巻の五十九 弥生の昔語り弐(後)
巻の五十九 弥生の昔語り弐(後)
夕食も済み、それぞれの部屋に引き上げようとした時、
「弥生殿、お話があるのですが」
直衛の方から声をかけてきた。弥生は目で八重に頷くと、直衛に付いて宿の外に出た。
少し行くと、小さな神社がある。そこの境内に入り、直衛は、
「弥生殿、八重殿の姉であるあなたに話を通しておきたくて、こんな所に呼び出してしまったことをまずお詫び致します」
「それはかまわんが、話というのは…何じゃ?」
直衛は少し考え込んでいたが、弥生に向き直ると、
「八重殿を妻に娶りたい」
とはっきり言った。
「わかった。実は八重も直衛殿を好いておるようじゃ」
「本当ですか!? それでは…」
「ただ一つだけ、確かめたい事がある」
「幸せにします。…裕福な生活は望めないでしょうが、私に出来る限りの事は致します」
「いや、そうではない」
「では何が?」
弥生は少しためらった後、
「…直衛殿は、『隠れ里』というものを知っておるか?」
「隠れ里…ですか。はい、話には聞いております」
「実際にあると思うかな?」
「わかりませんな。あるという人もいるし、そんなところは無いという人もいる。私も学者のはしくれですからして信じる信じないという以前に、『わからない』と答えさせていただきます」
「直衛殿らしい答えじゃな。ではこれを見てもらおうか」
弥生はいきなり、狐の耳と尻尾を生やして見せた。
「やはり…」
「あまり驚かないようじゃの?」
「はい」
直衛が言うには、三人で旅を始めて一月ぐらいした頃、粗末な炭焼き小屋に寝泊まりしたことがあった。
朝、目覚めた時、弥生には今と同じ狐の耳と尻尾が生えていた。
目の迷いかと思って、顔を洗って戻ってくると、弥生も八重も起きており、もう耳も尻尾も見えなかった。
それからそれとなく注意していたが、耳も尻尾も見ることはなく、普通の人と同じであった。
いやむしろ、普通の人間よりも、優しく、…美しかった。
そして今、あれが目の迷いでないことを知った。
「どうじゃ? それでも八重を妻にしたいか?」
「八重殿を好きな私の気持ちに変わりはありません」
直衛は弥生の目を真っ直ぐに見据えて答えた。
それを聞いて、弥生は安堵のため息をつく。
「実のところ、儂と八重は血が繋がっておらん。儂は見ての通りの妖狐じゃが、八重は正真正銘の人間じゃ。…それも隠れ里の当主の娘じゃ」
弥生が妖狐であるのは今、目にした通りである。ならば隠れ里も実在するのだろう。直衛は信ぜざるを得なかった。
「まことですか…」
「八重と結婚すると言うことは、隠れ里の次期当主になるという事じゃ。それでも良いか?」
「……」
「答えを急がせようとは思わぬ。よく考えて返答してくれ」
宿に戻った弥生は八重に話を伝えた。
「…それじゃ、直衛様は私のことを…」
「ああ、たいした男じゃな。儂のこともうすうす勘付いておったし、何より、八重が何者であっても気持ちは変わらないと言い切りおった」
「…直衛様…」
八重は頬を紅に染め、心底嬉しそうだ。
「残るは隠れ里の当主になる気があるかどうかじゃ」
それに対し、八重は隠れ里なら人参も淫羊霍も大黄だってたやすく栽培できるし、うつつ世に出ることだっていつでも出来るのだから、考えることなど無いのにと言う。
しかし弥生は、気安く即答されるより、考えた末の返答の方がよほど誠意を確かめられると思っていた。
そろそろ灯りを落とそうという頃。襖の向こうから直衛の声がした。
「弥生殿、八重殿、まだ起きておられるか?」
「は、はい、どうぞお入り下さい」
八重が少々うわずった声で招き入れる。その言葉に従い、襖が開き、直衛が入ってきた。
そのまま真っ直ぐ弥生に向かって座り、床に両手を付き、
「八重殿を妻にお迎えしたい。どうかお許し願いたい」
