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巻の五十一   女鳥羽の狐(後)

巻の五十一   女鳥羽の狐(後)

 

 弥生は闇の中、気取られずに女鳥羽の狐の後を付けていた。

 女鳥羽の狐は、松本城の西方、蟻ヶ崎方面へと向かっており、そこにある古寺に入っていく。ここが根城らしい。

 弥生も気配を消して中へ入った。

 女鳥羽の狐はそんな事とは露知らずに、傾いた本堂へと向かった。その先には小さな灯りが灯っている。誰かいるらしい。

「ただいま帰りました」

「志乃、毎夜毎夜…もう止めて下さい…」

 女鳥羽の狐を志乃と呼んだ、その声は女のものである。

「志乃、我らを思うてくれるそなたの気持ちは嬉しいが、もう止めて下さい。そなたに万が一の事があったら我ら母子はどうすればいいのか…」

 武家の妻女らしい、中年の女である。その隣には少年が眠っている。

「いえ奥様、不肖志乃、大恩ある旦那様の無念を晴らすまでは止めませぬ」

 そう答えながらそこにあった衝立の後に回り、狐の面を取り、衣装を脱ぐ。その姿は紛れもなく女であった。

 胸には晒しを巻き、男袴に男物の着物。それを脱いだ女鳥羽の狐、いや志乃は、女物の着物を身に着けると衝立の後ろから出て来た。

「奥様、お騒がせ致しました。お休みなさいませ」

 そう挨拶すると、再び衝立の後ろへ回り、自分の寝床へともぐり込んだ。

 奥様と呼ばれた女も溜息をついて横になる。

 そこまで見届けると弥生は来た道を戻り、浅井道場に帰ったのである。


 酒に酔って騒いでいる連中を呆れた目で見た弥生は、そっと直也を連れ出すと、今見てきた事を語った。

「…何か事情がありそうだな」

「明日、明るくなったら正面切って尋ねてみるとしようかの」

 翌日、弥生は直也を連れて蟻ヶ崎の古寺へとやって来た。

 崩れかけた山門をくぐる。陽の光の下であらためて見ると、建物とも言えないほど崩れかけた古寺であった。それでも本堂だけはしっかり建てられていると見え、一応体裁は整っている。

