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巻の五十四   邪仙(弐) 狐仙

巻の五十四   邪仙(弐) 狐仙

 

「う…」

 直也は目を開けた。空から落ちた筈だが身体はどこも痛くない。

 弥生が助けてくれたのだろうか、そう思ったが、目に見えたのは見知らぬ天井。どこかの部屋の中らしい。寝台に寝かされていた。

 起き上がって見回して見ると、日本離れした色彩の壁、窓、柱。清国にでも来たかのようだ。

「あら、目が覚めたのね」

 女の声がした。そちらを見ると、これも清国風の服を身に纏った娘が立っていた。

 小柄な身体、黒い髪はお下げに結い、少し吊り上がった切れ長の目。明るい青の衣装を着ている。美少女と言えるだろう。

 だがその気配は人間のものではなかった。直也が察したところ、狐である。

「君は?…俺を助けてくれたのか?」

 娘は婉然と笑って、

「まあそうなるかしらね。まだあなたには死んでもらっちゃ困るから。…あなたのしもべを誘き寄せるまではね」

「弥生のことか!?…お前等、いったい何を企んでいる?」

「そんなの決まってるじゃない。この国を支配下に置く事よ」

「そんな事が出来ると思っているのか?」

 娘は寝台に近付いてきて直也の傍らに腰掛けた。

「思ってるわよ?…知ってるでしょ、夏の桀王、商の受王、周の幽王の事。この国だったら鳥羽帝ね」

「…だが鳥羽帝の時は…」

「知ってるわ。陰陽師に見破られたって事は。だから今度は失敗しないようにあたし達が補佐するのよ」

「あたし達?」

 娘はつと立って直也の正面に回ると、

「そう。あたしの名前は蓮香れんこう狐仙こせん(仙道を会得した狐)よ。

 あたしみたいな狐仙が何人も仕えてる、あたし達の指導者、お師匠様は大元たいげん道士。よろしくね、直也さん」

「俺の名を…」

 直也が驚くと、

「そのくらい分かるわよ。あなたが隠れ里の次期当主だって事もね」

「……」

 蓮香はきゃらきゃらと笑うと、

「ま、観念した方がいいわよ。いずれこの国中の妖怪・精霊は根絶やしになるんだから。あんたも死にたくないでしょ?あたし達に協力しなさい。さもないと…」

「どうなるんだ?」

 蓮香はにやりと笑い、舌なめずりをすると、

「精を喰らい尽くされた挙げ句、胆は仙丹の材料にされて、肉は獣の餌ね」

「そう簡単にやられてたまるものか」

 懐に手を入れるが、そこには何も入っていなかった。

「無理無理。あなたの持ち物は全部お師匠様の所だから。刀も薬も蛇の珠もね」

「……」

 絶句する直也。今回の相手は知恵、力共にこれまでの奴等とは段違いだ。

「あたしあなたが気に入っちゃったから、死なせるには忍びないのよ。ねえ、悪い事言わないからあたしたちの仲間になっちゃいなさい」

「なったらどうなる?」

 蓮香はにっこりと笑い、

「不老不死、とは言わないけど長寿が約束される。そしてやりたいことはし放題。金銀財宝思いのまま、どう?素敵でしょ」

 直也は薄ら笑いを浮かべて、

「隠れ里でも長生きは出来るさ。そして今までだって俺はやりたいこと結構やってきたつもりだ。金には興味がない」

 それに対して蓮香は、

「じゃあ女はどう?…なんならあたしを好きにしてもいいわよ」

 直也は肩をすくめて、

「女狐に騙されて命を縮めたくはないよ」

「…まったく、籠絡しがいのある男ねえ、あなたって。…どうしてそんなに落ち着いていられるのかしら?」

「…そうだな。俺も驚いてる。…きっと、弥生を信じてるからだろうな」

「弥生?…あなたのしもべね。助けに来てくれると思ってるの?」

「弥生はしもべじゃない。…だが信じてる。弥生が俺の期待を裏切った事は一度もない」

 蓮香は笑って、

「じゃあこれが初めてになるかもね」

 とだけ言った。


*   *   *


 夜が明けるまで弥生は付近一帯をしらみつぶしに捜索していた。が、直也の気配は感じられない。

「かなりの相手じゃな」

 ひとりごちて、付近に湧いていた清水で喉を潤す。

 流石にぶっ続けの捜索で疲れたのであろう、そのままそこに崩れるように倒れ込むと、弥生は目を閉じた。

「……」

 榛名山から赤城山にかけての一帯を探索したが、直也の気配はなかった。が、一箇所、弥生の感覚の網で感知できない場所がある。

 言い方を変えれば、特殊な結界が張られていると思われる場所。つまりそこがおそらく目指す敵の本拠だ。

「…待っておれ、直也。いま行くからのう…」

 そうは行っても体力は限界に近い。僅かでも休息を取らねば、敵との戦いが不利になる。

 逸る気持ちを抑えつつ、弥生は目を閉じた。余程疲れたのだろう、すぐに寝息を立て始めた。

 

 半刻後。弥生は目を覚ます。もう大分お天道様は昇っている。

 もう一度水を飲み、疲れがかなり回復した事を確認、目的地へ向けて走り出した。

 目的地、それは沼田の北へ峠を越えた所。その一角に、弥生にも探り得ない結界が張られていたのだ。

 一刻程で到着。気配を消してもう一度探ってみる。距離が近くなった分、より詳しい探査が出来る。

 弥生の感覚の網はゆっくりと伸ばされ、やがてある障壁にぶつかった。

「やはりこれじゃ…」

 それはこの国では嘗て使われた事のない術式、それを言葉で表す事は難しい。だが弥生はその術式を知っていた。

 いや、知っていたのはマーラ。そのマーラの知識をものにした弥生にもその術式は理解できるのだ。

「じゃが…迂闊に入り込むのは危険じゃ…」

 罠が待ちかまえている可能性もある。何より、直也が囚われているはず、迂闊に騒ぎは起こせない。

「相手の事が分からなさすぎる。何とか中の様子を知る事は出来ないじゃろうか…」

 内心の焦りを隠して、あくまでも冷静に考える弥生。折から、何者かが結界の隙間から現れた。若い女である。狐が化けたものというのはすぐにわかった。定期の見回りであろう、動きやすそうな服装である。