と頭を下げた。
弥生は、
「では、隠れ里の当主を次いでくれる決心が付いたのじゃな?」
直衛はそれに答えて、当主になった後も、病に苦しむ人を救うため、時々は人の世に戻りたいがと付け加えた。
「直衛様!…私もお手伝い致します!…不束者ですが、どうぞよろしくお願い致します!」
黙っていられなくなった八重が、弥生を遮って直衛の前に進み出た。直衛はそんな八重の手を取って、
「八重殿!…」
「直衛様…」
そんな二人を見て、弥生はそっと部屋を後にした。
弥生は夜の中を歩いていた。空を見上げると冬の月が懸かっていた。
二百年…隠れ里では時の流れが人の世に比べて遅い…近く姉妹として暮らしてきた八重が一人の男のものになってしまう。
それは姉としての弥生には嬉しくもあり、また寂しくもあった。あらためて孤独を実感した。
何十年ぶりかで弥生は昔のことを…天狐になろうと修行していた頃のことを…幼馴染みの事を…思い出していた。
それから三人はみちのくを目指した。直衛の両親に、結婚の報告をするためだ。
それが済んだら、直衛は隠れ里に入ると言った。
みちのくまでは三月ほどの旅だった。冬が過ぎ去り、みちのくにも遅い春が訪れた頃、直衛の故郷に着いた。
直衛の家、上田家は、伊達家から一地方を任された大家であった。直衛は三男だという。
直衛の両親は、嫁を連れて戻ってきた直衛を、八重を、弥生を、笑顔で迎えた。
「こんなに素敵な嫁を見つけてきたのかえ…」
さすがに隠れ里の当主の娘だとは言えないので、西の国の郷士の娘と言うことにしておいたが。
直衛の両親の喜びは大変なもので、その夜、一族郎党を招いて、盛大な祝言が行われた。
直衛の兄二人はもう結婚しており、妻を連れてやって来て直衛と八重を祝福してくれた。
屋敷の広い庭には祝いの品を持って近在近郷の者が集まり、祝いの言葉を述べ、祝い酒に酔いしれていた。
弥生にとっても、こんなに楽しいひとときは生まれて初めてであった。
篝火の炎が夜空を焦がし、みちのくの夜は更けていった。
一週間、三人は直衛の実家に留まった。
隠れ里に入ってしまえば、おいそれと会いに来ることは出来ない。時の流れが違うからだ。うつつ世に住む人間から見たら、直衛はいつまでも若いままに見えるだろう。
それがわかっているから、直衛は、最後の親孝行をしていたと言えよう。
そして一週間後、八重ら三人は、出立する。
「達者でな、…八重さん、直衛をよろしくお願いいたしますぞ」
「はい、お義父様、お義母様もお達者で」
「孫の顔を見せに来ておくれな」
「はい、出来ますれば」
おそらくそれは叶いそうもないのだが、直衛はそう答えた。
そして三人は隠れ里へ帰るべく、上田の郷を後にした。
そこからもっとも近い隠れ里への入口まで、三日もあれば着くはずだった。
隠れ里への道は楽しいものだった。特に八重は、長い間会えなかった両親に会える喜びで、知らず知らず足も速くなるのだった。
しかし、好事魔多し。別れは突然やって来た。
みちのく一帯に、季節はずれの嵐が吹き荒れた。雹が降り注ぎ、稲光がひらめき、雷が鳴る。山には霙まじりの大雨が降った。
三人は嵐を避けて、小さな祠で身を寄せ合っていた。弥生が小さな結界を張る。そのおかげで嵐の影響は大半をやり過ごすことが出来ていた。
だが。
初めは地鳴りかと思った。次に、風が吹いた。最後に、土石流が押し寄せてきた。
降り続く雨で、山津波が起きたのだ。それは一瞬にして祠を結界ごと押し流した。
弥生の結界も、大自然の猛威の前に、敢えなく押しつぶされ、三人は濁流に呑み込まれた。
弥生は必死の思いで八重を抱きしめていた…
嵐の後。
やっとの思いで濁流から八重と共に這い上がった弥生は、直衛を捜した。
