巻の五十五 邪仙(参) 陥穽
今回はちょっと痛そうな描写注意です。
巻の五十五 邪仙(参) 陥穽
弥生の姿を見つけた直也が叫ぶ。
「弥生!」
弥生はそんな直也を見て、
「直也、無事であったか」
「ああ、何もされちゃいない。弥生は?…つかまったのか?」
弥生は笑って、
「誰が捕まったりするものか。…紅玉!」
そう声を掛けると紅玉は弥生を縛っていた縄を思い切り引く。と、縄は切れてばらばらになり、足元に落ちた。
自由になった弥生は、
「紅玉、直也を守れ!」
そう命じると、身を躍らせて蘇秋に跳びかかる。不意を突かれた蘇秋は、弥生に急所を突かれて気絶した。
慌てたのは残りの三姉妹である。緑雲は木気の狐火を灯し、弥生目掛けて投げ付けてきた。
それを軽くかわすと、弥生は緑雲に跳びかかる。緑雲は蘇秋とは違い、体術も出来るらしく、上になり下になり、弥生と取っ組み合っていた。
剣を持った二人の姉達は緑雲を傷つける事を恐れて手出し出来ない。
「破!」
弥生の拳が鳩尾に決まり、緑雲も気絶。弥生はゆっくりと立ち上がり、二姉妹と道士を睨みつける。
道士はにやにや笑いながらそれを見ているだけ。直也は紅玉に庇われて部屋の隅に身を隠していた。
「なかなかやるけど、これで終わりよ」
二姉妹のうち、薄緑の服を着た方が剣を抜いて弥生を襲う。弥生はその剣閃を悉くかわしていく。
「…!」
苛立った女が思いきり剣を横薙ぎに払って胴を狙った。それを待っていた弥生は、身体を前に投げ出すようにしてかわす。
鯉魚打廷とよぶ技である。
その勢いを持ったまま弥生は突進、油断して高見の見物を決め込んでいた薄桃色の服の女の腰から見事剣を奪った。
「あ!…この女狐!」
「女狐はお互い様じゃ」
そう捨て台詞を残した弥生は、行きがけの駄賃とばかりに薄桃色の服の女の鳩尾に頂肘を御見舞い。
気絶させるには至らなかったが、苦悶の表情を浮かべてくずおれる女。
「土生金、火剋金!」
奪った剣に呪を施しつつ薄緑の服の女に斬りつける。金属音がして薄緑の服の女の剣が折れ飛んだ。
怯んだ女の首筋に手刀を喰らわせ、気絶させる。これで三人が気絶、一人はうずくまって戦闘不能。
残るは道士一人である。その道士は衣の袖を前に回して中で腕を組んだまま動こうとしない。
「さて、どうしてくれようかの」
剣先を突きつける弥生。その弥生の目を道士は静かに見返して、
「なかなかやりますね。尤もそうでなくては仲間にする意味がありません。でももう十分、そろそろ茶番は終わりにしましょう」
「何…茶番じゃと?」
「そうですよ」
道士が指を鳴らす。すると、紅玉の後ろにいた直也の姿が変わり、狐女になってしまった。
狐女は微笑み、
「あたしは七番目の妹、芙蓉、よろしくね」
「…!」
驚く弥生。
「ふふ、流石の弥生さんも心乱れて偽の直也殿を見破る事は出来なかったと見えますね。…それにしても紅玉に術を掛けて操ったとは流石と言っておきましょう。…紅玉!!」
紅玉の目の前で手を二つ叩く道士。それに伴って目をしばたたかせた紅玉は、
「あ、あれ?...お師匠様?…あたし…」
「お前は弥生殿の術に掛かっていたのですよ」
そう言うと気絶した姉たちの介抱を命じた。
一方弥生は、
「貴様を倒せば残りは烏合の衆じゃろう!」
気を取り直し、道士に斬り掛かった。その鋭い剣閃は道士の服の袖を僅かに切り裂く。
「おやおや、困りますね、この服は上等の絹なんですよ」
そう言って袖から手を出すと、空中に指を走らせた。
