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巻の四十五   小鳥峠の主

巻の四十五   小鳥峠の主


 直也と弥生は郡上八幡を後に、飛騨高山を目指しているところ。

 昨夜は荘川村の百姓家で泊めて貰い、今日は小鳥峠おどりとうげを越えて高山への道を歩いている。

 予定を話したら泊めてくれたお百姓は、

「峠越えは厳しいでな、気をつけて行かっしゃい」

 そう言って粟の握り飯まで持たせてくれた。

 礼を言うと共に、心付けを置いてきたが山国の人情に心暖かくなった直也である。


 今や山道の雪もほとんど消え、日陰に残っているばかり。春は山国にも訪れている。

 そんな時、弥生が声を上げた。

「いい匂いがするのう…おお、あれか」

 指差す方を見ると、白い花を付けた木が。周りの木々はまだ芽吹き前なのでよく目立つ。まるで白い小鳥がたくさん留まっているようだ。

「たむしば、と言ったっけな」

 本草学の本を紀州で読みふけった直也は、植物の名前にも詳しくなった。

 花を見、小鳥の声を聞きながら、二人の足取りも軽く、昼過ぎには小鳥峠に着いた。

 峠からは目指す高山の町はおろか、乗鞍岳、双六岳、槍ヶ岳、白山、といった峨々たる山が望まれる。

 直也はその山岳風景にしばし見とれていた。

 一方弥生は、昼飯を食べる場所を物色している。その弥生の目に白いものが映った。

「…直也、こちらへ来い」

 そう手招きする。

「ん?」

 直也がそれに従って付いていくと、

 一面に水芭蕉の咲いている沼地があった。

「すごいな…」

「うむ、見事に咲いたものじゃ。ここで昼飯にしよう」

 そう言うと、倒木に腰を掛ける。直也も隣に座った。包みから粟の握り飯を出して食べる二人。

「これだけの水芭蕉はなかなか見られぬぞ」

「うん、里の裏山にも少しあったけどこの何分の一かだもんなあ」

 そう言う直也の手から、握り飯が一つ転がって沼に落ちた。

「あ、しまった…まあしょうがない。魚に食べて貰おう」

 その握り飯は何かに引かれるように深みへ潜って行き、見えなくなった。

 昼食を食べ終わり、

「さてと、そろそろ出発せぬと日暮れまでに清見村へ着けなくなるぞ」

 そう言って腰を浮かした弥生の目が鋭くなった。

「どうした?弥生」

 直也も身構える。弥生はじっと沼の水面を見つめたまま。

「何か来る」

 鏡のようだった水面に揺らぎが生じたかと思うと、一点から波紋が広がり、そこから現れたのは長い黒髪を垂らした若い女。非常に古めかしい服装をしている。

 水中から現れたというのに水滴一つ滴らせていないその女は、水面を滑るように歩いて直也と弥生の前へと近付いてきた。

「何者じゃ?」

 弥生の問いかけに女は、

「わたくしはこの沼の主で「白露はくろ」と申します。白蛇の精でございます」

「その白蛇が何の用じゃな?」

 弥生はまだ警戒している。

「只今、沼の眷属どもにお恵みを賜りました事のお礼を申し上げると共に、厚かましくもお願いの儀あってまかりこしました次第」

 白露と名乗るその白蛇の精に害意が感じられないので弥生はようやく警戒を解いた。

「握り飯のお礼なんていらないけど、頼み事というのは?」

 直也の問いに対して白露が語ったのは、

「はい、わたくしはこの沼を守護して三百年になります。

 その間、日照りの年も水を枯らさぬよう、また大雨の時は水を溢れさせぬよう尽くしてまいりました。

 ところが先日、北の国を追われたという黒蛇の精がやってきて、休ませてくれと言うのです。

 わたくしは快く受け入れてやりました。

 しかしその黒蛇は次第に本性を現し、沼の眷属を喰い殺し、水源を濁らせ、

 周囲の生き物を呑み込むなど悪事を働くようになりました。

 わたくしがたしなめると、逆にわたくしを脅し、この沼を明け渡せと言うのです。

 それは出来ないと断ると、黒蛇は自分の眷属を呼び、力ずくでこの沼を貰うと言いました…」

「それが本当ならひどい話じゃな」

 白露と名乗った白蛇の精は真剣な顔つきで、

「誓って真実です」

 直也は一つ頷いて、

「それで、頼み事というのは?」

「はい、他でもありません、黒蛇との戦いに加勢して頂きたいのです」

 やはり、という顔で弥生は頷き、

「そうではないかと思った。それで、攻めて来るというのは何時なのじゃ?」

「今夜です」

「今夜…」

 白露は悲しげに微笑んで、

