巻の五 生け贄の娘
今回はちょっと書き方を変えてみています。
巻の五 生け贄の娘
(怖い、誰か、誰か、助けて…)
目隠しをされ、口には猿轡が。両手、両足はきつく縛られ身動きすることも出来ない。
(嫌だ、嫌だ、誰か、助けて…)
彼女のその想いは誰にも伝わらない。
* * *
朝、いつもどおり夜が明けると同時に起き、村はずれのお稲荷様の掃除をし、一日の御加護を祈る。
そして沼で蜆取り。採った蜆は醤油や塩などの調味料と交換してもらう。
朝食の後は山で山菜を探す。昼からは村長の畑で働く。夕方、わずかな手当をもらい、家に帰る。
そんな日常が、今となっては懐かしい。
* * *
「今年も、『あの日』が来ちまったなぁ」
「今年はどこの娘にすべぇ」
「やはり、…お美津しかいねぇ」
「んだ」
「…あの娘なら親類縁者もいねぇしな」
そんな話し合いがなされたのか。
今、お美津は白装束を着せられて両手両足を縛られ、目隠し、猿轡をされたまま、山神の社へと運ばれている。
この村では年に一度、八十八夜の夜に山神様に娘を捧げる、そうやって怒りを鎮め、一年間の平穏を祈ってきたのだ。
それを怠れば山へ入ったものは生きて帰らず、田んぼの水も枯れ、家が襲われる、そんな言い伝えがあり、もう数十年続いてきた村の悪習である。今年は彼女、お美津がその生け贄に選ばれたのだった。家族がおらず、悲しむ者がいないという理由で。
お美津を運ぶ輿を担ぐ者達は一言も発せず、彼女を社の中に運び込むと、うしろめたさも手伝って、そそくさと姿を消した。後に残ったのは縛られ身動きできないお美津だけ。時が来れば山神に生きたまま身を貪り尽くされることになるのだろう。
(うっ…くっ…)
ただ涙を流し続けるお美津。縛られた手足が痛い。それにも増して怖い。怖い。怖い。山神が何時やってくるのか、そもそも今はまだ昼なのか、もう夜なのかわからない。それが不安を増長させる。
そんな時、社の扉が開く音がした。
(ひっ!…)
いよいよ喰われるのか、そうお美津が覚悟した時。
扉を開けた者が驚いた声を上げた。
「おや、先客がおったか。…随分と変わった格好をしておるのう...」
* * *
「俺は直也」
「儂は弥生」
「…美津…といいます」
お美津は今、目隠しも縄もほどかれ、山神の社に一晩の宿をとろうとやって来た二人組の前に座っていた。
「お美津さんか。…いったい何だってあんな格好で?」
二人の雰囲気がそうさせたのか、他国者には話したことのない、村の習慣の事をお美津は語って聞かせた。今年は自分がその番だと言うことも。
「…な、弥生、本当に山神が…?」
聞き終えて、直也は弥生に疑問をぶつける。
「うむ、話を聞く限りでは偽山神じゃな」
「偽物?」
「そうじゃ。そもそも護るべき村からさしたる理由も無しに毎年生け贄を差し出させるとは、神のすることではない」
「…でも、そうしないと村が、村人が、大変なことに…昔、一度、差し出さなかった事があって、その時は村の半数がひどい目にあったそうなんです」
「そんなことは神でなくとも出来る。ちょっと年を経た化け物ならな」
「化け…もの?」
「そうじゃ。今この場所にも化け物の臭いが残っておる。…これは毛虫の臭いじゃな」
毛虫というのは、毛の生えた生き物、すなわち獣全般を差す。年を経た獣が妖怪と化し、何かのきっかけで人間の血肉の味を覚え、人を喰らう様になった、そう弥生は説明した。
目の前の娘をじっと見る。山育ちにしては色白で、睫毛が長く、目元の愛らしい娘だ。黒髪も艶があって美しい。働き者でもあるらしいことは手の指を見れば判る。
(まずまずじゃな…)
弥生は心中ひとりごちて、おもむろに耳と尻尾を出現させた。
「…!」
声にならない声を上げ、お美津は驚く。…が、
「…お稲荷様…」
そう唱えて弥生に手を合わせるのだった。
「あまり驚かんようじゃな」
ばさり、と尻尾を一振りした弥生が感心した様に言う。
「ああ、お稲荷様…、どうか、村を、お救い下さい…」