「九天応元雷声普化天尊...応!」
その掛け声と共に白光が生じ、弥生の持つ剣を粉々に砕いてしまった。
驚く弥生。
「『雷法』まで使うのか…」
道士は更に、
「そうですよ、そしてこういう技もね…禁!!」
それは弥生がよく使う定身法。この道士も同じ術で弥生を動けなくしてしまった。
「く…こやつ…」
「芙蓉、お前の簪を貸しなさい」
「お師匠様?」
「見なさい、この方は定身の法を掛けられても動きを封じられただけ。話す事が出来ています。このままではじきに術を破って動けるようになるでしょう。その前に」
道士は懐から呪符を出し、弥生の額にかざした。と、弥生の頭から狐の耳が伸び、尻からは尻尾が生えた。
次いで芙蓉から受け取った簪で弥生の狐耳に突き刺し、孔を空ける。見ていた芙蓉と紅玉は顔をしかめた。
「うっ…くっ…」
呻き声を出す弥生、しかし出来るのはそこまでで、身体を動かす事は出来ない。
両方の耳に孔を空けた道士は、そこに細い縄を通した。更に尻尾の根元を別の縄できつく縛り、両方の縄を束ねてしまう。
「ふふ、これでいくら弥生さんが逃げようとしても逃げる事は出来ませんよ」
「痛そう…」
見ている芙蓉と紅玉も怖気を振るっている。狐耳に縄を通されていては狐は化ける事が出来ない。
その上尻尾の根元を縛られ、力を殺がれてしまっていては弥生と言えども今のところ為す術はなかった。
道士は笑いながら、
「さて、弥生さんはこれでよしと、次は直也さんですね」
弥生は身を捩って、
「待て…! 直也に何をする気じゃ…!」
道士はうっすらと笑い、
「おや、もう動けるようになったのですか。…直也さんの身が心配ですか?…大丈夫、あなたのその姿を見れば直也さんは私の頼みを断ったりはしないでしょうから」
そう言って弥生を拘束した縄を紅玉に渡し、
「それを持って付いてきなさい。今度は油断しないように」
そう言って奥へと続く扉を開いた。
今はなすすべもなく、弥生は紅玉の引く縄に引かれて歩いている。時折紅玉はわざと強く縄を引っ張る。
その度に孔を空けられた耳が千切れそうに痛んだ。どうやら紅玉は先程の意趣返しをしているらしい。
「紅玉、引っ張りすぎて耳を千切らないようにしなさい。そうなったら弥生さんは化ける事が出来るようになりますから」
大元道士はそう言って紅玉の行動に釘を刺すのであった。
長い廊下の奥の部屋。狐姉妹の九番目、蓮香の部屋である。そこに直也は囚われているのであった。
「蓮香、わたしだ。入りますよ」
そう言って扉を開け、道士は中へ入る。紅玉と弥生も続いた。
「弥生!!」
「直也!!」
直也は縛られた弥生の姿を見て、弥生は直也の無事な姿を見て、それぞれ声を上げた。
直也は弥生に駆け寄ろうとしたが、芙蓉に遮られ、腰掛けに縛り付けられてしまった。
直也は抗わない。弥生が捉えられており、迂闊な事は出来なかったのだ。
「貴様等!弥生になんて事をするんだ!」
弥生の耳に縄が通されているのを見た直也が激怒する。
道士は涼しい顔で、
「あなたが協力してくれればすぐに縄を解いてあげますよ」
「貴様は?」
「これは申し遅れました。私は大元道士、この子たちの師匠です」
一見、恭しい礼をする道士、だがその顔には薄ら笑いを浮かべたまま。
「…俺に何をしろって言うんだ」
「蓮香から聞きませんでしたか? 私に協力して下さればいいんですよ」
直也は険しい顔つきで、
「断る。…そんな悪だくみに手を貸すなんて出来ない」
道士は薄ら笑いを浮かべたまま、