「わたくしの眷属は多くはありません。しかも皆、戦いを知らぬものばかり。かの黒蛇と一戦交えれば全滅するでしょう」

 その白露に直也は、

「白露…さん、その黒蛇、邪悪な玉を持っていませんでしたか?」

 白露は驚いて、

「何故ご存じなんですか?…確かに、木気の眷属は、年を経れば皆、珠を育みます。わたくしは…これ」

 そう言って見せてくれた白露の珠は淡い碧色に輝く澄んだ珠であった。

「かの黒蛇の珠は…一度見たのですが。黒い珠を持っていました。初めてです、黒い珠を持つ蛇は」

 直也と弥生は顔を見合わせた。マーラの呪い玉に間違いなさそうである。

「我々で良ければ、お力をお貸ししましょう」

 直也が言う。

「ありがとうございます!…それでは、刻限まで我が屋敷でお身体を休めて下さいませ」

 そう言うと白露は長い袂を一振り、二振り。すると沼の水が割れて中へと続く回廊が現れた。

「どうぞ」

 先に立って案内する白露。直也がそれに続き、弥生が後ろから付いていく。

 回廊を進むにつれ、水中へと入っていくのだが、水は全く浸入してこない。

 回廊の中からは外を泳ぐ魚が見えている。直也にとっては初めての体験であった。

「開けなさい」

 回廊の突き当たりには立派な扉があって両脇にはそれぞれ赤の衣装と水色の衣装を着た侍女が控えており、扉を開いてくれた。

 中は朱塗りの柱、緑の櫺子れんじ、竜宮を思わせるような造りである。竜族やそれに準ずる者達の嗜好であろうか。

「こちらへどうぞ」

 通された部屋は小広く、直也と弥生はそこにあった長椅子に腰を掛けた。

 座ると同時に先程の侍女がお茶とお茶菓子を持ってやって来る。

「この赤い衣装の者がなぎ、水色の衣装の者がすみです」

 白露が紹介した。

「わたくしの身の回りのことをしてくれています。本日はお二人のお世話をさせますので、何なりとお申し付け下さいませ」

 白露は二人の侍女に細かな指示を与える。

「わたくしは今夜の備えを致しますので」

 そう言って白露は部屋を出て行った。


 残った直也と弥生。お茶を飲みながら直也は、自分の横にいたなぎに、

「白露さんの眷属って他にどのくらいいるんだい?」

 と尋ねた。彼我の戦力を把握する必要がある。

「はい、私たちの他、十名ほどです」

「そんなに少ないのか…」

 するとすみが、

「白露様はお優しく、質素を旨とされておりますから」

「それでは相手の黒蛇の方は?何か知っておるか?」

 弥生が尋ねる。

「ええ、聞いたところでは蜥蜴とかげ守宮やもり等が数百いるのだとか」

「そんな奴が何故北の国を追われたんだろう…」

 それは誰も知らなかった。


 一休みした後、弥生は白露はくろの部屋を訪ねてみた。

 白露は先程の衣装は脱ぎ、白装束に着替えている。白の小袖、白の袴。髪は束ね、白鉢巻きを締めた出で立ち。

「白露殿、よろしいか?」

「あ、霊狐様」

 弥生はちょっと眉を上げ、

「…儂は霊狐ではない。ただの妖狐じゃ。…弥生と呼んでくれ」

 白露はいぶかしむような表情を作ったが、その事については何も言わず、

「弥生様、何か御用でしょうか?」

「うむ、そなたの力を知りたくてな。…そなた、この沼を守護して三百年、と言うたな?」

「はい」

 そこで弥生は一つ溜息をついて、

「…つまりそなたはまだまだ若いという事じゃな」

 そう言われた白露は寂しそうに微笑み、

「はい、まだまだ若輩者にござりまする」

 弥生はそんな白露に微笑みかける。

「心配致すな、黒蛇の相手は儂がする。そなたはこの戦の大将じゃ。安全な場所で見ているがよい」

 白露は驚いた顔で、

「それは出来ませぬ。…加勢頂いた弥生様と…」

「直也じゃ」

「…弥生様と、直也様に危険な真似をさせ、自分だけのうのうとしているわけには…」

「そなたは正直者じゃのう、…じゃがそなた、使えるのは多分…水気の術だけじゃろう?」

 白露は驚いた顔で、

「何故おわかりに?」

 弥生は笑って、

「そなたの珠を見せてもろうたからのう。あの淡い碧色を見ればわかる」

 俯いた白露は、

「…仰せの通り、わたくしは水気しか扱えませぬ」

 深く息をついた弥生は、

「水気では木気を操る黒蛇の敵ではない。無理はせぬ事じゃ」

「しかし、弥生様…」

「大丈夫じゃ。そなたは眷属どもを守ってやるがよい」

 白露は深く頭を下げると、

「はい、…ありがとうございます」

 と礼を言ったのであった。

 