「これ、儂は稲荷ではない。じゃから拝むのは止めい」
お美津が不思議そうに顔を上げた。
「お美津、そなた、村を救って欲しいと申したな。そなたを生け贄に差し出した村人を怨んではおらぬのか?」
「…怨んでいないと言ったら嘘になります。でも誰かが毎年犠牲になってきたのです。皆、恐ろしいのは一緒なのです。それを責めることは…出来ません」
(ふむ、心根の優しい娘じゃな)
弥生はしばし考えた後、お美津に、
「時間があまり無さそうじゃ。直也、お美津、その隅に下がれ。儂が良いと言うまで決して声を立てるでないぞ」
「わかった。…さ、お美津さん、こっちへ」
「は、はい…」
そう言って二人が隅に引っ込むと、弥生は指を唾液で湿らせ、直也とお美津のいる隅から、社の入り口に至るまで床に何やら描き始めた。文字の様な、絵の様な何か。描くそばから乾いてしまい何と描いたかはわからない。それが終わると、弥生は耳と尻尾を引っ込め、扉に向かって静かに正座するのだった。
やがて日が沈み、あたりは闇に包まれた。今夜は曇って月も無く、真の闇夜だ。
どのくらい経ったろうか。地響きがして、化け物が近付いてきたことが直也達にもわかった。お美津が身体を強張らせる。
そんなお美津の肩を直也は優しく抱きしめてやった。
誰もいないのに、いきなり社の中の灯明に火が灯った。そして扉が乱暴に開かれ、化け物が入ってくる。体長八尺ほど、着物は着ていない。
全身に針の様な赤茶けた剛毛を生やし、顔は赤黒く、両の目は熟れたほおずきの様、口は耳まで裂けている。正に化け物である。
「…!」
悲鳴を上げそうになるのをお美津は必死に押し殺した。直也も間近で見る化け物に驚きつつも、お美津をかばう。
そいつは弥生を一目見ると満足そうに舌なめずりをし、咽を鳴らした。
弥生を乱暴に押し倒すと、着物をその鋭い爪で一気に引き裂いた。弥生の肌が露わになる。思わず前を隠す弥生だが、化け物は馬乗りになると弥生の腕を押しのけ、所かまわず舐め回し始める。化け物の息が荒い。
抗う弥生、だが化け物はそんな弥生の頬をそのヤツデの様なごつい掌で叩いた。唇に一筋血が滲み、あきらめた様に弥生はおとなしくなった。
化け物は更に弥生を陵辱してゆく。
「…といったところじゃ」
直也とお美津の側に戻った弥生が解説している。化け物はみごとに弥生の術中にはまり、化かされているとも知らず、一人芝居を続けている。いつもながら見事なものである。
「どうじゃ?…面白い見世物じゃろう」
八尺の巨体が、そこにはいない女を相手に独り奮闘している様は異様というか滑稽というか、哀れでさえある。荒い息を吐き、涎を垂らし、舌をくねらせる。それを延々続けているのだ。
「…醜いのう」
顔をしかめ、弥生がひとりごちる。
そのうち、化け物は見るに堪えない仕草を始めた。お美津は思わず顔を赤らめた。直也は苦笑いしている。
「もうたくさんじゃ」
そう呟いた弥生は、化け物に後ろから近づき、後頭部に掌を当てると、
「破!」
爆発的な妖気を送り込み、昏倒させたのである。そして、
「…直也」
弥生が厳しい顔で直也に声をかけた。
「引導を渡してやれ」
「引導?」
「そうじゃ。…これで、こやつの首を刎ねるのじゃ」
そう言って弥生は、術を使ったのであろう、何も無いところから一振りの刀を取り出し、直也に差し出した。
「え?…」
「どのくらいお主が強くなったのか、儂に見せてくれ」
そう言われた直也は刀を受け取った。が、それを抜く事はしない。
「どうした? 化け物を倒せるようになりたいのじゃろう? 手始めにその化け物を斬って見せよと言うておる」
そう言われてもなおためらう直也。やがてゆっくりと弥生を振り返り見て、
「…無抵抗の相手を殺すのは俺には…ちょっとなあ…」
弥生はくすりと笑うと、それまで纏っていた厳しい空気が嘘のように、
