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巻の三十五   焼き餅と誘拐(前)

巻の三十五   焼き餅と誘拐(前)


 冬の京の都を歩く直也と弥生。

 弥生は感慨深げに歩を進めていた。直也はそんな弥生の心中を察し、無言で少し後ろを歩いていた。

 二条、そして一条。

 一条戻り橋のたもとで弥生は足を止めた。その先にあるのは高い塀を巡らした屋敷。直也も、なんとなしに見覚えがある気がした。それで弥生に聞いてみる。

「弥生、ここはひょっとして…」

「うむ、陰陽博士、安倍泰親殿の屋敷があったところじゃ」

 安倍泰親。弥生の前身、玉藻前の正体を見抜いた陰陽師だ。箱根で鴉天狗の地鎮坊に見せられた幻影で、直也は堀越三郎となってこの屋敷を警護していた。見覚えがあるはずである。

「そして、このあたりで三郎殿と出会ったのじゃ…」

 静かに弥生が呟く。

「そうだったんだな…」

 相槌を打つ直也。

 しばらく佇んだ後、弥生は直也を振り返った。その顔には、それまでの暗さは見られなかった。

「さて、儂の昔馴染みとてもうおらぬ。過去は過去。…直也、付き合ってくれて済まぬ。礼を言う」

「何だよ、水くさい事を言うなよ。…それじゃあ、どこへ行こうか?」

「うむ、案内なら任せよ。…とはいえ、ここにいたのはもう五百年以上も前の事じゃから、随分と変わってしまっておるがのう」

 そう言いながら、東へと歩いていく。

 御所の北側を回り、鴨川を渡った。そのまま更に東へと行く。

 着いたのは慈照寺、別名銀閣。室町幕府八代将軍の足利義政が建てた寺である。

 そこからは南へと向きを変え、東山沿いに見物していく二人であった。

 法然院、真如堂、南禅寺...。

 知恩院の石段を登るのも、旅慣れた今はどうと言う事もなかった。境内は参詣人で賑わっている。

「京の都っていうのはお寺が多いな…」

「うむ、儂がいた頃はこれ程ではなかったが、応仁の乱の後、末法の世ということで人々は仏に縋るようになったのかも知れぬ」

 そんな会話をしていた時、女の悲鳴が聞こえた。

 そちらに目をやると、若い娘が三人、遊び人風の男数名に取り囲まれていた。

 弥生は、

「直也、どうする?助けるのか?」

「え?…あ、ああ、…これだけ人がいるのに誰も助けようとしないのか?」

 参詣客は遠巻きに見ているだけであった。

「やいやい、足を踏んでおいて知らん顔とはどういう気じゃい!」

 兄貴格の男が凄む。良く見ると、手代だろうか、若い男が倒れている。殴り倒されたのだろう。

 しかし残った三人の娘のうち、姉と思われる娘は勝ち気なようで、

「なにゆうてんねや! そっちがわざと足ぃ出したんやろが! そうやっておあしせびってるんやな? このすぼけ!」

「お、お姉ちゃん…」

 妹の方は蒼白だ。女中らしい娘は二人の前に立ち、守ろうと身構えている様子が健気だ。

「ほうほう、威勢のええ姉ちゃんやな。いつまでそんな顔してられるか見物や!」

 女中を突き飛ばすと、男が右手を振り上げた。姉娘は思わず身を竦ませる。しかし、男の手が振り下ろされる事はなかった。

「い、いててて…何すんねん、わりゃ!」

 男の右手を捻り揚げたのは直也。

「娘さんに手を挙げるのは感心しないな。別段怪我もしてないようだ。ここらで引っ込んだらどうだ?」

「色男ぶりやがって! お前ら、こいつをしばいたれ!」

 手下どもが殴りかかってきた。前にもこんな事があったな、と頭の隅で思いながら、直也はそれらをかわした。

 それは江戸、不忍池畔でのこと。あれから直也は小野派一刀流を修め、身のこなしも違ってきている。

 易々と五人の男の攻撃をかわしていく。かわしながら、軽く拳で鼻の頭や顎の先を突く。

 男達に戦意が無くなってきた。一筋縄でいかない事を悟ったのであろう。

「ち、ちくしょう、…今日のとこはこれで引き下がったる。次はこうはいかんからな!」

 捨て台詞を残して去っていく男達。直也がそのまま弥生のところへ戻ろうとすると、

「あの、…助けてくだはりましておおきに、…失礼やけど、旅のお人ですやろか?」

 直也の袖を引いて、話しかけてきたのは三人の娘のうち、女中かと思われる娘。

「お嬢はんが、是非ともお礼したいと言うてはります。どうか、一緒に来てくれまへんか」

