巻の三十七 宇治から大和へ(前)
巻の三十七 宇治から大和へ(前)
直也と弥生は京の都を発ち、宇治を経て奈良へと向かう道を取っていた。
「もうすぐ宇治じゃ。ここの平等院は道長殿の別荘跡に建てられたものでのう」
彼方に見える寺院を指差し、弥生の説明が続く。
「確か天喜元年(1053)にあの阿弥陀堂(現鳳凰堂)が建てられたのじゃ。その時には儂を初め、多くの狐達も伏見から見物にやってきたものじゃて」
懐かしそうに話す弥生。直也も素直に耳を傾けている。
やがて二人は川のほとりまでやって来た。宇治川である。
「ここに架かるのが宇治橋じゃ」
そう言って橋を渡り始めた。
橋の中程にある三の間と呼ばれる出っ張った空間に鎮座するは橋姫神社。横目に見て通り過ぎる。
「さて、今宵はここ宇治泊まりじゃな」
宇治は文人墨客の泊まりも多く、高級な宿が多かった。まあ路銀には今のところ不自由はないので、そこそこの宿を選ぶ二人。
夕食を終え、明日の予定はどうしよう、と直也が問えば、
「明日は大和の国へ行こうかのう」
「そうだな、かつて都のあった場所だものな、楽しみだ」
近頃は直也も、努めていろいろな知識を学ぶ姿勢を取るようになり、弥生は内心嬉しく思っている。
そんな時、部屋の行灯が、風もないのに揺らめいたのである。
「……」
「どうした? 弥生」
「…しっ、待て。…ふむ、貴殿は?」
行灯の灯りが消え、暗闇となった部屋の中に浮かび上がる人影に向かい、弥生が声を掛けた。
「お初にお目にかかります。私はここ宇治で橋姫として宇治橋を任されている者です」
「橋姫!?」
直也が驚きの声をあげる。が、弥生はそれを抑えて、
「直也、静かにせい。…それで、橋姫殿が何用かな?」
すると橋姫と名乗ったその影は、少しはっきりとした輪郭を取る。
「実は、こちらにも先日、伏見より知らせが届いております。その伏見の天狐様に伺いました。あなた方は弥生様と直也様、でいらっしゃいますね?」
「うむ、確かに」
すると橋姫はその場に額ずき、
「どうぞお力をお貸し下さいませ」
弥生は頭を上げるよう手で促し、再度尋ねる。
「いったいどうしたというのじゃ?」
「はい、わたくしは橋姫として、境界を護っておりますが、実はここ数日来、南から邪気が押し寄せてくるようになったのです」
「邪気?」
「はい。まだ今のところは問題なく防ぐことが出来てはおりますが、徐々に強くなってきているのです。このままですと、あと十日もすれば押さえきれなくなるやもしれませぬ」
「……」
「ご存じの通り、わたくしはこの地を動くことはままなりません。どうか原因を見つけ、出来ますれば解決していただきたく、恥を省みずお伺い致しました」
「なるほどのう」
「弥生様、直也様、どうかお力をお貸し下さいませ」
* * *
翌日、直也と弥生は予定通りに大和の国へと向かった。
「なあ弥生、昨夜の橋姫って一体何なんだ?」
すると弥生はちょっと考えた後、
「境界を護る者、じゃな」
そう答えた。
「境界?」
「そうじゃ」
弥生は遠くなった宇治川の方角を見つめながら、
「川とは一種の境界なのじゃ。じゃからそこに架かる橋は、邪なるものが侵入せぬよう、呪術的に守られておる。その神が橋姫なのじゃが…」
そこで一息小さく溜め息を吐き、
「瀬織津比咩尊が祭神でのう、そもそも瀬織津比咩尊は禍事や穢れを祓って下さる神様じゃ。
じゃが、全国各地の橋全てにおられるわけではない。それぞれの橋には分霊や神使がおる」
直也は肯き、
「じゃあ昨夜のは、その一人…一柱、というわけか」
「そうなのじゃが…」
珍しく言い淀む弥生に、
「どうした? 何か言いにくいことか?」