「おや、そんな事を言っていいんですか?」
紅玉の方をちらと見る。紅玉は心得たとばかりに、弥生の耳に通した縄を引っ張った。
「…ぐっ!…」
唇を噛み、声を出さないように耐える弥生。
だがしかめられた顔から、どれだけの苦痛を我慢しているかは容易に見て取れた。縄も赤いものが染みついている。
「やめろ!」
直也の叫び。それに応じて、紅玉は縄を引くのを止めた。
「……」
溜息を吐く直也。その目はまだ諦めてはいない。
「…おかしいんじゃないのか?…利用したいと言いながら弥生を痛めつけたりして?」
そう言ってみる。道士はそんな直也に、
「ふふ、弥生さんほどの妖狐なら、自由にさえなればこんな傷は瞬く間に治してしまうでしょうよ。でも、だからこそ、苦痛が長引くとも言えますがね」
そう言った道士は弥生の尻尾の毛を引き毟った。
「ぎ…!」
びくんと身体を震わせる弥生。
「やめろ! やめろったら!!」
直也の怒りの声。しかし道士は残虐な笑みを浮かべて、
「わたしが聞きたいのはそんな言葉ではありません」
そう言って弥生の頬を叩く。乾いた音がして弥生の頬が赤くなった。
「やめろ!…わかった…」
項垂れる直也。
「それで、俺は何をすればいい?…」
そんな直也に、
「直也!そんな奴等に屈してはならぬ!…ぐはっ…」
弥生が声を掛けるが、紅玉に殴られ、黙らされてしまった。
「やめろって言ったろう! 言う事は聞く、…それ以上弥生を傷つけたら承知しないぞ!」
道士は満足げに頷き、
「最初からそう言って貰えればこんな面倒な事はしないで済んだのですよ」
そう言って直也の前に木で作った人型を差し出した。
「これにあなたの名前を書いて下さい」
それを見た弥生が叫んだ。
「いかん! そんなものに自ら名前など書いては! 命を差し出すのと同じ…ぐはあっ!」
弥生の差し出口を嫌った紅玉が弥生を再び殴りつけたのだ。仰向けに倒れる弥生。
「すこうし黙っていなさいな」
そう言って弥生の腹を踏みつける。しかし弥生は苦しい息の下から直也に向かって叫び続ける。
「直也!…お主に…そんな事をさせるくらいなら儂は死を選ぶ…よいか、…儂の身なぞ案じてくれずともよい…」
そう言って弥生は舌を噛んだ。
「おっと、危ない危ない」
弥生が舌を噛んだ、その瞬間に道士が弥生の口中に呪符を差し込む。
そのため、危うい所で弥生が舌を噛み切る事を防ぐ事が出来た。
「弥生…お前…」
直也は弥生が舌を噛み切ろうとした事に呆然としている。
道士は弥生を引き起こすと、
「弥生さん、そうまでして直也さんを守りたいのですか?…あなたがわたしのいう事を何でも聞いてくれれば直也さんに無理強いはしませんが…いかがですかな?」
弥生は辛そうに目を閉じていたが、やがて、
「…わかった」
と一言、ぼそりと答えた。
「ほうほう、それはうれしい。…ですが、その言葉をそのまま信じるほどわたしはお人好しではありませんよ」
そう言うと、
「そうですね。まずは人間を十人ほど殺してもらいましょうか。ここから南へ下った沼田でなら簡単でしょう。…紅玉、あなたもついて行きなさい。先程の失態を取り返す機会を与えてあげます」
紅玉は深々と頭を下げ、
「ありがとうございます、必ずご期待にお応え致します」
道士は更に呪符を五枚出すと、四枚は弥生の四肢に、一枚は弥生の背中に貼り付ける。
「この符はあなたの力を制限します。いまのあなたは紅玉の半分も力を出せないはず。その状態で十人、人間を殺してきなさい。紅玉は付いていって見届けるのです。そして殺した証拠として右手の人差し指を十本、切り取って持ってきなさい」
