巻の四十六 飛騨高山弥生橋
巻の四十六 飛騨高山弥生橋
飛騨高山。
後に天領、幕府直轄地として代官、郡代が置かれたがまだこの頃は金森氏が治めていた。
高山城は本丸、二の丸、三の丸まである立派なもので、特にその天守閣の美しさは日本で五指に入ると言われる。
城下町も整備され、城を囲む高台には武家屋敷、そして京の都を模して東の山には寺院がおかれ、その下、一段低いところは町人の町として三町が作られていた。
その飛騨高山の町に、直也と弥生は辿り着いたところである。
「なかなか賑やかな町だな、弥生」
「うむ、町人達に活気がある。藩主の政が上手くいっているということじゃな」
二人は清見街道を通って高山に入り、町中を流れる宮川に突き当たったところで左に折れ、川沿いに歩いていた。
宮川は美しい川で、京の賀茂川にも喩えられている。
「橋が多いな」
中橋、筏橋、柳橋、鍛冶橋と横目で見ながら、川縁を下流へと歩いていく。
対岸は下三之町、そのあたりで川幅が広くなる。ふと橋の名前を見ると、「弥生橋」と書かれてあった。
「見ろよ弥生、弥生と同じ名前の橋だ」
「ふふ、そうじゃな。何かの縁じゃろう、この橋を渡るとしようか」
橋の中程で二人は立ち止まり、川面を見つめる。
「行く川の流れは絶えずして、か…」
直也が呟くと、
「方丈記、じゃな。お主も随分と書を読んだようじゃのう」
「また機会があったらもっといろいろな書物を読んでみたいな」
「いい傾向じゃ。…さて、それはそれとして、大分日も傾いた。今宵の宿を決めねばのう」
「弥生に任せるよ」
そう直也が言った時、二人に声を掛けてきた者があった。
「もし、弥生様とおっしゃいますのか」
小綺麗な服装の若い男である。商人であろうか。
「うむ、儂は弥生と言うのじゃが」
弥生がそう答えると男は、
「ああ、この弥生の月に弥生橋の上で弥生様に出会えるとは、これも何かの縁、どうぞ我が家にお泊まり下さりませんか」
話を聞いてみると、男は美濃屋幸兵衛、下三之町で宿屋「美濃屋」を営んでいる。
「美濃屋」は代々続いた老舗旅館であるとのこと。
「じゃが、単に弥生が重なっただけではあるまい? 何かもっと他に理由が有りそうじゃのう」
弥生が微笑みながらそう言うと幸兵衛は、
「はい、ちょっとお知恵を拝借したいことがございまして…それ以外理由はございません」
「ふむ、知恵をのう」
「弥生、ここまで言うんだ、どうせ宿を探していたところだし、泊まってあげようじゃないか」
「ありがとうございます!」
幸兵衛は頭を一つ下げると、先に立って案内をする。橋を渡りきった所、角地にある旅館が美濃屋であった。
「ささ、足を濯いで下さい」
女中が水桶を持ってくる。足を濯ぐと部屋に案内された。なかなか大きな宿である。
だが、客が少ないのが少々気になった。そのせいか、全体的に寂れた感じがするのは否めない。
「ようこそおいで下さいました」
先程の幸兵衛と、その母親であろうか、初老の女が挨拶にやってきた。
「当美濃屋の女将でございます。本日は倅幸兵衛が無理矢理お連れしたそうで、申し訳ございません」
「いえ、どのみち宿は取らなければならなかったんですから」
恐縮する女将に、直也が返答する。
「それで、何か知恵を貸して欲しいとのことじゃったが」
弥生の問いに、
「はい、早速で恐縮ですが、これを御覧になって下さい」
そう言って一枚の紙を差し出した。
「何じゃこれは…」
それは訳のわからない絵であった。
上には月が描かれており、中程には蝶か蛾が九匹、そして下方には荷車。
「先々代は遊び心の旺盛な人でした。その反面、商売上手で、かなりお金も儲けたそうです。
その一部は、将来困った時に、ということでどこかに隠したらしいのです」
女将が説明する。それを幸兵衛が引き継いで、
「この絵がその隠し財産の手がかりなのです。…今、美濃屋は古くなり、立て替えもしたいのですが先立つものがない上、近年泊まり客も減り、金貸しもそんな状況を見て金を貸してくれないのですよ」
そう言って溜息を一つ。
