表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
47/100

巻の四十七   月夜の宴会

巻の四十七  月夜の宴会


 野麦街道を松本へと向かう直也と弥生。

 だが、もはや空は夕暮れの時を過ぎ、青い闇が迫ってきていた。雲が多く、星も見えない。

「…もう無理だな」

「うむ、やはり今日中に松本へは着けんかったか。…夜にこの街道を歩くのは危険じゃ。どこぞで野宿じゃな」

 二人が歩いているのは現在の稲核いねこきあたり。この時代、まだ人家は無い。

 もう少し下れば島々宿(しましまじゅく)なのだが、谷沿いの道、崖もあり、夜歩くには危険すぎると弥生は判断した。

 薄明かりが残っているうちに寝場所を探す。少し先の小広くなった場所に差し掛かった二人の目に小さな祠が映った。

「おお、今夜はあの祠に泊めて貰うことにしよう」

 近付いてみれば、まだ比較的新しい祠であった。数年前に建てられたと思われる。

「…祠か…」

 直也はなんとなく気乗り薄である。過去、いろいろな化け物と遭遇している直也は祠というとなんとなく避けたくなるのであった。

 弥生はそれを見越して、

「ふふ、大丈夫じゃよ。神楽面や山神は現れぬよ」

 直也も苦笑し、

「まあ、いいさ」

 内部はまだ木の香も残るくらいに新しい祠である。手入れも良い。それは人里が近い証でもある。

「山の神様、一晩の宿をお貸し下さい」

 そう手を合わせた後、持参の餅を弥生の狐火で焼く。うち一つを神様に供えた。

 そして残りの餅を食べるともうすることもない。

「明日は松本に着けるじゃろう」

「うん、明るくなったらじきに立とう」

 そう言って横になる二人。念のため、弥生は青い狐火を一つだけ天井に灯しておく。

 川の音が聞こえるだけの静かな夜、二人はすぐに眠りに落ちた。

 

 深夜のことである。まぶたの裏に光を感じた直也は目を覚ました。

 弥生の灯した狐火はそのままの明るさであるが、祠の扉の格子から薄明かりが入っている。雲が取れて月が出たらしい。もう一度寝ようとしたが、目が冴えてしまった直也はそっと起き上がる。