 一方、直也はすみなぎと話をしていた。

「…そうすると、澄さんはヤゴ(トンボの幼虫)、なぎさんは沼エビの精なのか」

 澄が頷いて、

「はい、白露様にお力を分けて頂いて、お仕えしております」

 一方、凪も直也に尋ねる。

「直也様は人間ですよね?」

「ああ、俺は人間だけど」

 すると澄は驚いた顔で、

「えっ、…あの…でも弥生様は霊狐でらっしゃいますよね?」

 直也が聞きとがめた。

「霊狐?」

「はい、すばらしくお強い力をお持ちになった霊狐様とお見受けしました」

 不思議そうな顔をする直也。

「弥生が…霊狐?…本人は妖狐と言っているけど」

 今度は凪が不思議そうな顔をする。

「そんな筈は無いと思いますが…あのお方から感じるのは紛れもない霊気です、妖気ではありません」

 弥生が妖狐ではない…それは直也にとって初耳であった。

 しかし、まずは黒蛇の撃退である。その事は後で確かめようと思い直した直也は懐から翠龍を出すと、刀身を確かめた。

 神刀は青白く輝き、錆び一つ、曇り一つ無い。

 その時白露の声がした。

「そ…それは…!」

 直也は顔を上げてそちらを見る。白露が弥生と共に部屋に入ってきたところであった。

 白露は上気した顔で直也を、いや直也の手元の『翠龍』を見つめている。

「その刀、さぞや由緒ある物でございましょう?…何となれば、凄まじき、けれど優しい波動が伝わってまいります」

 直也は微笑を浮かべ、

「ええ、これは竜神から授かった神刀ですから」

「竜神様から…!…ああ、貴方様達はやはり常のお人ではなかったのですね…」

 そう言ってひざまづく白露。直也は慌てて、

「は、白露…さん?」

 白露は頭を下げたまま、

「竜神様から刀を授かる様な御方、そして大霊狐様。…今日の日にお引き合わせ下さった神仏に感謝致します」

 直也は面食らったまま、

「手を上げて下さい、白露さん。…そろそろ刻限でしょう?」

 弥生は厳しい顔で、

「そうじゃ、直也。お主は白露を守り、後ろに控えておれ。儂が先陣を務める」

 すみなぎが名乗りを上げる。

「弥生様、私たちもお伴します」

 静かに首を振った弥生は、

「いや、そなた達も白露殿をお守りするがよい。考えもある、迎え撃つのは儂一人で沢山じゃ」

 直也は心配そうな顔で、大丈夫なのか、と訪ねるが、弥生は笑って頷くだけ。ただ、

「水中で戦うのは不利じゃ、峠の広いところで迎え撃とう」

 そう言って白露に屋敷を出るように促す。白露は承知したものの、

「はい、でも澄や凪はあまり長く陸上にいることは出来ませぬが。…せいぜい半日が限界でございます」

「なに、心配はいらぬ。一刻以上かかることはあるまい」

 自信たっぷりに言う弥生に元気づけられ、白露は水上への回廊を開いた。

 来た時と逆に歩いて水上、そして沼の岸に上がる直也と弥生。弥生は峠直下の小広くなった草地に出る。

 夕闇の中、辺りを見わたした弥生は、決戦の場所としてここを選んだようだ。

 その隅にあった一丈ほどの大岩を背にして白露を立たせ、両側を澄と凪、前を直也に守らせる。

 次いで草地の周りに青白い狐火を幾つも灯していった。

 そういえばこの狐火は陰火というのだったな、と直也はぼんやりと思っていた。

 それが済むと草地の周りの地面に木の枝を刺していく。刺しながら呪を唱えているようだ。結界を張っているのだろう。

 そして自分は草地の真ん中に立って静かに時を待つのだった。

 

