巻の四十三 小鍛治(前)
巻の四十三 小鍛治
奥美濃国、郡上八幡。
遠藤氏が治めるこの地は、寛文七年(1667)に大火に見舞われ、その後の復興時に道の両側に水路を設けたという珍しい造りの町である。
その郡上八幡を目指して山道を下ってきた直也と弥生であった。
「もう少しで郡上八幡が見えるぞ、直也」
「ああ、…少しくたびれたな、ちょっと休まないか?」
「よかろう。ここまで来ればもう間違いないからのう」
道端の切り株に腰掛けて休む二人。直也が何か手に持っている。
「直也、何じゃ? 手に持っているのは」
直也は手にした木の枝を弥生に見せて、
「くろもじの枝だよ。爪楊枝作るといい匂いだぞ」
道中で採ってきたらしい。くろもじは落葉低木である。その材を削ると芳香がするので、茶事の爪楊枝などに使われている。
「ちょっと削ってみようか」
懐から翠龍を出し、枝を削る直也。
「うーん、やっぱりいい匂いだ」
「儂の所まで匂ってくるわい。…それはいいが、直也、翠龍をそんなことに使いおって…」
直也は苦笑して、
「うん…俺もそう思ったんだけど、道中差し使おうにも長すぎるしな…」
「そうじゃのう…汎用の短刀が欲しい所じゃのう」
「これ使えないかな?」
そう言って直也は振り分けの荷物から、折れた道中差しを取り出した。
「直也…まだそれを持っていたのか」
「母さんから貰った刀だ、捨てるにしのびなくてさ」
弥生はちょっと考えると、
「うむ、それならどこかの鍛冶に再刃してもらうとするか」
「再刃?」
「そうじゃ。一度焼きを鈍してから形を整え、再度焼きを入れて短刀にしてもらうのじゃ」
「そうか、それならいいな」
「じゃが、腕のいい鍛冶屋は頑固じゃからのう。自分の鍛えた刀ではないのに引き受けてくれるかどうか」
「腕の悪い鍛冶屋には任せたくないな」
「まあ郡上八幡は城下町じゃ。鍛冶屋も多く居よう。探してみるとしようぞ」
それで二人は再度歩き出した。眼下に町が見えてくる。
歩きながら弥生は、
「腕の良い鍛冶屋が居たら、儂も一振り短刀を打って貰いたいものじゃのう」
「弥生も刀が欲しいのか?」
「うむ、女持ちの護身用短刀を、の」
「そんなもん無くても弥生は十分…」
弥生は首を振って、
「狐は金気の獣じゃからな。それに古来、狐と刀は縁が深いのじゃよ」
「へえ…良かったら話してくれないか?」
弥生は微笑んで、
「直也、最近は勉強熱心じゃのう、以前のお主ならそんな事は言い出さなかったものを」
「そうだな、やっぱり旅をしているからかな、今は知ることが出来る者なら何でも知りたいと思ってる」
「良い事じゃ。儂の知っている限りは教えてやろう」
そう言って弥生は話し始めた。
* * *
…儂がまだ天狐になる修行をしていた頃じゃ。
一条帝の御代、京の三条に一人の小鍛治が住んでおった。名は宗近。今に名を残す三条小鍛治宗近じゃ。
ある時、一条帝から勅命が下された。国家鎮護の太刀を打て、と言うのじゃ。宗近はその大役を引き受けはしたものの、重圧に耐えかね、伏見稲荷に祈誓した。
するとある夜、不思議な童子が現れて、大丈夫打てる、と宗近を励まし、古今の名刀の話をして聞かせた。
そしてそれに力を得た宗近が仕事場に注連縄を張り、神々に祈って仕事を始めたところ、伏見稲荷の使いの狐が現れ、相槌を打ってくれたという。
そうして出来上がったのが名刀「小狐丸」じゃ…。
* * *
「…そんな逸話があるとは知らなかったよ」
「当時、儂は間近でその一部始終を見る機会があったからの」
「弥生が名刀を欲しがるわけが少しわかった気がする。…でも何で今頃?…里の鍛冶に打って貰えば良かったじゃないか」
「お主が翠龍を持っているのを見て儂も欲しくなったのじゃ」
「そういうものかな」
「そういうものじゃ」
そんな話をしている最中、弥生が
「ん?」
と言って立ち止まった。小さな川にかかる橋の上である。河原を見下ろす弥生。
直也も下を見たが、何も変わったものは見えない。弥生の目でなければ見つけられないのだろう。
「どうした? 弥生」
「何か落ちておる」
そう言って弥生は橋の下へ飛び降り、河原から何かを拾い上げると瞬く間に橋の上へと跳び上がってきた。