 弥生は良く眠っているようだ。 直也は音を立てないように立ち上がり、なんとなしに外へ出てみることにした。

「うわあ…」

 外は折からの満月に照らされ、昼間かと見まごうばかりに明るかった。降るような月の光の中にしばし佇む。

 そんな直也の耳に聞こえてきた音がある。大勢が賑やかに騒いでいるような声。意外と人家が近かったのかも知れない。

 それでそちらの方へ行ってみることにした。

 祠の裏手、杉の木立を抜けたところ。広場があって、そこに集まる者達があった。

 白い髭の老人、逞しい若者、落ち着きのある壮年の男。給仕を務める若い娘。

 広場にむしろを敷き、車座になって坐っている。全員見た目は人である。

 一見すると村祭りのようでもあるが、直也にはそれが人ならぬ者達の集まりであることが一目で見て取れた。

 第一に着ているものが村人のそれではない。どこか古式床しい装束。しかし何の変化かまではわからなかった。そんな時。

「おお、客人が見えられたぞ」

 そう声を上げたのは奥に座っている白髭の老人であった。黒に近い緑色の装束を身に着け、茶の頭巾を被っている。

 それが皺だらけの顔に満面の笑顔を湛えて直也に手を振っていた。

 人では無い者とはいえ、害意は全く感じなかったので、直也は素直に頭を下げた。

「そんな所におられんで、さあさあこちらへ」

 手招きされるままに、老人の隣へ座る直也。

「ささ、一献」

 手渡された杯に酒が注がれる。直也はそれを躊躇うことなく飲み干した。

 周りの者達から喝采が起こる。

「客人、よい飲みっぷりじゃ」

 そう嬉しそうに笑う老人は、

「お気づきかも知れんが、我等は人ではない」

 そう打ち明けるのだった。

「ええ、わかっています」

 そう答えた直也に、周りの者達は再度喝采を送る。

「さすが、長が認めた客人、肝が太い」

「強い土気を持たれているだけのことはある」

「我等と今宵飲み明かしましょうぞ」

 大騒ぎする連中を、手を振って静かにさせると、白髭の老人は、

「儂はこの者達の長老をしておる冬青斎とうしょうさいと言う。…皆も自己紹介せよ」

そう、長老である冬青斎に言われ、集まった者達は順に自己紹介を始めた。

「儂は天直てんちょく」そう言ったのは逞しい中年の男。深い緑の着物を着ている。

「俺は円然えんねん」これは若い精悍な男。青緑色の装束。

「私は挙十きょじゅうといいます」壮年の大男。褐色の着物である。

「我は卯人うひとです」細面の若者。これは若緑の着物であった。

 このようにして、そこにいた十数名が皆自己紹介を済ませると、冬青斎は、娘達を指して、

「そして給仕をしてくれているのは振尾しんびの里の娘達じゃ」

 三人の娘達が一斉に辞儀をした。白、黄色、水色、明るい色の装束を身に纏い、軽い動作で宴席を飛び回っている。

 一同の自己紹介が済んだので、直也も名乗ることにする。

「葛城...直也です。諸国を巡る旅をしているところです」

「直也殿か」

「直也殿、まあ一杯」

「この肴は美味いですぞ」

 そう言いながら直也の前にやってきては酒を注いだり肴を差し出したりしていく。

 酒はのどごしが良く、肴は山菜や焼いた川魚、直也はすっかり良い気持ちになってしまった。

「ここらで芸が欲しいのう」

 そう冬青斎が言うと、

「では、それがしが」

 そう言って先程「挙十」と名乗った大男が名乗りを上げた。

 立ち上がり、詩を吟ずる。

 

「性情懶慢好相親  しょうじょうらんまん よくあいしたしみ

 門巷蕭條称作隣  もんこうしょうじょう りんをなすにかなふ

 背燭共憐深夜月  ともしびそむけては ともにあわれむしんやのつき

 踏花同惜少年春  はなをふんではおなじくおしむ しょうねんのはる

 杏壇住僻雖宜病  きょうだんすまいへきにして やまいによしといへども

 芸閣官微不救貧  うんかくかんびにして ひんをすくわず

 文行如君尚憔悴  ぶんこうきみのごとくにして なほしょうすいす 

 不知霄漢待何人  しらずしょうかん なんびとをかまつ」

 

 朗々とした声である。

 挙十は吟じ終わって深々と礼をする。拍手が巻き起こった。

「確か…白楽天の詩ですね」

「直也殿、お若いのにようご存じじゃのう」

「では、次はそれがしが」

 そう言って卯人が立ち上がった。

 

「問余何意棲碧山  よにとふ なんのいありてへきざんにすむと

 笑而不答心自閑  わらひてこたへず こころおのずからしづかなり

 桃花流水遙然去  とうかりゅうすいえうぜんとしてさる

 別有天地非人間  べつにてんちのじんかんにあらざるあり」

 

 月の谷間に響き、細いが良く通る声であった。

「これは李白じゃが、ご存じかな」

「確か…山中問答という題でしたかと」

「ほほう、お見事じゃ。…直也殿も何か吟じてもらえんかな?」

「大して知りもしませんが…」

 そう言って直也も立ち上がる。

 

「千里鶯啼緑映紅  せんりうぐいすないて みどりくれないにえいず

 水村山郭酒旗風  すいそんさんかくしゅきのかぜ

 南朝四百八十寺  なんちょう しひゃくはっしんじ

 多少楼台煙雨中  たしょうのろうだいえんうのなか」

 

 皆からの拍手。

「杜牧ですな」

 冬青斎は博識である。

「まだまだ不勉強で」

「いやいや、その若さでこれだけご存じとは頼もしい」

 そう言って笑う冬青斎。

 その手の杯に、黄色い衣装を着た娘が酒を注ぎに来た。

 その娘に冬青斎は、

「どうじゃな、振尾の里の娘よ、何か演ってくれぬか」

 問われた娘は酒を注ぎ終わるとつと立って、白い衣装、水色の衣装の娘達を手招きした。

「それでは、今宵のあるじさまの仰せによりまして」

 一礼すると、黄色い衣装の娘が歌い出した。

 

「青柳を 片糸によりて や おけや 鶯の おけや

  鶯の 縫うという笠は おけや 梅の花笠や」

 月の光を思わせるような透き通った声である。

 続いて、白い衣装の娘が歌い出す。

 

「更衣せんや 先ん立ちや 我がきぬ

  野原篠原 萩の花擦や 先ん立ちや」

 

 こちらは星の光のように優しい声である。

 そして、妹なのか、水色の衣装の娘が、

 

「いかにせん せんや しの鴨鳥や 出でて行かば

  親は歩くとさいなめど 夜妻は定めつや 先ん立ちや」

 