「確か…騎馬民族があのような服を着ておったな」

 それもマーラの知識。弥生は苦笑いをすると、気取られないように後を付けた。


 女は何も気付かないように歩いている。その道筋はほぼ結界の境界線に沿っていた。

 何かあったらすぐに結界に飛び込み、報告できるようにだ。

 弥生はなんとかして女を結界から遠ざける方法はないかと考えた。

 そこで術を使う。それは簡単なもので、ただ木の葉を一枚、直線的に飛ばすだけ。

 しかし自然界にあってはそんな動きをするはずはなく、注意を引き付けるには十分。

 だが危険を感じさせる事はないだろうから、確認のため、近寄ってくるはず…それが弥生の狙いであった。

 案の定、見張りは疑問を憶えたらしく、一歩二歩、結界から離れた。だがまだ不十分である。

 狐の瞬発力を考えたら、最低十歩は離れさせる必要がある。

 そこでもう一度別の術を発動。今度はほんの小さな狐火を灯し、宙に浮かせた。

 自身は隠形おんぎょうの術を使い、姿は見せていない。

 狐火に気が付いた見張りは慎重に近寄ってくる。…あと三歩、二歩、一歩。

 弥生は突然姿を現すと、

うごくことをきんず

 見張りに定身の術を掛けた。それで見張りの女は身動きする事も声を出す事も出来なくなってしまった。

 弥生はその女を担ぐと、大急ぎでその場を離れる。そこに折から弥生の姿を見つけた烏天狗が舞い降りてきた。

「弥生殿!」

「おお、いいところに。こやつを離れた場所へ運ぶのを手伝ってくれ。いろいろ問いただしたいからのう」

 それで烏天狗は弥生に代わって狐女を担ぐと、弥生と共にその場を離れた。

 十町(約1.1キロ)程離れた所で尋問に掛かる。

 見張りが戻らない事を知れば警戒が強まるだろう、そうなる前に必要な事を聞き出さねばならない。

「お前達は何者じゃ?」

「……」

 術を解いたのだから喋れないわけはない。こうしても時間の無駄と、弥生は術に物を言わせる事にした。

 掌に小さな狐火を灯す。

「これを見よ」

 思わず狐火を見つめてしまう狐女。弥生は更に狐火の色を変えていく。

 青、紫、赤、黄、緑、そして青。これを繰り返しているうちに狐女の目が焦点を結ばなくなった。術に掛かったのである。

「よし、…お前の名は?」

「…紅玉」

「仲間は他に何人いる?」

「…十人」

「男が一人囚われておろう?」

「…はい」

 質問を繰り返し、弥生は必要な知識を得ていくのだった。


*   *   *


「食事よ」

 蓮香が盆に載せた食べ物を持ってきた。直也はそれを睨んだまま手を付けようとしない。

 そんな様子を見た蓮香は笑って、

「毒でも入ってると思ってるの?…今更そんな姑息な真似しないわよ」

 そう言うと、盛られている飯を一つかみ自分で食べてみせる。

「人間を操るつもりだったらあたし達にはもっと上手い手がいくらでもあるんだから」

 直也はそれを聞くと、腹が減っては戦が出来ぬ、とばかりに勢いよく食べ始めた。

 食べてみればなかなかの味、瞬く間に全部平らげてしまった。それを見た蓮香は笑って、

「大した食欲ね。…お茶を淹れてさし上げるわ」

 そう言うと部屋の隅から薬缶と急須を持ってくると、まず薬缶に水を注ぎ、狐火を灯して湯を湧かすのであった。

 そうして淹れてくれたお茶は花の香りがした。

「何だ、このお茶?」

茉莉花まつりか茶よ」(ジャスミンのこと)

