巻の四十一 人面瘡
いつもより少しだけ長いです。上下に分けるほどでもなかったので。
巻の四十一 人面瘡
紀州から東へ、大台ヶ原を横切って行く直也と弥生。目指すは伊勢である。
ようやく春めいてきたとはいえ、深い森の中、食料の調達は困難を極めていた。
季節的に鳥の卵は無く、木の実もあらかた鳥や猿に食べ尽くされている。弥生が必死に探しても、一日に一食がやっとであった。
弥生は何とか耐えられるが、若い直也は空腹のため足取りがおぼつかない。それでもなんとか湯谷峠を越え、人里に近付いてはいた。
山道脇の石に腰掛けて休む直也と弥生。
「ようやく人の住む場所に近付いたようじゃの。昔はこのあたりにはもう少し人が住んでいたはずなのじゃが」
「いつの話だよ…」
「まあ、儂の前世じゃから、およそ七百年」
直也は仕方なさそうに首を振って、
「…ああ、腹が減った。まともな食いもんを食べたいもんだ」
「あと一日辛抱してくれ。今夜は野宿じゃから」
「野宿も…飽きたなあ。早く布団で寝たいよ」
「ふふ、そうじゃな」
その日は古い祠の中で野宿であった。直也は腹が減ったとぼやいていたが、疲れもあってじきに静かになる。
その直也の寝顔に弥生は、
「…済まぬな、直也。…儂が付いていながらひもじい思いをさせてしまって…」
そう呟き、そっと直也の頬を撫でると眠りに付くのであった。
翌日、山道をゆっくり下る二人。
と、道脇の斜面に生える木にからんだ山葡萄の蔓が目に付いた。半ば干し葡萄と化した実が付いている。よく鳥に啄まれなかったものだ。
「おお、今時珍しい。あれを採ってこよう」
「弥生、気をつけろよ」
するすると木に登っていく弥生。しかし山葡萄の実は枝の先であるため、まだ手が届かない。
枝に乗って手を伸ばす弥生。その手が実を捉えた時。
みしり、と音がして枝が軋んだ。大急ぎで山葡萄をもぎ取り、枝から下りようとする弥生であったが、僅かに遅かった。
ぼきっ。枝が完全に折れ、もろともに弥生は落下した。
「弥生!」
直也が駆け寄り、弥生を受け止めようとして…受け止めきれなかった。
弥生を抱えたまま、足場の悪い斜面を滑り落ちて行く。
「直也!」
「弥生!」
直也は弥生を、弥生は直也を庇った結果、一塊になって転がるようにして滑落した。
藪に突っ込み、ようやく滑落が止まる。
「…弥生、大丈夫か?」
「大丈夫じゃ。お主こそ、儂を庇うなぞ…儂なら平気じゃったのに。…直也、お主…!」
直也の左腕が有らぬ方を向いていた。
「直也!!…腕の骨を折ったのか…! 済まぬ! 済まぬ!!」
急いで添え木を当てる弥生。
他にもあちらこちらに打撲や擦り傷があったが、それは天狗の秘薬で何とか出来たが、骨折となるとそうはいかなかった。
「…添え木はしたものの、これから熱が出るぞ…どうすればよいかのう…」
弥生は妖狐、妖力では他人を治す事は出来ない。自分の傷は薬も付けずに治してしまった弥生であったが、直也の骨折には無力であった。
「なあに、大丈夫さ」
元気そうに見せているが、直也の顔色は悪かった。傷が痛むのだろう。
「とにかく道へ戻る事じゃ」
弥生が先になり、落ちてきた斜面を登り始める。何度かずり落ちかけたが、小半刻後には山道に戻る事が出来た。
しかしもはや日は傾き始め、今日中に人里へ着く事は不可能である。
流石の弥生も途方に暮れかけた時。
「…どうかされましたか?」
声をかけてきた者があった。
見ると、籠を背負った娘である。山暮らしなのか、手甲に脚絆、草鞋履きといった出で立ちで、日に焼けた賢そうな顔をしている。
「連れが腕の骨を折ってしまってのう…」
「まあ、それはお困りですね、きたないのがお嫌でなければ、どうぞ私どもの家でお休み下さい」
「それは助かる、お言葉に甘えさせてもらおう、儂は弥生、こっちは直也じゃ」
地獄に仏とはこの事、一も二もなく娘の言葉に飛びつく弥生であった。
「私はさきと申します」
娘はそう名乗った。
「おさきさん、か。山仕事の帰りかな?」
「はい、山里ですので、このような薬草を採っては乾燥させて、生薬問屋さんに買っていただいてます」