「ふふ、お主は甘いのう。…じゃがそれでよいのかも知れぬ。…正当防衛ならいざ知らず、このような汚れ仕事は儂が全て引き受ける。そうじゃな、こやつの処遇は当事者である村の者達に任せればよいじゃろう。そこの縄で縛っておこう」
直也はほっと息を吐き、お美津を縛っていた縄で化け物を縛る。身動きできないほどに縛った後、化け物に縄が切られない様、弥生が縄に妖力を込めた。これで誰かが解かない化け物は動けない。更に弥生は化け物がしばらく目を覚まさない用心に、化け物の額に何やら呪をかけた。
「これでよし」
そして弥生は直也に向き直り、
「直也、お主は今のままでよい。…生き物を無闇に殺めぬ、その心を大事にせよ。生きとし生けるもの、すべて他の命を喰らわねば生きてゆけぬこの世で、自分が生きるため以外に他の命を奪わない、それはお主の弱さではない。恥じるな。胸を張るがよい」
「弥生…ありがとう」
「さて、もうこれで今夜は静かに眠れるようじゃ。休むとしよう」
「弥生様、…ありがとうございます…」
お美津が手を合わせて弥生を拝んでいる。弥生は苦笑して、
「止めよと申したであろうが。…お美津、もう頭を上げよ。休め」
* * *
鳥がさえずりだし、夜明けとなった。夜半に雲は取れたとみえ、朝日がまぶしい。
「…お美津、お美津!」
誰かの声がする。
「…松吉さん?」
お美津が社の扉を開けた。そこには鍬と鉈を手にした若い百姓姿の男が立っていた。
「お美津ちゃん、無事だったか!」
「松吉さん!…あたしを、心配してくれたの?」
お美津はその松吉という百姓に抱きついていった。
「山神様だって構うこたあねぇ。お美津ちゃんが喰われていたらおらも殺されてもいいからせめて傷を負わせられればと思って来たんだ」
「ありがとう、松吉さん、ありがとう…」
抱き合う若い二人の姿を見て、弥生は寂しそうな顔をしていた。
(よい娘だと思ったのじゃが好き合った男がおったのか…)
「弥生様、お稲荷様、ありがとうございました」
「うむ、この化け物はその方らに下げ渡す。煮るなり焼くなり好きにするがよい。その方らにこそ、その資格がある。一つ教えておくと、この化け物の胆は万病に効く特効薬になる。覚えておくがよい」
二人は代わる代わる頭を下げ、化け物が退治されたことを知らせるべく、村へと帰って行った。
「直也、急ぎ腹ごしらえをして出立するぞ。じきに村人が押し寄せてくるじゃろうからな」
「そうだな」
急いで干し飯をかじり、水を飲むと、身支度もそこそこに二人は社を後にした。
「…山神の社は鬼門だな」
直也がぼやく。いつぞやの神楽面の付喪神の事を思いだしたらしい。
「まったくじゃ。…嫁にちょうどよいと思うた良い娘じゃったに...」
「へっ?…嫁?…誰の?…」
「お主のに決まっておろうが。…まさかお主、何のために旅をしてるか、忘れたわけではあるまい?」
「…見聞を広めるため」
「そうじゃ。…そしてお主の花嫁を見つけるのがもう一つの目的じゃ」
「…俺にはまだ早いよ」
「今すぐに祝言を上げよと言っているわけではない。…だいたい、お主に相応しい娘を探すだけでも大変なんじゃ。今回は似合いじゃと思うたに…」
「そ、それより、あの化け物、どうなるだろうな」
無理矢理話題を変えようとする直也。
「そうじゃな、当事者である村人がどうしようと、儂らが関知する事ではない。…もう済んだ事じゃ」
冷たいとさえ思える弥生の物言いに、直也も口をつぐむ。直也以外の人間の事は、弥生にとって興味が薄いのだ。直也の為だけに弥生は旅をしているのだから。
「さて、宿に泊まってばかりいたので路銀が心許ない。当分山道を行くぞ。心して歩け」
春から夏へと季節が移ろいゆく山道は緑いよいよ濃く、二人は確かな足取りでその中を歩いて行くのであった。
直也は甘いです。でもそれには理由があるのですが、それはおいおい明かされると思います。作中には出ませんが、この話は「猿ヶ京」付近での話になります。猿に引っかけたわけではありませんが…。本来なら(?)信州の伝説ですね、早太郎とかしっぺい太郎とか。