巻の四十八 マヨヒガ(前)
スキマ妖怪とか猫とかは出ません、まあ弥生は元九尾なんですが。
巻の四十八 マヨヒガ(前)
島々(しましま)宿、波多、新村と経て、直也と弥生は松本に近付いていた。
畑越しに松本城の天守が見えてくる。
「ああ、弥生、お城が見えたぞ」
「うむ、聞いたところでは松本城は別名烏城とも言うそうじゃ。黒塗りの壁に因むのじゃな」
そこから望む松本城天守は、逆光の中、黒々とそびえ立っていた。
歩んでいく路傍には石仏が多い。ただ丸い石の場合もあるが、多くは男神と姫神が手を取り合っていたり睦み合っていたりする。
「双体道祖神と言うのじゃ。豊作の象徴とも言うな」
そんな道祖神の下に、一人の老人が腰掛けているのが目に入った。 いかにも疲れた様子である。
「もし、どうかしましたか?」
直也が声をかける。老人は顔を上げて、
「…夜道を歩いてきたら無理がたたって歩けなくなりましてなあ…」
そう答えた。見れば白髪、白髭、肉付きもよく、着ている物も悪くない。どこかのご隠居さんといった風体である。
「お宅はどちらですか? お送りしましょう」
そう直也が言って背を差し出すと、
「この近くです。…ではお言葉に甘えて」
直也の背に負ぶさる。弥生もそれを助けた。その弥生が突然、
「ひあっ!?」
頓狂な声を上げた。直也がどうしたと聞くより早く、弥生が、
「ご老人、冗談はお止め下さい」
老人は笑って、
「ほっほっほっ、なかなか触り心地のよい尻をしていなさる、先が楽しみじゃ」
「何の先ですか!」
それを聞いて、老人がどさくさに紛れて弥生の尻を撫でたと言うことがわかった。
「そう怒りめさるな。老い先短い老人にとって若いおなごは何よりの若返りの薬じゃよ」
弥生は眦をつり上げ、
「人の尻を触る元気があれば一人で帰れるのではありませんかな?」
弥生が皮肉を言うが、
「ほっほっほっ」
老人は直也の背で笑うだけ。
直也は直也で思ったより老人が軽いのに驚いていた。
「で、お宅はどちらですか?」
「おう、そうじゃ。…そこをまっすぐ行って下され」
その言葉に従って、道祖神の脇道を真っ直ぐに辿る。
あたりは麦が植えられ、青々とした葉を繁らせていた。
「そこを右に」
畠中の道である。
「そこを左」
「そこを右」
「そこを斜め右に入って」
なんだか出鱈目に振り回されているようでもあるが、直也は黙って老人の指示に従っていた。
「そこを右」
何度目かの時。
次第にあたりが霧に包まれ始めた。
「直也!」
後に付いていた弥生が手を伸ばしたが僅かに及ばず。
直也と老人の姿は霧の中に吸い込まれるようにして消えた。それと同時に霧が晴れていく。
気が付けば弥生は只一人、誰もいない畠の中に佇んでいるのであった。
* * *
「ここが儂の屋敷ですじゃ」
霧に包まれた中を歩いていると、不意に目の前に大きな門が現れた。白壁に囲まれ、豪農の屋敷と言った構えである。
「どうぞ中へ」
言われるまま、門をくぐる。どこか懐かしい空気が感じられた。
これまた大きな玄関を入り、老人を下ろす。若い女が走り出てきた。着ている物から察するに、家族であろうか。
「お祖父様! どうなさったのですか!?」
「千草か、…足を痛めて難儀しているところをこの客人に助けて頂いたのじゃ」
千草と呼ばれた女は深くお辞儀をして、
「祖父がお世話になりまして、ありがとうございました」
直也は、千草と呼ばれるこの娘が老人の孫だと知った。
「ささ、上がって下されい」
そう言われて、後ろを振り向き、弥生がいないことに気が付く。
「あれ、弥生…」
老人は笑って、
「お伴の狐殿は少々離れておられたので一緒に入ってこられなかったのですな。…でも大丈夫、あの方なら自力でここまでやって来ますよ」
直也は弥生のことを狐だと見破った老人の眼力に驚いた。