手にしたものを見ると財布である。何か持ち主を知る手がかりは無いかと中を検めてみると、小判で十両、それに何やら書き付けが入っていた。
「証文のようじゃのう…けら十貫目、づく五貫目、おろしがね五貫目…鉄の買い付けの証文じゃな」
「注文主は?」
「まあ待て待て…ええと、郡上八幡薬師堂下、鍛冶むねやす」
「薬師堂下、か。届けて上げよう。その人の腕が良かったら併せて刀のことも相談してみようじゃないか」
「そうじゃな」
そう言って二人は郡上八幡へ。長良川に沿って続く街道に出、少し行くと町外れに出た。
ちょうど通りかかった地元のお百姓に聞くと、薬師堂はもうすぐこの先、確かに鍛冶屋もあるようだ。
程なく二人は鍛冶屋の仕事場へやって来た。
「ごめん下さい」
直也が声をかけると、
「はーい」
奥から若い女が出て来た。
「どちらさまでしょう」
「あの、こちらは鍛冶師のむねやすさんですよね?」
「はい、そうですが…」
「旅の者ですが、道中これを拾いましたので」
財布を差し出す。
「これは!!」
女がびっくりしてそれを受け取り、奥へ声をかける。
「お前さん! お金と証文が!」
女は鍛冶屋の女房らしい。
「何だって!」
金槌を片手に飛んで出て来た男がむねやすか。
「こちらの方が拾って下すって…」
女房が説明する。
「失礼とは思いましたが、開けてみればこちらの名前がありましたのでお持ちしたんです」
「ありがとうございます!…どこで落としたのか、もう半分諦めていたんですが、これで奉納刀を打つことが出来ます!」
額を擦りつけるばかりに頭を下げ、何度も何度も礼を言うむねやすであった。
「あの、旅の方とおっしゃいましたが、今宵のお宿は…?」
「まだ決めていませんが…」
直也が言うと、
「それでは、何のおもてなしも出来ませんが、どうぞ私どもへお泊まり下さい。もう外は暗くなってきましたし。ねえ、お前さん」
「ああ、そうだな。…お礼もせずにお帰し申し上げるわけにはいきません。是非お泊まり下さい」
その言葉に甘えて、泊めて貰うことにした二人であった。
「こんなものしか出来ませんが…」
そう言って、芋粥をよそってくれる。
「いえいえ、旅を続けている身、おもてなしは身に染みて有難いです」
ここのところろくなものを口にしていない二人、温かい芋粥と漬け物、そして囲炉裏の火は何よりの御馳走であった。
「鍛冶屋ですから、火種には事欠きませんでね」
そう言って笑うむねやす。
食事の後、弥生は形を正して、
「申し遅れましたが、この者は直也、儂は後見人の弥生と申します」
「これは御丁寧に。私は小鍛治宗安、これは妻のお市です」
「直也さんと弥生さんは何で旅を?」
茶を淹れてくれたお市が尋ねてくる。
「見聞を広めるためです」
「そうですか、この郡上八幡へは何か目的が?」
「特に目的と言うほどではないのですが…」
言い淀む直也。それを引き継いで弥生が、
「実は、直也の母者から貰った刀が有ったのじゃが、道中ちょっとした事で折ってしまいましてのう…」
「折った?刀を?」
「…はい、それで、そのまま捨て置くには惜しいので、短刀にでも作り直して貰えないかと、鍛冶師を探しておりました次第」
宗安は頷いて、
「なるほど、知り合ったのも何かの縁、よろしければその折れた刀というのをお見せ願えませんか?」
「直也」
弥生に促され、荷物の中から折れた道中差しを取り出す直也。それを宗安に見せる。
受け取った宗安は、
「これは…!…何と見事な…板目肌といい匂い出来といい…これが折れるとは信じられません」
「どうでしょう、お願い出来ますか」
「未熟なれど精一杯やってみましょう。…幸い、注文した鉄が届くまでまだ二、三日かかりそうだ。さっそく今日から始めましょう」
そう言って仕事場へ向かう宗安。それを見た直也は、
「今からなんて…ご迷惑ではなかったですか」
「いえ、まずは焼きを鈍さなくてはなりません。それには一晩かかりますので、今始めるのがいいのですよ」
そう言って火床に炭を継ぎ足し、ふいごを押す。たちまちに青い火が燃え上がる。
そこへ火鋏で掴んだ刀を入れ、熱すること小半刻、柑子色になったところで灰の中に突っ込んだ。
「これで良し、明日朝には冷めているでしょう」
