巻の五十二 白沢峠
巻の五十二 白沢峠
直也と弥生は信濃四谷(現在の白馬村あたり)を歩いていた。西には残雪を頂く山々が聳えているが、里はもうすっかり春である。
そこここに花が咲き乱れ、風もうららか。思わず歩みを止め、山々の眺めに見入ってしまいそうである。
「直也、急がぬと峠を越えられぬぞ」
弥生がせかす。
二人は信州の名刹、善光寺を目指している。これから白沢峠を越え、鬼無里を経て長野へと向かう予定だ。
「わかったよ」
山道は長い。道中の食料として餅を買い込んだ直也は振り分けに詰め込んでいる。少々重いが今の直也はその程度、何ほどのこともない。
ゆっくりと峠へ続く道を歩き出す二人に声を掛けた者があった。
「もし、旅の人」
振り返ると、そのあたりに住んでいる老爺である。
「もしや白沢の峠を越えなさるつもりだか?」
直也がそうだと答えると、
「悪いことは言わねえ、やめといたほうがいいずら」
最近白沢の峠には悪いものが出て旅人が襲われているのだという。直也はそれに対して、
「それなら、尚のこと行かなきゃな」
そう言って弥生を見る。弥生は心得た、という笑顔で返した。
「あああ…、そう言って出かけたお侍衆も帰って来なかったずら。それでも行くかね」
力強く頷く直也、それに続く弥生。老爺は最早かける言葉もなく、ただ、
「気をつけるずらよ…」
と言っただけであった。
嶺方を過ぎると道は急勾配になってきた。立木が切れたところに差し掛かると、西山がよく見える。
百姓衆が農作業の目安にしている代掻き馬もよく見えた。
登りでかいた汗が吹いてくる風に引いていく。
「ああ、天気もいいし、本当にこの先の峠に何か出るのかな?」
直也がさっきとはうって変わった真剣な顔で呟く。
「うむ、地元の者がそう言うのなら嘘では無かろう。化け物か、山賊か…」
そう言う弥生も真剣に答えている。
「…鬼か」
この先には「鬼無里」の名を持つ里がある。その由来は戸隠山の鬼伝説に由来する。
「太平記」に、源頼光(酒呑童子退治)の父に当たる多田庄の源満仲が、源氏に伝わる宝刀で戸隠山の鬼を切ったという話が見える。
また「神道集」には「官那羅」という戸隠山の鬼が帝の寵愛する姫を誘拐したので満清将軍が退治したという伝説が載っている。
戸隠山は修験道の山であると共に、鬼の棲む山であったのだ。
後世、これらの話を元に、有名な「鬼女紅葉」の伝説が創られることになる。
「鬼は元々目に見えないものだった。また権力に逆らう勢力を鬼と位置付けて退治していった。…それが今では鬼と言えば角を生やして虎の皮の褌を締めた姿だ」
直也が独り言のように呟く。それに弥生は、
「ふふ、人の想念というのは強いからのう、妖の姿を決めるのは人の想念であると言っても過言ではない」
「弥生、それは本当か!?」
直也が尋ねる。弥生は笑って、
「本当じゃよ。…人あっての妖じゃ、人が一人もいなくなったら妖も消えてしまう、そんな関係じゃ」
「どういう意味だ?…人が妖を創り出しているというのか?」
直也は重ねて尋ねた。先日、マヨヒガで書物を読んで以来、こういう事にも造詣が深くなった。
「そうじゃな、神も妖も、人がいてこそじゃ。人がおらなくなればいなくなってしまう」
「…そんな馬鹿な…だって神が国を創って、それから人が生まれたんだろう?」
弥生はそれに対して、
「神も妖も、『力』に対して人が付けた名前じゃ。その名前を呼ぶ人がいなくなれば残るのは『力』だけじゃよ」
「…よくわからない」
「よいか、たとえば…古来から火というものはある。
その火に霊性を認め、火を司る『力』に人は『火神』とか『火天』とか『火之迦具土神』と言った名前を与える。
名前を付けられた『力』は形を取るようになり、人はそれを感知して崇め奉る…」
