巻の五十七 邪仙(伍) 弥生
ついに決着が付きます。
巻の五十七 邪仙(伍) 弥生
蓮香の部屋を出た紅玉は、自室に戻らず、一番上の姉、翠蓮のところとへ向かった。
ちょうど翠蓮は部屋に戻ったところ。
「おや紅玉、どうしたの?」
「大姉さん、ちょっとお話があるの」
そう言うと翠蓮は紅玉を部屋に招き入れた。
「何?話って」
「他でもない、あの弥生って狐の事よ。お師匠様、あいつを贔屓しすぎと思わない?」
翠蓮は一寸考えて、
「そうだねえ。確かに御執心の度が過ぎてる気もするね」
我が意を得たりと紅玉は、
「そうでしょ?…あたしずっと見張っていたからわかるの。
あいつ、絶対何かしでかすわよ。そうなってからじゃ遅いわ」
「どうしようって言うの?」
「ちょっと耳を貸して…」
そう言うと紅玉は翠蓮の耳に何事かを囁いた。
更に紅玉は二番目の姉、紅霞と三番目の姉、緑雲にも同じように話をしてそれぞれの部屋から出て来た。
それを四番目の姉、蘇秋が見つけ、何をしていたのか尋ねたので、蘇秋にも同じように話を聞かせた。
「今は従順にお師匠様の言う事を聞いているけどさ、いつ裏切るかわからないわ」
最後に七番目の姉、芙蓉にも告げて、紅玉は笑みを漏らす。
「ふふふ、これでいいわ。…好きにはさせるもんですか…」
そして紅玉は自室へと戻った。
その頃、大元道士は薬房で薬を調合していた。もちろん病を治すものではない。
今作っているのは、一見体を丈夫にすると見せかけ、その実健康を損なうといったもの。
一度、二度の服用なら元気が出、頭もすっきりするが、依存性があって、その薬無しにはいられなくなる。
やがては内臓を冒され、死に至る、麻薬と呼ばれるものである。
これより百何十年かの後、アヘン戦争と呼ばれる戦争が清国とイギリスとの間で起こるのだが、それは別の話。
道士は秘伝の材料を調合し、更に強力な麻薬を作りだそうと工夫を重ねていたのだった。
一方、こちらは弥生。
与えられた自室で大人しく寝台に寝転がり、体を休めていた。血の付いた着物は術で綺麗にする。
四肢に貼られた呪符は背中の一枚を除き、道士が剥がしてくれた。おかげで力はほぼ戻っている。
だが最後の一枚は力を制限するのではなく、弥生の造反を封じるためのもの。
もし弥生が裏切ったら、呪符が効力を発揮する。その効力とは「苦痛」。
道士が弥生の裏切りを知れば発動の呪を唱えればいい。それで呪符が発動する。
そうなったらあらゆる痛覚が弥生の神経を苛む事になろう。
呪符は弥生の背骨を通じて体中に根を張っており、自分で剥がす事は出来なかった。
しかし弥生の懸念はそんな事ではない。翠龍、そしてミナモ、天狗の秘薬。いずれもこの世に二つと無い秘法である。
更に短刀。直也が大切にしているもの。蛇の珠。直也に真名を教えた従者である。
それらを取り戻し、直也を脱出させる。それからあとは考える必要はない。自分の身がどうなろうと、直也だけは無事に脱出させる。それだけを考えていた弥生である。
期日はあと二日。それが過ぎたら飯縄三郎は別の手を考えるだろう。
本拠が判った今、手下の天狗達を率いて討ち入ってくるかも知れない。
それまでにはどうしても何とか脱出の目処を付けたい、そう思う弥生であった。
日が改まった。
道士が薬房で麻薬の調合に勤しんでいる頃、一つの影が道士の居室に忍び寄っていた。隠形の術を使い、周りから自分を見えなくしながら、そっと部屋の中を窺う。
中には誰もいない。そっと足音を立てないよう気をつけながら、影は部屋の中へ忍び込んだ。
道士の部屋。正面にはただ「乾坤」とだけ書いた紙が貼られ、およそ道士の部屋らしくない。