「ふうん、清国ではこういうのを飲むのか」

「美味しい?」

「…うーん、味は確かにお茶なんだが、香りがちょっと馴染みが無くてな…でも不味くはない」

 蓮香は笑って、

「それ飲んだら碁でも打たない?」

しかし直也は、

「碁?…悪い、俺打てないんだ」

「なあんだ、詰まらない。じゃあ琴でも弾いてあげましょうか」

「弾けるのか?」

「もちろんよ、これでも狐仙こせんのはしくれですからね」

 そう言うと、奥の棚から琴を出してきた。

 ここで言う琴とは、日本で言う琴とは違い、「きん」と発音する。我が国でも平安の頃は「琴のきんのこと」と呼ばれていた。

 絃は七本で、琴柱は無く、左手で弦を押さえ、右手で弾く。演奏が難しく、我が国では廃れていった。

「まずはこの曲」

 蓮香が弾き出した。明るい曲で、流れるような旋律である。続けて弾いた曲は哀愁を帯び、三つ目の曲は緩やかで堂々とした曲であった。

 弾き終わると直也は拍手をする。

「素晴らしい腕前だな。感心したよ」

「ありがと。あなたも何か弾いてみる?」

 直也は苦笑して、

「いや、俺は不調法で楽器なんて演奏できない」

 蓮香はそんな直也に、

「教えてあげましょうか」

 そう言うと直也の座っている長椅子の隣に腰を下ろした。そして直也にしなだれかかってくる。

 蓮香の髪はいい香りがして、直也も一瞬はっとしたが、気を取り直すと、

「離れろ、女狐」

 そう言って蓮香を押しのけるのだった。

「あん。…やっぱり一筋縄じゃ行かないか。…あーあ、術使ってもいいんだったらとっくにあたしのものにしてるんだけどなあ」

 悔しそうに言う蓮香。更に、

「言っておくけど、この部屋から出ちゃ駄目よ。姉様達はあたしよりも見境無いから、あっという間に精を搾り取られて腎虚になるのが落ちだからね」

「蓮香は違うのか?」

 そう尋ねると、蓮香は苦笑しながら、

「あたしはまだ一人前に扱ってもらってないからね。だからあなたの世話を任されたってのもあるんだけど」

「どういう事だ?」

「つまりね、あたりの妖をやっつけるとか、お師匠様の警護とかにはまだ役不足ってことよ」

「ふうん…」

 つまりは蓮香以上の実力を持った狐がまだ沢山いるという事、と直也は認識した。


*   *   *


「これしかあるまい...」

 中の様子を聞くだけ聞くと、弥生はしばらく考え、決断を下した。

「これが見破られたら儂も年貢の納め時という事じゃ。…その時はこの命に替えても直也だけは救い出す」

「弥生殿…」

「天狗殿、ここは儂に任せて欲しい。…もし三日、そうじゃ、三日経っても儂等が戻らなかったら、別の策を立ててくれるよう、三郎殿に伝えてくれ」

「…委細承知」

 烏天狗は飛び去った。弥生は捉えた紅玉に更に術を施すと、

「直也、無事でいてくれよ...」

 そう呟いて紅玉と共に結界へと向かったのだった。

 

*   *   *

 

「紅玉が戻りました」

「遅かったわね、紅玉。…その狐は誰?…もしかして?」