「まだ名乗っておりませなんだな、わしの名は五郎左衛門、以後お見知りおきを」
「あ、俺は…直也です」
「直也殿、お招きしたのは、あなたにお会いしたいと言われる方がいらっしゃいましてな。
少々早く着いてしまったのでその方がお見えになるにはまだ時がござる、中で寛いでいて下され」
「はい、それでは…」
座敷に通される。先程の千草という娘がお茶と茶菓子を持ってやって来た。
「粗茶ですが」
「ありがとう」
茶は香り高く、茶菓子はすっきりした甘さ、趣味の高さが伺える。
「さて、直也殿」
直也が茶を飲み終わった時、向かい側に座った五郎左衛門が口を開いた。
「この屋敷には書物もたくさん揃えてござる。もし宜しければ、ごらんになりますかな?」
「ええ、是非」
直也は一も二もなくその申し出に従った。
「こちらですじゃ」
五郎左衛門に案内され、渡り廊下を伝って奥へ。しかし広い屋敷である。なのに人の気配がない。
これだけの広い屋敷に、五郎左衛門と千草の二人だけの筈はないと思うのだが、直也には他に気配を感じられなかった。
「どうぞ」
通された書庫は十畳程の広さがあり、所狭しと棚が置かれ、その棚には古今の書物が乗せられていた。
「これは…すごい」
「お好きなだけお読み下され。昼餉はここに運ばせましょう」
五郎左衛門はそう言って書庫から出て行った。
直也はとりあえず三冊ほど取り出し、窓辺にある文机の前に座った。
「論語」「孟子」は雑賀衆の長老の屋敷で読ませて貰っていたが、再読してみる。
忘れかけていた箇所もあったので、認識を新たにすることが出来た。
「和漢朗詠集」。…昨夜の木の精達との宴で詠まれた詩や催馬楽を読むことが出来た。
続いて棚から取り出したのは「孫子」「韓非子」「史記」「十八史略」、そして「万葉集」「古今和歌集」等。
直也はこの機会にと、出来るだけ多くの書を読み、自分の知識とするつもりでいた。
昼餉を千草が持って入ってきたのにも気が付かないほど。空腹で我に返り、慌てて冷めかけた料理を口にした。
そしてまた読書。
直也は気が付かなかったが、明らかにこの屋敷とその周辺では刻の流れが普通ではなかった。
その証拠に、それから夕食の時間までに直也の読んだ書物は五十冊を越えている。
速読の達人でも不可能であった。
あたりが薄暗くなって文字が読めなくなるまで、直也は本に没頭していた。
空腹と夕闇が直也を現実に引き戻す。
「あれ、もうこんな時間か」
ちょうど直也が本を置いた時、千草が直也を呼びに来た。
「直也様、夕餉の支度が出来ております。いらしてください」
「ああ、ありがとう、千草さん」
千草と一緒に渡り廊下を歩きながら、直也は聞いてみる。
「これだけの広いお屋敷、何人くらいいらっしゃるのですか」
千草は笑って、
「ここには私とお祖父様だけです。そのお祖父様も普段は外に出ていますので、大抵は私一人ですわ」
「それは…大変ですね」
今日の直也は驚いてばかりである。
「こんな広いお屋敷にお一人でいて寂しくありませんか?」
千草は笑って、
「ええ、ちっとも」
変わった娘のようである。
「さあ、どうぞ」
通されたのは昼間とは違う座敷。五十畳はあろうかという大広間に、五郎左衛門、直也、千草の三人だけ。
何とも落ち着かない感じがするが、五郎左衛門も千草も当たり前と言った顔で席に付いた。
「さて、直也殿もいらしたところで、始めますかな」
五郎左衛門が手を叩くと、烏帽子に水干姿の女が三人、酒肴を持ってやって来た。
「なあんだ、他にも人がいるじゃないですか」
直也がそう言うと千草は笑って、
「この者どもは式神ですわ。人ではございません」
そう言ったので直也はまたまた驚いた。
確かに式神を使えれば、一人でもこの屋敷に住まうことは出来るだろう。里の家でも式神を使って家事をさせている。