 夜が来た。あたりは数十の狐火のおかげで明るい。その狐火が明るさを増した。

「来たぞ…!」

 弥生の声に身構える直也達。弥生が指差す方向には黒雲が沸き立ち、それが近付いてくるのが見える。

「雲に乗れるとはなかなかの奴じゃ」

 次第に近付く黒雲。中央には黒蛇の化身と思われる女が乗っている。漆黒の鎧に身を固めさながら女武者である。

 そしてそれを取り囲むようにして数百の軍勢が見えた。

 黒雲が峠で止まった。大音声が響く。

「約定通り、沼を戴きに参った。命が惜しくば素直に明け渡せ」

 弥生がそれに応えて、

「非はそちらにある。大人しく立ち去ればよし、さもなくば不本意なれど撃退させて頂く」

「ふん?…狐か。…成る程、加勢を頼んだというわけか。…狐、悪いことは言わぬ、加勢など止めにせい」

 だがそう言われて引く弥生ではない。

「そうはいかぬ。一度約束した事は守る。それ以上に非道は見ていられぬでな」

 黒雲がゆっくりと降りてきた。

「小賢しいことを。…あの世で後悔させてやる」

 軍勢が雲から飛び降り、一斉に飛びかかってきた。

 槍を持ったもの、刀を持ったもの、そもそも人の形をしていないもの、百を越える軍勢が弥生に群がった。

 刀を弾き、槍をかわし、爪を避け、牙を逃れ、…弥生は奮戦している。

 しかし、倒した敵に躓き、体勢が崩れたところに二十体程がとびかかり、弥生の身体すら見えなくなってしまった。

「ふふふ、いくら強かろうと、我の軍勢には敵うまい」

 そう言って大将である黒蛇は手から雷を放つ。

 配下十数名ごと、弥生のいた場所が吹き飛んだ。土塊が舞う。

「弥生様!」

 それを見た白露が叫び声を上げた。

「おや、白露、そこにいたのかい。助っ人に任せて高見の見物とはね。その助っ人もいなくなった今、どうするんだい?」

 弥生のいた場所は深くえぐれ、動くものもいない。そこで配下の軍勢は白露のいる場所へと転じ、白露を狙った。

「直也様、弥生様が…」

 直也は落ち着いて見せて、

「大丈夫、白露さん。弥生はあれしきのことでやられたりしません。今のはきっと得意の幻術です」

 そう言って白露を安心させるが、直也自身、一抹の不安は感じている。しかしそんなことはおくびにも出さず、

「黒蛇、貴様の目的は何だ?」

 そう尋ねる。黒蛇はそれに対し、

「知れたこと。この沼の支配」

 直也は、

「それだけじゃないだろう?…おそらくは水源一帯の支配。そして麓の住民を苦しめ、一揆でも起こさせる気じゃないのか?」

 黒蛇は笑って、

「ふ、ふふふふふ…その通りだ。よくわかってるじゃないか。お前。人間だね?…手始めにお前の血でこの沼を赤く染めてやろうじゃないか」

 そう言うと軍勢は直也を目指して攻め寄せてきた。

 その槍を直也が脇差しで弾いた瞬間、

「禁!」

 弥生の声が響いた。

