという事が書かれていました。それで「ある要因」のためにこの寺泊まで南下したという設定です。「ある要因」もおいおい明かされると思います。それにしても新潟弁難しいです。