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巻の四十九   マヨヒガ(後)

巻の四十九   マヨヒガ(後)


 食事の後。

「しかしマヨヒガはもっと北の国にあるとばかり思っておりました」

 茶をすすりながら弥生が言う。それに対して五郎左衛門は、

「遠野のことですな。あの地方はマヨヒガを置くに適した場所でしてな、すなわち霧が立ちこめる地形が多いということです」

 そう言ってから更に続けて、

「じゃから今回は少々苦労しましたのですじゃ。直也殿を右に左に歩かせたりのう」

「なるほど、『歩法』でしたか」

「そうですじゃ。正式な歩法では無くとも、わしが一緒じゃったので十分使えましたな」

 少し陰陽道の書も読んだ直也には、二人の会話がおぼろげながら理解出来た。

 右に左に歩かせられたのは、「反閇へんばい」とか「禹歩うほ」とか呼ばれる歩法、その一種だったのだ。

 そんな時である。

 雷が落ちたような音と共に庭の方に火柱が立った。実際に雷が落ちたのかも知れない。

 直也はそちらを凝視し、弥生はすぐさま直也の隣に飛び移り、術を使う体勢に入った。

 しかし五郎左衛門は落ち着いたもので、

「おお、おいでになった。…直也殿、弥生殿、お二方にお会いしたいと言われた御方が見えられましたぞ」

 二人は庭を見わたす縁側まで出てみる。

 そこにいたのは衣冠に身を包んだ青年公達。どこかで会ったことがあるだろうか?