 それと共に軍勢の形が崩れていく。みるみるうちに軍勢はただの紙を切り抜いたものとなってしまった。

「な…!…これは…!!」

「術の解析に手間取ったがの。紙の軍勢じゃったか。道理で雲に乗れた訳じゃ。…黒蛇、お前の術は打ち消した。もはや頼りとする軍勢はおらぬ。速やかに立ち去れ」

 弥生が笑みを浮かべて黒蛇の前に歩み出て来た。

「ふ…さすがに金気の獣よ、狐、みごとだと褒めてやろう。…しかし我の術はこれだけではないぞ!」

 そう言うと黒雲から飛び降り、指を天に向け、振り回しはじめた。

 それにつれて黒雲が辺りを覆い出し、やがて弥生の灯した青白い狐火の灯りも見えない真の闇となってしまった。

「我はこの闇でも良く見える。ふふふ、狐、覚悟!」

 そう言って蛇体を顕した。それは直径が二尺、体長十丈もある大蛇であった。

 一瞬で弥生の身体を巻き込み、締め付ける。しかし弥生はなにも感じていないようだ。

「しぶとい狐め。…これでどうだ!」

 弥生を頭から呑み込む大黒蛇。頭が、胸が、腰が呑み込まれていき、そして足の先が黒蛇の口に消えた。

「金気が少々消化に悪そうだが、それも時間の問題。さて、次は人間と白露だね」

 鎌首をもたげ、あたりを見回す。その目が見開かれた。

 黒蛇の目の前に立ち、薄ら笑いを浮かべているのは、たった今呑み込んだはずの弥生であった。

 その弥生が風天真言を唱える。

「ナウマク サマンダボダナン バヤベイ ソワカ!」

 旋風が巻き起こり、黒雲は吹き払われた。再びあたりは狐火に照らされた薄闇となる。

「ふふふ、貴様が呑み込んだのは儂の刀じゃ。

 金気の王たる鉄(鉄の旧体字鐵は「金の王なる哉」と書く:作者注)を呑み込んだからには貴様はもうお終いじゃ」

 そう言って印を結び、再び真言を唱える。

「オンバザラヤキシャ…ウン!」

 金剛夜叉明王真言。その金剛杵こんごうしょの威をもって魔を調伏する明王である。

 弥生は自らの守り刀を分身として黒蛇に呑み込ませ、内側から攻めている。

 これは硬い鱗をもつ鱗虫には効果的な戦術である。

「う…ぎゃあああああああっ!!」

 黒蛇はのたうち回り、口から血を吐いた。更に弥生は真言を合計四十九回称え続ける。

 弥生が呪を唱えるのを止めると、黒蛇はぐったり横たわり,腹を見せて長々と横たわった。

 その喉元に黒い珠が見える。弥生は直也の方をちらと見た。

 直也も心得た物で、すぐさま翠龍を持ってやって来る。そして翠龍を振りかざし…

 その手が止まった。弥生が尋ねる。

「どうした、直也?」

「弥生、これは呪い玉なのか?」

「何じゃと?」

 直也の言葉に、弥生もその珠を覗き込む。

 確かに、今まで見てきた呪い玉とは様子が違うようだ。色が黒いだけで、中で蠢く煙のような物が無い。

「うむ…確かにのう」

 弥生は指でその珠に触れてみる。目を閉じ、何かを探っているようだ。

「わかった」

 しばらくの後、眼を開いた弥生は、