通常、道士つまり道教の信奉者ならば、三清とよばれる神、すなわち元始天尊、霊宝道君、太上老君(異説有り:作者注)を祀るものである。
それがただ「乾坤」、すなわち「天地」とだけあるのはこの道士が偽物か、あるいは三清を祀る必要がないほどとてつもなく偉いかである。
後者の筈がないから、この道士は偽物である、と影は判断した。
そっと部屋の隅の行李を開ける。中には翠龍、天狗の秘薬、短刀、蛇の珠が入っていた。それらを手早く懐にしまい、またそっと行李の蓋を閉める。
そして来た時と同様に、気付かれないように影は部屋の外へと出た。
その時、その影に声を掛けた者がいた。
「弥生さん」
声を掛けたのは紅玉。
「首尾はいかがでした?」
そう尋ねた紅玉の顔はしてやったりという喜びに満ちていた。
直也は蓮香と話をしていたが、そこに突然、芙蓉が飛び込んできて、
「蓮香、直也さんと一緒にいらっしゃい。…弥生さんの処罰が行われるから。…そうそう、直也さんの両手を縛ってから来るのよ」
それだけ言ってまた出て行く。蓮香は、
「流石直也さんの思い人ね。あれだけの罪を背負っても魂までは堕ちなかったみたい」
そう言いながら直也の両手を後ろで縛っていく。
「ごめんなさいね、でも姉さんのいいつけだから」
そう言うと、縛った縄の端を持って、
「さ、行ってみましょう」
と、直也を促して外へと連れて行く。向かうのは広間。先日弥生が大立ち回りを演じた場所だ。
直也と蓮香が着くと、もう他の者は皆揃っていた。
中央に弥生と紅玉、そして大元道士。その周りをここにいる九姉妹、すなわち芙蓉、蘇秋、緑雲、紅霞、翠蓮が取り巻いていた。
紅玉がその手に翠龍を持っているのが見える。おそらく、他の持ち物も持っているのだろう。
道士が口を開いた。
「弥生さん、あなたはまだ直也さんの事を忘れていないのですか。それはそれで大したものです。でも少々やりすぎでしたね。…紅玉、お手柄でした。褒めてあげます」
紅玉は恭しく頭を下げ、
「光栄です」
と答えた。
どうやら、弥生が道士の部屋に忍び込んで翠龍などを奪い返したが、見張っていた紅玉に見つかってしまった、と言う事らしい。
直也は今この縄が切れたなら…と、必死に腕を動かしたが、どうしても縄は緩まなかった。
「では、直也さんもお見えになった事ですし、少し思い知らせてあげましょう。…わたしに逆らうとどうなるかを。…壱の呪…*x:…」
道士は袖の中で印を結び、呪を唱える。途端に弥生の体が硬直した。
そのまままるで人形を倒すかのように、直立した姿勢のままで仰向けに倒れる。
後頭部が床にぶつかる鈍い音がした。
「…弐の呪…+;*@…」
何と唱えているか聞き取れないが、その呪と共に、倒れていた弥生の体が痙攣を起こした。
弓のように背中を反らせたかと思うと、次の瞬間には海老のように体を丸める。
それが有り得ない程の苦痛によるものだということは飛び出さんばかりに見開かれた目と、口から溢れる血の泡から想像が付いた。
「参の呪…」
弥生の体が有り得ないほどによじれる。
体が千切れるのではないかとさえ思われるその様はとても正視出来るものではなく、見ている者は皆目を塞いだ。
弥生が失神したのを見届けた大元道士は、直也に向き直る。
「…やはり直也さんの存在が邪魔しているようですね。…弥生さんが気を失っている間に直也さんを始末しますか。…蓮香、あなたに直也さんの精を吸う機会をあげましょう。精も命も全て吸い取ってしまいなさい。やり方は分かりますね?」
「は、はい、お師匠様。…でも…あの…」
突然の予期しない命令にとまどう蓮香。