 咲く花のように愛らしい声であった。

 その後、三人揃って歌い出す。

 

「伊勢の海の清き渚に 潮間しおがい

  なのりそや摘まむ 貝や拾はむ 玉や拾はむや」

 

 歌い終わり、深々と辞儀をする。宴席は拍手喝采に包まれた。

 娘達は再び給仕に廻る。

催馬楽さいばらは初めてですかな?」

「ええ、名前は知っていましたが、初めて聞きました。いいものですね」

「直也殿は良い耳をしておられる。末頼もしい」

 そう言って酒を煽る冬青斎。更に、

「こうなると舞いが見たいのう。…そういえば、姫はどうした?」

「姫は最近、脚が痛むと申されております」

 冬青斎はちょっと考えるそぶりを見せたが、

「姫には済まぬが、今宵はただの宴ではない。大事な客人もいらしておる。…悪いが来て貰えぬかと、誰ぞ呼んできてくれぬか」

「あい」

 そう答えて、水色の衣装を着た娘が闇の中へ姿を消した。

「直也殿、今呼んだ姫はのう、舞いにかけてはこの辺では並ぶものとておらぬ名手なのじゃよ」

「でも、…脚がお悪いとのことでしたが?」

「何、我等は人とは違う。少々のことは何でもない」

 そんな話をしているうちに、さっきの娘が、一人の姫君を案内して戻ってきた。

「姫様をお連れ致しました」

「うむ、御苦労。…姫、こちらは今宵のお客人、直也殿じゃ」

 やって来た姫君は、丈成す黒髪を垂らし、桜襲ね(さくらがさね)の小袿こうちぎ姿。袴は濃色こきいろである。(未婚の色:作者注)

 姫は直也の前に両手を付いて挨拶した。

「弥生と申します、お初にお目にかかります」

「や…よい…?」

「はい、わたくしは弥生と申します」

 そう言って上げた顔は色白で頬は薄紅、口に薄く紅を差し、瞳は緑を含んで黒く、絶世の美女である。

 どことは無しに弥生に似ている気がする…そう第一印象を持った直也であった。

「よろしく、弥生姫。…実は俺の連れも弥生と言うんですよ。同じ名ですね」

「まあ、直也様のお連れ様もわたくしと同じ名前でいらっしゃいますか。一度ご挨拶したいものですわ」

 にこやかに話す弥生姫を直也の隣に座らせると、冬青斎は杯を渡した。

「姫、まあ飲みなされ。今宵の満月が谷を照らすその間、我等の宴にお招きした直也殿じゃ、出来れば後ほど姫の舞いを披露してはくれぬか」

 姫は杯に口を付けると、三度に分けて飲み干した。その頬の紅が心なしか濃くなった。

「そういうことでしたら喜んで。…直也様、拙い芸ですが最後まで御覧いただけたら幸せに存じます」

 そう言うと、立ち上がって広場の中央へと歩み寄る。

 いつの間にか手には扇が持たれており、それを一振りして開くと、どこからともなく楽の音が流れてきた。

 直也は知らなかったが、その曲は「春鶯囀しゅんのうでん」。

 しょう篳篥ひちりき、笛、各三名、琵琶、そう、各二名。

 鞨鼓かっこ、太鼓、鉦鼓しょうこ各一名と少なくとも十六人で演奏する大曲である。

 その昔、唐の高宗が白明達に命じて作曲させたとも言われる春の曲である。

 その春の曲に合わせて弥生姫が舞い始めた。

 髪がなびき、袖が翻る。扇に貼られた金紙が燦めく。桜襲ねの小袿の裾がひらめくたびに、いずこからか桜の花びらが舞い落ちてくるようであった。

 中天を過ぎた月の光の中、目を半眼にして無心に舞う弥生姫の姿に、直也は声もなく見とれていた。

 