「これは元々こやつが持っている珠じゃ。ただし、邪な力に汚されておる。浄化してやれば元の色に戻るじゃろう」

 それはすなわち、マーラの呪いから解放されて本来あるべき姿に戻ると言うこと。

「うっかり斬り割ってしまえば、この黒蛇は消滅してしまうところであったのう」

 それは直也、弥生の本意ではない。しかし、浄化の方法は?…妖力では妖気の浄化は出来ない。

「…どうすればいいじゃろうか」

 流石の弥生も考えあぐねている。

「あの、弥生様」

 そんな弥生に声を掛けたのは、白露であった。

「弥生様にはお出来になるはずです。弥生様ほどの霊力でお出来にならない筈はありません」

「じゃから儂は妖狐じゃと何度言えば…」

 しかし白露はそんな弥生の言を遮って、

「いいえ、弥生様は霊狐でらっしゃいます。それが証拠に、先程真言を唱えた時のお力は霊力でした」

「何…」

 一瞬考え込んだ弥生であったが、確かに、真言を称えたにもかかわらず消耗していないのは事実。

 だが、今はあれこれ詮索している時ではないと考え直し、論より証拠、浄化を行ってみることにした。

 弥生にとって、天狐を目指していた時に学んだものの、ここ数百年使ったことの無い術式。

 マーラの不倶戴天の敵、すなわち如来の教え、その要諦。

「オンアボキャベイロシャノゥ…マカボダラマニハドマジンバラ…ハラバリタヤ…ウン!」

 印を組み、唱えるは光明真言。その詠唱が終わると共に、黒かった珠から次第に色が抜け、深緑色の珠に変化した。

 同時に黒かった大蛇が青い色に変わる。大蛇の正体は年経た青大将であった。

「さて、貴様は何故この様な真似をしたのじゃ?」

 弥生が尋ねる。いまだ弥生の分身たる刀が体内にある以上、大蛇は迂闊に動くことも出来ない。苦しげな声で語ったのは、

「…人間が…」

「なに?」

「…人間が、私の住処である沼を埋め立て、一族郎党、眷属を皆殺しにした。その意趣返しだ…」

 その大蛇に対して白露は、

「逆恨みも甚だしい。…そなた、そのために人間も人間以外のものも見境無く殺害していたではないか」

「…お前などに分からぬ。…私とて、沼を代々守ってきたのだ。…それを人間どもは自分たちの都合で埋め立てよった…」

「だからと言って殺生をして良いと言うことにはならぬぞ」

「…ふん、力のあるものが弱いものを喰らうのはこの世の摂理だ」

「喰らうのが悪いと言っているのではない。無益な殺生をしたと言っているのだ」

 直也はそんな言い合う間に割って入った。手で白露を制する。

「直也様?」

 その直也は青大将に向き直り、

「澄まなかったなあ。…でも人間だって、同じ人間からいじめられているんだよ。一所懸命作った作物の大半を年貢に持って行かれて、…食うや食わずの生活を強いられて。少しでも田畑を増やそうとしたんだと思う。…だからと言ってお前の一族を滅ぼしたことを正当化する気はないけどな」