「今、百両もあれば、立て替えて綺麗にし、腕のいい料理人も雇って美濃屋を盛り立てられるのですが…」
「成る程、それで知恵を、というわけですか」
直也が得心がいったと言う顔で頷く。一方弥生は絵に見入っていたが、
「これは判じ絵じゃな」
と一言。
「そうです、その通りです、…して、何と?」
女将と幸兵衛が膝を乗り出して尋ねる。
「蝶らしきものが九匹。しかし左上に月が書かれているので夜、ということはこれは蛾じゃな」
「はい、それで?」
「蛾が九匹、そして全部足が見えておるということは裏じゃ。そして荷車の絵、つまり「が く うら に」となるな」
「その通りです!」
幸兵衛が大声を上げた。
「何じゃと?」
今まで八人の学者様やご隠居様にお尋ねしましたが、皆様そうおっしゃいました」
それを聞いた弥生は嫌な顔をした。
「なんじゃ、答えは出ておったのか。それなら何故儂等に尋ねた?」
幸兵衛は慌てて、
「いえ、これ程早く答えを出されたのは弥生様が初めてです。…それに、謎はそれ一つではなかったのですよ」
「どういうことじゃ?」
今度は女将が、
「がくうらに…額裏に、ということで、先々代の残した額を調べてみました。すると、このような紙が入っていたのです」
「これを読めた人は誰もいないのです…これを読み解いて頂きたいのですよ…」
それは、わけのわからない記号のようなものが書かれた紙であった。文章だとすると、それぞれの文字が何画ずつ抜けており、判読できない。
「ふむ…文字の一部らしいが全く読めぬ。何か読み解く鍵があるはずじゃが…」
考え込む弥生。覗き込んだ直也も頭を抱えた。
そんな時幸兵衛は、
「申し訳ありません、いらしたばかりのお客様に。只今夕食の用意を致しますが、それまでお風呂で汗をお流し下さい」
その申し出に従って、直也と弥生は湯を浴び、旅の汗を流すことにした。
直也は風呂から上がった後、窓辺で外を眺めていたが、風が冷たくなってきたので湯冷めしないうちにと窓の障子を閉める。と、その手が止まり、
「…そうか…!」
突然声を上げた。折からそこに、これも風呂上がりの弥生が部屋に入ってきた時。
「どうした、直也?」
「弥生、あの紙に書かれていたのは多分文字だろう」
「そうじゃな、その文字の一部が欠けておるため、判読出来ないのじゃ」
「判読するために、もう一枚有るんじゃないのかな?」
「何…」
それは十分考えられる。読み解く鍵が何も印されていない以上、その考え方の方が筋が通る。
「最初の判じ絵にあった荷車、あれは「に」…額裏「に」ある、というんじゃなくて、「二」…二枚有る、の意味も持っているんじゃないかな」
弥生は頷いて、
「それは十分考えられるのう。とすれば、別の額裏も調べて貰わねば」
夕食の膳を運んできた女将にその話をすると、女将はすぐに幸兵衛を呼び、全部の額裏を調べるように、と言いつけた。
急いで戻っていく幸兵衛。
「ああ、やはりお告げに狂いはございませんでした」
女将が感激した顔で言う。
「お告げ?」
弥生が聞き返した。
「はい、昨夜、わたくしの夢枕に先々代…倅の祖父、わたくしの義父が立ちまして、弥生橋を渡って来る人に尋ねよ、と言ったのです」
「それで儂等に…」
女将は、
「はい、朝から倅に言いつけてそれらしい方を探させておりましたが、渡ってこられたのはあなた方だけ。
他にも通行人はおりましたが、皆渡って行く人ばかり」
「成る程のう…それを信じられたと言われるか」
「はい、今となっては藁にも縋る思い、何とか隠し財産を見つけたく…」
そこへ幸兵衛がすっ飛んできた。
「母さん、あったよ!…お祖父様が使っていた離れの額、その裏にこれが」
それは一枚目と同じように訳のわからない文字らしきものが書かれた紙。
しかし、今度は読む見当が付いている。二枚を重ねて灯りに透かしてみればいいのだ。
裏表上下の組み合わせがあったが、正しい組み合わせはすぐに見つかった。
それによると、
「にわの燈ろうの基部を見よ」
となる。
「ふむ、なるほど…それらしい物はあるのかな?」
女将は、
「は、はい、先々代が好んだ大灯籠があります」