「なるほど」
籠の中には何種類かの薬草が入っているようだ。
それからさきに連れられて半刻ほど歩き、少し谷へと下って行く。
「…ほら、見えてきました。あそこが私の家です」
娘の家は、山村ならどこにでもありそうなこぢんまりした石置き屋根の家であった。
「お姉ちゃん、お帰りなさい。…お客様?」
まだ十になるかならずかと思われる女の子が出迎えてくれた。
「ただいま、おつる、旅の方達をお連れしたの。お兄ちゃんの方の具合が悪いので、手伝って頂戴」
「はーい」
おつると呼ばれた女の子は、水桶に水を汲んできた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
弥生が礼を言う。まず直也の足を濯ぎ、自分も濯いでから上がらせてもらう。
「弥生さん、直也さんはこちらへ」
そう言って、粗末な煎餅布団を敷いてくれた。
「済まぬな」
そう言って直也を寝かせる。
無理して平気な顔をしていた直也であったが、横になった途端、それまでの疲れが出たと見え、あっという間に眠りに落ちていた。
「お薬を用意しましょうか」
そう言って、土間にたくさん吊してある籠を覗くおさき。弥生も一緒になって覗いてみる。
「これを使いましょう」
そう言っておさきが手にした物は…
「それは当帰ではないか」
「弥生さん、よくご存じですね」
「医術にはいささか心得があってな。…それより、どうしたのじゃ?それは?…この辺では滅多に無いじゃろう?」
「ええ、奥山の更に奥で見つけてきた物です」
「そんな貴重な薬を…」
「薬というのは使う為にあるんですもの。直也さんが目を覚まされる前に用意してしまいましょう」
そう言って、薬研を出してきて粉にし始めた。
粉にした当帰は鎮静、鎮痛作用があるので、後ほど直也が目覚めたら飲ませる。
それが済むとおさきは、更に山梔子の実と黄檗を出してきて粉にし、うどん粉と一緒に練って膏薬を作ってくれた。
それを紙に塗って、直也の折れた腕に貼ろうというのだ。
弥生は、おさきというこの娘の知識と手際に感心していた。
日が沈む頃直也が目を覚ましたので、折れた腕には膏薬を貼り、添え木を当て直した。
そして薺や御形、繁縷等の入った粟粥を飲ませてくれる。
ようやくまともな、と言っても貧しい限りのものなのだが、食べ物を腹に入れた直也は生き返った心地がした。
案の定発熱していたので、当帰を飲んで再び横になる。すぐにまた眠ってしまった。
「おさきさん、薬草にお詳しいのう。どこで習ったのかな?」
「こんな山の中ですから、お医者様とておらず、人づてに聞いたり、昔から言い伝えられてきたり、それを覚えたのです」
「それにしてもみごとじゃな。今日収穫されたものだけでも、黄檗、木通、葛根…」
「弥生さんこそ、お詳しいですわね」
「旅をするには必要じゃからな」
そう言った弥生は、
「不躾じゃが、おさき殿、ご両親はどうされたのかな?」
一瞬、おさきの顔が強張る。
「済まぬ。聞いてはならんかったか?」
「…いえ。…両親は、一昨年、流行病で亡くなりました。…私が薬草を集め出したのも、一つにはそれがあったからです」
「なるほどのう…」
それ以上尋ねる事はせず、弥生も直也の隣に布団を敷いてもらって横になった。
翌朝、夜明け前に弥生は目を覚まし、直也の額に手を当ててみる。熱は大分下がっていた。ほっとする弥生。
おさきも起き出し、朝食の準備。弥生も手伝った。
「おさきさん、助かった。礼を言う」
「いいんですよ。こちらこそ何のおもてなしも出来ませんで」
「これは心ばかりの物じゃが」
そう言って、小判を一枚差し出した。しかしおさきは、
「これはいただけません。そんなつもりでお泊めしたんじゃありません」
そう言って、頑なに受け取る事を拒んだ。そこで弥生は、
「それならば、ここでお世話になる間、おさきさんの手伝いをしよう。儂も薬草の事は少々知っておるからの」
「そう言う事でしたら喜んで」
ということで、その日弥生はおさきと一緒に籠を担いで山を歩き回った。