直也はようやくわかったという顔で、
「そうか、そう言うことか。…すると、鬼がああいう姿になったのも人の想念のせいか」
「まあそう言うことじゃな。…儂もずっと考えておった。鬼と化した者を人に戻すには想念を断ち切るしかないのではないかとな…」
直也は顔を引きつらせ、
「それって殺すって事じゃ…」
弥生は沈痛な顔で、
「うむ、殺さずに想念を断ち切る方法があればのう…」
好天の下、峠道を歩いていく二人であるが、その顔は晴れなかった。
夕闇の迫る頃、二人は峠に立っていた。西山が影絵のようだ。空には上弦の月が懸かっている。
「さて、そろそろ今宵の寝床を探さぬとな」
弥生が目をあたりに配りつつ、峠を下り始めたその時。
「もしもし、旅のお方」
声を掛けた者があった。見れば、三十を少し回ったくらいの艶やかな女である。
桜重ねの打ち掛けを着て、髪は足元まで垂れ、立ち居振る舞いに気品が感じられる。
一瞬身構えた弥生であったが、木の精であることを察すると、警戒を緩めた。完全に信用しきったわけではないが、
「何用じゃ?」
平静にそう尋ねる。女は、
「わたくしはこの白沢峠に棲む桜の精です。旅の方、この先は長うございます、しばしお休みなさいませぬか」
そう言って手で指し示した先には緋毛氈が敷かれた小さな広場があった。周りの木々には明かりが灯されており、ほの明るい。
「かたじけない、それではお言葉に甘えて」
そう答礼すると弥生は広場へと歩き出す。直也もそれに続いた。
歩きながら直也は小声で、
「なあ弥生、この女が妖怪なのかな?」
「いや、桜の精であることは間違いない。…木の精に人を害する事は出来ぬはずじゃが…」
二人は緋毛氈の上に座った。そこへ女が瓢箪を持ってやって来て、
「まずは喉がお渇きでしょう、山の清水で喉を潤して下さりませ」
そう言って木製の杯に注いで寄越した。弥生はその水の匂いを嗅ぎ、舌に載せてみて、異常が無いことを確かめるとその水を飲み干した。
それを見て直也も飲み干す。冷たくて美味い水であった。
「ただいまささやかな御膳の支度をさせておりますれば、少々お待ち下さい」
そう言って女は下がっていった。
「弥生、どう思う?」
「うむ、怪しいと言えば怪しい。そもそも木の精が人前に姿を現すと言うことは滅多にないこと、じゃのにあの女は…」
そう言いながら乱れた髪を指で梳く。汗と埃で少々艶が無くなっている。
「弥生、櫛があるじゃないか」
「おお、そうであったな。今まで櫛とは縁が無かったので忘れとった」
そう言って懐から弥生姫に貰った櫛を出し、髪を梳く。すぐに黒髪の艶が戻った。
がしゃん、と膳を落とした音がしたのでそちらを見ると、先程の女が棒立ちになっていた。
「そ…!その櫛は…!!」
目を見開き、信じられないものを見たという表情である。
「この櫛かな?…これは松本の向こう、稲核のあたりで、大山桜の精、弥生姫に貰った櫛じゃよ。よい櫛じゃ」
女はにじり寄ってくると、櫛をまじまじと見つめ、
「ああ…あの子…生きていたのですね…」
そう呟いた。直也はふと思い出して、
「あなたのお名前は?…もしや雲井さんと?」
女は驚いて、
「はい、わたくしは雲井と申します。白沢の雲井です」
直也は破顔して、
「そうか、よかった。…弥生姫から伝言があります。白沢の雲井という人にあったら、弥生は達者です、と伝えて欲しい、と」
「そうですか…」
雲井は感無量と言った表情で黙り込んでいたが、やがて、
「あの子…弥生はわたくしの子です。ずっと前、あの子が若木の時に掘り起こされて持ち去られてから二百年あまり…よもや生きていてくれたとは…」
「立派な大木になって、綺麗に花を咲かせていましたよ」
直也がそう付け加えると、雲井は土下座をして、