 その疑問は、顔を上げた公達の目を見て氷解した。

「翠!!」

 直也と弥生、二人同時に叫ぶ。

 その公達の瞳は翡翠色をしており、忘れもしない、嘗て二人が翠と呼び、守り育てた竜神に間違いなかった。

 公達は一つ会釈をすると、

「父さん、母さん、お久しぶりです」

 そう言って悪戯っぽく笑った。青年の顔であったが、そこには紛れもなく、嘗ての翠の面影が残っていた。

「山ン本殿、本日は私の我が儘を聞いて頂き、お礼の言葉もございません」

 そう言って直也達の後ろに控える山ン本五郎左衛門に向かって頭を下げた。

 五郎左衛門は、

「おやめ下され、竜神様。…それより、お時間が無くなりまするぞ。…今はうつつ世の十倍、刻の流れを遅うしてありますが、長くは持ちませぬ」

 そこで翠は直也と弥生に向き直って、

「こうして竜神として恙無く務めていられるのもお二方のおかげ」

 それだけ言うと、来ていた直衣のうしを脱いで身軽になった。

「ああ、楽になった。…父さん、母さん、お達者で何よりです」

 口調もあの頃に戻ったようだ。つられて直也も、

「翠、随分大きくなったな、見違えたよ」

 弥生は慌てて直也を制する。

「これ直也、竜神様に向かって…」

 翠は笑って、

「いいんですよ、母さん。…今だけは竜神ではなく、翠としてお話がしたかったんです」

 それでようやく弥生も、

「…翠…元気そうじゃのう」

 と翠の手を取った。

「竜神様、どうぞ中へお入り下され」

 端近で話し込む三人に、五郎左衛門が見かねて声をかけた。

 それで三人は座敷に上がり、会話に花を咲かせたのである。

「竜神様のお口に合いますかどうか…」

 そう言って千草がお茶を注いでくれる。翠は一口飲んで、

「うん、美味しいよ、ありがとう」

 そう言って微笑んだ。千草は会釈をして下がる。

 翠達は話を続けた。

「そうすると、あの悪龍はマーラと呼ばれる悪魔が黒幕だったのですね?」

「そうじゃ、たびたびちょっかいをかけてくるのでな、我々としても放って置けん」

「翠龍は役に立っているようですね」

「ああ、とても。…マーラは翠龍でなければ倒せない」

「そうだ、母さん、霊狐になられたようで、おめでとうございます」

「ありがとう、翠」

 くすぐったそうに弥生が答える。

「さて、父さん」

 翠は直也を見つめて、

「もうあまり時間がありません。…父さんに一つ、お教えしたいのですが、庭に出ていただけますか?」

 直也は頷いて、翠と共に庭へ出た。弥生も縁側に出て二人を見つめている。

 その翠は五郎左衛門に向かって、

「山ン本殿、まことに恐縮ですが、刀を二振り、拝借したいのですが」

「おやすい御用です」

 五郎左衛門はそう答えて、奥から二振りの刀を持ってきた。

「父さん、構えて下さい」

 一振りを直也に渡して、翠が言った。直也は刀を抜き、構える。

「父さんがあれから剣の修行をされ、一刀流を修めたのは知っています。これから僕の打ち込みを受けて下さい。きっとお役に立つと思います」

 そう言って翠も刀を抜いた。二人は刀を青眼に構え、対峙する。

 翠が気を解放した。

 直也は息を呑んだ。経験したことのない威圧感。天狗の長、地鎮坊を前にしてもたじろがなかった直也であるが、これは…

 まさしく自分の前にいるのが竜神であるとひしひしと感じる。今すぐにでも刀を捨てて逃げ出したくなるほどだ。

 そんな直也に、弥生が声をかけた。

「どうした直也、しっかりせい!」

 その声に直也の中の何かが奮い立った。

 そうだ、自分はいつか弥生を守れるほどに強くなりたいと願っていたのだ。それにはこの威圧にたじろいでいては駄目だ。

 そう思った直也は、深く息を吸い込むと、目を半眼に見据え、刀だけを見つめる。

 すると心が落ち着き、威圧感は感じてはいるものの、風になびく柳のようにそれを受け流せている自分に気が付いた。

 翠はそんな直也の様子を見て、

「では行きます」

 そう言うやいなや、上段に振りかぶって電光の如き打ち込みを見せた。その勢いは弥生も一瞬目を伏せたほど。

 だが直也はその打ち込みを真っ向から受け止めた。火花が散る。

 翠は一瞬にして飛び下がり、構えを八相に取る。直也も同様に八相に構えた。

「お見事です」

 そう翠は賛辞を述べると、半歩踏み込み、逆袈裟に振り下ろす。

 直也は一歩下がってそれをかわすと、大上段から唐竹割りに斬りつけた。翠はその剣筋に対し、下段から刀を切り上げるーーー。

 金属音がして、直也の刀が折れ飛んだ。直也は反射的に飛び退く。

 翠は刀を収めて、

「失礼しました」

 と一礼をした。そして、

「山ン本殿、刀を折ってしまって申し訳ない」

 五郎左衛門は、

「何の、緊迫した立ち合いを見せてもらいましたわい」

 そう笑って答えた。

 翠は直也に向かって、

「父さん、今の剣筋を憶えていて下さい。きっとお役に立つと思います」

 そう言って、先程脱いだ直衣のうしを身に付ける。その袂から何かを取り出した。

 それを弥生に向かって差し出す。