流石に地元の強みで、おさきはいろいろな薬草を見つけたが、弥生も負けてはいない。狐の嗅覚を以て、様々な根を見つけ出したのであった。
「弥生さん、ありがとうございます。蒼朮や麦門冬というのですか、これは知りませんでした」
「こちらには直也を助けて頂いた恩があるからのう、これで返せれば良いのじゃが」
そんな話をしながら、夕暮れが近付く頃、おさきの家へ帰って来たのだった。
「お姉ちゃん、おかえりなさい」
「おつる、いい子にしてた?」
「うん、お兄ちゃんがお話をしてくれた」
動けない直也は、おつるに旅の話等を話して聞かせていたようだ。
「そうですか、直也さん、ありがとうございました」
「いいえ、俺に出来る事ってこんな事くらいですから」
「今夕食の支度しますから」
そう言って、手を洗い、いそいそと支度に掛かるおさき。弥生もそれを手伝う。
山芋も見つけたので、手間はかかったが掘ってきた。それも摺って食べる。滋養があるので特に直也には良さそうだ。
直也も熱は下がり、もう幾日かすれば、旅にも出られるようになるだろう。
食事のあと、弥生は気になっている事を尋ねる事にした。
「…おさきさん、一つ尋ねてよろしいか?」
「はい、何でしょう?」
「おつるちゃんじゃが、何を患っているのかな?」
おさきの顔色が変わる。
「…わかりますか?」
「なんとなく、じゃが。我等はあちこちを旅してきた。もしかして力になれるかも知れぬぞ」
「……」
「おさきさん、もし困っておいる事があったら話してくれませんか?」
直也も声をかける。
「腕の手当もしてもらったし、出来ることがあったら何でもしますから」
そしておさきはしばらく考えていたが、やがて意を決したように、
「…おつる、こっちへいらっしゃい」
「はーい」
「そこにお座りなさい」
おつるの背中を弥生達に見せるように座らせ、おもむろに着物を脱がせた。
「…これは…」
何とも言いようがなかった。
おつるの背中は、一面できもので覆われていたのだ。
「ドクダミ、ハトムギ、ジュズダマ、ユキノシタ、いろいろ手を尽くしたのですが、いっこうに良くならないのです」
「痛みは無いようですね」
「はい。仰向けに寝ころんでも大丈夫なようです。ただ肉が盛り上がっているので寝にくいようですが…」
確かに、背中の真ん中あたりの肉が大きく瘤状に盛り上がり、心なしか人の顔のようにも見える。
「…人面瘡じゃ」
しぼり出すような声で弥生が呟く。
「人面瘡!?」
「そうじゃ。原因はいろいろあるが、これは化けものがとりついたものじゃな。 じゃからして、薬草では手に負えん訳じゃ」
「…お医者様に見せて切り取ればいいのでしょうか?」
「もはや体中に根を張っておるようじゃ。こうなっては切り取ってもまた生えてくる。おまけにおつるちゃんの身体から養分を吸い取っておるから、切り取るのはかえって危険じゃな」
「それでは一生このままに?」
「いや、遠からず人面瘡の方がおつるちゃんよりも大きくなり、おつるちゃんは人面瘡に吸収されてしまうじゃろう」
「ああ…それでは…どうすれば…」
「おつるちゃんを助けるには一つだけ方法がある」
「それは!?…いったいどうすればいいんですか?…教えて下さい、恩に着ます!」
「…人面瘡を別の者に移すのじゃ」
「えっ…」
「ここまで育った人面瘡は、己の意志を持っておる。誰か、おつるちゃんよりも人面瘡が好む身体を持った者がおれば、その者にとりつくじゃろう」
「弥生、二人とも人面瘡に取り憑かれる心配はないのか?」
「大丈夫じゃ。まだこの段階では増殖する心配はない。目鼻が出来、口を利くようになり、口から物を食べるようになると危ないがな」
「そ、それでは、私がおつるの代わりに!!」
悲愴な顔でおさきが叫ぶ。
「駄目じゃ。そなたが人面瘡に取り憑かれ、倒れたなら誰がおつるちゃんの面倒を見るのじゃ?」
「お姉ちゃん、あたしなら、このままでいいよ…。死んだら、お父っちゃんとお母ちゃんのところに行けるんだから…」
「おつる…!」
泣きながら妹を抱きしめるおさき。
直也が意を決して、口を開こうとしたその時。