だが式神を自由に操る老人と孫…いったい何者だろう?呑気な直也にも流石に気になってきた。
そんなことを考えていたら、横にやってきた式神が酒を注いで寄越す。
あわてて杯を差し出す直也。
「それでは、直也殿の健康を祝して」
「ありがとうございます。…五郎左衛門翁と千草さんの健康を祝して」
「乾杯」
「乾杯」
「乾杯」
酒は美味く、肴は珍味であった。変わった物もある。
「これは何ですか?」
直也が尋ねた。蜂の子にも似ているが、足がある、かといって稲子の佃煮のわけはない。
「それはざざむしですよ。川の中にいる虫です。食べたことありませんか?」
千草が答える。
「ええ、蜂の子や稲子はありましたが」
「信州は山国ですので、こういう虫まで食べなけれならなかったのです。…今は稲作も普及して、主食ではなくなりましたけれど」
他にも、春の恵みの山菜がいろいろ出された。幾つかは初めて食べる味である。
しかしどれも心のこもった料理で、式神ではなく千草が手ずから作った料理であることがわかった。
「…ごちそうさまでした」
食事が終わると、急激に眠くなってきた。
その様子を見て取った五郎左衛門は、布団を敷いた部屋まで千草に案内させる。柔らかな布団に横になった直也は、あっという間に眠りに落ちた。
「直也殿は?」
「お休みになられました」
「そうか、して、そなたの感想は?」
「なかなかの御仁かと」
「そうじゃな、少々人が良すぎるきらいがあるが、お付きの弥生殿が一緒ならちょうど良いかも知れぬ」
「弥生様はいつ頃ここへお見えになるでしょう?」
「明日の昼頃じゃろうな。ちょうどあの御方もいらっしゃる頃じゃ」
翌朝、直也が目を覚ますと、千草がすぐにやって来た。
「お目覚めでございますか、朝餉の支度が出来ております」
それで顔を洗い、導かれるままに座敷へ向かう。
またしても昨夜と違う座敷である。今度は十畳くらいの落ち着いた部屋。
「おはようございます」
「おはよう、直也殿」
挨拶をし、食事。今朝は式神を出すこともなく、傍に控えた千草が給仕をしてくれた。
白いご飯に味噌汁、香の物、焼き魚。どれも美味しかった。
食後、お茶を飲みながら五郎左衛門が尋ねてきた。
「さて直也殿、直也殿に会いたいと言われた御方はおそらく昼過ぎに見えられると思う。それまでどうしますかな?」
直也はちょっと考えて、
「…出来るなら昨日の書庫で本を読んでいたいのですが」
と言った。五郎左衛門は笑って、
「そう言われるのではないかと思っておりました。…千草、ご案内して差し上げなさい」
「はい、お祖父様」
それで再び書庫へ。これだけの本は数箇月かかっても読み切れないだろうが、直也は出来る限り目を通しておきたかった。
本を物色する。と、その目がある本に留まった。
表紙は何の変哲もないが、何枚か栞が挟んである。
手に取り、栞の部分を開いてみた、直也の目が見開かれた。
「八面大王、魏石鬼」
(ここにも鬼が…)
見ると、栞の挟んである部分は、何かしら鬼に関する内容である。
「両面宿儺」、「鬼女紅葉」…。
それらを読み終えた直也は他の鬼に関する書物を探そうと、書庫を見回す。
すると、栞の挟んである本が何冊かある。それらを手に取ってみると、皆、鬼に関する本であった。
一心に読み耽る直也。おかげで鬼に関する一通りの知識を手に入れる事が出来た。
山海経によれば東海に度朔山と言う山があって、そこには枝の廻り三千里にもなる巨大な桃の木がある。
その東北にちょうど枝が門のようになっていてそこから鬼が出入りすることから鬼門と呼ぶようになったこと。
鬼門は方位で言うと丑寅にあたるので、日本では鬼と言えば牛のような角を生やし、虎の皮の褌をしていること。
古来、大和朝廷にまつろわぬ者達は鬼として征伐されたこと。