「いや、話してもいいかと思うてな」
「?」
弥生は笑みを浮かべながら、
「昨夜やってきた橋姫、な。あやつはその昔、えらいことをしでかした奴でのう」
「というと?」
寸の間躊躇ったものの、やがて弥生は訥々(とつとつ)と話し始めた。
「嵯峨天皇の御世のことじゃった。嫉妬にとらわれたとある公卿の娘が、貴船神社に七日間籠もり、『妬ましい女を取り殺したいので鬼神に変えて下さい』、そう願ったのじゃ。
貴船明神は、『鬼になりたければ、姿を変えて宇治川に二十一日間浸れ』と告げた。
そこで女は髪を五つにわけて五本の角にし、顔に朱をさし身体には丹を塗り、逆さに被った鉄輪(=五徳)の三本の足に結びつけた松明(蝋燭とも)を燃やし、両端に火を付けた松明を口のくわえ、真夜中のころに宇治川まで走って二十一日間浸り、生きながらの鬼女となったのじゃ。
そして妬んでいた女、その縁者、相手の男の方の親類、しまいには誰彼構わず、次々と殺していった。
結局女は退治されたがのう。
その後、女を合祀したのが宇治の橋姫神社じゃ。じゃから橋を護ると共に、縁切りの神でもあり、悪縁を切るご利益がある。
逆に、恋人同士や婚礼の儀で、神社の前を通ったり宇治橋を渡ったりするのは禁忌とされておるな」
「鬼…」
「そうじゃ。人はたやすく鬼になれる」
「なあ弥生、神が…人を鬼にしたっていうのか?」
直也の瞳にほんの少し、怒気が見える。
「違う。鬼は心の中に棲んでいるのじゃ。神はほんのわずか手助けしたに過ぎぬ」
直也は、目の前で鬼と化したしずのことを思い浮かべていた。
弥生は、マーラに唆された過去を思い起こしていた。
「……」
「己の中の鬼、それをどう抑えるか、それもまた己じゃ」
直也は体の力を抜き、
「わかる気がする」
「そうか」
それからしばしの間、二人共ただ黙々と歩き続けた。
その歩みは南へ、やがて木津川を渡る。
「ここにも橋姫がいるのか?」
「おるじゃろうな。橋には橋姫、辻には塞の神。どちらも外部からの疫病などが侵入せぬよう『塞』ぐ神なのじゃ」
「じゃあ、そんな橋姫が護りきれなかったら…」
「そうじゃ。疫病や飢饉、が起こるやもしれぬ」
「それは大変じゃないか。出来ることならなんとかしなくちゃな」
すると弥生はわざとらしく大きく溜め息を吐き、
「別にお主がせねばならぬわけではない。これは霊的な立場にいる者達の義務じゃからな」
「義務?」
「そうじゃ。つまりは、信仰され、賽銭をもらっている者達が負うべき役目ということじゃ」
「だけど…」
直也は不服そうだ。弥生は苦笑し、
「わかっておる。こんな話でお主が納得しないことはな。まあ、儂としてはお主に危険がなければ、特に文句はないのじゃが」
そう言って横目で直也を睨む。
「う、悪かったよ、勝手に引き受けたりしてさ」
実は昨夜、橋姫からの頼みに弥生が返事をする前に直也が、
「わかった、出来るだけの事をするよ」
そう答えてしまっていたのだ。弥生が文句を言いたくなるのも無理はない。
「じゃが、十分注意するのじゃぞ。儂の指示には絶対従うのじゃ」
「……」
「返事は!?」
直也を睨み付ける弥生。
「わ、わかったよ」
流石に直也もそう答えるしかなかった。
二人の脚は早い。日のあるうちに東大寺近くの宿に泊まることが出来た。
「思ったより賑わってるんだな」
「何と言っても南都六宗の一、華厳宗の総本山じゃからな。しかし大仏様はお気の毒な限りじゃった」
慶長十五年(1610)の暴風で倒壊したため、大仏は野ざらしとなっており、貞享元年(1686)に正式に再建が認可された。直也と弥生がここに来た時点ではまだ再建は開始されてはおらず、大仏は露座のままである。