「承りました」
跪いて命令を受ける紅玉。弥生は黙って聞いている。
「駄目だ!弥生!…罪を重ねるような事をしちゃ!」
直也は叫ぶが、弥生はそんな直也に寂しそうな視線を向けるだけであった。
「弥生!」
「うるさいわねえ。あなたのために弥生さんはあたしたちの仲間になろうとしてるのよ。応援してあげなきゃ駄目じゃないの」
縛られた直也に腕をからめ、芙蓉が言う。そんな芙蓉に対して蓮香は、
「七姉さん、駄目よ。この人はあたしが任されてるんだから」
とその腕を押しのける。芙蓉は笑って、
「はいはい、ねんねのおちびさんだと思っていたらいつの間にか色気づいたのねえ。その人、気に入ったの?」
そう言われた蓮香は頬をうっすら染めて、
「…そんなわけないでしょ!…お師匠様から言いつかった事を忠実に果たそうとして何が悪いの!?」
「おおこわ。ま、いいわ。そういうことにしときましょ」
そんなやりとりを見ていた大元道士は、
「よしよし、蓮香、あなたはその調子で直也さんを見張っていなさい。…直也さん、そういうわけですので、おとなしくしていて下さいね」
そう言って弥生と紅玉に向き直り、
「明日の夜明けまで時間をあげます。それまでに人間を十人。…いいですね。守れない場合、直也さんの身の保証はしません」
「約束は守るのじゃぞ」
「それはもちろん」
そう言って道士は弥生の耳と尻尾の縄を外した。自由になる弥生、だが呪符のため力が制限されている。
明日の夜明けまではもう一日を切っていた。急がねば、今の力では間に合わないかも知れない。
「…行ってくる。無茶はするな、直也」
弥生は直也に向けてそれだけ言うと、振り返らずに出口へ向かった。紅玉もぴったりその後に付いていく。
「さてさて、楽しみな事です」
道士はそう言うと芙蓉を促し、蓮香と直也を残して部屋を出て行った。
「…」
意気消沈した直也の縄を蓮香は解きながら、
「結局こうなっちゃたわね。もうあきらめなさいな」
「うるさい、ほっといてくれ」
蓮香の手を振り解くと、直也は寝台に突っ伏して、必死に考えを巡らせるのであった。
「お昼ごはんよ。...食べないの?」
蓮香が昼食を運んできた。
それまで考え込んでいた直也は、溜息を一つ吐くと、卓に付いた。清国風なので卓と椅子で食事するのである。
蓮香はくすっと笑って、
「やっぱりお腹はすくものね」
そう言って給仕をしてくれる。直也は黙々と食事を摂った。
食後、蓮香は例の茉莉花茶を淹れる。直也は美味そうにそれをすすり、
「うん、この味もわかるようになった」
と言った。それを聞いた蓮香は喜んで、
「ほんと、美味しい?…うれしいわ」
と満面に笑みを湛えた。それを見た直也は、
「蓮香って、そうやって笑うとかわいいのな」
それを聞いた蓮香は頬を染めて、
「何馬鹿言ってんの。狐をたぶらかそうっていうわけ?…いくらあたしが年少だからってそれは無理よ」
そう言いながらも蓮香の顔は赤いままだ。直也は笑って、
「なあ、九姉妹だって言ってたよな、姉さん達のこと教えてくれよ」
「なあに? あたしより姉さん達に興味あるっての?…それともまだ逃げる気でいるのかしら?」
「狐の美人九姉妹なんて初めてだからさ。単純に興味があるんだよ」
蓮香は疑わしそうに、
「ほんとかしら?…まあいいわ。当たり障りのない事だけよ」
そう言って蓮香は語り出した。
まだ続きます。