「それじゃな。…今日はもう遅い、明日明るくなってから調べるが良かろう」
「はい、そうさせて頂きます。…さあさあ、たんと食べて下さいませ」
思い出したように女将は、次々と膳を運ばせる。
弥生は大喜びでそれを平らげた。直也も久しぶりの御馳走に舌鼓を打ったのであった。
酒も運ばれ、二人はいい気持ちでその夜は更けていった。
翌朝。弥生が目を覚ますと、何やら外が騒がしい。
廊下に出て、中庭を見下ろすと、幸兵衛が女将の指図で庭の灯籠の周りを掘り返している。
既に三箇所掘り返され、灯籠基部で残るは一箇所。
幸兵衛は汗を流しながら掘り返す。…が、何も出て来ない。肩を落とす幸兵衛。見かねて弥生が声を掛けた。
「幸兵衛殿、灯籠の下に埋まっていると書いてあったのではない。基部を見よ、とあったのじゃ。基部を」
その言葉に従い、気を取り直した幸兵衛は基部を見る。
すると、基礎の上、返花と呼ばれる部分に何か彫ってあるようだ。
「あ、おっしゃる通り、何か彫ってあります。え…と…」
石に彫られた文字ゆえ、読みづらいようだったが、何とか全部読み取ることが出来た。
それによると、
「目をあげて
さびしき空に
くらき月
らい世の契り
やまぬ夢
まよひ尽きせぬ
いまの憂き世に
なりし鐘の音
理知の光ぞ」
のように読める。またしても謎かけのようだ。先々代は余程こういう謎かけが好きだったらしい。
「今までのはまあ言ってみれば前振りじゃな。…額にしろこの灯籠の基部にしろ、偶然見つかることもありうるわけじゃからして、本当の財宝、またはそこへの鍵は偶然では見つからないような所に隠してあるはずじゃ」
その言葉にはっと気が付いた女将と幸兵衛。
「弥生様、重ね重ね痛み入ります。…さっそく朝餉の支度を致しますゆえ、今少しお泊まり頂けますでしょうか」
そこには弥生達にここで旅立たれては困るという気持ちが見て取れた。
弥生は笑って、
「うむ、ここまで関わったからには最後までお付き合い致そう」
と答えた。幸兵衛も女将もその言葉にほっとする。
「それでは、すぐに朝餉を持ってまいります」
そう言って厨へと消えていった。
朝食後。
書き写した文字を前に四人は考え込んでいた。
「ふむ、何やら意味のありそうな文章じゃ」
流石に弥生も考え倦ねている。
「理知の光…この辺に何かありそうな」
幸兵衛と女将も首を捻っていた。
「目を上げて…そうか、わかった!」
直也が声を上げる。
「直也、わかったじゃと?」
「ああ。…わかってみれば簡単だった。…いいか、最初の句、「目を上げて」。
これに従って、以下の行の一番上の文字をつなげていけばいいんだ」
「成る程、すると…さ、く、ら、や、ま、い、な、理…」
「桜山稲荷。…心当たりは?」
女将が嬉しげに、
「このあたりの氏神様、桜山八幡様の末社です。先々代も信奉しておりました」
「そこじゃな。これから皆で行ってみようではないか、案内を頼む」
幸兵衛は勇み立ち、
「はいっ!…さあ母さん、支度を。急いで行ってみましょう」
連れ立ってやって来た桜山八幡宮。
高山北側の氏神であり、領主金森氏が元和九年(1623年)に高山城の北の守護として再興した。
折から如月の月も終わり間近、気の早い桜が咲き始め、桜山の名に恥じない景観である。境内には目指す稲荷社以外にも菅原神社、琴平神社、照崎神社、秋葉神社などの末社が祀られていた。
四人は表参道を辿り、正面の石段を登って、まずは八幡宮の拝殿に参拝したところである。
拝殿を正面に見て左側に稲荷社はあった。
「ここは二の午には団子まきをするんです」
参拝した後に幸兵衛が説明する。だが弥生は、幸兵衛達には見えないものを見、聞こえぬ声を聞いていた。
(久しぶりですね、藻…)
(お主は…久木じゃな?…そうか、主領になったのか)
(ええ。伏見から遣わされてここの御先をしています)
(元気そうじゃな)
(藻…いえ、今は弥生と名乗っているのでしたね。あなたも、霊狐になったようですね、おめでとう)
弥生はくすぐったそうに、
(儂のことはいい。久木、お主何か美濃屋の先々代のことを知っておるか?)