「申し訳ございません、もう少しで娘ゆかりの方達に害をなすところでした。
…実はわたくしめは、この峠下に住む化け物の手先となり、通りかかる旅人を襲う手助けをしていたのです」
雲井の語ったところによれば、
その昔、娘を奪われた雲井は人間を怨んだものの、そこは木の精の哀しさ、どうすることも出来ずに哀しみの日々を過ごしていた。
そこへどこからか一匹の化け物が現れ、力をくれた。それで協力して峠を通る旅人を害していた、という。
「…わたくしは間違っておりました…」
項垂れる雲井。
「くれた力というのはどのような?」
弥生の問いに、
「この数珠でございます」
差し出された黒い数珠。その色は紛れもなくマーラの色。
「この数珠を首から掛けている間は姿を現すも消すも自在、人を害することすらためらうことなく出来ました」
「マーラめは心の隙に付け入るのが上手い。そなたも利用されていたのじゃ。この数珠は最早必要あるまい?」
弥生の問いに雲井は、
「はい、お話を伺っているうちに心の霧が晴れたようです」
「よし、直也頼む」
直也は頷くと、翠龍を以て数珠を斬り割った。黒い煙が立ち上り、それは翠龍の一薙ぎで浄化された。
「これでそなたは自由じゃ、もう業を深めるようなことをするでないぞ」
雲井は深々と礼をして、
「はい、ありがとうございます。…化け物がもうじき、お二方を喰らいに現れるはずです。早くお逃げ下さい」
弥生は首を振ると、
「いや、我々を逃がしたとわかったらそなたに迷惑が掛かる。それに、ここを通る旅人のためにも退治してやらねばのう」
「無理です!…かの化け物は刀も弓矢も通じません。竜神さえ怖くないと嘯いております」
弥生はちょっと考えて、
「いったい何の化け物じゃろう?」
雲井は、
「さあ…わかりません。いつも鎧兜に身を包んだ武者の姿で現れます」
そんな話をしていると、生臭い風が吹き始めた。
「いけない!…化け物が来ます!…わたくしが毒の御膳でお二人を動けなくしている手筈なのです」
弥生はそれを聞くと笑って、
「そうか、もう良い、雲井殿。…直也、ちょっとこちらへ来い」
そう言って何やら直也の額に指で呪を描いていた弥生は、
「雲井殿、儂等はそこで倒れた振りをする。化け物が来たらそなたは出来るだけ離れておるがよい」
そう言って毛氈の上に横たわる。直也も同様に横になった。
折からそこへ、甲冑の音を響かせて化け物が現れた。雲井は礼をして引き下がる。
「ふん、男と女か。…ん?…こいつらは…」
化け物が覗き込んだその瞬間、弥生は跳ね起きて白い狐火を発した…筈であった。
しかし弥生の掌からは何も出ない。
「な…なん…じゃと…?」
化け物は身を反り返らせて笑う。
「ふははは、やはり一人は狐であったか。…それもかなりの力を持つ年経た狐と見た」
化け物は弥生の正体に気付いていたようだ。
「この一帯は我の結界内だ。五行の流れはその一切を遮断している。狐火など使えるものか」
弥生は不敵に笑うと、
「流石、マーラの手先と言ったところか。じゃが儂の術は五行を封じたくらいでは防げぬぞ!」
そう言うと跳躍し、化け物の背後に回る。見れば、目に見えないくらい細い糸が握られている。それが化け物にからみ付いていた。
「儂の髪で作った糸じゃ。動かぬ方がいいぞ?…引き絞れば貴様の首が落ちるからのう」
そう言う弥生に対して化け物は、
「面白い。やってみろ」
そう言うと無造作に腕を伸ばす。糸が引き絞られた。
「くうっ!」
その力のものすごさ、弥生の手に糸が食い込む。更に化け物が腕を回すと、音を立てて糸が千切れ飛んだ。
「なにっ!…儂の妖力を込めた糸が切れるとは…!」
「簡単なこと。狐、お前の力より我の力の方が上と言うことだ。諦めて我の血肉となれ」
弥生は不敵に笑うと、
「お断りじゃ」