「案ずるでない。儂が身代わりになろう」
「弥生!?」
「弥生さん!?」
「儂なら此奴のことも少々知っておる。今、此奴に聞かれるとまずいので詳しい話はせぬが、儂にとりついたならなんとか出来よう」
「でも…お客様にそのような事をしていただくわけには…」
「何、直也の手当をしてもらった恩があるしの」
こともなげに言う弥生。確かに、弥生ならなんとか出来るのだろう。
「おさきさん、あまり時間がない。人面瘡が育ちきらないうちに行わねば、全て無駄になってしまうのじゃ」
「それでは…弥生さん、おつるを…よろしくお願いいたします」
「うむ」
そう言って、弥生は、おつるに優しく声を掛ける。
「おつるちゃん、しばらくの辛抱じゃ。何も心配することはない」
「うん...」
「弥生、大丈夫か?」
「直也、心配するでない。それより、しばし向こうに行っておれ。これから儂は着物を脱ぐのでな」
そう言うと帯を緩めだした。直也はあわてて後ろを向く。
「弥生…くれぐれも、気をつけてな」
「まかせておけ」
その晩は、滋養を付けるためと言って、とっておきの米で粥を作り、野草を入れて食べた。
久しぶりの米の粥、おつるは弥生の膝の上でうれしそうにお代わりをしていた。
おつるの背中を胸に押し当てる形で晒しで固定しているので、体型の違う二人羽織のようにも見える。
弥生も、人面瘡に対抗するため何杯も食べていた。
そしてそのままの状態で布団に。
一晩が過ぎた。
朝。気になると見えて、おさきは夜が明けきらないうちに起き出し、朝餉の支度を始めた。
直也も起きる。弥生の事が気になっていた。
弥生とおつるは、まだ寝ていた。いや、おつるはもう目を覚ましていたのだが、弥生が寝ているため、起き出せないでいるのだ。
そろそろ朝餉の支度が出来るという頃、直也が弥生に声を掛ける。
「弥生、そろそろ起きないか。朝食の支度ができたぞ」
「ん…」
弥生が目を覚ます。心なしかやつれて見える。
「もう朝か…起きるから向こうへ行っておれ」
直也はその言葉に従い、部屋を出る。弥生が晒しを解いたとみえ、おつるがやってきた。
「お兄ちゃん、おはようございます!」
「ああ、おはよう」
「お姉ちゃーーーん」
そう言って駆けていくおつる。ろくすっぽ着物を着ていない。しかしその背中は…
「おはよう、おつる。ちゃんと着物を着なくちゃ駄目でしょう...あら!」
人面瘡も取れ、きれいになっていた。
そこへ弥生が現れた。
「や、弥生さん、おつるが、おつるが…」
「うむ、治ったようじゃな。良かった良かった」
「弥生さんの方は…大丈夫ですか…?」
「大事ない」
「ありがとうございます…!一生恩に着ます…!」
「ありがとう、弥生お姉ちゃん...」
「気にするな。…それより直也、腕はどうじゃ?」
「おさきさんにもらった膏薬が効いて、腫れは引いてきたみたいだ」
「うむ、まずは良かったのう」
「それでは朝餉の支度が出来ております、お召し上がり下さい」
朝食にする。粟粥を元気におかわりするおつる。おさきも嬉しそうだ。
だが直也は、どことなく元気がないように見える弥生が気になった。
しかしおさきとおつるの前では聞けないので、食事が終わるまで待つことにしたのである。
食後のこと。
「おさきさん、近くに人気のない空き地はないかな?」
弥生が尋ねる。
「昨日の道を少し戻ると、右側に小さな石仏のある場所があります。そこの踏み跡をたどると、古い祠の境内に出ますが…」
「ありがとう。この身にとりついた人面瘡の後始末をしてくる。直也、付き合ってくれるか?」
「もちろんだ」
「翠龍も持って行ってくれ」
何か危険があるのだろうか?…そう思いつつ、翠龍を手に、弥生と共に空き地に向かう直也であった。
空き地に着いた。周りを木立に囲まれ、下は草が生い茂り、朽ちかけた祠のある場所。
「ここは…」
「どうした?」
「いや、なんだか懐かしい気が…うっ」
いきなり、弥生は地面に倒れ込んだ。
「弥生!」
直也が駆け寄る。弥生は蒼い顔で、
「案ずるな、と言いたいところじゃが…まいった」