久木は微笑みながら、
(ええ、そのことで出て来たのですよ。…先々代の幸兵衛はこの八幡宮の再興時に多くの寄進をしてくれました。
この稲荷社もその時綺麗にしたのです。…その幸兵衛が、子孫が困った時に渡して欲しい、と社殿に預けていったものがあります。
それを渡しに出て来たのです)
そう言うと久木は巫女姿となり、幸兵衛達にも見えるようになった。
「美濃屋さんのご縁者ですか?」
久木の化けた巫女はそう尋ねる。
「はい、私は今の美濃屋幸兵衛です」
「そうですか、先々代からお預かりしているものがあります。少々お待ち下さい」
そう久木は言って、社の扉を開き、中の隅から一つの細長い包みを出してきた。
「美濃屋、もしくはその縁のものが困っていたらこれを渡してくれ、とおっしゃっていたそうです」
「ああ、今がその時です。…ありがとうございます」
そう言って幸兵衛は包みを受け取った。
「それでは私はこれで。…本日はようこそお参り下さいました」
そう言って久木は社の裏手へ消えていった。その途中で、
(弥生、お幸せにね)
そう囁いて。
受け取った包みは意外と軽かった。
急いで美濃屋に戻り、奥座敷で中身を確認してみると、それは紙で出来た何の変哲もない筒である。
「何でこんなものが…」
いぶかしむ幸兵衛。
「待て待て、何か中に入っておるぞ」
筒の中から引っ張り出されたのは長い長い帯状の布。長さは二尋(約3m)程か。幅は二寸(約6センチ)くらい。
表面にはびっしりと仮名が書かれているが、まるで訳のわからない文字列であった。
「祖父さんはここまできて謎をかけるのか…」
当代の幸兵衛は疲れた顔である。
文字を読んでいくと、
「いまこのぶんをよめたきでんならよきちえをじまんせずよきちえをのぞみのかたちにかえつつもみなみるよるのつきのごとくかがやけばわがみのいどはあめのふるごとしだいにみたされる」
となった。漢字を当てれば、
「今この文を読めた貴殿なら良き知恵を自慢せず良き知恵を望みの形に変えつつも皆見る夜の月の如く輝けば我が身の井戸は雨の降るごと次第に満たされる」
とでもなるのだろうか。
わかったようでわからない文ではある。
「切る場所を変えたら意味が通るのかな?」
直也は区切る場所を変えて読んでみるが、一向に埒があかない。
幸兵衛は逆さに読んでみたが、もっとわからない文にしかならなかった。
「夜の月の如く…というのは例えば鏡を表すのではないでしょうか」
女将は女将で懸命に知恵を絞っている。
「あー、わからない」
直也が溜息をついて畳に寝転がった。
それまで黙っていた弥生だが、ぽつりと、
「ひとつわからぬのは何故わざわざこんな長い布に書いてあるのかじゃ」
それを聞いた直也はがばっと飛び起きる。
「もしかして二つ折りにするとか、繋げてみるとか…」
折り返してみたり丸くつなげて、別の場所から読めないかを確かめたがどうにもならない。
「だめか…」
考え疲れた直也は、布の入っていた紙筒をいじくりだした。
やがて飽きたのか横に座った弥生の髪を巻き付けたりして遊んでいたが、
「わかった!」
「え?」
「直也、わかったのか?」
直也は顔を輝かせて、
「この紙筒が鍵なんだよ。この筒にこの布を螺旋状に巻き付けていくんだ。そうすると…」
「おお、横に並んだ文字列に意味が通るようになるのう」
つまり、筒の円周の長さごとに文字を飛ばして読んでいけばいいということになる。そうしてみると、
「い まこのぶ ん をよめた き でんなら よ きちえを じ まんせず よ きちえを の ぞみのか た ちにかえ つ つもみな み るよるの つ きのごと く かがやけ ば わがみの い どはあめ の ふるごと し だいにみ た される」
