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巻の三十三   封印

 伏見に到着です

巻の三十三   封印


 直也と弥生は順調に旅を続け、冬らしくなった長月の終わり、京都にさしかかった。

 髭茶屋追分(大津市追分町)で東海道から京街道に入る。伏見へ向かうためだ。

「…あまり気は進まんのじゃが、挨拶せぬ訳にもいかぬからな…」

 全国の神道系稲荷社の総本山、伏見稲荷へ立ち寄るためである。

「やっぱり弥生も狐なんだなあ」

 直也が変な所に感心している。

「それはそうじゃ、…そしてここには、天狐様がおられるしのう」

「弥生の憧れの狐神様だもんな」

 そんな話をしていた二人の前に、いきなり巫女が現れた。

「直也様と弥生様でいらっしゃいますね?」

 弥生が身構える。

「貴様、どこから現れた?」

「そんなに警戒なさらないで下さい」

 巫女が笑う。

隠形おんぎょうの法を使うな?お前は何者じゃ?」

 いつの間にか、周りにいたはずの旅人達の姿が見えない。直也と弥生だけが、別の世界に来てしまったかのようだ。

 実際にそうなのかも知れない。が、直也がそれを指摘しても弥生は慌ててはいない。

 狐が使う術なので、大して気にしていないのだろう。弥生ならその気になればすぐに破れるから。

 それよりも眼前の巫女が気になっていた。人のようでいて、人ではない気配がする。その巫女が言った。

「直也様と弥生様の事は天狐様から伺っております」

「天狐様じゃと…?」

「はい。江戸の四谷追分稲荷社からのお遣いがこちらにもいらっしゃいましたから」

 そう言った巫女は、二人の先に立ち、ずんずん歩いていく。

「そちらは伏見ではないようじゃが…?」

 警戒を緩めず弥生が問いかける。

「ええ、今現在、伏見のお山には天狐様以下、百名を越える御先稲荷おさきとうが様が集まっておられるのです」

 笑みを絶やさず、巫女が説明する。

「それでお二方には、失礼ではございますが、こちらでお話を伺いたいということでございます」

「誰がじゃ?」

「三の嶺の主領様です」

 主領とは御先稲荷の最上位に位置する狐である。天狐に次ぐ位といえるだろう。

 伏見では一の嶺の主領は天狐様であるという。三の嶺の主領ということはつまり伏見で第三位の地位にある狐が二人を招いているという事になる。

 こちらと案内されたのは街道を少し離れた所にある神社。境内は綺麗に掃除され、清々しい。

 鳥居をくぐり、本殿に上がると、思ったより広かった。

「こちらでお待ち下さい」

 通された広間には火鉢が置かれ、心遣いが見て取れた。だが弥生は直也をいつでも守れるよう、気を張りつめたままでいる。


 しかし長く待つ事もなく、二人を招いた主領がやって来た。

 白い浄衣に身を包み、烏帽子を被り、黄金造りの太刀を履き、凛々しい出で立ちである。

「久しぶりですね、みくず、いえ今は弥生でしたね」

「…?」

 弥生はその主領の顔をまじまじと見る。…と、

あららぎか?…」

「そうです。…ほんに、久しい…」

 弥生の緊張が緩む。

「弥生?…知り合いなのか?」

 直也のその問いにはあららぎと呼ばれた狐が答える。

「ええ、直也殿、私とみくず…弥生はその昔、天狐になろうと修行していました、その時からの知り合いです」

「そうだったのか…」

「あの頃から弥生は飛び抜けた力を持っていました。あのまま修行を続けていれば今頃は天狐になっていたでしょうに」

「…もう言わんでくれ」

「そうですね、昔話をするためにお招きしたのではありません。他ならぬマーラについて相談するためです」

「うむ、そうではないかと思っていた」