 弥生は本堂の扉を開け、

「ごめん」

 と声を掛けた。

 そんな弥生の前に、

「何者!?」

 立ちはだかったのは志乃と呼ばれていた女。今は着物姿である。歳は二十四、五といったところか。

 扉を開けたのが女であったことで消していた殺気が、後ろにいる直也を見つけ、再燃した。

「なっ!…貴様は昨夜の…どうしてここが…!…まさか、私の後を付けたというのか!」

 そう言いながら、懐中の短刀を抜き、弥生に躍りかかった。

「まあ、待て」

 それをあっさりかわすと、志乃の額に人差し指を当てた弥生は、

うごくことをきんず

 志乃の自由を奪ってしまった。口はきけるが、体は指一本動かす事ができなくなる。

「!!…これは…!…女、貴様妖術使いか!!」

「まあ、似たようなものじゃな」

 微笑む弥生。

「じゃが、そなたやそなたの主人に危害を加えようと思ってやって来たのではないぞ。こうでもせねばそなたは話も聞いてくれそうもなかったからのう、まあ勘弁してくれ」

 そう言って、短刀を奪い取ると鞘に収め、

「解」

 術を解いた。自由になる志乃。

「貴様…!」

 いきり立つ志乃であるが、

「志乃、落ち着きなさい。…その方があなたを害するつもりならとうにそうしていたでしょう。…娘さん、あなたは? 何の御用でお見えになったのでしょう?」

 主人である婦人がやってきた。光の下で見ると、髪に白い物が混じってはいるが、凛とした雰囲気を纏った気品のある姿である。

「奥様! お下がり下さい!!…こやつの後ろにいる男、あやつは紛れもなく、浅井道場の一味…!」

 直也は苦笑して、

「まあ待ってくれよ。確かに昨夜はあんたと刀を交えたけど、別に含むところがある訳じゃない。単に客として世話になっているので同行していただけなんだから」

 それでもまだ志乃は警戒を解かない。

「見たところあんたも小野派一刀流を使うみたいだ。…同門同士で何故争う?教えてくれないか?…俺も同門だ、師匠の名は浜田平八郎」

「何だって!?」

「何ですって!?」

 志乃と老婦人が同時に声を上げた。

「浜田様のお弟子…」

 まだ警戒はしているものの、一応直也と弥生を信じる気になったようだ。

 婦人の居室に使っている本堂奥の部屋へ通される。そこには十歳ほどの少年がいた。

「わたくしは片岡みやと申します。先の藩指南役、片岡 靖典やすのりの妻でございます。これは一子朝太郎、そちらに控えているのが志乃でございます」

「葛城直也です、これは弥生です」

「して、葛城様と弥生様、何の御用でお見えになったのでしょうか」

 弥生は正直に、

「旅の途中、同門として浅井道場に厄介にはなったのじゃが、いろいろと疑問が生じたのでのう、どう考えてもあなた方の方が悪いとは思えぬ。それで思い切って尋ねてきたわけじゃ。この場所は昨夜志乃殿の後を付けて知り得た」