 女中らしき娘に懇願され、お嬢さん二人の父親が営む呉服商、『はなだや』へやって来た直也と弥生。

 奥の間に通され、もてなしを受けていた。

「直也さんとおっしゃるのどすか、先程は助かりました」

「お強くてらっしゃりますなあ」

「いやあ、まだまだですよ」

 そこへ、先程の女中がお茶と茶菓子を持ってきた。

「お召し上がりやす」

 お茶は宇治茶、茶菓子は和三盆の干菓子。

「これは美味しい」

「お気に召しましてよかったわあ、たんと食べとくんなはれ。…うちはみねと言います」

「うちはてるです、どうぞよろしゅう」

 姉が峰、妹が照、というらしい。お峰はやや痩せ形で、ちょっときつめな顔立ち。実際に気性も勝ち気のようだ。

 お照はおっとりとした感じで、姉妹だが正反対な性格のようである。

「そんでこの子があき、名前はきれいやけど、しょうもない子です」

 直也は驚いた。女中かと思っていたら、姉妹の一人らしい。

「晶です。…よろしゅう」

 お辞儀をすると、出て行ってしまった。

「晶…」

 直也の顔に、寸の間、何かを思う色が走った。が、すぐにそれは消えて、

「晶さんは…なんであんな事を?」

 当然の直也の質問。それに対してお峰は、

「あの子はお妾さんの子どすから。うちらとは母親が違いますのん」

 それを引き継いでお照が、

「父のお妾さんだった母親がのうなったので、うちに引き取られましたん。ほんでああやって下働きをさせてるのどす」

「……」

 家庭にはそれぞれの事情があるものだ、と直也は思った。

 そこへ、主人がやって来た。

「あ、お父ちゃん」

「お峰、お照、この人か、お前達を助けてくれたというのは?」

「そうや、直也さんといいはるん」

 主人夫婦は直也と弥生の正面に座ると、丁寧に辞儀をして、

「はなだやのあるじ、精兵衛です」

「直也です」

「弥生と申します」

 精兵衛は懐から袱紗ふくさを出すと、

「これはお礼です。これを持って帰っておくれやす」

 と言い放った。

「お父ちゃん!? なに言うてはるん?」

 お峰が抗議する。

「そうや、もう夕方や、今日は泊まっていってもらおう思てたのに」

「何いうてんねや、どこの馬の骨ともしれん男を泊められるか。どうせ金目当てで助けたに決まってる」

「お父ちゃん!」

「お言葉ですが、ご主人」

 言い争う父娘に、今まで黙っていた弥生が、口を挟んだ。

「直也はお嬢さん方が危ないと思ったので助けただけ、他意はありませんぞ」

 そして懐から紙入れを出し、中身を出して見せる。小判である。ざっと五十両はありそうだ。

「金ならこの通り、不自由しておりません。見くびらないでもらいたい」

 そう言って、小判と紙入れを懐に仕舞った。

 それが木の葉であることを知っている直也は、ああ、こう言う時に役に立つんだな、と妙な感心の仕方をしていた。

 当の精兵衛は驚いた顔で、

「…早とちりでやくたいな事を言うてしまいました。許しておくれやす」

 そう言って頭を下げて謝った。

 直也と弥生はそれで腹立ちを解く。更に精兵衛は、

「最近、何かとうちの娘に近付こうとする輩が増えまして、ついあんなえげつない事言うてしもうて…」

 そう言ってもう一度頭を下げた。


 その日は、お峰の言った通り、泊めて貰う事になった。

 夕食は鯛の尾頭付き、河豚鍋。豪華なものである。

 部屋も大したものであった。真綿の入ったふかふかの布団、なんと五布いつの仕立てである。

 火鉢にはたっぷりと炭が入れられ、歓迎されたようだ。

 精兵衛の商人らしい変わり身の早さに弥生は苦笑していた。

「直也、ここの娘達じゃが、どう思う?」

 弥生が尋ねてきた。

「どうって…まあ、普通じゃないか?」

「ふん、あのお峰とか言う、姉の方じゃな、多分お主に気があるぞ」

「え!?」

 驚く直也。

「だって、今日会ったばかりだぞ?」

「色恋にそんなのは関係ない。お主も最近、いい男ぶりじゃからの、娘っ子が惚れるのも無理はない」

「弥生…」

 冷静に言う弥生に、直也は不満そうだ。

「ふ、だからといって、お主が惚れてやる義理はないからのう。勘違いするでないぞ」

「弥生…何か楽しんでないか?」

 弥生は笑って、

「まあ、しばらくやっかいになるとしようぞ、助かるし」

 と言って布団に潜り込んでしまった。直也は苦笑するばかりである。

 じきに弥生の寝息が聞こえてきたので、直也も寝る事にした。

 