となって、
「いんきよじよのたつみつくばいのした…隠居所の辰巳、つくばいの下」
「ああ、ありがとうございます…ありがとうございます!」
幸兵衛と女将は頭を床に擦りつけて礼を言う。
「お礼なんていいですから、早くそこへ行って確かめて下さい」
直也が言うと幸兵衛は、
「はい、先々代の隠居所は北山の麓です。早速言ってきます!」
そう言って部屋を飛び出していった。
女将も丁寧に礼を言って、その後を追って言ったのである。
弥生は、
「直也、冴えておったのう。大したものじゃ」
直也は頭を掻きながら、
「偶然だよ」
「偶然にせよ、お主が謎を解いたという事実には変わりはあるまい。ようやったぞ」
「ありがとう。…そう言えば弥生も、稲荷社で知り合いにお祝いを言われてたな」
「何!?」
驚く弥生。
「直也、お主、久木の姿が初めから見えていたのか?」
直也は、
「うん、見えていたし、声も聞こえてた」
弥生は驚いて、
「久木の使っていた穏形の法は人間には見破られぬはずじゃが…」
そう言って考え込む。
「そう言われてもなあ…」
苦笑いする直也。そんな直也に弥生は、
「それではこれから儂が穏形の法を使うから試してみよう」
印を組み、呪を唱える弥生。
端から見ていたら、弥生の姿がぼやけ、消えたであろうが、直也は、
「弥生、見えてるぞ」
驚く弥生。
「直也、お主、まさか…」
印を解き、直也ににじり寄る弥生。
「弥生?」
弥生は直也の額の中心、「輪点」に指を当てると目を閉じた。直也は何も感じないが、弥生は何かを探っているようである。
「……」
やがて弥生は指を放し、眼を開いた。そして直也に向かって、
「済まぬ…直也、許してくれ」
そう言って頭を下げた。訳のわからない直也は、
「な、何だよ弥生、いきなり訳のわからないことしないでくれよ」
弥生は頭を下げたまま、
「…儂が人面瘡に乗っ取られかけた時、お主は儂に命をくれたな。あの時儂は命を取り留めた後、お主に命を返したのじゃが、その時…」
言い淀む弥生に直也は、
「どうしたんだ?…話してくれよ」
弥生は重い口を開く。
「…儂の力がごくごく僅かじゃが、お主に移ったらしい」
弥生が直也から感じたのは狐の力、狐の霊力の欠片であった。
「それで?…何かまずいことがあるのか?」
「…その所為で、お主は常の人間には見えないようなものを見、声を聞くことが出来るようになったようじゃ」
「それは便利じゃないか。謝る必要なんかないぜ」
直也はあくまでも陽気で前向きである。
「直也…」
「身を守るのにも役立つだろ? むしろお礼を言いたいくらいさ」
弥生はそんな直也のことをじっと見つめていたが、直也が本心から言っている事を悟ると、
「直也…この償いは儂の全てを持ってする。…儂は生涯お主の従者じゃ」
直也はそんな弥生の手を取ると、
「弥生、そんな卑屈にならないでくれよ。俺は弥生がいなければここまで来られなかった。俺の方こそ、弥生の献身に対して、何も出来ないのを心苦しく思っているんだから」
「……」
「もうこの話は止めようぜ。弥生は霊狐になっても変わらない、って言ったよな。俺も何も変わらないさ」
屈託のない直也の声。そんな直也が愛しくてたまらない、そんな思いを弥生は胸の内に秘めていた。
そうこうするうちに、幸兵衛達が帰ってきたようだ。
女将が部屋に入ってくる。
「弥生様、直也様、おかげさまで先々代の遺してくれた財産が見つかりました」
話によると、件のつくばいをどかしてその下を掘ったところ、千両箱が見つかったという。
「とりあえず盗まれないように千両箱は持ってきましたが、入り用なのは百両、残りはまた埋めてしまいたいのですが…」