三姉さんねえさん、お察しの通りよ。捉えた直也って男のしもべ。弥生って言うの」

 弥生は自ら縛られて紅玉に引かれていた。

「ふうん?...あなたの力でよく捕まえられたわね?」

 三姉さんねえさんと呼ばれた狐女は疑わしそうに紅玉を見ている。弥生は落ち着き払って、

「儂が望んでここへ来たのじゃ。直也に会わせてもらおう」

「なるほどね、手向かっても無駄と悟ったのね。…弥生と言ったわね、あたしは緑雲りょくうん胡氏こし九姉妹の三番目」

 そう言うと緑雲は後ろにいた別の狐女に向かって、

蘇秋そしゅう、お師匠様を呼んでおいで。例の狐を捕らえました、ってね」

「はい、三姉様」

 蘇秋そしゅうとよばれた狐女は奥へと引っ込んでいった。すぐに一人の道士を連れて戻ってくる。

 その両脇には狐女が控えており、おそらく彼女らが九姉妹の一、二番目だろう。細身の剣を帯びている。

 道士をまじまじと見れば、白面の壮士。背は高く、鶴のように痩せていて、眼光は鋭い。

 髪はまだ黒く、髭は生やしておらず、壮年に見えるが、その実、よわいは計り知れぬ、と弥生は見た。

「ようこそ、弥生さん、お待ち申しておりました。私は大元たいげん道士、以後お見知りおきを」

「直也は無事なんじゃろうな?」

 真っ先に直也の安否を尋ねる弥生。道士は笑って、

「直也さんは今のところ無事ですよ。これからも無事かどうかはあなたの返答次第ですけどね」

「…何が望みじゃ?」

「私と手を組んで、この国を乗っ取る手助けをして欲しいのですよ」

「なん…じゃと?」

 道士は弥生を真っ直ぐに見据えると、

「あなたはその昔、この国の禁裏きんりにまで入り込み、帝や上皇を堕としたではありませんか。またそれをやってほしいのです」

「そうそう、今度はあたし達が助けるから。陰陽師や坊主に邪魔はさせないわ」

 これは脇に控えていた女。更に女は、

「今は朝廷より幕府よね?…将軍は跡継ぎが出来ないのを気にしているから、大奥へ入り込んで術で子供を産んで見せればもういちころよ」

 幕府の内情にも通じているらしい。弥生は内心冷や汗をかいた。一筋縄ではいかない相手だ。

「話は分かった。…じゃがまずは直也の無事な事を確認させてもらおう」

 弥生がそう言うと道士は、

蘇秋そしゅう、お客人を」

 と、控えていた蘇秋に命じた。すぐさま部屋を出て行く蘇秋。それを見送った道士は、

「紅玉、お手柄でしたね」

 と褒詞を与えた。紅玉は、

「いえ、運が良かっただけです。一対一だったらあたしは敵わなかったでしょう」

 そこへ直也が蘇秋に連れられてやってきた。

 中国では兄弟を名前で呼ぶよりも、排行はいこうと言って、生まれの順で呼ぶ習慣があります。たとえば王大(1)王二(2)、王三(3)というように。これは同世代(たとえば孫達全員)での話らしく、従兄弟などもひっくるめて言うようです。現代では廃れたとも聞きます。

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