 そこへ先程の巫女がお茶とお茶菓子を持ってやって来た。

「まずは私から話しましょう、お茶でも飲みながら聞いていて下さい」

 そう前置きして、あららぎは話し始めた。


「江戸から知らせが来たのは二月ほど前の事です。

 マーラの過去の所業と現在の状態、そしてやり口などの説明がありました。

 それを受けてすぐ、全山の狐達に連絡が行き渡り、警戒に入りました。

 初めの一箇月で、京の都とその周辺で全部で十一の小さな事件があり、そのうち八つがマーラもしくはその使い魔の仕業でした。

 その後一箇月では事件は三つに減り、マーラがらみのものは一件もありませんでした。

 それで一応の警戒は解かれ、通常の監視体制に戻っています」


 あららぎはそこで一息入れた。

「お二人の事は江戸からのお遣いから聞きました。また、各地に散らばる稲荷社からもお噂は届いております。

 箱根でのこと、富士宮でのこと、そして中山峠でのこと。

 お二人もマーラの企みを潰して下さっている事を知っています。

 マーラは、それこそ無数に散らばり、巧みに人や妖の隙をついてその悪事を遂げようとしています。

 それは何としても防がねばなりません」


 あららぎは直也を見つめ、

「直也殿は既に龍神の加護を得、天狗の秘薬も所持しておられる。

 人とはいえ、今後益々ご活躍して頂きたい人材です。それで」

 一呼吸置いて、

「伏見稲荷社からも直也殿に宝具をお授けしたいと思っております」

「ちょっと待ってくれ」

 弥生は渋い顔で、

「直也に期待を掛けてくれるのは嬉しいが、その為に直也を危険に曝すのは儂としてはお断り申し上げる。本来マーラについては霊的立場にある物達で何とかすべきものであって、今までマーラの企みを潰してきたのは意図せず巻き込まれたからに過ぎん」

「わかっております。別にこれによって直也殿に積極的に何かやって欲しいという事ではありません。直也殿には、…弥生、あなたのために、無事でいて欲しい、それだけなのですよ」

「…どういう意味じゃ?」

 あららぎは真剣な目つきで、

「弥生、地鎮坊殿の所での一件も耳にしています。…それだけ言えばわかるでしょう?」

 …わかりすぎるほどわかる。直也を失った弥生が再びマーラに利用され、暴走するのを恐れているのだ。

 つまり、大きく見れば、直也を護る事がすなわちマーラの企みを潰す事に繋がるとも言える。

「…ということで、直也殿、こちらへおいでいただけますか?」

 あららぎは立ち上がると、直也を招く。

「何をするのじゃ?」

 弥生が尋ねる。

「弥生はそこにいてもらいます。…大丈夫ですよ、『直也殿に』何かするわけではありません。宝具をお授けするだけです。すぐに済みます。…さ、直也殿」

「弥生、大丈夫だよ、ちょっと行ってくる」

「何かあったら儂を呼ぶのじゃぞ?」

 弥生は心配を隠せない様だ。

「大丈夫ですよ、弥生、本当にすぐですから」

 そう言ってあららぎは直也を奥の部屋へと伴って行った。

 私室だろうか、こぢんまりと片づけられた部屋、そこに直也を招き入れ、文机に乗せてあった小さな箱を取り上げ、

「これです」

 光が直也の目を射た。

 あららぎがその小箱から取り出した物は、直径が二寸ほどの丸い小さな鏡。

「これは大きな術を反射する宝具です。これを身に付けていれば術に対しての防御になります」

「大きな術…というのは?」

「雷、火炎、風刃、水槍、傀儡くぐつ、呪縛…そんな術です。全ての術をはね返す物だと、いろいろと不都合が出てくるのですよ。たとえば、『伝心』などの遠距離会話術や『遠鏡』などの遠距離支援術、それに『障壁』などの暴力から護るための術まで効かなくなってしまいますから」