直也は驚いた。弥生がこれ程までに弱音を吐いたのを聞いた事はなかったからだ。
「やっぱり…人面瘡か?」
「そうじゃ。見よ」
着物の前を開いて見せる弥生。
白い肌のあるべきところは、一面赤黒い肉瘤で覆われていた。
「儂の一瞬の隙をついて、妖力を喰らいおった…」
「大丈夫なのか?」
首を振る弥生。
「儂の身に乗り移ったところで、この身に妖力を満たせばたまらずに離れると思っておったのじゃが…」
「駄目なのか?」
「今となってはこやつの妖力の方が上じゃ…このままでは儂の方が持たぬ」
「弥生…」
「そこで直也、お主に頼みじゃ。翠龍を以て、人面瘡に突き立ててくれ」
「何!?…そんなことをしたら、弥生、お前にも…」
「人面瘡さえ離れれば少々の傷など何のこともない。それに…このままではこやつに取り殺されるのを待つばかりじゃ」
「そんなにひどい状態なのか…」
「じゃから…早うしてくれ。よいか、人面瘡の眉間にあたる部分に突き立てるのじゃ。根を張っているから思いっきり深くじゃぞ。儂の事を思うてくれるのなら背に突き抜けるほど強く刺し貫いてくれ」
「…わかった」
直也は鞘を口に銜え、無事な右手で翠龍を抜く。その光る刃を持って横たわった弥生に近づいた、その時。
「…気が変わった。やめてくれ」
「?」
「もうよい。この人面瘡は儂に悪さはせぬ。刀を納めよ」
弥生を突き刺す…そんな行為に恐れを覚えていた直也は、ほっとして翠龍を鞘に納めようとした。と、その時。
「…いかん…今…のは…儂で…は…ない…人面…瘡が…儂の…口を…使…っ…て…」
苦しげな弥生の声。人面瘡が弥生の身体を乗っ取り始めたというのか。
もう一刻の猶予もない。直也は翠龍を握り直す。そして人面瘡の眉間にねらいを定める...
そんな直也に、弥生の口から懇願する声が漏れる。
「やめてくれ、直也、儂を殺す気か?…後生じゃ、やめてくれ、やめてくれれば何でもしてやるぞ?…この身体はお主の物じゃ…好きにしてくれて良い。…天下が欲しいなら天下を取らせてもやろう…」
ゆっくりと直也は翠龍を振りかぶる。横たわった弥生は直也に向けて手を差し伸べ、
「直也、何故じゃ、儂とお主の仲ではないか、のう、やめてくれ、直也…」
だが直也は決然と、
「お前は…弥生じゃ...ないッ!!」
振り下ろされる翠龍。あやまたず、人面瘡の眉間を貫いた。
しかし、それはとりもなおさず、弥生の胸を貫くこと。弥生の口からごぼっと血が噴き出す。
一瞬遅れて、人面瘡の悲鳴が響き渡った。
「ぎゃああああああああああああああああああああーーーーーーーーーー!!!!!!!!!」
弥生の身体から人面瘡が剥がれ落ちてゆく。剥がれ落ちたそれは、黒い煙となって立ち上る。
その煙に見覚えがあった。マーラである。人面瘡はマーラの仕業であった。
「くそっ!またしてもマーラか!」
その煙を薙ぎ払う直也。
黒い煙は跡形もなく消滅した。
残ったのは…胸の真ん中から鮮血を溢れさせる弥生。
そして弥生の口からも血は吹き出たままだった。
「弥生、しっかりしてくれ、大丈夫だって言ったじゃないか!」
急いで天狗の秘薬を傷口に塗る。傷口は塞がり、血は止まった。だが、弥生の口から溢れる鮮血は止まらない。
弥生の着物が朱に染まる。
「弥生、弥生!!」
「直…也…」
弥生が目を開けた。だがその声は弱々しい。
「弥生、しっかりしろ!」
「す…ま…ぬ…少々…力を…吸…い取ら…れす…ぎ…た…よ…う…じゃ…血……が…止…まら……ぬ…」
「どうすればいい、教えてくれ! お前が助かるなら何でもしてやる!」
「無…駄…じゃ…お主に…妖狐…の…力…を…戻…す…こと…な…ど…出…来…ぬ…」
喋るたびに口からあふれる鮮血。
「ゆ…る…せ…お…主……と…も…う…旅……を…続…け…る…こ…と…は…で…き…そ…う……も……な………い…」
「わかった、いいからもう喋るな!」
直也は右手で弥生を抱きかかえると、必死に考える。
(どうすればいい、弥生を助けるには…弥生にばかり頼っていないで、自分で、考えるんだ…)
(妖力…力…妖狐…そうだ!)