 その志乃は弥生と直也を何とも判断が付きかねる、といった目つきで睨んでいた。続いて直也が、

「志乃さんの太刀筋、ほんの少し見ただけだったけど、非常に師匠に似ていたなあ。さっき、師匠の名を聞いて驚いていたよね、師匠とどんな関係があるのか教えてくれないか」

 これは志乃に向けて言った言葉。

 その言葉にはみやが答えた。

「浜田様は片岡と道場の後継者を競われた方です。結局浜田様が姿を消されたので片岡が道場を継ぎ、藩指南役に付く事になったのです」

「なるほど、そうでしたか..…」

 弥生が頷く。

「浜田様はご自分の事を何も?」

「うむ、平八郎殿は自分の事を『故あって破門になった』としか言わなんだからのう」

「それで、浅井道場の者を襲ったわけは?」

 みやは少し考えて、

「全部お話ししましょう。…主人、片岡は…浅井宗兵衛の奸計に掛かって果てました」

 みやが語ったところによると、片岡、浅井、そして直也の師である浜田平八郎は片岡靖典の伯父、片岡中兵衛の弟子であった。

 いずれ劣らぬ腕前、とはいかず、浜田平八郎が頭一つ抜きん出ており、片岡靖典、浅井宗兵衛はほとんど実力伯仲、というところであった。

 片岡中兵衛には子供がおらず、道場の跡継ぎとして血縁である甥の靖典に継がせたかったようで、それを察した浜田は自ら身を引いた。

 幸いというか、浜田平八郎は浪人であったから、脱藩するわけでもなく、いずことも無く姿を消したという。それが五年前の事。

 その後、道場と藩指南役は片岡靖典が継いだが、片岡より年長だった浅井宗兵衛はそれが気に入らなかった。

 片岡靖典が道場を継いで一年ほど経った後、その片岡を陥れて、指南役のお役御免、その上片岡は切腹、家名は断絶という汚名を被せたという。

 以来、みやと朝太郎はこの古寺に侘住まいをし、片岡家の下働きをしていた志乃が世話をしているというわけだ。

「私は幼い時に中兵衛様に拾われました。そのご恩は片岡家に返さねばなりません」

 毅然とした態度で志乃が言う。

「志乃は…ほんとうに良くしてくれています。何も返せない私たちに…」

「奥様、そんな事お気になさってはいけません」

「して、その奸計とは?」

 弥生が尋ねる。

「…藩指南役として殿より御拝領の『長谷部國信はせべくにのぶ』の脇差しを紛失したことです」

し斬り長谷部の長谷部國重の子ですな」

「はい、指南役でありながら武士の魂である刀、それも殿より拝領した家宝を紛失したとあっては面目が立ちませぬ」

「…あれは!…絶対に浅井が盗み出したのです!…道場は同じ敷地内にあったのですから易々と出来たはず」

 志乃が気負い込んで口を挟む。

「志乃、証拠は何も無いのです。軽々しく口にしてはなりませぬ」

 そんな志乃をみやがたしなめた。

「…そうでしたか、事情は分かり申した。…最後に、何故浅井道場の門弟を襲ったのですかな?」

 おおよそ見当は付いていたものの、一応その質問をする弥生。

「道場の者が次々にやられていけば名誉に関わるでしょう。そうなったらお咎めを受けるか、浅井自身が出てくると思ったのです」

 これは志乃の返事。

「う…ん、確かにそうかも知れないけれど、志乃さん、だったね、あんたじゃ多分師範代の中山には勝てないよ」

「なにっ!…昨夜は油断して不覚を取ったが、平八郎様の弟子とはいえ、にわか弟子に遅れは取らぬ!」

「これ、志乃、おやめなさい」

 みやが諌止しなければ跳びかからんばかりの剣幕だ。

「とりあえず、もう門弟を襲うのは止めた方がよろしかろうな。志乃殿の身に何かあったら事じゃ」

「私の命など…」

「そんなことを言ってはなりませぬ…うっ…」

 みやが体をくの字に折り曲げて苦しみ出した。

「奥様!」

「母上!」

 それまで行儀良く一言も口を挟まなかった朝太郎がみやに駆け寄り、背中をさすりだした。志乃はみやを横にして脇腹をさする。

「よろしければ診せて貰えぬか」

 弥生が言う。志乃が何か言いかけたが、何か感じたのか朝太郎が、

「お願いします」

 と言ったので志乃は弥生に場所を譲った。

 弥生はみやの背中、脇腹、腰などをさすっていたが、少し痛みが治まったみやに向かって、

「奥方、無礼な質問になり申すが、小水の色はいかがですかな?…濃き色をしておるのではありませんか?」

 と尋ねた。

 みやは苦しい息の下でうなずいた。それで弥生は大体の見当が付いたようだ。

 小半刻くらいして、みやの痛みが引いたのをみはからって所見を述べる。

「奥方の病はおそらく肝の臓に石が出来ておるせいじゃ。小水の色、それに顔や掌が黄色くなってきておる。石をなんとかせぬと黄疸になって命が危ない」

「何ですって!?…奥様…」

「ご安心召されよ。儂が付いておる。すぐには治らずとも、必ず治して差し上げる」

 弥生が引き受ける。次いで直也に向かって、

「直也、一旦浅井道場に帰るとしよう」

 その弥生の前に志乃が立ち塞がった。

「待て!…上手い事言って、浅井道場の者にここの場所を知らせるつもりだな?」

 直也は苦笑いして、