 翌朝の朝食も豪勢なものであった。弥生は遠慮無く平らげていく。

 膳が片づけられると、お峰とお照の姉妹がやって来た。

「直也はん、今日はうちらが京の町をご案内します」

「それは有難いですね」

 素直に礼を言う直也。

 晶に荷物を持たせると、お峰、お照と直也、弥生は連れ立って出かけた。

 まずは八坂神社へ。

「祇園さんどす。疫病を祓ってくれはるありがたーい神さんどす」

 そしてゆっくりと、石畳の小路を抜けて、二年坂を登り、産寧坂を登れば、清水寺は近い。

 道中、お峰は直也にしきりと話しかけてくる。

「直也はん、お生まれは東国どすか?」

「お歳はいくつにならはりますのん?」

 弥生の眼力は大したものだ、と一人感心する直也。あたりさわりのない返事をしながら、清水寺の境内に入った、

 清水の舞台。そこから眺める京の都は圧巻であった。

「おや、お峰さん、お照さん、お晶ちゃん」

 男の声がした。見ると、絹の羽織を着た、二十歳前後の若い男が小僧を伴に連れて立っていた。

 大店の若旦那と言った雰囲気である。

「あら、清治郎はん」

 お照がちょっと頬を染めている。清治郎に好意を持っているらしいことは直也にも分かった。

「こちらの方は?」

 直也の方を見て尋ねる清治郎。お峰が、

「直也さん言いましてなあ、昨日うちらを悪い男衆から助けて下さったんどす。ほれで、うちに泊まって頂いて、京を案内しとるとこどす」

「ああ、なるほど。…直也さんとおっしゃいますか、私は清治郎、はなだやさんとは懇意にさせて頂いております『浅草屋』の倅です」

「直也です、見聞を広めるため、旅してます。よろしく」

「…直也さん、お生まれは東国ですか?」

「ひょっとして清治郎さんも?」

 上方訛りが無いのでお互いにそうとわかる。清治郎は直也の肩を叩いて、

「ここからは私が案内しましょう」

 半ば強引に直也を引っ張って行った。

「あ、直也はん…」

 お峰が未練気に呟くが、当の直也は既に清治郎と清水坂を下っていってしまった。


*   *   *


「まあ一杯」

 清治郎が酒を注ぐ。ここは清治郎の馴染みの料亭のようだ。

「おまたせしましたあ」

 芸者衆が入ってきた。昼間だというのに。

「おお、定奴さだやっこ姐さん、待ってました。賑やかなの頼むよ」

「あい」

 定奴と呼ばれた年増の芸者が三味線を弾き始めると、一緒に来た年若の芸者二人が舞を舞う。

 それを見ながら酒を飲み、肴をつまんだ。

 強引な誘いではあったが、直也は不思議とこの清治郎が嫌いではなかった。

 一見豪快ではあるが、意外と気配りが出来、裏表のない性格。いかにも、大店おおだなの二代目らしい。直也は清治郎をそう評価した。

「清治郎さん、何か俺に話があったんじゃないですか?」

「直也さん、他人行儀は止めましょう。『清さん』とでも呼んで下さい。あたしも『直さん』と呼ばせてもらいますから」

 直也は笑って、

「それじゃ清さん、何の話が?」

「直さん、意外と鋭いですね。…実は、お晶ちゃんの事なんですよ」

「晶さん?」

「有り体に言いますとね、今、はなだやさんとうちの間に縁談が持ち上がってまして、その相手というのがお照さんなんですよ」

「ははあ。…それで?」

「でもわたしは、…お晶ちゃんが好きなんです」

「なるほど…で、それと俺にどう関係が?」