そう言って宗安は戻ってきた。
「かたじけない」
弥生は頭を下げ、
「あつかましいようですがもう一つ、お願いの儀があります」
「何でしょう、おっしゃって下さい」
笑ってそれを受ける宗安。
「儂の守り短刀を一振り、打っていただきたい。もちろん代金は払います」
宗安は、
「お金はいただけません。…その代わり…もし出来るなら、あの折れた刀の切っ先でも残っていたら譲り受けたいのですが…」
直也はすぐさま荷物から取り出した。
「これで良ければ」
宗安はそれを押し頂くと、
「有難い…!これを戴けるならもうそれで十分、喜んで打たせていただきましょう。…ただ、まだ鉄が届かないので、届いてからと言うことになりますが…」
「もちろん構いませぬ。それまで宿に泊まって待っておりますゆえ」
「宿にお泊まりする必要ありませんわ。こんなあばら家でよろしければ何日でもお泊まり下さいませ」
お市がそう言ってくれたので弥生は、
「それではお言葉に甘えて。…これは些少ですがその間の宿賃ということで」
自分の持ち分の一両を差し出す。しかし宗安もお市もそれを拒んだ。
「受け取るわけにはまいりません」
「それではこちらの気持ちが...そうじゃ、では多少なりとお手伝いさせていただきましょう、のう直也?」
直也は頷いて、
「ああ、そうだな、弥生。…宗安さん、お市さん、お世話になっている間、出来るだけのお手伝いをさせていただきますよ」
「そんな、お客様に…」
「いや、こちらとしても良い仕事をしていただくためですから」
そう言うと宗安もお市もそれ以上は拒むことなく頷いてくれた。
それからは直也達が旅の話を、宗安達は郡上八幡の話を、それぞれ語って聞かせ、夜は更けていった。
翌日。
朝食の後、宗安は直也の刀の打ち直しに取りかかった。
焼きの鈍った刀をやすりとせんで削り、形を整える。更に火床に入れて赤らめ、槌で叩いて切っ先を形作っていった。
その手際のよさに直也も弥生も感心していた。特に弥生は、自分の目が確かだったことに満足した。
そして焼き入れ、焼き戻し。『鍛冶押し』と言われる鍛冶師が行う荒研ぎを行うと、刀の出来がわかる。
出来上がった短刀は見事に再刃されていた。
「お見事じゃ、宗安殿」
弥生の褒詞。直也も大事な道中差しが短刀に生まれ変わったのを見て嬉しそうである。
「鞘はいかがいたしましょう?…白鞘でよければ妻が整えられますが」
お市は白鞘造りが出来るらしい。
「それは有難い。激しい使い方はする気はないので、それで結構です」
そう言うと、宗安はお市を呼んで、白鞘を作るように、と言いつけた。
お市は直也に、
「直也さん、この先、拵えを作るおつもりですか?」
と尋ねる。直也は、
「いえ、そのまま使おうかと…」
するとお市は、
「そうですか、それでしたら柄は丈夫な木を使いましょう」
と言って、材料を物色しに納屋へ入っていった。
白鞘というのは普段刀を保存する目的で用意され、刀を傷つけないよう、軟らかい朴の木が使われる。
今回、直也は白鞘のまま使うというので、柄だけはもっと堅い木を使おうと言うわけだ。
納屋から戻ってきたお市は、鞘にする朴の木の板と、柄にする桜の木を持っていた。
桜はかなり硬い材で、柄にはもってこいである。
お市は小さい鋸や鑿、彫刻刀を巧みに使い分け、半日で鞘と柄を作り上げた。
それを手にした直也は、
「手に馴染む感じがする…お市さん、ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
お市は直也の手を見ただけで、ちょうど握り心地の良い太さに柄を仕上げていたのだ。
「良かったのう、直也」
「うん、これで母さんから貰った刀を無駄にしないで済んだよ」
そんなことを話していると、
「むねさん、いっかねー」
外から誰かやって来たようだ。
「あら、おなつさん、どうしました?」
「ああ、お市さん、実は鍋の底に穴があいちまってね、直して貰おうと思って」
「ちょっと待って下さい…あんたー、ちょっと!」
その声に宗安がやってくる。お市とおなつは鍋を見せる。宗安は心得た顔で、
「おなつさん、まかしといて下さい」
そう言って鍋を抱え仕事場に行った。
「まさか…」
弥生がその後を追った。