「どうしました? 直也さんの精と生命を吸い取れば、あなたは格段に強くなれます。それこそ人間などいくらでも殺せるくらいに」
それを聞いた蓮香はぴくっと震えた。
直也に向き直り、じっと見つめる。
「蓮香…」
直也の顔を見つめていた蓮香だったが、突然に、
「出来ません、お師匠様!…わたしには…とても…」
道士は憐れむような目で蓮香を見ると、
「やれやれ、やはり駄目ですか、役立たずはどこまで行っても役立たずですね」
そう言うと指で宙に呪を描くと、
「死になさい」
小さな稲妻を直也目掛けて放った。
「駄目!」
蓮香が直也を庇い、稲妻をまともに受けた。狐仙である蓮香は死にはしなかったが、気を失ってその場に倒れる。
「…馬鹿な事を」
道士が鼻先で笑う。
その時、直也の手の縄を切った者がある。誰かと見れば、蘇秋であった。
咄嗟に直也は倒れた蓮香の懐に手を入れ、その首に掛けられていたミナモを取り返す。
「…ありがとう」
倒れた蓮香に向かってそう呟いた直也は急いで紅玉の所へ駆け寄る。
それに気付いた道士が直也に向かって再び稲妻を放つが、ミナモを身に付けた直也には効かなかった。
「弥生、翠龍を!」
紅玉に向かってそう声を掛ける直也。
紅玉は一瞬驚いたようだったが、次の瞬間には満足そうに頷き、翠龍を手渡した。
「な…何をするのです、紅玉!?…裏切るのですか?」
慌てる道士。紅玉は笑って、
「儂は紅玉ではない、弥生じゃ。紅玉は…ほれ、そこに倒れておる」
そう言って倒れたまま動かない弥生の体を指差した。
「なんですと!…いや、この方は間違いなく弥生さん、そしてあなたは間違いなく紅玉…ま、まさか魂魄交換の法を使ったというのですか!?」
そう言った道士の顔が醜悪なものに変わっていく。
「正解じゃ」
「何と…己の肉体がどうなってもかまわないというのですか!」
「直也を助ける事が出来さえすれば儂はどうなろうと満足じゃ」
そう言うと紅玉の肉体に入った弥生は、
「今じゃ、翠蓮、紅霞」
その命に従って、二人は印を組む。
「蘇秋、緑雲」
名を呼ばれた二人も印を組んだ。
「芙蓉」
最後に芙蓉が印を組み、紅玉ーーー弥生自身も印を組む。そして、
「穏藍浄法界…」
呪を唱える。
「ぬっ!ーーー結界を破るつもりか!」
今や夜叉の如き形相となった道士が叫ぶ。最早口調から丁寧さが失せている。
「…四方の元素は在るべき如く、八方の精霊、貞しきに利ろし」
唱え終わった紅玉の中の弥生は、
「八門閉塞結界、今破る、破!!」
その声と共に、音を立てて周りの景色が変わる。外側から見たら、何もない草原だった場所に突然大きな館が現れたように見えるだろう。
元々ここは砦の跡で、それを道士が造り直して結界で囲み、根城としていたらしい。
「…おのれ…このわしがまさか騙されるとは…!」
そう言って道士は正体を現した。
骨の浮き出た、骸骨の如き容貌。
「…やはりな」
満足げにうなずく紅玉、いや弥生。
「漢国、いや今は清国じゃったな、追い出されてこの国へ流れ着いたか、邪仙張角。貴様を冥府から呼び戻したのは…マーラじゃな?」
「やかましい、たかが狐の変化のくせに」
「ふん、そのたかが狐に騙された貴様はただの間抜けじゃ」
「ええい、翠蓮、紅霞、緑雲…何をしている、わしに加勢せよ!」
紅玉の中の弥生は笑って、
「無駄じゃ。貴様の呪縛はとっくの昔に儂が解いた。最早貴様は孤立無援じゃ、観念せい」
張角はせせら笑うと、
「独りであろうとわしは誰にも負けはせぬ」
そう言うと印を結び、呪を唱えた。
その呼び声に応じるかの如く、一天にわかにかき曇り、稲光が生じる。
しかし弥生は動じることなく、