「とにかく、明日からは妖しい場所を探しつつ奈良巡りじゃ」
「ああ、邪気の件がなければ純粋に楽しみなんだがな」
「まったくじゃ」
翌日は東大寺から春日大社、興福寺を回り、西大寺を訪れた。その結果わかったことと言えば、
「ふむ、邪気の出所はもっと南のようじゃな」
それで二人は西の京、薬師寺近くにその日の宿を取ったのである。
「弥生、どうなんだ?」
「うむ…このあたりにはかすかに邪気が残っておる…この感じ…間違いなくマーラの仕業じゃ」
「マーラ!?」
「そうじゃ。やはり奴めの仕業じゃったか」
弥生の顔つきが変わった。
「直也、くれぐれも無理はするでないぞ」
「うん」
「おそらくは、飛鳥じゃろうな。あそこは古い古い都の跡じゃ、呪術的な仕掛けをするにはもってこいじゃからな」
「そうか…」
考え込む直也。
「まあ、明日はまだ飛鳥には着かぬ。じゃから邪気のことは忘れて、この古い都を巡る事にしようぞ」
「おい…」
弥生は笑って、
「それが本来の目的じゃし、悪い事は無かろう。明後日、飛鳥に着いてからまた考えればよい」
合理的な弥生の物言いに、直也もまあそうか、と一応納得はしたのである。
翌日は法隆寺に寄った後、石上神宮へ。そしていわゆる『山辺の道』を南下。海石榴市付近に宿を取った。
「うむう…間違いない、マーラの気配が濃くなって来よった。明日は油断できぬぞ、直也」
「わかったよ、弥生」
二人は翌日のために英気を養うべく早寝をした。
翌朝、まだ夜の明けやらぬ時刻に宿を発った直也と弥生はいよいよ飛鳥の地を踏んだ。
「あれが耳成山、こちらが畝傍山、そして天香具山じゃ。これらの山が作る三角形、その中心に藤原京が作られたのじゃな」
「それって何か呪術的な意味があったのかな?」
直也がそう弥生に聞くと、弥生は不意に顔を上げ、
「そうか! そういうことじゃったか!」
今にも走り出しそうにした。
「お、おい弥生、いったいどうしたんだ?」
「直也、すまぬ、少しばかり興奮してしもうたな。マーラのやり口が見当付いたのじゃよ」
「なに!?」
「まあ聞け。邪気、つまりは悪想念、じゃな。戦や飢饉、天災などでない限り、悪想念はそうそう湧くものではない。これはわかるな?」
肯く直也。
「ならばどうするか。答の一つは『篩い分け』じゃ」
「篩い分け?」
「そうじゃ。いろいろな想念の中から悪想念だけを篩い分けるわけじゃな」
「そんなことが出来るのか?」
「小規模なら簡単じゃが、大規模となると大変じゃな。じゃが、この飛鳥には古代の結界が残っておる。そも、都というものは外部からの呪いや邪気を防ぐためにいろいろと呪術的な対策をするものじゃからな。四神相応、は知っておろう?」
直也はちょっと考えた後で、
「確か、東に青龍、南に朱雀、西に白虎、北に玄武、だったか」
「そうじゃ。それは大陸から伝わった術じゃ。この飛鳥にはまだ適用されてはおらぬが、似たような物として、大和三山に囲まれた藤原京は古い結界の典型じゃな」
「ということは、藤原京には悪想念が入りづらいわけか」
「そうじゃ。入れなかった悪想念は拡散するのが普通じゃが、それを集めたらどうなる?」
「そういうことか!」
直也にも弥生が言いたいことがわかったようだ。
「結界に閉め出された悪想念、それを束ねて京へ放っておる者、あるいは物がある」
「どこにいるんだ?」
意気込む直也を抑え、
「まあ待て。三角形の北の頂点である耳成山へ行けば詳しいことがわかるじゃろう」
二人は急ぎ耳成山へ。登るにつれ、異様な感覚が直也にもわかるようになった。
「悪想念が溜まっておる。お主が無事なのは『ミナモ』のおかげじゃな」