おそらく同じ方向に流されたに違いない、そう思って少し上流から始めて、下流へと、直衛を捜して走り回った。
弥生自身、濁流から逃れるのにかなり体力を消耗していたが、八重の泣き顔を思うと、そんなことにかまっていられなかった。
疲れた身体を引きずり丸一日探し続け、日が落ちる頃ようやく直衛を捜し当てた。
弥生達が辿り着いた岸から半刻ほど下流に下った所で、土砂に半分埋まるようにして直衛が倒れていた。
急いで八重の元へとって返し、もう一度二人で直衛の元へ急いだ。
水に翻弄され、岩に叩かれた直衛は虫の息で、もう意識がなかった。
弥生は妖狐、自分の傷は治せても他人の傷は治せない。八重が直衛から学んだ医術でも、今の直衛を救うことは出来なかった。
「直衛様…!…あなた…!」
八重は直衛に縋り、ただ泣くことしかできなかった。弥生は、傷を治すことは出来なくても、と狐火を灯し直衛の身体を温めるのであった。
その時、直衛の意識が奇跡的に戻る。
八重を見、弥生を見ると、弱々しく微笑み、苦しい息の下から、まず弥生に、
「八重と…お腹の子供を頼みます…」
と言った。
その頃、八重のお腹の中には小さな命が宿っていたのだ。
「わかった、約束しよう。…儂の命ある限り、約束は守る」
安心したように直衛は一度目を閉じる。そして八重に向き直り、
「…よい子を…産んでくれ…そして…短い間だったが…幸せだった…」
八重はそんな直衛の胸に縋り、
「あなた…わたくしも…幸せでした…」
それを聞いた直衛の唇が微かに動き、
「…ありが…とう…」
直衛の最期の言葉だった。
八重は一晩中泣き崩れた。
弥生はそんな八重をいたわるように側に寄り添っていた。
弥生の目からは涙は零れない。それは悲しくないからではなく、妖狐をはじめ、化物は涙を流さない、いや流せないのだ…。
翌日、小高い丘に直衛の亡骸を葬った二人は、隠れ里へと帰ったのだった。
そして月が満ち、八重は男の子を産んだ。
弥生は、産後、体調のすぐれない八重に代わって、よく面倒を見た。遊び相手になり、読み書きを教え、時には叱り、山を駆ける事を教え、自分に出来ることは何でもしてやってきた。それが直衛の頼みだったから。
* * *
「それが…お主じゃ」
「……」
直也は言葉が出なかった。初めて、父親の話を聞いたのだ。
隠れ里にいた時、母に聞いたことがあったが、母が悲しそうな顔をしたので、聞くのを止めてしまったのだった。
それきり、聞いてはいけない気がして今日まで聞けずにいた。そう言うと弥生は、
「話を聞けばお主は、飛び出して行きかねんかったからな。お主が外の世界に出てもよい歳になるまで、話すのは止めようと、八重と儂で決めていたのじゃ」
そして、この旅のうちに、折を見て話すつもりだったという。
「もう知っている者もおらんじゃろうが、父親の生まれた里を見ておいてもよかろうと思ってな」
「それじゃあ、暑いから北へ行こうと誘ったのは…」
「そうじゃ。みちのくへ向かっているのはそのためじゃ」
「ありがとう、弥生…」
直也が頭を下げる。
「さて、そろそろ寝るとしよう」
二人は灯りを落とし、布団に横になった。
数日後。
みちのくへと旅する直也と弥生は小高い丘の上にいた。
「ここじゃ、お主の父、直衛殿が眠っているのは」
一抱えもある苔むした岩。その下に直衛を葬ったのが、つい昨日のことのように、弥生には思えた。
「父さん…」
直也が手を合わせる。
弥生が、摘んできた野の花を手向けた。
二百年が過ぎ、ようやく尋ねてきた息子に、地下の直衛は何を思うのだろう。弥生も直也と共に手を合わせた。
「さて、次は上田の郷じゃな。…太平の世になり、当時を知っておるものはおらんじゃろうが…行くか?」
「行くとも。父さんの生まれ育った里を見てみたい」
そして二人は再びみちのくへの道を辿り始めた。