そう言うと、再び跳躍。化け物の背後に回る。直也も起きあがり、手に翠龍を構えた。
「若僧、その手にしている物は何だ?木っ端か」
翠龍を貶されてむっとした直也は、
「これは竜神由来の神刀だ。これには貴様も堪るまい」
化け物はふんと鼻で笑って、
「竜神が何だ。その昔、琵琶湖の竜神が三上山の主を倒せなかった事を知らぬのか」
そこへ弥生が襲いかかった。化け物は腕を振り、弥生を弾き飛ばす。
「ぐあっ!」
弾き飛ばされる弥生、しかし、良く見るとそれは木の枝である。
「変わり身か…流石は狐、と言っておいてやろう…そこだ!」
化け物は頭上に聳える木に向けて腰の太刀を抜いて投げ付けた。そこに出来た隙を狙い、直也が斬りつける。
「しゃらくさい」
そう言って直也を弾き飛ばそうとした化け物の動きが一瞬止まった。投げ付けた太刀がそのまま戻ってきたのである。
もちろん弾き返したのは弥生。結界内と言えども、太刀は金気、金気を操って弾き返すくらい弥生には訳のないこと。
その隙に直也が斬りつけた。
しかし。
あろうことか、翠龍の刃が跳ね返されたのである。
「何っ!」
「ふははは、言ったであろう、竜神など我の敵ではない、とな。…うりゃあっ!」
翠龍にも刃が立たない相手…直也が一瞬立ちすくんだ隙に、化け物の左手が直也の腹部に突き刺さった。
「ぐはあっ…」
昏倒する直也。それを見た弥生は木の上から飛び降りる。
「直也!!」
その弥生の足が地に着く寸前、化け物の足蹴りが弥生の脇腹に炸裂した。
「がはっ!」
空中にあっては避けることもかなわず、まともに喰らってしまった弥生。そのまま直也の前にくずおれる。
「ぐ…」
それでも直也を守ろうと、立ち上がる弥生。それを見た化け物は、
「健気だな、狐。だがしかし、何をやっても我に敵わぬ事が分かったであろう。…狐、我の手下になれ。さすれば命は助けてやろう」
「誰が…マーラの手先なんぞに屈するものか…」
苦しい息の下から言葉を紡ぎ出す弥生。その目は不敵に燃えている。
「そうか…残念だな、貴様ならあんな桜の木よりも遙かに役に立つ手先になると思ったのだが...」
「死んでも断る」
そう言い切った弥生は、一足下がると、地面を指差し、五芒星を切る。
「八、九、六、三、七…」
驚く化け物。
「ぬっ!…それは後天…!」
「…五!」
弥生が最後に地面に指を突き立てると、そこから水が噴き出した。
「我の結界を破ったのか!」
「ふふ、五行を支配しているとはいえこの程度か。…水地比、水よ!」
噴き出した水は収束し、化け物にぶつかった。
水の勢いにさしもの化け物もよろける。その隙に直也を助け起こした弥生は、
「七、四、一、八、二…天地雷!」
水気目掛けて木気の雷を飛ばす。
爆発的に水蒸気が上がり、化け物が吹き飛んだ。
「…どうじゃ!…」
流石に肩で息をする弥生。直也も立ち上がって化け物を睨みつけている。
「…正直ここまでやるとは思わなかったぞ」
もうもうたる水蒸気の向こうから声がする。あれだけの攻撃を受けてもほとんど堪えていないらしい。
「答礼として我の真の姿を見せてやろう」
湯気が風に吹き払われる。その向こうから姿を現したのは体長十丈(約30m)はあろうかという大百足であった。
「この姿を見せたからには生かしては帰さぬ」
そう言うが早いか、一瞬で弥生に跳びかかるとその足を使って身動き出来ないように押さえ込む。
「弥生!」
助けに入った直也だが、翠龍もはね返され、役に立たない。たちまちに抱え込まれてしまった。
「覚悟せい」
大百足がその口を開け、まず弥生を一飲みにしようと迫る。
「生きたまま喰ろうてやる」
弥生に大百足の牙が届こうとしたその時。
「そんなもの喰って腹にもたれても知らぬぞ」
「貴様は…!!」