「お目汚しでございました」

 姫の言葉に我に返る直也。

 一同もその言葉に、眠りから覚めたかのような拍手喝采を贈った。

 摺り足で戻ってくる弥生姫、だがその足取りが僅かに重たげであることを直也は見て取った。

「姫、脚が痛むのではありませんか?」

「いえ、いつものことでございます」

 直也の隣に座った弥生姫は気丈に首を振る。

「俺は天狗の秘薬も持っています。もし良かったら脚を見せて下さい」

 姫は微笑んで、

「天狗様のお薬と言えども、わたくしの傷みを消すことは適いませぬ。そのお気持ちだけで結構でございます」

「姫…」

 姫は杯を直也に持たせると、

「わたくしからも一献差し上げさせて下さいませ」

 そう言って、どこから出したのか、小さな瓢箪を出し、そこから透き通った液体を杯に注いだ。

「春の息吹にございます」

 その杯に満たされた液体は淡い桜色に輝き、ほのかに香りを立ち上らせている。直也が一口含むと、微かな甘みを感じた。

 もう一口。驚いたことに、今度は微かな酸味を感じる。

 最後にもう一口。ほろ苦さが口の中に広がり、それは舌の上に余韻を残して消えていった。

 それからも宴は続く。

 棒を手にした天直てんちょくが舞う。

 円然えんねんがその相手として、やはり棒を手に舞う。

「これは…もしかして『鴻門の会』ですか?」

「直也様、よくご存じでいらっしゃいますわね。おっしゃる通りですわ」

「すると、これから樊檜(はんかい、本来は口へんに会うの旧体)が加わるのですね?」

「ええ、ーーあ、出てまいりましたよ」

 挙十きょじゅうが加わった。三人が舞う。剣舞ならぬ棒の舞い、雄壮なそれを直也も楽しんだのであった。

 

「ああ、いい気持ちだ…」

 すっかり酔いの回った直也、その直也を弥生姫は優しく介抱している。

「直也様、わたくしめの膝でよろしければお使い下さい」

 そう言って直也を誘う。

 もう半分正体を無くしていた直也は一も二もなくその言葉に従った。

 姫の膝は柔らかく、えもいわれぬ香りがした。

「お眠りになられてよろしいんですのよ?」

 見れば、宴の面々も酔いつぶれ、横になっている。

 冬青斎はと見ると、黄色の着物の娘の膝を枕に高鼾である。

 幾人かはまだ飲んでいたが、他の給仕の娘達も疲れたと見え、身体を横たえていた。

「…なんだか眠るのがもったいないみたいでさ」

 そう直也が言うと、姫は笑って、

「ふふ、実はわたくしもそうなのです。朝になればもう直也様とお話も出来なくなるこの身ゆえ」

「そう…だったっけ。残念だけれど…」

 そんな直也の顔を覗き込むようにして姫が言う。

「直也様、一つだけお願いがあるのですが、聞いていただけますでしょうか」

「俺に出来ることなら何でも」

「ありがとうございます。…もし、もしもで結構ですから、白沢の雲井という物に会われたなら、弥生は達者だと、そうお伝え下さいませぬか」

「白沢の雲井さん、ですね。わかりました。約束します」

「ありがとうございます、直也様。…貴方様はお優しくていらっしゃいますね。…お連れの弥生様が羨ましゅうございます」

 そう言って微笑む弥生姫の手を握って直也は、

「姫、一緒に旅をしますか?」

 そう聞いてみるのだった。しかし姫は、

「ありがたい仰せですが、私どもはこの地から離れては生きてゆけません」

「そうですか…」

 姫は笑いながら、

「それに、直也様と弥生様のお邪魔をしては申し訳ないですから」

 直也は顔を赤らめて、

「お、俺と弥生はそんなんじゃ…」

 姫はにこやかに、

「そんな赤い顔でおっしゃられても説得力ございませんことよ」

「……」

「そうですわ、その弥生様に、これをお渡し頂けませんか」

 そう言って姫は小さな物を差し出した。直也が受け取ってみれば、それは櫛である。

 白木のままの素朴な造り。優しい丸い曲線で構成されたそれは、姫の持ち物に相応しく見えた。

「これを弥生に?…ありがとうございます、姫。間違いなく弥生に手渡します」

「今宵は直也様のようなお優しい土気の方のお側に控えることが出来、幸せでしたわ」

「俺も、素晴らしい夜を過ごさせて貰って感謝してます」

 そう言った直也に向け、姫は透明な笑みを浮かべる。

「どうかお二人、いつまでもお幸せに」

 そう言う弥生姫の声がどこか遠くに聞こえ、直也は目の前が霞んでいくように感じた。


*   *   *


「…直也、直也」

 声が聞こえる。

「直也」

 目を開ける。

「おお、起きたか。よく寝ているのでどうしようかと思ったが、早立ちしようと言うたのはお主じゃから起こすことにした。夜中に雲も取れたようで良い天気じゃ。祠の横に清水が湧いておった。顔を洗ってくると良い」