平安の昔、物語に描かれた酒呑童子、茨木童子。
貴船の社に祈願して鬼となる話。
宇治でもその話は弥生に聞いたなあ、と直也は思った。
そして、
鬼とは穏、すなわち見えないもののことであったこと。
唐の国では鬼と言えば幽霊のことであること。
等、等、等。
直也が一息ついた時に、大きな音が聞こえた。岩を砕くような音である。
「何だ?」
窓から乗り出し、音のしたと思われる方を眺める。
「直也を返せ!」
大音声に呼ばわるその姿。
狐の耳と尻尾を生やした弥生であった。
「弥生!」
直也の声に、弥生が振り向く。
「おお直也、無事か」
「無事も何も、俺は歓迎されてるよ」
弥生はそれに対して、
「お主を黙って連れ去る方が悪い。儂はお主の安全に責任があるからのう」
そこへ五郎左衛門がやってきた。
「これはこれは弥生殿、お早いお着きですな」
そういう老人を弥生は睨みつけ、
「貴様、何者じゃ?…最初逢った時からただの人とも見えんかったが、今ははっきりと人でないと感じる。重ねて問う。何者じゃ?」
五郎左衛門は笑って、
「わしの名は五郎左衛門。山ン本五郎左衛門」
と名乗った。
弥生は驚いた顔で、
「では、この国の妖怪を統べる元締め…」
「統べるとは言っても妖怪は元々勝手気儘なものじゃからな。現に弥生殿はわしとは無関係に暴れておられる」
弥生は苦笑して、
「その山ン本殿が何故直也を?」
五郎左衛門は、
「直也殿には伝えたが、直也殿に会いたがっている方がいらっしゃってな。うつつ世では拙いので、このマヨヒガへお連れしたというわけじゃよ」
直也は突然悟った。マヨヒガ!
隠れ里と同様、うつつ世を離れた異世界。それで最初に来た時に、どこか懐かしい空気を感じたのか…。
「では何故儂を弾き出されたのじゃ?」
怪訝な顔で弥生が尋ねる。
「そのつもりはなかったのじゃが、弥生殿の霊力が大きすぎて、儂一人で包み込めなかったのじゃよ」
五郎左衛門の説明によれば、異空間であるマヨヒガへ連れ込むには妖気で包み込む必要があるのだが、弥生の霊力を包みきれなかったため、直也と弥生を二人同時に連れ込めなかったというわけである。
「それに弥生殿ならご自分で来られるじゃろうと思ったしのう」
五郎左衛門は悪戯っぽく笑う。
弥生はまだ少し不満の残る顔で、
「確かに…のう。しかし儂とて一刻もかけねば入れなかった。その間直也が心配でたまらなかったぞ」
「一刻?」
直也が聞きとがめた。
「俺がここに来たのは昨日の昼前だぞ?…もう丸一日経っているんだが…」
そこまで口にして気が付いた。ここは異世界、刻の流れがうつつ世と異なるのだ。現に隠れ里もうつつ世より刻が遅い。
マヨヒガは逆のようであるが、これは山ン本五郎左衛門が何かしたのだろう。
「まあとにかく良く来なすった。ちょうど昼餉の時刻じゃ。くつろいで下され」
そう言ってくるりと踵を返すと、すたすたと歩いていく。直也と弥生もそれに続いた。
「直也、本当に何もされなかったのじゃな?」
「ああ。…俺のしてた事と言えば、食事と、寝ることと、…あとはずっと本を読んでた」
弥生はほっと溜息をついて、
「そうか、それならば良い。…昨日からと言うたな、それならかなりの書物を読めたじゃろう?」
「うん、もう百冊近くは読んだかな」
弥生は驚くと共に喜んだ。
「そうかそうか、山ン本殿が刻を調節してくれたのじゃな、お主も本を読みたがっておったし、これは礼を言わねばならぬか」
そして昼餉の席に付いた。
「弥生殿、ご心配おかけした」
五郎左衛門がそう謝辞を述べると、弥生も、
「山ン本殿、直也が世話になり申した、礼を申し上げる」
そう頭を下げたのを見て直也もほっとした。
「ささ、冷めないうちに食べて下され」
和やかな昼餉となったのである。