以前、妖狐が人間から生命力を奪う方法を聞いたことがあった。
一つは、交わることで精を奪う。
そして今一つは、口から、生命力を奪う。
自分から与えることが出来るかどうかわからなかったが、迷っている暇はない。
直也は鮮血をあふれさせる弥生の口をぬぐうと、自らの唇を重ねた。
(弥生、俺の命を全部吸い取ったっていい、助かってくれ!)
しかし、直也の口の中は弥生の口からあふれる鮮血ですぐにいっぱいになってしまう。
何度も口を拭い、繰り返す直也。
(駄目なのか、弥生…! 今、わかった、俺は、お前が、…好きなんだ!)
その時、ゆっくりと直也の口の中から血が引き始めた。それと共に何かが自分の身体の中から引きずり出される感じを覚える。
(命を吸われるって言うのは…こういうことか…)
だんだんと身体の力が抜け、意識に霞がかかったようになってくる。
やがて目の前が真っ暗になり、後は何もわからなくなってしまった。
* * *
弥生は目を開いた。半分以上、力は戻っている。胸の傷も塞がっている。
しかし。
目の前に、横たわる直也の姿があった。
「直也!」
抱きかかえた直也の口元に血が付いている。直也の血ではない。己の血だ。すぐに気が付いた。
「直也、お主、まさか…儂に…」
直也の胸に耳を当ててみる。
まだ直也の身体は温かいが、心臓の鼓動が弱まっている。このままでは危ない。
「直也、しっかりせい、直也!」
しかし直也は目を開かない。
「ああ…直也の阿呆め、己の生命力を儂にくれよったな…」
妖力が戻れば、傷を塞ぐことが出来る。傷が塞がれば、妖気を身体に巡らせることで更に妖気を高めることが出来る。
だが、妖狐の力の中には、他者を癒す力は…無い。
(妖狐になったことを今ほど悔やんだことはないぞ…!)
弥生の腕の中の直也は、徐々に冷たくなっていく。直也の生命の火が消えかかっているのは明らかだった。
弥生は天を仰いで叫ぶ。
「誰でもよい、直也を助けてくれるなら、儂の命などくれてやる!…直也のいないこの世などに未練はない!」
答えるものはない。あたりは静まりかえっていた。
弥生の声は空しく虚空に消えていった。
「直…也…」
弥生の目から、涙が零れ落ちた。
その時。
目の前にある朽ちかけた祠が輝く。 いや、正確には祠の中にある何物かが光を発した。
「なん…じゃ?」
光は明るさを増し、ついには祠全体が発光しているかのように見えた。 その光の中に、弥生と直也が包まれていく。
(藻…)
頭の中に声が響く。
(誰じゃ?…儂の大昔の名を呼ぶのは…)
(僕だよ)
(その声は…まさか?)
(天狐にはなれなかったんだね…もしかして僕のせいかな?…だとしたら…ごめん)
(千枝丸…お主なのか?)
(うん。…ここの社に祀られていたんだ、七尾の狐としてね)
(儂は…お主の事…忘れたことはなかったぞ)
(忘れていいんだよ。その人間…藻の大事な人なんだろう?)
(…そうじゃ)
(僕の力を藻にあげる。あの日からずっと、そうしたくて、守ってきたんだ…)
(すまぬ、千枝丸、儂は…)
(わかっているよ、僕が射殺されたせいで、藻の運命も狂ってしまったんだね)
(もっと早く逢いに来るべきだった…)
(だから、もういいんだ。さあ、この宝珠をあげる。これは、僕がずっと守ってきた、僕の霊力の全て…)
(しかし、それを儂にくれたら、お主の魂はもはやこの世に留まることは出来ないのではないか?)