「ひょっとして、直さんに、お晶ちゃんとの話があったんじゃないかって…」

 そう語る清治郎は顔を赤らめている。意外と純なようだ。

「それはないです。…なんか、お峰さんが気のあるようなそぶり見せてますけど、どっちにしろ俺にはそんな気は毛頭無いですから」

 清治郎はほっとした顔で、

「ああ、それなら良かった。…ま、一杯」

 三味線の曲が変わった。浮かれるような曲。気が晴れた清治郎は立って踊り出した。

 芸者衆と一緒に踊る。遊び慣れているようだ。それでも、好きな娘の事になると、顔を赤らめる。そんな清治郎に好感を抱いた直也であった。


*   *   *

 

 一方、取り残されたお峰とお照、そして弥生。弥生は、以前地鎮坊に直也を攫われて以来、自分の髪を直也の着物に縫い込んであるから、どこにいても直也の気配は手に取るように分かる。

 今、直也はくつろいでいた。

(思えば直也には同年代の友人というものがおらんかったからのう…たまには良いか)

 隠れ里の人口は少なく、当主である直也の家のそばには、直也の友達になれるような男の子がいなかったのである。それどころか民家もない有様。

 それで、直也は同年代の男の子と遊んだ事はなく、自然、弥生が相手をして遊んでいた。

(悪い奴ではなさそうじゃし…少し直也の好きにさせてやるとしよう)

 そんな弥生の心中は、お峰やお照に判る筈がない。二人ともぶつぶつ言っている。特にお峰は、

「清治郎はんでなかったら文句の一つも言うてやるのに。…だいたい、縁談の相手のお照がここにいるのに、失礼やわ」

「お姉ちゃん…」

 大人しいお照は赤くなっている。お峰は弥生に、

「弥生はん、うちらもどこぞでお昼にしまひょか。何か、ご希望あります?」

「そうじゃな、油揚げ料理があったら食べてみたいのじゃが」

「それでしたら、豆腐料理の店があります。そこ行きまひょ」

 それで、弥生達はお峰の言う豆腐料理屋へと向かった。

「弥生はん、直也はんって…」

 料理を食べながら、お峰が切り出す。

「…好きな人とかいたはりますのんか?」

「…今のところ、そういう事は無さそうじゃが…」

 弥生も歯切れが悪い。下手な事を言うと、このお峰は勝手に突っ走りそうである。

「こういうことは本人でないと判らぬ事もあります故」

「それもそうどすなあ。…ささ、食べてくだはりませ」

 京の豆腐は美味い。その豆腐でこしらえた油揚げも美味である。弥生はこの際、自分も楽しむ事にした。


*   *   *

 

 一方、直也達は、店を変え、お座敷を楽しんでいた。

 冬の日はもう暮れようとしているが、座敷には明々と明かりが灯され、賑やかな声が響く。

 直也はこういった騒がしい席は嫌いなのだが、清治郎が一緒な為か、そこそこ楽しんでいた。

 半玉(見習い)二人、芸者二人、幇間一人。

 半玉の踊りはまだまだだが、その初々しさがいい。姉芸者の踊りは流石で、目つき、手つき一つ一つが色っぽい。

「直さんはどっちかといえば、半玉より芸者の方がお好みでしょう?」

 清治郎は直也の目つきからそう判断する。何というか、遊び慣れているようだ。

 確かに、年下より年上、大人しいよりちょっときつめの方が自分の好みかも知れない…。直也は秘かに清治郎の眼力に感心した。


*   *   *

 