「母さん、これを受け取って下さい」

 弥生はそれを受け取り、

「これは…紅か?」

「はい、母さんはお化粧も何もしなくても綺麗ですが、その紅を差したらもっと綺麗になると思います」

「ありがとう、翠」

「今…付けて見せて貰えますか?」

「いいとも」

 そこで弥生は紅入れを開け、紅差し指…薬指で、鏡も見ずに器用に唇に紅を差した。

 その色は濃くもなく薄くもなく、清楚な弥生の容姿に一輪の花が咲いたように、唇の紅は映えて見えた。

「母さん…お綺麗です」

 そう翠は言うと、容を正し、

「そろそろお別れです。…もうお目にかかることは出来ないと思いますが、ご健勝で」

 直也は、

「翠…ありがとう。忘れないよ、お前…あなたの事」

 弥生も、

「翠…もう一度逢えて嬉しかった。…そうか、成龍になる日が近いのじゃな?」

 翠は、

「はい、完全な成龍になったなら、最早翠として振る舞うことは出来無くなってしまいます。そうなる前に、もう一度だけお会いしたかった」

「…翠、最後に抱かせて貰えぬか」

 弥生が小さな声で尋ねる。

「はい母さん、喜んで」

 そう言うと、弥生の胸に飛び込んだ。

「母さん…」

「翠…」

 弥生は翠をその胸に抱き締めた。

 その翠の肩を直也も優しく抱く。

 少しの間そうしていたが、翠は迷いを振り切るように身を翻し、庭の中央に立つ。

「山ン本殿、感謝します」

「何の、竜神様をマヨヒガにお迎え出来て光栄でしたわい」

「父さん、母さん、いつまでもお幸せに」

「翠…」

 後は声にならなかった。

 翠は天に向けて右手を高々と差し上げる。と、見る間に翠の姿は金緑色の竜に変わっていく。

 それも一瞬の事で、目を開けていられない程の光が満ち、再び目を開けた時にはもう竜の姿はどこにも見えなかった。

 直也と弥生は空を見上げる。一条の雲が南へ流れていった。


 しばらく空を見上げて佇んでいた二人であったが、気が付くとマヨヒガは無く、陽の光降り注ぐ畠の真ん中に立っている自分たちがいるだけであった。

「…翠も一人前になったんだな」

「うむ。…もうその名を呼ぶ事も出来ないと思うと少し寂しいのう」

「おまけに、お礼を言う暇もなく、五郎左衛門さん達、消えてしまったな」

「マヨヒガを出すのに苦労していたようじゃからのう」

 どこにいるかわからない五郎左衛門と千草に向かって礼をして歩き出す二人。

 松本城天守は良く見えているので、いい目印だ。目指すは城下町・松本。

 歩きながら弥生が感心したように言う。

「直也、翠と立ち会う前と後では、お主の気が違うのう」

「そうか?」

「うむ、大人と子供ほども違う。…おそらく、気だけで言ったら、もう人間でお主に適うものはおらんじゃろう」

 直也は驚いて、

「何だって?…何でそんな…」

 弥生は笑って、

「竜神の気を浴びたからじゃ。古来、竜に出会った者は皆ひとかどの人物になっておる」

 直也は首を傾げて、

「自分じゃ何も変わってないような気がするんだが」

「ふふ、そんなもんじゃよ。…じゃが、儂が保証する。お主はもう十分に隠れ里の当主としてやっていける」

「そうか、そうすると後は…」

「花嫁を見つける事じゃな」

 そう言って微笑んだ弥生の唇の紅を見て、直也は胸がときめくのを感じた。だがそれを顔には出さず、

「もう一つある」

 弥生はそれだけで察したらしく、

「しずの事か…?」

 かつて一緒に旅をした、幸せを目前にしてそれを打ち砕かれ、鬼と化した少女。

「うん。…なんとしても人間に戻してやりたいんだ。…そして隠れ里に迎えてやりたい」

 弥生は遠い目をして、

「そうか、…それではまだ旅は続くのう」

 とだけ言った。

 春の日差しが降り注ぐ松本には陽炎が立ち、二人の姿はその向こうに霞んで消えていった。

 今回は松本を目前にしてのマヨヒガの巻でした。

「稲生物怪録」にも出てくる化け物の長、「山ン本五郎左衛門」さん登場。「やまんもと」とか「さんもと」と読むようです。

 そして翠、再登場です。そして多分最後の登場に。成長して成龍になる事で、無情の存在となるのです。

 これは、立場が上の者ほど私心を抱いてはならないからなのです。なのでそうなる前に翠は、直也と弥生に会いたがったのですね。

 うつつ世では、天竜である翠は長い時間地上にいる事は出来ないので、山ン本五郎左衛門の助けを借りて、マヨヒガという異空間で再会する事が出来ました。

 そして弥生への紅の贈り物は…これ以上はネタばれになるので止めておきます。

 加えて直也への贈り物として、竜神の気を…これで直也のチート化完了。

 最後に、弥生が翠をかき抱いたシーン。弥生は子供好きなのです。

 

 それでは、次回も読んで頂けたら幸いです。



 20150131 修正

翠が着ていた装束について。ここは普段着の「衣冠」ですね。「直衣」はただの衣、つまり普段着の意ですから。

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