「志乃さんは疑り深いなあ。…わかったよ、それじゃ俺が人質として残るから、弥生、悪いけど道場に置いてきた荷物を取ってきてくれるか?」

 弥生は、

「いや、儂が残ろう。奥方の事も心配じゃからな。…それで、帰りがけに白身の魚と青物を買うてきてくれ」

「わかった」


 道場に戻った直也は、荷物をまとめ、旅立つ旨を師範代の中山に告げた。

「そうか、葛城殿、また旅に出られるか。無理にお引き留めも出来まいな。これは些少だが路銀の足しに」

 そう言って出された金は丁寧に断った直也は、道場の面々に挨拶をした。藤澤と遠山は特に名残を惜しんでいた。

「それでは、浅井様にお目にかかれなかったのが心残りですが、これにて」

 浅井宗兵衛は城にあって藩主の子弟に剣の指導をしていたので、直也は会う機会がなかったのである。

 道場を出た直也は、魚屋で山女魚やまめを五匹買い、更に八百屋で大根一本と菜を一束買って脇に抱えた。

 歩きにくかったが、後を付けられた時の事を考え、ぐるりとまわって古寺に帰る。

「戻りました」

 そう言って抱えていた大根と菜、魚を下ろす。

「御苦労じゃったな、直也」

 弥生はそう言って、志乃に、

「この病は滋養のあるものを摂らねばならぬが、油っこいものは厳禁じゃ。白身の魚や野菜類を摂るのがよい」

 志乃は黙って頷き、調理をしに立った。弥生も手伝いに行く。

 直也は暇になったのでどうしようかと考えていると、本を見ている朝太郎に気が付いた。

「朝太郎さん、だったね、書物、好きなのかな?」

 その問いに朝太郎は、

「はい、武士として文武に秀でていなければいけない、というのは父上の教えでしたから」

 見ると、読んでいるのは「論語」である。

「子、曰わく、か」

「直也様も論語を読まれたのですか」

「ええ、一通りは」

 礼儀正しい朝太郎に、自然直也も言葉遣いが丁寧になる。

「それでしたら私に教えてくれませんか」

 そう頼まれたので直也は朝太郎に講義をする事にした。

「子曰わく、学びて時にこれを習う、亦たよろこばしからずや。朋あり、遠方より来たる、亦楽しからずや。人知らずしてうらまず、亦君子ならずや」

「学んだ事を時々復習する、これは良い事である。遠方から友人が来てくれる、これは楽しいものだ。自分が理解して貰えないからと言って他人を怨まない、そういう人は立派な人だ」

 教えながら直也は、嘗て翠にもこうして教えた事を思い出していた。


 日が傾き、字が読めなくなるまでそれは続けられた。

「直也殿とおっしゃいましたね、朝太郎へのご教示、礼を申します」

 みやが手を付いて頭を下げた。直也は恐縮して、

「いいえ、これは俺自身の復習にもなることです、『学びて時にこれを習う』ですから、お礼なんて」

「朝太郎、直也殿にはお前もよくお礼を言うのですよ」

「はい、母上。直也様、ありがとうございました」

 礼儀正しい母子である。そこへ弥生と志乃が夕食の膳を持ってやって来た。

「みや殿、体を丈夫にするのが肝要じゃ。医食同源とも言う、まずは食事からじゃ」

 

 食事の後、弥生が口を開いた。

「みや殿、盗まれた刀は長谷部國信じゃったな」

 そう言いながら直也に向かって、

「直也、ちょっと刀を貸してみよ。…もしや、これでは?」

 直也の脇差しを見たみやは、

「こ…これです!!…どうしてこれがお手に?」

「貴様!! 貴様等が犯人だったのか!」

 驚くみや、憤る志乃。志乃を制して弥生は、

「志乃殿、落ち着きなされよ。…我らが犯人ならいまさらこれを見せるような事はせぬよ」

 その言葉に少し落ち着きを取り戻した志乃は、みやにたしなめられて座り直した。

「この脇差しは、甲斐の国で出会った山賊が持っておったのじゃ」

「山賊が…!」

「おそらく刀を盗み出した後、手元に置いておいて万が一にも発見されたらまずいというので密かに売り払ったのではなかろうか。

 それを山賊が手に入れたと考えられよう」

「……」

 その時直也が、

「正当な持ち主が分かったんだから、これはお返し致します」

 そう言って脇差しをみやの前に差し出したのであった。

 みやは驚きながらもそれを受け取り、

「直也殿、かたじけのうございます」

 涙ながらに礼を述べたのであった。

「さて、盗まれた刀は取り戻したわけであるから、殿様に奏上してお家を再興して貰えばよいと思う」

 弥生が提案する。

「盗まれたとがは靖典殿が背負ったわけであるから、刀が戻れば朝太郎殿には何の咎もない。

 御領主が名君ならこのあたりおわかりになると思うが」

 松本藩は頻繁に領主の交替があった藩である。この時代の領主は水野家、四代目藩主水野忠周(みずのただちか)である。

「お取り上げ下さいますかどうか…」

「浅井が盗んだという証拠でもあれば間違いないのじゃが、刀が戻って来た今となってはのう」

 弥生も首を傾げている。

「あの、」

 そこに志乃がおずおずと話に加わった。

「毎年の四月初旬に元服前の子供達が参加する剣術大会、それにお殿様がお出でになります。お殿様はまだお世継ぎがいらっしゃらないのでその祈願も兼ねて奉納試合としておられますが」