「遅いですね、直也はん…」

 お照が心配そうに言う。

 もう空には星が瞬き始めている。

 弥生には直也の気配から察するに、座敷で酒を飲んでいるようだと言う事はわかっている。危険とかそう言う事はないが、やはりなんとなく寂しかった。

「清治郎はんが一緒やから、心配ないとは思いますが…」

 お峰もそう言い添える。

「ただ清治郎はんは遊び人やからなあ…」


*   *   *

 

「もう飲めないよ…」

 直也が音を上げる。

「直さんはあまり強くないんだな。…今日は泊まっていくとしますか。…いいですよね?」

「…清さんに任せます…」

 そう言って畳に横になる直也。その直也を、芸者の一人がそっと介抱し始めた。

「あまりこういうとこ慣れてらっしゃらないのどすな。…この人はあてが面倒見ますさかい」

「それじゃ直さんは玉菊にまかせるよ。…お紅、お澄、おいで。奥で飲み明かそう」

 半玉を誘って奥へ行く清治郎。

 直也は完全に酔いつぶれ、玉菊のなすがままであった。

 

 深夜。

 弥生は布団の横に座り、直也の気配を探っていた。

(おなごがそばにおる…添い寝しておるのか?…直也…)

 知らず知らずのうちに感情が尖ってくるのが判った。はっと我に返る。

 昼間は、直也に同年配の友人が出来て喜んでいたというのに。

(儂は何をしとるのじゃろう…直也が楽しんでいるのをこそこそ嗅ぎ回ったりして…)

 直也ももう一人前、何をしても弥生がとやかく言う歳ではない。それはわかっている。

 しかし。

(直也のそばにおなごがおる…そばに…おなごが…)

 自分がいるべき場所に別の、見知らぬ、おそらくは商売の。

 女がいる。

 それがなぜだか悲しかった。

 直也が嫁を迎えれば、当然その嫁と直也は夜を過ごすことになる。それはわかっている。

 …つもりだった。

 結局弥生はまんじりともせずに一夜を明かしてしまった。


 翌朝、かなり日が高くなって、直也が帰ってきた。清治郎も一緒で、直也を一晩付き合わせた詫びを言って帰って行った。

「直也はん、心配したんどすえ」

 お峰が直也に恨めしげな視線を向ける。直也は、

「ごめん。…何となく断りづらくって」

 目で弥生を捜す。弥生は奥の座敷から顔だけ出して直也を見ていたが、直也の視線に気が付くと、顔を引っ込めてしまった。

「…弥生…?」

 奥へ向かう直也。

 自分達があてがわれた奥座敷、その襖を開けると、正座している弥生の背中が見えた。

「…ただいま、弥生」

「おかえり」

 背を向けたまま、弥生は答えた。

「悪かったよ、連絡もしないで。…ちょっと断りづらくてさ。…清治郎さんのおごりで、料亭でお昼を食べて、それから…」

「別にそんな事聞いておらぬ」

 弥生のそっけない返事。

「いや、だからさ…」

「お主も一人前じゃ。夜遊びしようが何しようが、いちいち儂に報告なんぞせんで良い」

 そう言いながらも顔を向けようとしない弥生。

「弥生、…怒らないでくれよ…」

 そう言って直也は弥生の肩に手を掛けた。その手を弥生は振り払って叫んだ。

「他のおなごを抱いた手で儂に触るでないっ!」

「……」

 弥生の言葉に唖然とする直也。

 叫んだ当の弥生は、自身の語気の強さに驚いて、

「…す…済まぬ」

 と謝り、つと立って、店の方へと逃げるように出て行ったのだった。

 直也はそんな弥生を追う事も出来ず、一人部屋に立ちつくしていた。

 