 直也は少し考えて、

「ということは、この鏡では純粋な力による攻撃は防げないという事ですね?」

「そうです。刀や槍、弓矢による攻撃、それに打撃などは防げません」

「それでも、只の人間である俺には有難い宝具です。…いいんですか?貴重な物なのでは?」

 あららぎはうっすらと笑って、

「確かに、二つと無い宝具ではあります。でも、いいのです。…お詫びの意味もあるのですから」

「どういう意味ですか?」

 あららぎは耳を澄ますと、

「…そろそろ始まった頃ですわね」

 と呟いた。その目は氷のように冷たい光を湛えていた。

 直也はいやな予感を憶えた。


 一人残された弥生。

 と、空気が緊張するのが感じられた。いつの間にか、広間の周りに、百人余りの狐が揃っている。

 皆、浄衣を身に着け烏帽子を被り、御先稲荷おさきとうがであることが一目でわかる。

「…大勢で何用じゃ?」

 その中の一人が進み出た。

「お初にお目にかかります。それがしは増穂ますほ、主領をつとめてござる。

 この者達は近隣から集まりし御先稲荷。申し訳ないがあなたを封印させて頂く」

「…そんなことが出来ると思っておるのか」

 弥生が全身に妖気を漲らせるのがわかる。その場にいた狐達の顔に驚きの色が浮かんだ。

「…あなたに逆らわれたら出来ませんな。しかし、逆らえば直也殿の命の保証は致しかねると言ったら?」

「何じゃと…騙したのか!?…いつから霊狐が人を騙して良いとなったのじゃ?」

 増穂は笑って、

「直也殿を騙したりはしておりませんぞ。打ち明けていないだけ。…むしろ直也殿には宝具を授けております。…騙したのは弥生殿、あなたのみ。あなたは人間ではない」

「…物は言い様じゃな」

 増穂はその皮肉を聞き流すと、

「…で?…どうされますかな? …あなたに逆らわれたらおそらく我等百八の御先稲荷と言えども、太刀打ち出来ないでしょうが」

 弥生は苦々しげな顔で、

「何故こんな手の込んだ事をする?」

「…あなたは強すぎる。あなたの力はひょっとしたら天狐様をも凌いでいるやも知れません。その力を野放しにしておくのは余りにも危険だ。玉藻前の二の舞いになったら今度こそこの国は滅びることにもなりかねない」

 弥生はそれには触れず、

「…儂がいなくなった後、直也は誰が護る?」

「その点に付きましても考えております。御先の一人が命に替えてもお守り致します」

「…そうか」

 弥生は身体に込めた力を抜いた。

「それに、弥生殿、あなたは認めたくないかも知れませんが、あなたがくっついていたら、直也殿は何時までも妻を娶る事は出来ないでしょうな」

「なんじゃと!?」

「…あなた自身気が付いていないでしょうけれど、あなたが気に入る程の娘は人間界には希有です。居もしない娘を捜すなんて無駄だとは思いませぬかな?」

「…」

 それは以前、鎌倉でも聞いた言葉。ここ伏見でも同じことを言われたことで弥生の中の何かが砕けた。直也の嫁を探すと言って、その実、機会を遠ざけていたとは…それも自覚せずに。

 自惚れていた。自分が直也の事を一番考えていると。が、実際はそうではなかった。

「…直也の身の安全は保証するのじゃぞ」

「申すまでもありません。狐族の誇りに掛けて」

「…そうか」

「さて、時間がありません。…お気が変わる前に始めるとしますか」

 百八の御先稲荷が印を結び、呪を唱える。その中心には弥生。

 全ては直也のため。そう自分に言い聞かせて弥生は覚悟を決める。術が身体に食い込んでくるのがわかった。

 身体の自由が奪われる。四肢は伸びきり、空中に吊り上げられた。

 次いで、身体の力が吸い出されていくのがわかる。それと共に意識も薄れていく。薄れる意識の中で弥生は直也の事を思っていた。

(直也…お主と過ごした年月…楽しかったのう…)

「弥生!!」

 そこに直也の声が響いた。

「放せよ!…お前ら! 弥生に何をするんだ!」

 その隣にいるのはあららぎ、直也を押さえている。

「何でだよ! 弥生が何をしたって言うんだよ!」

「直也殿、何をしたかでは無いのです。何が出来るか、なのです。弥生の力は余りにも危険です。それは地鎮坊殿が喝破された通り。あなたという枷が無くなった時の事を考えると、恐ろしくなります。あなた一人にこの国の安寧を委ねるわけにはまいりません」