二日の後。弥生と直也は、上田の郷を見下ろす峠に立っていた。
「あれが上田の郷じゃ。…やはり変わったのう…」
見下ろしたその先には、あれほどの規模を誇った上田家の屋敷が無かったのだ。
それでも、二人は峠を下っていった。
二刻ほどの後、上田の郷に辿り着く。
弥生は昔を思い出しながら直也を案内していく。
「このあたりに、上田家の屋敷が建っていたのじゃ…」
そこはただ荒れ果てた土地で、番小屋が二つほど建っているだけであった。
弥生の脳裏に、楽しかった八重の婚礼の思い出が去来する。
栄枯盛衰は人の世の常、前世も入れれば、千年以上生きてきた弥生だが、やはり無常の世はたまらなく寂しかった。
「あんたがた、そこで何していなさるね?」
後から声をかけられ、はっとして振り向くと、番小屋の住人らしい老爺が背負子を背負って立っていた。
「ここに上田家があったはずだが、どうなったか知っておるか?」
弥生が尋ねる。
「上田の殿様か…おらの爺さまの頃、流行病が流行ってのう、殿様のご一家はじめ、村の者も半分以上が死んだ」
なんとなく寂れた感じがするのはそのためだったか…弥生はひとりごちた。
その老爺が聞いてきた。
「あんたら、上田の殿様の縁者かね?」
「そうじゃ。この者はその昔ここを出た上田の殿様の三男の血を引く者じゃ」
「そうかね、…やっと尋ねて来なすったかね、…おらのところさ来う。お渡しする物があるでな。汚いところじゃが、雨露はしのげるで」
そう言って招く老爺に、二人は着いていった。もっと里のことも聞きたかったし、今夜の宿も探さずに済みそうだったから。
招き入れられた小屋は小さかったが、しっかりした造りであった。聞けば、上田家の屋敷の古材で建てたものだという。
そして老爺は、何やら細長い物を引っ張り出してきた。
「これは、おらの爺さまが、上田の殿様にお仕えしていた時、お預かりしていた物だ。
聞いた話だと、上田の殿様の、そのまた前の前の前の…殿様から伝わった物だそうだ。
何でも、嫁をもらわれて出て行かれた若様か、その子が尋ねてきたら渡してやるつもりで用意したらしい」
それは大小一揃いの刀だった。
「舞草鍛冶とかいう太刀を作り直したもんだそうで」
舞草鍛冶。それは奥州藤原氏の頃に端を発するみちのくの名工である。その太刀を磨り上げて刀にしたらしい。太刀を打刀に作り直すのは戦国時代後期から良く行われている。
「確かにお渡し致しましたで」
受け取った直也は、ずしりとした重みに、先祖の愛を感じていた。
その夜は、小屋に泊まった。粗末ながら雑炊をすすり、里の話を聞いた。老爺がそのまた祖父から聞いたという、上田家の話も聞いた。
心温まる夜だった。
翌朝、老爺には礼として持っていた米と餅、そして金を全部与えると、二人は上田の郷を後にしたのだった。
「直也、その刀、なかなか似合うぞ」
「そうか?なんか面はゆいんだが」
「そうしておると、やはり直衛殿に似ておるのう…。今日からお主は上田家の当主でもあるわけじゃな。…これからこちらの世界では上田直也を名乗るがよい」
そう言って、直也の着物の埃を払ってやる。そんな弥生に直也は、
「弥生」
「なんじゃ? あらたまって」
直也は弥生を真っ直ぐに見つめ、
「…ありがとう。父さんの事を話してくれて。そしてここまで連れてきてくれて」
そして深々と頭を下げる。
「気にするな。…約束じゃったからな」
「それでもだ。…ありがとう。…そしてこれからもよろしくな」
「うむ、お主が必要としてくれる限り儂はお主から離れぬ」
そう答えた弥生は、懐の守り袋にそっと触れた。
二人が向かう峠の先には、はや夏の雲が浮かんでいた。
弥生の過去、ようやくこれで全て明らかになりました。そして直也の生い立ちも。
それでは、次回も読んで頂けたら幸いです。