大きな術、悪しき術をはね返すという神宝。直也は着物の上から、伏見でもらった小さな鏡を撫でた。
耳成山の山頂付近には目に見えそうなほどどろどろした気配が溜まっている。心なしか日の光も薄い。
「直也、かまわぬからこの空気を翠龍で薙ぎ払え」
「よしきた」
龍神から授かった神刀、翠龍を振るう直也。一薙ぎで澱みが消え、二薙ぎで涼しい風が吹き、三薙ぎで明るい光が差し込んだ。
「おう、流石じゃ。これでようわかる。…ふむ、ここか」
悪想念が消えた山頂で弥生が感知したものは、それを誘き寄せていたと思われる石碑。
直也には読めない文字が彫り込まれている。弥生はその文字を眺め、
「ふむ、神代文字じゃな。直也、この石碑を斬れるか?」
「やってみよう」
直也は精神を統一し、翠龍に気を籠め、一気に振り下ろした。
微かな手応えと共に石碑が真二つになる。同時に地鳴りのような物が一瞬聞こえたがすぐに静まった。
「よし、これでもうこの結界は使い物にはならぬ。次は…三輪山、か」
弥生の目に映ったのは耳成山の丑寅(北東)にそびえる三輪山であった。
耳成山を下り、三輪へと向かう二人。
「三輪山には大物主大神が鎮座ましましておってな、普通ならマーラなどの呪術に利用されるはずはないのじゃが…」
そこではたと思い当たったように手を打ち、
「神無月…そうか、今は神無月。大国主命の和魂とも言われる大物主大神、出雲へ行かれて不在か!」
「弥生、一人で納得していないで俺にも説明してくれよ」
「おおすまん。要は、神霊が不在のこの時期に、一気に悪想念を集めようとしたらしいということじゃ」
三輪山は別名御諸山。大物主大神が坐す神奈備山である。
「さすがに御神体である山には何も無いようじゃ」
山麓の大神神社、ここは寛文四年(1664)に徳川家綱が再建したものであり、まだ木の香ただよう境内で直也と弥生は一休みしていた。
「すると…」
「麓のどこかに仕掛けがあるじゃろう」
そう言って歩き出す弥生。直也はかなり疲れてきていたが、何も言わずに弥生に続く。
三輪山の山麓を右回りに巡っていくと、ちょうど北に当たる場所に石碑が埋もれていた。
「やはり、な」
同様に直也が翠龍で斬り、二つ目の仕掛けを取り除くことが出来たのである。
「あと一つ、あるはずじゃ」
そう言って弥生は空を見上げる。冬の日は短い。太陽は西に傾き、あとわずかで夜が訪れようとしていた。
「じゃが、もう無理じゃな。夜になってしまったら陰の気がまさる。残りは明日にするのが懸命じゃ」
「弥生がそう言うならそうしよう」
直也も素直に言うことを聞く。その夜は大神神社そばの宿に泊まったのである。
翌日は、三輪と京の間を更に北上して行く。が、それらしい気配が感じられない。
「おかしいのう、経路でいえばこの辺りに間違いはないのじゃが…」
さすがの弥生も首をかしげている。
「とりあえず休憩しようぜ」
目に付いた茶店に入る。直也はお茶とわらび餅。弥生はわらび餅を十皿頼んだ。茶店の親爺は目を剥いている。
「さて、と、これからどうするかのう」
十枚の皿が積み重ねられた横で、弥生はお茶をすすりながら呟いた。
「おさえちゃん、おる?」
そこへ、近所の娘らしい声がした。茶店の娘を呼びに来たらしい。
「ああ、おせんちゃん、おさえは相変わらず寝込んでるわ。良かったら見舞ってやってや」
「そうなん? じゃあ、おじゃまするでー」
そう言ってその娘は奥へと上がっていった。
「お茶をもう一杯」
弥生がそう言った時。
「きゃあああああああああ!」
奥から悲鳴が上がったのである。
次回へ続きます。
ちょっと土地の描写がくどかったかもと反省しております