「直也、翠龍を天にかざせ」
「応」
翠龍の青白く輝く刀身が光を反射したかと思うと、黒雲は四散してしまった。
「何…!」
「真の龍神より遣わされし神刀じゃ、邪仙の呼ぶ惰竜など近寄れぬわ」
「おのれ…!!!」
張角が何やら呪を唱えだした。邪悪な気が集まってくる。
「皆、一箇所に集まれ」
弥生が胡氏九姉妹に声を掛けたその時。
身の丈十丈(約30m)もの巨人が忽然と現れた。十丈の巨人、有り得ない大きさである。
九姉妹は震え上がっていたが、弥生は平然と、
「ふん、この二日間で貴様の術式は見破っておる。…木剋土、雷!」
弥生は右手の人差し指と中指を揃えて伸ばし、空中に小さな図形を描いた。その図形の中心から一筋の電光が伸びる。
それは巨人の眉間に吸い込まれ、…巨人は一瞬にしてただの土塊と化した。
「ぬっ!…」
「言うたじゃろう、貴様の術式は見破ったと」
それには耳を貸さず、張角は懐から呪符を出すと天にかざす。
「北辰、北斗、九曜星、二十八宿。その光を閉ざすラーフよ、来たれ!急々如律了!」
するとたちまちのうちにあたりは暗黒に包まれる。しかし弥生は慌てず、
「ラーフは日食を起こす悪星じゃったな。…おんあぼきゃべいろしゃなぅ…まにはんどまじんばら…はらばりたや...ウン!」
光明真言を唱えるとあたりに光が満ち、その力で闇は切り払われた。
張角は愕然として、
「な…なぜそのような力が…霊力の欠片も感じられなくなっていたのに…」
紅玉の中の弥生が笑った。
「まだ分からぬか?…儂は殺人などしておらぬ。貴様に渡した指は貴様が殺した人々のものじゃ。囚われた者達の精も喰ろうてはおらぬ」
「ぬ…そうか、紅玉と結託したか…」
「結託というのは正確ではない。魂魄を入れ替えた後、儂の術で操っておったのじゃから。さっきの苦痛も代わって受けてくれたでのう」
張角は歯噛みして、
「紅玉の中にいたから霊力が感じられなかったのか…!」
「まだまだじゃったな、そんな事ではこの先何万年経っても上仙にはなれぬぞ」
「やかましい!」
ついに腰の剣を抜いて斬り掛かる張角。
「術が無駄と悟った様じゃな。…それではお相手いたそう」
紅玉は懐から懐刀を取り出すと、
「貪狼・巨門・禄存・文曲・廉貞・武曲…破軍 !」
北斗七辰の名を呼び、武神を召還する。それに連れて懐刀が青白く光り、長く伸びて二尺ほどの長さとなった。
その刀を以て張角の剣を受け、弾く。同時に左手で空中に五芒星を描き、
「九天応元雷声普化天尊…破!」
その呪により張角の剣は粉々になってしまった。
「何...だと...?」
「雷法、見せてもろうたからの」
「この狐めが…」
張角の顔が醜く歪む。
「そろそろ終わりにしよう。その罪は冥府で償え、張角」
そう弥生は言い放ち、印を結び、真言を唱える。
「ナウマク…サマンダボダナン…エンマヤソワカ…」
張角の動きが止まる。更にその真言を繰り返し唱えると、張角の姿が崩れ出し、九回目で完全に塵となって崩れさった。
同時に黒い煙が立ち上る。マーラである。
術の応酬に圧倒されていた直也だったが、それを見ると駆け寄り、翠龍でその煙を切り払う。
と、マーラの声と共に陰気な声が、
「無念…」
そう呟き、煙は消滅した。
「終わったな」
直也が呟くと同時に、紅玉、いや弥生がその場に倒れ込んだ。
「弥生!」
倒れた弥生を直也が助け起こす。弥生は、
「大丈夫、少々疲れただけじゃ…」
そして直也の肩に縋って体を起こす。
「おい、無理するなよ…」
「大丈夫じゃ。…魂魄を戻さぬとのう…」
そう言って、手頃な枝を拾い、地面に丸を書く。
その四隅に石を置いた弥生は、