 直也は青大将に向かって手を付いて謝る。

「俺なんかが謝って済む事じゃないけれど…悪かったなぁ…」

 青大将は一言も言わずに直也のことを見つめていたが、

「…あんたに謝って貰ったって一族のものが生き返るわけじゃなし。…もういいよ」

 そうぽつりと言った。

 その目から怨みの色が消えているのを見た弥生は、呪を唱える。

「う、うげえぇぇっ…」

 青大将が苦しみ出した。

「弥生!?」

「あわてるでない、直也。こやつの身体から刀を取り出すだけじゃ」

「げほっ…」

 大蛇の口から刀が取り出される。弥生はそれを清水で雪ぐと鞘に収めた。

 一方大蛇はとぐろを巻いたかと思うと、たちまちに人型に変化する。

 邪気が抜けたため、先程の禍々しさはない。白露と同じくらいの年格好に見える。

「直也さん、と言ったっけ。…あんたに謝って貰って、胸のつかえが少し取れたよ」

 寂しそうに微笑む。

「一部を見て全部を知ったつもりになっちゃいけないんだね。…人間にもいろいろあるということがわかっただけでも嬉しいよ」

 そう言うと白露の前に正座した。

「何はともあれ、あたしは負けたんだ。…好きにするがいいさ」

 そんな、元の黒蛇、いまは青大将の化身、を見下ろして白露は、

「…弥生様にお任せします。わたくしは何もしておりませぬ。全て弥生様の判断に従います」

 そう言われた弥生は直也を見ると、

「直也、お主ならどうする? 儂はお主の従者、お主に従おうと思う」

 そう尋ねた。

 正直、弥生は同じような境遇にあるこの青大将を自分が裁くことなど出来ないと感じていたのだ。

 親しい者達を人間に奪われ、その意趣返しにマーラと手を組み、多くの命を奪ってきた。

 まるで自分を見ているようだったのだ。

 直也はそんな青大将の化けた女を見て考え込んでいたがやがて口を開いた。

「お前の犯した罪はこの世界では死罪に相当するだろう」

 女は神妙に聞いている。弥生も眼を瞑って聞いている。確かに、自分は一度は退治されたのだった…。

 直也は続ける。

「その罪の大半はマーラによるものだ。だが、それを差し引いてもやはりお前は罪を背負っている」

 弥生は、直也がどう裁決を下すのか、自分の身に置き換えながら聞いている。

「それはこの世界にいる限りついて回る。だから」

 弥生ははっとした。直也の考えがわかったのだ。

「お前はこの世界の住人でなくなればいい」

 女はそれに対して、

「回りくどい言い方しなくていいよ。この世界からいなくなるには死ななきゃならない。…やるんなら早くやっとくれ」

 直也は微笑んで、

「実はもう一つ手があるんだ。お前を「隠れ里」の住人として認めれば、な」

 女は顔を上げると、

「隠れ里?…話には聞いたことがあるけどね。そんな夢物語なんて語られても…」

 そんな女に弥生は、

「夢物語ではない。この直也は、隠れ里の次期当主になるべき男じゃ。その当主が認めれば、お前は里の住人になれる」

 女は目を見張って、

「本当に?…あんた…いや、直也様、…あたしを住人として認めてくれるの?」

 直也は笑って、

「まだ当主になってないから仮約束だけどな」

 女は、

「それでもいい。…あたしの名前は浅茅あさじ。…たった今から、直也様にお仕え致します」

 そして直也の耳元に口を寄せると、何事かを囁いた。

「…あたしの真名です」

 そして弥生に向かい、

「弥生様、直也様が里に戻られるその日まで、あたしを封印して下さい」

 そう言って深緑の珠を差し出した。

 弥生は少し困った顔で、

「封印は霊狐にしか…」

 そう言いかけた口を閉じた。先程も霊狐にしか使えない術を使ったではないか。

「わかった。直也、それで良いのじゃな?」

「頼む、弥生」

「よし、それではやってみる」

 弥生は印を組むと真言を唱え始めた。

「オン…アミリテイ…ウン…ハッタ」

 真言を唱え終わると、浅茅あさじの姿は吸い込まれるようにして珠に消えていった。

「…ふう」

 深く息をする弥生。

「御苦労さん、弥生」

 浅茅あさじを封じた珠を懐に収めた直也がねぎらいの言葉をかける。白露も、

「弥生様、直也様、ありがとうございました」

 そう言って深々と頭を下げたのだった。そして、

「まだ夜明けまでは時がございます。どうか我が館にて休息していって下さいませ」

 そう言って沼に向かって袂を振った。

 現れた回廊を、先に立って案内していく。直也、弥生とそれに続き、しんがりはなぎすみが務める。

 館に戻ると、さっそく湯殿が支度され、直也と弥生はそれぞれ汗を流す。

 風呂から上がってくれば、冷たい酒、温かい料理が用意され、それを飲み食べているうちに床が用意される。

 澄と凪は分担して手際よく行っていた。

 風呂で温まり、酒食でくつろいだ二人は用意された柔らかな布団でぐっすりと休んだのである。

 