「それは良い心掛けじゃな」
「つきましては、埋めるにあたり、再度お知恵を拝借したいのですが」
…今度は隠すに当たっての知恵を貸して欲しいという美濃屋の申し出を快く受けた直也と弥生。
「隠し場所はそちらで考えられるがよい。…偶然に見つけられる事のないような場所をな」
「はい」
「そして隠し場所を記す方法じゃが、絵地図という手もあるな」
弥生が次々に方法を述べていく。
幸兵衛と女将はそれを書き取り、どの方法で記すかよく考えてみます、と言い残して退出していった。
入れ替わりに女中が昼食の膳を運んでくる。
「おお、これは美味しそうじゃ、いただくとしよう」
それから二日、直也と弥生は美濃屋に留まっていた。たっての頼みでもあったし、高山の町を見物もしたかったから。
それで東山の寺院群をはじめ、飛騨国分寺、そして高山南半分の氏神様である山王日枝神社などを見物してまわった。
今の直也はいろいろなものに興味を持ち、途中で見かけた飛騨春慶塗の職人の家に半日貼り付いてその仕事を見学していたほどである。
弥生はそんな直也の成長ぶりを目を細めて見つめていた。
そして、高山を発つ日が来た。
美濃屋の女将と幸兵衛は、東山の外れまで見送ってくれた。
残った九百両、どこに隠したのか二人は知らないし、それでよいと思っている。
「直也様、弥生様、お世話になりました。…これは些少ではありますが、路銀の足しにして下さい」
そう言って幸兵衛は直也の袂に包みを押し込んだ。女将も弥生に、道中食べてくれと握り飯を手渡している。
「済まぬな。…それから、桜山稲荷にも十分な寄進をされるがよい」
「はい、そういたします」
名残は尽きないがいつまでもそうしているわけにもいかない。
手を振って街道を歩き出す二人。
野麦峠を越えるか、それとも安房峠を越えるか、道々思案して歩いていく。
「どっちが良いかな、弥生?」
「うむ、そうじゃのう、この先、越後へ向かいたいから、より近い安房峠を越えるとするか。少々険路じゃがの」
この時代、野麦峠を越える街道は江戸街道と呼ばれ、比較的整備されていたが、安房峠越えの道は猟師か木樵くらいしか利用する者も無く、厳しい道であった。
しかし今の直也は、少しくらいの険しさは物ともしない。弥生は言うまでもない。それで安房峠を目指すことにした。
峠の麓近く、平湯の出で湯で身体を休めた後、一気に峠道を登りきる二人。
安房峠からは豊富な残雪を頂く白銀の山が見えた。
「すごいな、あの山…」
「うむ、たしか明神岳とか穂高山とか呼ぶ山じゃ」
しばらく峠からの眺めを楽しんだ後、谷へ向けて一気に下っていく。
下った先は沢渡集落、ここにも少しながら湯が湧いているので一夜の宿を取る二人。
露天の風呂で星空を眺めながら直也は、これから訪れようとするまだ見ぬ国々に思いを馳せるのであった。
今回は匠の町高山に因んだ訳でもないんですが、謎解き話です。
暗号、判じ絵、埋蔵金…一度書いてみたかったのですが、難しいですね。挿絵が欲しかったなあと。
作中にも書きましたが、順に見つける必然性が無いと成り立たなかったりします。
難しかったですが謎を考えるのは楽しかったです。いつかまた、もっと洗練した謎を登場させたいものです。
そして明らかになった直也の付加能力。弥生が直也に生命力を戻す時、ちょっとだけ弥生の力が直也に移った、と言う設定です。
だからといって直也が狐火出したり化けたりするわけでもなく、単に今まで見えなかった精霊や妖怪が見えるようになるといった程度です。
それでも、これからの直也にはこの能力が役に立つと共に、物語を拡げてくれると思います。
それでは、次回も読んで頂けたら幸いです。