 弥生はそれを聞いて、

「それならば朝太郎殿、その大会に出場なされて優勝すればよい。お殿様からはお褒めのお言葉があろう。その際に奏上なされよ」

 今まで黙っていた朝太郎が、

「母上、やります。きっと優勝して、お殿様にお家再興を願います」

「朝太郎…」

 健気な少年である。弥生は、

「よし、そうと決まれば直也、朝太郎殿に稽古をつけて差し上げると良い」

「若様の稽古でしたらわたくしが」

 志乃が名乗りを上げるが、

「志乃殿、そなたの剣はどなたに習ったのかな?」

「…亡くなった旦那様に少し、あとは我流です」

「やはりのう。型が崩れたところがあると思うたがやはり我流が入っておるか。朝太郎殿には正しい小野派一刀流を学んで欲しい。…残念じゃが、ここは直也に任せてくれぬか」

「……」

 残念そうに無言で頷く志乃。それで大会までの十日間、直也は朝太郎に剣と学問の両方を教える事となった。


 それからというもの、直也と弥生は古寺に留まって、直也は朝太郎へ学問と武芸を教え、弥生はみやの看護に当たった。

 初めはまだ警戒していた志乃であったが、寺から一歩も出ずにいる二人を見て、ようやく警戒心を解いたのである。

 昼間は境内で剣術の稽古。

「朝太郎、踏み込みが甘い!もっと大きく踏み込んで!」

「はい!」

「左手の握りが弱い!小指に力を入れろ!」

「はいっ!」

 そして夜は学問。

「彼れを知りて己を知れば、百戦してあやうからず。彼れを知らずして己を知れば、一勝一負す。彼れを知らず己を知らざれば、戦う毎に必らず殆うし」

「乱は治に生じ、怯は勇に生じ、弱は強に生ず。治乱は数なり。勇怯は勢なり。強弱は形なり」(孫子)

 朝太郎は懸命になって直也の指導に付いてくるのであった。

 