「直也、済まぬが儂の体を持ってきてくれ」
直也はそれに従い、気絶したままの弥生の体を丸の中に横たえる。
頭を正確に北極星の方角に合わせ、隣には紅玉の体に入った弥生が横たわった。
紅玉に入った弥生は、紅玉の左手で弥生の体の右手を取り、呪を唱える。
「……」
何と唱えたのかは聞こえなかったが、二人の体から淡い微光が発したかと思うと、それはたちまち丸い光に収束し、
弥生から出た光は紅玉に、紅玉から出た光は弥生の体に吸い込まれていった。
「う…」
弥生が身体を動かす。
「弥生!…弥生なんだな?」
抱き起こす直也。弥生は、
「あつつつつ…少しこの身体を苛めすぎたのう…これ程痛いとは…」
道士の責めを受けた体、そうとう傷んでいるに違いない。
それでも弥生は立ち上がり、
「元真に戻れ、解!」
そう叫んで手をぱあん、と一つ叩いた。
「…あ?」
正気に戻る九姉妹。紅玉や蓮香も目覚めた。
「あ…あたしたち…?」
「今まで…」
「そう、道士に騙されて…」
己を取り戻した彼女らは、今までの事も憶えてるようだ。一番上の翠蓮が代表して挨拶に来る。
「…弥生様、おかげさまで邪仙の呪縛から逃れる事が出来ました。…これから、愛理と香蘭を連れ戻し、あたしたちはどこかの山奥で静かに暮らそうと思います」
「うむ、それがよい。もし辛い事があったらいつでも言うてくるがよい」
「ありがとうございます」
そう言って、姉妹は立ち去って行く。残ったのは紅玉と蓮香。
紅玉は、
「弥生さま、いろいろありがとうございました」
「協力感謝する、儂の体に入っていた時はいろいろと済まぬ」
「いえ、あれしきの事。…迷いを醒まさせて頂いて感謝しております」
深々と頭を下げた。最早邪悪な気は微塵も無く、元の性格に戻っている。そう悪い性格ではなかったようだ。
一方蓮香は直也に向かって、
「直也さん、いろいろごめんなさいね」
「謝る事なんてないさ。俺も世話になったし」
「…やっぱり、弥生さんってすごい。直也さんが言った通り、期待を裏切らなかったわね」
それを弥生が聞きつけた。
「直也、儂の事を何と陰口していたのじゃ?」
「か、陰口じゃないよ」
蓮香が横から、
「弥生さま、直也さんてば、弥生さまが自分の期待を裏切った事は一度もない、って言ってたんですよ」
「れ、蓮香…!」
「ほんとの事じゃないですか」
そう言ってぺろっと舌を出す蓮香であった。
蓮香と紅玉も去り、直也と弥生は二人きりになる。
弥生は砦の地下牢に入れられていた者達を解放すると、赤い狐火を放ち、砦を焼き払った。
道士が精製していた麻薬も同時に灰になる。人々は感謝しながらそれぞれの土地へと散っていった。
それが済むと、弥生は歩き出そうとしたがその膝を折ってしまった。
「弥生!」
「…だいじょうぶじゃ」
「大丈夫なわけないだろ?…本当に、無茶して…」
優しく弥生を抱きしめ。背中をさする直也。弥生はしばらく直也に身をゆだねていたが、やんわりと体を離した。
直也はそんな弥生に向かい、
「弥生、来いよ」
今度は背を差し出した。弥生は少し躊躇ったが、素直にその申し出に従う事にした。
直也はゆっくりと沼田へ向けて歩き出す。歩きながら、
「弥生、今回は面倒掛けたなあ。…俺が付いてこなけりゃこんな苦労はしなくて済んだろうに。…ごめんよ」
弥生は直也の背でふふっと笑い、
「お主が気にする事はない。儂も納得ずくでしたことじゃ」
「だけど、こんなにぼろぼろになって…俺が自惚れていたのがいけないんだ。…本当に…ごめん」
「謝るなと言うたろう、これも前世の報いじゃ」
「弥生…」
弥生は直也の首に回した手に少し力を込めて、