宗安は鍋を持ってくると、磨き砂で穴の周辺を磨いた後、何やら金属片を持ってくると穴に当て、叩き始めた。
金属片は叩かれて伸び、鍋の底に貼り付く。
そこへ別の金属片を当てがい、鍋を火にかざして炙ると、後から当てた金属片は融け、穴はきれいに塞がった。
「これは…」
見ていた弥生は驚いた。最初に当てた金属片は軟鉄、後から当てた金属片はおそらく真鍮。
つまり現代で言うロウ付けを宗安は行った訳だが、この技法を使えるのは鍛冶屋というより錺職である。
おそらく宗安は、いやこの鍛冶屋夫婦は、金属や刃物に関する事なら一通り何でもこなす多才な職人らしかった。
名人と言われる人々は一つの技術を極めた者と思われがちだがそうではない。
日本一の山、富士山の裾野が広大なように、広範な知識や技能に裏付けされてこその技術であると弥生は思っている。
故にこの宗安を更に見直した弥生であった。
それ以上に驚いたのは、普通刀鍛冶は刀しか打たないものなのに、宗安は鍬や鋤、鎌、包丁等をも打ち、鍋釜の修理までやっていること。
その事をお市に言うと、
「…あの人は他人様のためになりたいと常日頃言っていますから」
と答えが返ってきて、弥生はこの宗安という刀鍛冶が気に入ったのだった。
直也の短刀が完成した翌日、二人は郡上八幡の町を見に行くことにした。
宗安に限らず、鍛冶屋は火を使う関係で火事予防のため、町中に居を構えることは出来ない。小川などに近い町外れがその住居になるのが普通だ。
宗安のいる薬師堂下は郡上八幡の南の外れ、城は北外れ。結構距離があるが、旅慣れた直也には苦にならない。
宗安宅を出てすぐ、弥生が直也に提案を持ちかけた。
「直也、儂は一応刀商を下見しようと思う」
「いいんじゃないか? 何か問題でも?」
「町人の格好では軽く見られる。故に儂は武家の奥方に化ける。お主にはその伴の侍に扮して貰いたいのじゃ」
そう言って身体を震わせる弥生。
おこそ頭巾、というのだろうか、青紫の布で頭を包み、品の良い着物を身に纏っている。顔も少し年上に見えるから大した物だ。
「次は直也じゃ」
そう言って直也に向けて手をかざす。
すると直也の着ている物は武士の物となり、髷も月代をきれいに剃った若侍姿にと変化した。
「ほう…」
自分で化けさせておきながら、直也の侍姿に感心する弥生。
「何だよ」
「…なかなか似合うと思ってのう…良い男ぶりじゃ」
直也は赤面して、
「な、何だよ…からかうなよ」
「ふふ、からかってなぞおらぬ。いつの間にかお主も成長したのじゃな…」
改めて見ると、直也の身長は既に弥生を越えていた。
「旅を始めた頃は儂より小さかったのにのう…」
そんな感慨を憶えていた弥生は、それを振り切るように、
「さて直也、今回はお主はどこぞの武家の奥方である儂の護衛と言うことにする。あまり口はきかんでよいが、儂を呼ぶ時は『奥方様』と呼ぶのじゃぞ?」
「わかったよ、『奥方様』」
それで二人は連れ立って町へと歩いていった。
郡上八幡、冒頭で述べたように、寛文七年の大火を教訓に、主な道の両側に水路を設けた造りである。
その通りを歩いていく二人。
「ほほう、なかなかのものじゃ…おお、あそこに刀商があるな、構えも大きい。あそこに寄ってみるぞ」
そう言って弥生はその刀商に入っていく。屋号は『山城屋』。間口の大きな店である。
「いらっしゃいませ」
弥生の出で立ちを一目見て上客と判断したのだろう、大番頭らしき男が応対に出て来た。
「娘のために嫁入り短刀を誂えたいのじゃが、良いのはありますか」
嫁入り短刀。主に武家の娘が嫁入りする時に持たせる物で、乱れない真っ直ぐな刃文、切っ先も返りの無い刃文を持つ。
「…申し訳ありません、それは注文打ちとなっております」
「そうでしょうね。…お勧めの刀鍛冶は誰でしょう?…参考に短刀を見せて貰えませぬか」
大番頭はかしこまりました、と答えて奥へ引っ込むと、何振りか短刀を持って戻ってきた。
「このあたりが名工と言われる鍛冶師の作ですが」
「ふむ」
弥生は並べられた四振りの短刀をそっと抜き、順に眺めて行った。
「お気に召した鍛冶師はおりますか?」
弥生は考える風で、
「皆なかなかの出来、甲乙付けがたい」