 いよいよ明日が剣術大会という夜、みやは直也と弥生の前に手を付いて、

「直也殿、弥生殿、今までありがとう存じました。一子朝太郎の武芸、学問の師となり、わたくしめの病まで面倒見て下さり、お礼の言葉もございませぬ」

 弥生は笑って、

「お手をお上げ下され、みや殿。これも縁というもの。明日はいよいよ朝太郎殿の晴れの日、早めに休むがよろしかろう」

 そう言ってみやの前を下がる弥生。一方直也は朝太郎と話をしていた。

「先生、今日までありがとうございました。明日は精一杯頑張ります」

「うん、朝太郎さん、君ならきっと優勝出来る。俺と弥生は一般の席から見守っているから頑張れ」

「はい」

 この十日間、直也が教えた事で、元来素質のあった朝太郎はめきめき腕を上げ、おそらく同年代には敵はいないであろうという腕前になったのである。

「それじゃあ、今夜は早く休もう」

 直也もそう言ってその場を離れた。弥生と直也は本堂ではなく、庫裏の方で起居しているのだ。

 弥生に少し遅れて直也が庫裏に入っていくと、志乃が待ちかまえていた。

「志乃さん?」

 志乃は直也と弥生の前に両手を付いて、

「直也殿、弥生殿、若様と奥様のお世話をして頂き、ありがとうございました。…当初は浅井の回し者かと疑っておりました御無礼、お許し下さい」

「志乃さん、気にしないでいいよ。袖すり合うも多生の縁って言うじゃないか。明日は朝太郎さんの晴れ舞台だ、応援してさし上げなきゃあ」

 志乃はもう一度深く頭を下げて出て行った。

「誤解も解けたようじゃの」

「何にせよ良かった。…明日、晴れるといいな」

「それは大丈夫じゃな」

 狐の耳と尻尾を出した弥生は、尻尾の毛先、白くなっている部分を指で梳きながら言う。

「それより儂はこれからちょっと出てくる。じきに戻るゆえ、先に寝ておれ」

 そう言うが早いか、一跳びすると夜の闇に消えていった。


 翌日は弥生が言った通り朝から良い天気であった。

 大会は松本城のお堀端、城南側の広場で行われる。朝太郎はみやと共に参加者の席。

 直也と弥生、それに志乃は一般席の方に座り、見守る事になる。

 城を背に、水野家の紋所である丸に立ち沢瀉おもだかの紋の入った幕を引き、領主である水野出羽守、忠周(ただちか)が坐す。

 脇には刀を持つ小姓と城代家老が控え、更には指南役である浅井宗兵衛などが並んでいる。

 浅井宗兵衛は最早かなりの老体に見えた。心なしか顔色が悪いようである。

 太鼓が打ち鳴らされ、いよいよ試合が始まった。元服前、数えで十四までのまだ前髪の少年達。

 あまり幼い者は出場しないので自然十二歳から十四歳くらいまでの少年が主である。その中で朝太郎はまだ十歳、一際小柄である。

 この大会では怪我を防ぐ工夫として、竹の棒に藁を幾重にも巻き付けた物を用いる。加えて突きは禁止である。

「えい!」

「やあ!」

「たあ!」

 威勢の良い掛け声と共に試合が始まった。参加総数二十一人、申し込み順の勝ち抜き戦である。

 朝太郎は十七番目。十八番目の少年と仕合う事になる。ふてぶてしい顔をした少年で、暴れ者という感じである。きっと普段から棒でも振り回しているのだろう。型にはまらない剣術というのは、道場剣法だと相手しにくいものである。

 しかしそんな懸念も、仕合が始まると霧消した。

「とうっ!」

 朝太郎の腕は抜群で、あっという間の一本勝ち。その技を見た殿様も思わず、

「見事!」

 と声を掛けたほどである。

 次の仕合も、その次の仕合も難なく勝ち抜いた朝太郎は、決勝戦に進んだ。

 相手は高位の武家の子弟らしく、着ている物も良く、顔色もいい。何より十分な稽古を積んできたと見え、それまでの仕合は朝太郎と同じく一瞬で決めてきていた。

 おそらく十四歳であろう、体格も良い。朝太郎より首一つ半は大きかった。

 みやは両手を胸の前で組み合わせ、祈るようにして朝太郎を見つめていた。

「初め!」

 決勝戦が開始された。

 双方ともに、前髪立ちの少年とは思えぬ技量である。

 朝太郎が上段から面を狙えば相手は胴を狙い、小手を襲えば面を襲うと言った塩梅で、しばらく二人は打ち合っていた。

「なかなかの相手じゃな」

「ああ。体格が同じなら文句なく朝太郎の勝ちなんだけどな」

 体格差の分、腕の長さ、そして一歩の大きさの差で間合いが詰め切れないのだ。

「あの場合は俺なら…」

 そう直也が思っていると、朝太郎が誘いの隙を見せた。相手はそれに乗り、大上段から唐竹割りに打ち下ろしてくる。

 それを紙一重で避けた朝太郎は瞬時に相手の左脇を掠めるようにして背後に回り、慌てて振り向いたその胴に一撃を加えた。

「胴あり!それまで!」

 朝太郎の一本勝ちであった。短い間とは言え教えた直也も満足である。朝太郎とみやは水野出羽守の前で蹲踞そんきょの礼を取っている。

「年小の身でありながら、年長の者達を退けた腕前は立派である。褒美を取らそう。何か望みのものはあるか」

 そう声を掛けられた。朝太郎はすかさず、

「片岡靖典が一子、朝太郎と申します。お殿様に申し上げます、父が盗まれました拝領の脇差しは取り戻しましてございます。

 何卒お家再興の儀、お許し願いたく、ここにお願いつかまつります」

 みやは脇差しを掲げている。

「何、片岡の子とな」

 そう呟いた水野出羽守は、しばらく考えた後、

「許す」

 と一言言った。それを聞いた朝太郎、そしてみやは、

「有難き幸せ」

 と額づいたのであった。それを見た浅井宗兵衛は、

「殿、ちょうど良き折り、それがし老齢のため隠居しとうござりまする。何卒お許しの程を」


*   *   *


「…しかしあれでよかったのかなあ」

 直也が隣を歩く弥生に向かって尋ねるように呟いた。

「ん?…仇討ちもせず、指南役も継がなかった事を言っておるのか?」

 あれから片岡家は三十俵二人扶持で再興、朝太郎は片岡家を正式に継いだ。

 浅井宗兵衛は隠居。宗兵衛には子がなかったので、師範代の中山新三郎が道場を継ぐ事となった。

「確かな証拠も無かったしのう、仇討ちというわけにはいくまい?…それにじゃな、煎じ詰めていくと片岡靖典に切腹を命じたお殿様にも責任の一端があることになる。それは家臣として望むところでは無かろう」