「お主の縄を切った時、真っ直ぐ紅玉の姿をした儂の所に来てくれた時は嬉しかったぞ」
「…弥生がどんな姿になっていたって俺にはわかるさ」
そう言って照れる直也。弥生も頬を染めていたのだがお互いに顔は見えなかった。
「あの九姉妹、大丈夫かな」
「うむ、飯縄三郎殿が来てからでは罪は免れぬだろうが、野に潜んでしまえば多分大丈夫じゃろう。何かあったら儂も口添えするつもりじゃし」
「そうだな」
下りに差し掛かる。眼下に沼田の町が見えてきた。
「そう言えば、あの蓮香という娘と随分親しくしていたようじゃのう?」
「え?…あ、あれはだな、なんとか味方に付けられないかと思ってだな…」
弥生はくすりと笑い、
「何をうろたえておる。わかっておるわい。…じゃがあの娘、お主を好いていたようじゃぞ。罪作りじゃな」
「やめてくれよ…」
「じゃが、お主が蓮香に言った言葉、人も狐も同じ生き物、共に生きるのにそれ以上の理由は必要ない、か…」
「や、弥生!」
何処で知ったのだろう、あらためて弥生の口から言われると気恥ずかしい。
「いや、からかうつもりはない。…その心根こそ隠れ里の当主に相応しい。お主はもう当主として立派にやっていけそうじゃのう」
どこか寂しげな弥生の言葉。
(お主が当主になったら、儂は用済みじゃな)
その言葉を呑み込み、
「お主の背中は…広くて温かいのう…」
そう言うと目を閉じ、
「…今だけ、この一時だけ、お主に甘えさせてくれ」
と小声で呟いた。それを聞きつけた直也は、
「何か言ったか、弥生?」
と尋ねるが弥生は、
「沼田で少々養生させてもらうとしようか。…金は道士の所から少し頂いてきたからのう」
邪仙の上前をはねるあたりしたたかな弥生であった。
「沼田の北の迦葉山にいる天狗に言付けて今回の顛末を飯縄三郎殿に報告する事にしようか」
「戸隠には戻らないのか?」
「他人の頼みを聞くのはこりごりじゃ。…お主と二人で旅をしている方がよい。このまま、沼田からは北へでも行くとしよう。夏に向けて暑くなるからの」
直也は笑って、
「そりゃ、おれもその方がいいよ。…そうだな、そうしようぜ」
そろそろ八十八夜も近く、吹いてくる風はどこか湿り気を帯び、空の雲も心なしか低い。
田植えの準備が始まり、水を湛えた田んぼには蛙が遊んでいる。
そんな中、直也は弥生を背負ってゆっくりと沼田の町へと向かうのであった。
書いていてこれ程長くなるとは思いませんでした。
そして今までで最強の敵登場です。組織的な相手なので弥生も苦労しました。
今回、直也はお荷物になっています。今までの事で少々天狗になっていた彼、これを教訓にまた一歩成長して欲しいものです。
逆転に継ぐ逆転、でこんな話に。弥生をいぢめすぎたかなーとは思いますが、最早このくらいでないと、読んでいてピンチだと思ってもらえなさそうだったのです。
決着は楽勝に見えたかも知れませんが、弥生には相手の手の内を読む余裕があったからです。早々と紅玉を引き込んでいたのが功を奏したというわけです。
胡氏というのは中国小説ではよく狐の姓に使われるようです。「狐」と音が同じだからでしょう。この胡氏九姉妹、再登場するかどうかは未定。個人的には蓮香が気に入ったんですけどね。
張角というのは漢末期に太平道なる宗門を興し、民衆を率いて世を乱した、いわゆる「黄巾の乱」を起こした主領です。病死したという事ですが、邪仙になったという伝もあったのでここに登場させました。中国の術を使うので日本の妖怪達は敵わなかった、で、弥生に頼んだ、という経緯を考えたあとはもう勢いで書いてしまいましたね。
それでは、次回も読んで頂けたら幸いです。