「そうですか。…よいことがございます。近々、城下で刀鍛冶の腕比べとも申すべき、奉納刀の審査が開かれます。その結果を見てお決めになったらいかがでしょう」
「おお、それは良き考えですね、…今日は造作をかけました。注文の時はまたまいります」
「どうぞお引き立ての程を」
店を出た直也と弥生。人気のない所まで来ると直也が口を開いた。
「弥生、どうだった?」
「…ふん、ろくな鍛冶はおらぬ。宗安が一番じゃ。やはり儂の目に狂いはなかった」
名工と言われる刀鍛冶達でも弥生の目がねに適わなかったらしい。
そのままの格好で郡上八幡の町を見物する二人。弥生は武家の奥方、直也は伴の若侍。
それは単に弥生が直也のその姿をしばらく見ていたかったというのがその理由なのだが。
城の近く、御神刀の奉納祭が行われるという八幡社まで来た時、弥生が聞き耳を立てた。
直也には何も聞こえないが、弥生の聴覚は人間の比ではない。頭巾の下で狐耳を出したようである。
その弥生は直也に手振りで気配を消すように指示すると、社の裏手へと廻っていく。
そこまで行くと直也にも声が聞こえてきた。
杉の大木の陰に隠れ、やりとりを伺う。
「では、来たる奉納祭にはよろしくお願い致しまする」
「任せておけ。どうせ奉納刀なぞ飾りじゃ、誰の刀が選ばれようとわしは構わぬ。貴様を選ぶのに何も問題はない」
話しぶりからして鍛冶屋のようである。もう一人は身分の高そうな武士。
「では、これをお納め下さい」
鍛冶屋の方が、武士の袂に何やら落とし込んだ。察するに賄賂であろう。
「あやつ…金で奉納刀を選ぶというのか」
弥生の目が険しくなる。
その時、直也の足元に野良犬がやって来て吠え立てた。
「何者!?」
武士が二人に気付いた。
「そこで何をしている?…まさか今の話を聞いていたのか」
弥生はこれまでと、
「聞いていたとも。神に捧げる神刀を金で選ぶなど、正に神をも恐れぬ振る舞い、神罰があろうぞ」
「ふん、どこの妻女か知らぬが聞いた風な口を叩きおって。…出会え、出会え!」
その呼び声に、武士の警護の侍達が集まってきた。ざっと十人。
「この者達を斬り捨てよ」
直也は弥生をかばい、大刀を抜く。その直也に向かって弥生が、
「いかん、直也、駄目じゃ、立ち向かってはいかん!」
「…え?」
弥生の声も一瞬遅かった。
直也は抜いた刀で、斬りかかってきた侍を払いのけたところである。
火花が散り、直也の持っていた刀が消え失せた。
「…な…」
侍姿は弥生の術である。元々持っていなかった大刀も、弥生が金気を集めて創り出した物。
どうせ飾りで良いと、たいして固めなかったのであっさり消滅してしまったわけだ。
今日は見物なので本来持っている筈の脇差しも無い。あるのは懐の翠龍だけ。仕方なく、直也は翠龍に手を掛けた。
「待て待て直也、翠龍は使わんで良い」
そう言った弥生は、自分に斬りつけてきた侍の斬撃をかわしざま、脇の下に肘鉄を喰らわせた。
「ぐっ…」
気絶する侍。その手から大刀を奪い、直也に手渡す。
「ほれ、これを使え」
「よしきた」
そして自分は侍の小刀を抜いて構えた。
「この女、只者ではない…」
侍達は警戒して、まず四人がかりで弥生を取り囲んだ。
残った五人が直也に標的を定める。
しかし今の直也はその辺の田舎侍など問題にはならない腕前である。一人また一人と次々に峰打ちで倒していく。
弥生は弥生で、自分を取り囲む四人の一人に向かって小刀を投げ付けた。
その侍は当然それを弾く。その脇を弥生は一瞬ですり抜けた。
そして直也に向かって、
「直也、騒ぎが大きくならぬうちに消えるぞ」
そう言って直也の手を取ると、八幡社の境内を駆け抜ける。
当然侍達は追ってくる…と思ったのだが、何故か誰も追って来ない。
不思議に思った直也であったが、弥生得意の幻術で奴等を化かし、見当違いの方へ導いたのだと察しを付けた。
境内を出る直前、弥生は変化を解き、二人とも元の姿に戻った。
これでもうさっきの奴等も直也達を見分けることは出来ないだろう。
「ふん、こんな町にもたちの悪い奴等はいるようじゃな…」
弥生は機嫌が悪い。そんな弥生は珍しい、と直也は眺めていた。
二人はぶらぶらと来た道を辿って、宗安の家へと戻ったのであった。