声のする方を大百足が見ると、腕組みをして静かに笑っている弥生の姿があった。その横には直也が立っている。
慌てて自分が抱え込んでいる弥生と直也を見ると、それは只の岩であった。
「な…!…いつの間に!」
弥生は涼しい顔で、
「幻術とは虚々実々、実かと思えば虚、虚かと思えば実なり。虚実の違い見極め難く、現ならんと欲すれば夢となるを以て上とする」
そして手に白い狐火を灯す。
「貴様は最初から儂の術中にあったのじゃ。貴様の攻撃は何一つとして儂等に届いてはおらぬ」
白い狐火を大百足に投げ付けた。
しかし大百足はそれを呑み込んでしまう。
「ふん、結界を破ったとはいえこれしきの術で我を倒せると思うか」
「思うてはおらぬよ」
平然と言ってのける弥生。
「貴様が大百足なら肯ける。嘗て琵琶湖に棲む龍神を脅かし、俵藤太ーーー藤原秀郷に退治された大百足、マーラの力を借りて甦ったと見える」
「何…!我の正体を!」
「百足にはこれじゃ」
印を結び、真言を唱える。
「オン…マユラ…キランテイソハカ」
孔雀明王の真言。
「ぎゃあああっ!!」
苦しみ出す大百足。更に弥生は、
「ノウモボタヤ…ノウモタラマヤノウモソウキヤ…タニヤタ…ゴゴゴゴゴゴ…ノウガレイガレイダバレイレイ…」
孔雀明王呪。孔雀明王は孔雀を神格化した明王で一切諸毒を除くと言われる。また毒蛇・毒虫から守ってくれるという。
その威力により、大百足は身動き取れなくなった。
「き、貴様…、妖狐のくせに何故その呪を使える…!」
弥生は微笑みながら、
「貴様に話す義理はない」
そう言って直也を顧みる。
「直也、頼む。眉間を貫くのじゃ」
「わかった」
直也は翠龍を抜き、大百足に近付いていく。大百足は、
「…もう二度を悪さは致しません…どうかお助けを…!…命ばかりは…!!」
命乞いを始めた。直也の歩みが止まる。大百足はこの時とばかり、
「体は動かずとも…!」
その身を震わせると、口から毒液を吐いた。直也は避けたが間に合わず、毒液を被ってしまった。
「し、しまった…」
「直也!」
皮が焼け、肉が爛れ、骨が腐っていく…。
「ふははは、死なば諸共だ」
「そんなわけなかろう」
弥生の声。大百足の目の前から直也が消え失せた。毒液は空しく地に吸い込まれていった。
「貴様のような危険な化け物に正面から近付くほど直也は阿呆ではないぞ」
気が付けば直也は大百足の首ーーー首と言えればだがーーーに馬乗りになっている。
大百足がいくらもがいてもどうにもならない。
「直也、百足の弱みは人間の唾じゃ。翠龍に唾を塗ってから突き立てるのじゃ」
「く、くそおおおぉぉぉぉぉ!!」
「最早貴様に掛ける情けはない。…マーラ、消え失せろ!」
翠龍が大百足の眉間に突き立った。
「ぐぅおおおおおおおおおおおーーーーーーーーー」
大百足の咆吼。見る間にその形が縮んでいく。
と共に黒い煙が立ち上る。マーラである。
「マーラ、貴様の思い通りにはさせない!」
直也が翠龍を一閃。
この地におけるマーラの企みは消滅した。
「御苦労じゃった、直也。…因縁の大百足、それを退治したんじゃ、翠龍もその光を増すことじゃろう」
翠龍を拭い、鞘に収める直也。
「しかし今回の弥生の術、俺にも何が何だかわからなかったよ」
「ふふ、強敵じゃったからのう、五重に幻術をかけたのじゃ。これを破れるとしたら天狐様くらいじゃろうて」
「さて、この地を浄めねばならんな」
そう言って弥生は再び孔雀明王呪を唱えた。
地面から微光が発して辺りを薄ぼんやりと照らす。
それで直也は、今がまだ夜中だと言うことを思いだした。
今までは弥生の術と木々に灯された明かりであたりは薄明るく照らされていたから。
弥生の呪と共に地面の微光が薄れていく。それが消えた時、浄化は完了した。
「…ふう」