(留まる必要も無くなったからね)
(どういう意味じゃ?)
(僕は…そこにいる)
(直也が? お主の生まれ変わりだというのか?)
(…時がない。早く、宝珠を…)
(千枝丸…ありがたく戴くぞ。お主といつまでも一緒じゃ…)
光が収斂していく。藻、いや弥生の胸の中にそれは消えていった。
(温かい…千枝丸、礼を言うぞ…)
身体に漲る霊力。弥生は直也を抱き起こすと、唇を重ねた。
(お主にもらった命…お主に返すぞ)
口移しに霊力を直也に注ぎ込む。その力は直也の身体に行き渡る。
口を離しても、唇に直也の感触が残っているようで、弥生は一人頬を染めていた。
一方、直也は、心臓の鼓動は正常になり、顔に赤みが差してきていた。霊力のおかげで左腕の骨折も治癒している。
「直也、しっかりせい、直也。儂がわかるか?」
「や…よ…い…?」
膝の上の直也が目を開いた。
「そうじゃ。ようやく気が付いたのう。心配させおって…」
「無事だったのか…よかった」
「何を言うか。死にかけたのはお主の方じゃ。全く、無茶しおって…」
「泣いてるのか、弥生…?」
「だ、誰が泣いているものか…ただの汗じゃ…お主が重くての」
* * *
「それでは、世話になった」
「こちらこそ、このご恩は生涯忘れません」
「お姉ちゃん、お兄ちゃん、元気でね」
「おつるちゃん、おさきお姉ちゃんと仲良くね」
* * *
「やれやれ、直也が野宿に飽きたと言い出したのでえらい目におうたわい」
「悪かったな」
「しかし、お主、どうやって儂を助けたのじゃ?」
「そ、それ…は…」
「ん? ほれ、言うてみい」
「分かり切ってることを聞くな!…お前こそ、あの時泣いてたくせに!」
「な、何を…あれは汗じゃと言うのに…」
弥生は知らない。
化け物は涙を流さない。涙が弥生の目からこぼれた時、弥生は妖狐から善狐に生まれ変わったことを。
そうでなければ、霊力を受け入れられなかったであろう。
ただ弥生が気になっていたのは、弥生の幼馴染み、千枝丸が言った事。自分が、そこにいる、と言った事。
直也が己の生まれ変わりだということなのか、それとも弥生が愛すべき者と言う事なのか。千枝丸ははっきりさせずに消えてしまった。
(まあ、よいわ…)
「弥生、どうした?」
「何でもない。見よ、ようやく海が見えた」
「ああ、やっと伊勢か…山越えも長かったなあ」
そう言って急ぎ足で行く直也の背を見つめて弥生は、心の中でそっと呟いた。
(お主が千枝丸の生まれ変わりであろうと、そうでなかろうと、儂の気持ちには変わりはないからのう…)
二人が越えていく峠の上からは、遙かに伊勢の青い海が輝いていた。
人面瘡の巻、です。
直也が世話になった、その恩を返すために弥生が自ら人面瘡を取り込もうとします。実は、これも弥生が善狐に近付いたゆえの行動なのですが、本人も気付いてはいません。
もう一つ、弥生の弱点として、少々自信過剰なところがあるのですね。
まあ狐というのは総じて気位が高いのです。弥生の場合は実力が伴っているので普通ならどうと言う事はないのですが、今回は危なかったです。
弥生は長い直也との旅で人助けをする事を繰り返し、次第に意識も変わりつつあったのです。
最初の頃の弥生なら自分から取り憑かせようなどとはしなかったでしょう。直也は無関係なのですから。
きっかけさえあれば、霊狐になれる手前まできていたのです。
最終的にその引き金となったのは直也を失うかも知れない事態と、直也への愛情から、涙を流した時。
そして幼馴染み「千枝丸」の霊力を受け取り、妖力を浄化され、善狐=霊狐に生まれ変わりました。
ただしまだしばらく本人達は気が付かないと思います。
そしてこの回は、実は巻の三十三に対応しています。違うのは、夢や幻覚ではなく、実際の出来事だった事。
現実でも、天狐様が見通していたように二人の取った行動は同じでした。
これでまたひとつ山場を過ぎました。
まだまだ二人の旅は続きます。
それでは次回も読んで頂けましたら幸いです。