「や…よい…?」

「何じゃ、儂の顔を忘れたか?」

 寝惚け眼をこすって起きた直也は、昨夜の事は夢だったのかと思った。

 とりあえず顔を洗いに行く。冷たい清水で顔を洗ったら目が覚めた。顔を拭こうと懐の手拭いを探る。

 と、その手が触れた物があった。

「これは…」

 それは小さな櫛。間違いなく、昨夜弥生姫から貰った物だ。

 祠に引き返し、櫛を弥生に手渡すと共に、夢の話をする。 最後まで弥生は黙って聞いていたが、直也が話し終わると、

「…それはおそらくこの付近の木の精達じゃな」

「木の精?」

「うむ。土気のお主が招かれたのはその者達が木気だからじゃ。金気の儂は苦手なんじゃろう」

 苦笑する弥生。

「でもその…弥生姫と言うたか、なかなか気が利いておる。有難く頂くことにしよう」

…そう言って櫛で髪を梳いてみる弥生。

「おお、綺麗に梳けるのう、良い櫛じゃ」

「良かったな」

 それで二人は残った餅を食べ、身支度を調えると出発する事にした。

 祠の外に出ると昨夜は暗くてわからなかったが、裏手に大きな松の木の生えた岩があり、注連縄が巻かれている。

「これが寄代じゃな」

「冬青斎…冬も青々と茂る松…きっとこれが昨夜の長老なんだろう」

 そう言って直也は黙礼をする。

 周りを見回せば、天まで届くような杉の巨木、それを追いかけるように伸びる檜、枝を張ったけやき

 その先は崖になって川に落ち込んでおり、その土手には新緑のやなぎが生えている。

 河原には黄色や白の鶺鴒せきれいが盛んに尾を振りながら囀っていた。

「みんな…昨夜はありがとう」

 そう呟いた直也は、少し離れたところに咲いた薄紅の花に目をやる。

 近寄ってみると、樹齢二百年はあろうかという堂々たる桜の木である。

「大山桜じゃな」

 弥生の声。

「大山桜?」

「そうじゃ。よく見かける山桜より一回り花も大きく、色も濃いじゃろう。寒い地方に多い桜じゃよ」

「ふうん…」

 見上げていた目をふと足元に落とすと、何かが根元に刺さっているのに気が付いた。

「何だこれ?」

 引き抜いてみる。それは硬木で作ったくさびであった。

「何でこんな物が…」

「おおかた、祠を新築した際、大工が忘れたか落とした物じゃろう」

「姫の脚の痛みはきっとこいつの所為だったんだな」

 そう思って、楔を投げ捨てようとした直也を押しとどめる弥生。

「そこに置け」

 そう直也に命じると、狐火でその楔を燃やし、灰にしてしまった。

「そっか、別の木に刺さったりするとまずいものな」

「それもあるが…」

 そう言った弥生は、灰を指に付け、楔を抜いた後の桜の根元に塗りつけた。

「何を?弥生」

「ふふ、桜という木はのう、樹皮の回復が遅いのじゃよ。それで傷が腐ったり黴が生えたりして木を弱らせることがある。

 じゃから灰で守ってやるのじゃ」

「そうか、それはいいことだな」

 塗り終わった弥生は湧き水で手を洗うと、直也に声をかける。

「さあ、行くとしようぞ」

「おう、今日中に松本へ着こうぜ」

 直也も答えて、歩き出す。

 その時、梢を揺らす風が吹いた。

「うわあ…」

「おお…」

 その風に大山桜は花びらを一斉に撒き散らす。

 それは昨夜の姫の舞いにも似て、直也と弥生の旅を優しく見送るかのように降り積もるのであった。

 今回は桜の精のお話。出来る限り幻想的に描いてみたのですがいかがでしたでしょうか。

 作中で弥生が言っているように、木の精は金気の弥生が苦手で、土気の直也が好きなのです。

 加えて、直也が精霊を見ることが出来るようになったこと、弥生が霊狐化して恐ろしくなくなったこと(苦手ではあるのですが)、それで精霊達が姿を見せるようになりました。

こ ういう形で今までと違った話を紡いでいけるのも、直也と弥生が成長してくれたおかげです。

 

 今回の話、きっかけは出かけた先で見た、桜の木にポスター(かなにか、紙に描かれたもの)を止めた画鋲でした。物言えぬ木も痛いだろうな、木の精が現れたら痛がっているに違いない、と言う思いから出来た話です。

 蛇足ながら弥生姫は自分の理想の姫君の典型の一つです。

 いよいよ次回は松本編開始です。


 それでは、次回も読んで頂けたら幸いです。


 20230424 修正

(誤)もう少し下れば島々宿しましまじゅくなのだが

(正)もう少し下れば島々宿(しましまじゅく)なのだが

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