全てを終え、息をつく弥生。
「まさか大百足とはのう、龍神を恐れぬわけじゃ」
「ああ。…これでこの峠も安心して人が通れるようになるな」
直也も安堵の息をつく、その時。
「ありがとうございました」
その声に顔を上げれば、雲井である。心なしか影が薄い。
「雲井さん、これで峠も平和になるよ」
直也の掛けた言葉に寂しそうな微笑みを返し、
「わが子が立派な大木になっていると聞いて、安心して逝けます」
そう言うとその場にくずおれた。
「雲井さん!」
駆け寄る直也。しかし抱き起こそうとしたその手は雲井をすり抜けてしまった。
「…寿命でございます。…今まで大百足によって生かされていたこの身、その大百足が滅んだ今、最早持ちませぬ」
そう言うと雲井は体を横たえた。
「弥生、なんとかならないのか?」
その直也の問いに答えたのは弥生でなく雲井であった。
「…いいのです。…そそのかされたとはいえ、人々を害した罪は罪。…どうぞこのまま朽ちさせて下さりませ。…土となって命を育みとうございます」
そう言って目を閉じる。その姿が段々薄くなりーーー直也の目の前から消え失せた。
同時に、広場の隅に立っていた桜の木が音もなく倒れる。これが雲井の本体であった。
見れば、根元は朽ち、大きな洞が出来ており、樹皮も荒れて、今まで立っていたのが不思議なくらいである。
それでも直也は、
「弥生…」
弥生に問いかける。
弥生はそんな直也を優しい眼差しで見つめると、桜の根元に屈んだ。
「弥生?」
「ふん、この根はまだ生きておる。…よし」
地面に右手、桜の根に左掌を当てると目を閉じ、呪を唱え出す。
「南無地蔵菩薩…その功徳により大地に豊穣をもたらしたまえ、木々に花を咲かせたまえ…オンカカカ…ビサンマエイソバカ…」
そう唱えた後、身じろぎもせず手を当てたままじっとしている弥生。直也も声を掛けることも出来ず、そのまま佇んでいた。
どれくらいそうしていただろう、東の空が明るくなってきた。夜明けが近い。
いきなり弥生が眼を開き、掌を放した。
同時に一条の光が射してくる。日の出であった。
朝の光が根元を照らす。良く見ると、そこには新しい芽が覗いていた。
「これでよい、五十年もすれば立派な木に育つじゃろう。元の木は朽ちて土となり、新たな木を育てるがよい」
そう言って立ち上がる。そんな弥生に直也は、
「ありがとう、弥生」
「ふふ、お主が礼を言う必要はない。美味い水を飲ませて貰った、そのお礼じゃよ」
そう言って東の空を見つめる弥生。
太陽が昇り、一日が始まろうとしている。
「峠を下るとしようか」
直也が提案。頷く弥生。
二人はゆっくりと朝の光に照らされた峠道を下って行くのであった。
今回は久々、妖怪退治譚です。
巻の四十七の伏線も回収できました。弥生姫は白沢峠の桜の古木、雲井の子供です。
白沢峠は後立山連峰の眺めが秀逸なところです。今はトンネルがありますが、かつては細い道が通っていたことでしょう。
そして久しぶり、マーラの手先、大百足です。
俵藤太の百足退治は有名ですね。なぜか蛇(竜)は百足が苦手と言われています。個人的には霊的な強さとして龍神の方が遙かに強そうだと思うのですが、足のある百足に対し蛇は足が無いからでしょうか。
今回の弥生の幻術、弥生自身にも語らせましたが、どこからどこまでが幻か分からないような書き方をしてみました。
補足としては、直也が翠龍で斬りつけたのはラストだけです。弾かれたのは幻です。
桜の木は、基本的に切り倒されると根元から芽を吹かないはずです。(銀杏、櫟、楢など、切り株から芽を吹く木もあります)なので弥生が手を貸してやったというわけです。地中に根が残っているので、再生は種からより早いはずですから。
それでは、次回も読んで頂けたら幸いです。