 翌朝、白露の心尽くしの膳が並ぶ。その席で白露は、

「ただの御方達では無いと思っておりましたが、まさか隠れ里の次期当主様ご一行とは思いませなんだ」

 そう言って再度頭を下げた。直也はそんな白露に、

「やめてくださいよ、次期当主と言ったって何も特別な訳じゃない。お役に立てたならそれでいいんです」

 弥生も同様に、

「直也の言う通りじゃ。付け加えるなら、「マーラ」、奴の陰謀は目にしたなら可能な限り潰していかねば、この日の本に暗黒がもたらされよう」

 それを聞いた白露は、

「はい、肝に銘じておきます」

 更に弥生は、

「うむ、じゃがな、マーラの力は強大じゃ。下手に手を出すと取り込まれてしまいかねん。気をつけるのじゃぞ。この地であれば、高山の山王権現様にお伝えするのが一番いいと思う」

「そうですね、そう致します」

 白露は素直に弥生の言に従う事にした。そして、一つの決意を口にする。

「この沼もいつまでもこのままでいるとは限りません。でも仮に人間に埋め立てられる日が来たなら、甘んじて受けようと思います。それが今回わたくしが受けたご恩をお返しすること。お二方がいらっしゃらなければとうの昔にわたくしはこの世から消えていたでしょうから」

 そんな白露に向かって直也は、

「白露さん、そんな日が来たら、俺たちに知らせて下さい。白露さんも、白露さんの眷属達も皆、里で受け入れますから」

 白露は感激した顔で、

「直也様…ありがとうございます」

 深々と頭を下げたのであった。

 そんな白露に弥生は自分の髪を一本手渡す。

「何かあったらこの髪を切ると良い。そうしたら儂はすぐに飛んできてやる」

「はい、弥生様、ありがとうございます…」


 そんな朝餉の後、白露は二人を沼の上へと送り出した。

「お名残惜しゅうございますが、これにて失礼致します。どうか道中ご無事で」

「世話になった、白露殿。そなたも息災で」

「白露さん、沼を守っていって下さい」

 白露は静かに水中へと消えていった。そして直也と弥生は高山へと向けて歩き出す。

 道々弥生は直也に、

「直也、昨夜は立派じゃったな、次期当主としての自覚が出て来たと見える」

 そう言って褒めた。直也は頭を掻いて、

「うん、なんとなく、これからの里は、この世界で受け入れられない人や物達を受け入れなければいけないんじゃないか、そんな気がするんだ」

「ふむ?…そうかも知れんのう。…思えば儂もこの世界からはじき出されたようなものじゃ」

 直也は笑いながら、

「弥生だって、いつの間にか霊狐になっていたじゃないか。俺も気が付かなかったよ」

「…そう言われてみると、霊気が感じられる。…じゃが、同時に妖力も使えるのじゃ」

 直也は驚いて、

「それってもしかしてすごいことなんじゃないのか?」

「うむ。儂も、霊力と妖力の両方を使える狐なんぞ見たことも聞いたこともない。…じゃから霊力が使えることに気が付かなかったのじゃ」

「じゃあ弥生って妖狐でもあり、霊狐でもあるって事か」

 弥生は空を仰いで、

「…儂は妖狐のままでよい。霊狐になりたいとは思わぬ。霊力の使える妖狐、それでよいと思っておる」

 そんな弥生に向かって直也は、

「うん、弥生が妖狐だろうが霊狐だろうが俺は弥生が好きだぜ」

 そう言って顔を少し赤らめた。

「莫迦目」

 ぶっきらぼうにそう答える弥生の顔も赤くなっていた。

 そんな二人の頬を、めっきり春めいた風が優しく撫でて通り過ぎていった。

 今回は二つの転機点がありました。直也が隠れ里の存在意義を自覚し始めたこと、そして弥生が霊力に気付いたことです。

 隠れ里の成り立ちや行き方などは話の中でこれから語られることでしょう。

 そして弥生は自ら犯した罪の意識を持っているため、無意識に霊狐になることを拒んでいた節があります。なので自ら「霊力の使える妖狐」で良いと言っています。(そうでないとタイトルが「旅空霊狐絵巻」になってしまいますしね…笑)

 


 お知らせです。

 話も中盤に差し掛かりましたが、この辺で少し更新をお休みさせていただきます。週末か日曜頃再開予定です。

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