「直也はん」

 呼ぶ声に振り返ると、お晶が立っていた。

「弥生はん、昨夜…多分一睡もしてないのと違いますやろか」

「え」

「今朝、お布団畳みに伺うたら、使うたあとがなかったんどす」

 そう言って直也の襟元を嗅ぐ。

「白粉の匂いや…やっぱり昨夜は…」

「ち、違うよ、俺は酔いつぶれてしまって、それを芸者さんが介抱してくれただけだよ、本当に!」

 お晶はくすりと笑って、

「うちにそないなこと言うてもあきまへん。弥生はんに言うてあげんと」

「あ、ああ。…だけど、とりつく島もなくってさ…」

「まあしかたおへんな。ご自身が撒いた種やさかい。そやけど、弥生はんも直也はんの事憎うてあんな態度とってらっしゃるわけやないと思います。...弥生はんはきっと、直也はんの事好いてはるんどす」

「え?」

「せやさかい、朝帰りしなはった直也はんにどないな顔したらいいか判らんのと違いますやろか」

「弥生が…?…まさか」

 弥生は自分の事、子供扱いしてばかりいる。そんな弥生が自分の事を好きだとすれば、それは弟か、妹の息子…甥に対する「好き」に違いない。

 そう直也は自分を納得させ、弥生の後を追って店へ出てみた。しかし見わたしたところ、弥生はいなかった。

「あ、直也はん」

 代わりにお峰が寄ってくる。

「直也はんは織物に興味ありまへんやろか?」

「…それなりにありますよ」

 そう答えると、お峰が我が意を得たりといった顔をした。

「それじゃあこれ見とくれやす」

 そう言って、西陣織の反物を引っ張り出してきた。

「直也はん、どんな柄がお好みですの?」

 金糸銀糸織り込んで作られた西陣織。

「何で西陣織って言うんですか?」

 直也の問いにお峰は、

「応仁の乱の時、西軍が本陣としたところに職人が集まって織物を始めたので西陣織というんどす」

 さすがに反物屋の跡取り娘である。

 そんな折、店の片隅に見慣れない反物がある事に気が付いた。絢爛豪華な西陣織とは違い、白地に絵が描いてあるようだ。

「あれは?」

 お峰に頼んで見せてもらう。

 白い絹に、色鮮やかな絵が描かれている。

「宮崎友禅斉って方が考案されたもので、その名前をとって友禅染いうものどす」

 絵の好きな直也は、しばし見とれていた。

「何て見事な…しかし、これって筆で描いたんでしょう?…何でにじまないんでしょうか?」

「さあ、それは…うちらにはわかりまへん。やはり秘伝があるんやろとは思いますが」

「そうでしょうね。…一度、これを作るところを見てみたいな」

「あ、それやったら清治郎はんに頼まれはったらよろしいわ。清治郎はん、友禅斉はんの息子はんと親しいようやから」

「そうですか、それなら今度頼んでみましょう。…しかし、染めたにもかからわず、絹の風合いが損なわれていない…素晴らしい」

 お峰はそんな直也に、

「直也はん、うちが思てた通り、繊細な方やなあ。うちもこの友禅染はこれから売れる思てんのどす」

 そんな話をしていた矢先のこと。

「あのう、うちの若旦那、こちらに来ておりませんでしょうか?」

 浅草屋の手代らしき男が尋ねてきた。直也は、

「清治郎さんなら、俺を送ってきてくれてすぐに帰られたよ。…まさか、帰っていないのか?」

 浅草屋のあるのは四条河原町。はなだやは三条花見小路、目と鼻の先とも言える距離だ。

 いくらなんでももう帰り着いていなければならない。

「何かあったんでしょうか…」

 心配顔の手代に、

「清治郎はんは気まぐれやさかい、どこぞに寄り道されてんのと違いますか?」

 お峰はそう言うが、お照は手代と同様、心配顔である。

「ちょっとそこら辺捜してきましょう」

 直也はそう言って店を出た。清治郎を捜す傍ら、弥生も捜すつもりであった。

後篇に続きます。

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