 直也は半ば納得、半ば不満と言った顔で、

「理屈ではそうだけど、…例えば弥生なら、術で浅井宗兵衛に自白させる事も出来たんじゃないのか?」

 弥生は笑って、

「ふふ、それは可能じゃ。…じゃがしかし、それをしてどうなる? 仇を取ったからと言って父親が生き返るわけではない。仇を仇で返していけば、いつまでたっても憎しみの連鎖は途切れる事はないじゃろう…」

「そんなことを朝太郎が決めたって言うのか?」

「いや、みや殿じゃよ。そんな話を夜毎にしておった」

「俺には理解出来そうもない…」

 溜息をついて直也が吐き捨てるように言った。

「わかっておる。お主は見かけによらず激しいものを持っておるからのう」

 普段はお人好しのくせに、弥生に関する事になると熱くなる直也であることを弥生は承知していた。

 そして弥生自身も、直也の事になると冷静さを欠く事も。

「いずれにせよ、あの母子のことは母子に任せればよい。これ以上は他人が嘴を突っ込むべきではなかろう」

「……」

「納得がいかぬようじゃの?…お主はそれでよい。お主はお主の思った道を真っ直ぐに進め。儂はそんなお主が大好きじゃ」

「や、弥生…」

 弥生の言葉に照れる直也。

「この人の世は複雑怪奇じゃ。じゃが隠れ里はそうあってはならぬと儂は思うておる。隠れ里はこの世の塵埃から遠く離れたものでなくてはいかん」

 直也もそれには頷いて、

「うん、俺もそう思う。…なんて言うか、里は…」

 口ごもる直也。

「…うーん、うまく言えないな」

「ふ、それを言葉に出来るようになる頃、お主の旅も終わるのかも知れぬな」

 そう言って空を仰ぐ弥生。そんな弥生は直也に向かって、

「そういえば直也、気が付いておったか?」

「何を?」

「志乃の事じゃ」

「志乃がどうしたって?」

 弥生は悪戯っぽく笑うと、

「やっぱり気が付かんかったか。…まあ儂の力が移ったとはいえ、ほんの僅かじゃから分からぬのも無理はない」

「だから何が?」

 だんだん焦れてきた直也に、

「志乃は…志乃の先祖…多分曾祖母は狐じゃ」

「ええっ!?」

 驚く直也。

「じゃあ、志乃も狐だったのか?」

 弥生は首を振って、

「いや、志乃はただの人じゃ。気が付いてもおるまい。…古来、妖と人が交わって生まれた子は人として生を受ける事がほとんどじゃ。

 まして三代も前じゃから、志乃には何の力もない。ただ何となく親しみがあったと見えて『女鳥羽の狐』などと名乗ったようじゃがな」

「そうか…」

 直也は何事かを考えているようであった。

「まあ、じゃから儂も少々肩入れしたのじゃよ」

「そう言えば、昨夜はどこへ行っていたんだ?」

「昨夜か?…浅井宗兵衛の所へな。…自分のした事を後悔させる程度の術をかけてやった」

 直也は声を出さずに笑った。やっぱり弥生だ。宗兵衛が隠居すると言いだしたのはきっと…。

「さて直也、信州まで来たのじゃから、善光寺へ寄っていく事にしようぞ。道はどうするかじゃが...」

「それなら…白沢峠を越えて行こう」

 即座に答える直也。その理由に思い当たる所のある弥生は、

「うむ、お主に従おう」

 そう言っただけ。

 二人は緑の風吹く安曇野を北へと歩いて行くのであった。

 今回は松本編。松本藩は領主がころころ変わった経緯を持ちます。

 

 ところで今回は時代小説を意識して書いてみました。妖狐としての弥生の活躍は抑えめ。「水戸黄門」とか「暴れん坊将軍」の原作みたいな作りを目指したのですが難しいです。

 マンネリ化させないよう、毎回趣向を凝らしているつもりですが、難しいですね。

 仇討ち話は難しいです。実際の所、仇を恨みで返すというのは恨みが尽きることない、という想いがありまして...。


 圧し切り長谷部は信長が持っていた名刀です。現在は国宝です。 

 あと、さりげなく、今後の展開にからんでくる伏線を入れました。どことは書きませんが。


 それでは、次回も読んで頂けましたら幸いです。

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