 それは正論かも知れない、しかし当事者である直也は断じて承服する事は出来なかった。

「この国の安寧が何だ!…弥生は俺の家族だ!…家族を守れなくて何を守れるって言うんだ!!」

 懐に手を入れ、翠龍を掴む。それを見たあららぎは、

「それ以上邪魔をされたら実力行使もやむを得なくなりますよ?」

「やってみろ!…その時は俺がお前等を根絶やしにしてやる!!…たとえ…たとえ鬼になろうとも、だ!!」

「直也」

 弥生の声が響いた。

 百八の御先稲荷の術中にあって尚響くその声。全員がはっとした。

「…そんな男にお主を育てた憶えはないぞ?…儂がおらんでもお主は立派にやっていける。儂を哀しませんでくれ」

「弥生…何でだよ!…何でこんなこと受け入れてるんだよ!!」

「聞き分けのない事を言うでない」

 直也はがっくりと項垂れ、膝を付く。

「…儂は死ぬわけではない。しばし眠りに就くだけじゃ。お主は今まで通り、元気にやっていくのじゃぞ…」

 宙に浮いた弥生の周りの空間が淡い光を放ち始めた。だんだんとそれは丸くまとまり、小さくなってゆく。

「達者でな…」

 それが弥生の最期の言葉だった。

 光は急速に縮まり、凝縮されーーーーー透明な淡い光を放つ珠になった。

 増穂がそれを手に取ると同時に弥生の身体は床に落ちる。弥生の目は閉じられ、呼吸もしていなかった。

「弥生!」

 駆け寄る直也。急いで弥生を抱きかかえる。弥生の身体はまだ温かかったが、何の反応もなく、人形のよう。

「弥生…!」

 弥生の顔はうっすらと微笑みを浮かべたままである。

「何でだよ…何でそんな顔して逝けるんだよ…!」

 直也の目から大粒の涙が落ちる。そんな直也をあららぎはそっと引きはがすと、

「どいて下さい。術式の邪魔です」

「まだこれ以上弥生に何かするつもりなのか!」

 憤る直也。それを無視したあららぎは、

「華穂」

 と名を呼ぶ。その声に応じたのは先程、直也達を案内してきた巫女。

 華穂かほと呼ばれたこの巫女も狐だったと見え、今は狐耳と尻尾が生えている。

「準備は出来ております」

 そう言うと、弥生の隣に横たわった。

「何をする気だ?」

「…見ていなさい」

 あららぎが呪を唱える。

 そしてその手をいきなり華穂の胸へと突っ込んだ。血を流す事もなく、手首まで華穂の体内へと入り込む。

「な…」

 驚く直也を尻目に、手を抜き出すあららぎ。その手には、赤い玉が握られていた。

 間、髪を入れず、その手を今度は弥生の胸へ。再び抜き出した手にはもはやあの赤い玉は握られていなかった。

「華穂」

 再びあららぎの声。

 弥生の目が開いた。

「弥生!?」

 直也が驚いた声を上げる。

「弥生!?気が付いたのか?…」

 弥生はゆっくりと身を起こすと、掌を見つめ、指を曲げ伸ばしする。それはまるで…

 直也は気付いた。

「そうか、…お前は弥生じゃない!…華穂、とか言ったな?お前は華穂なんだな!?」

「そうです。弥生の力と魂は宝珠に封じ込めました。抜け殻となったこの身体には華穂の魂を宿らせました。

 これからはこの華穂があなたを守ります。今まで通り弥生と呼んでやって下さい」

「直也様、どうぞよろしくお願いいたします」

 弥生の身体に宿った華穂が両手を付いて辞儀をする。

「華穂は、寄方よりかたですが御先稲荷の中でも優秀な狐です。お役に立つと思います」

「……」

 直也は返事をしない。そんな直也にはかまわずあららぎは、

「それでは、私は仕事がありますので、これで失礼します」

 そう言うと、周りの景色が急にぼやけ、気付いた時には直也と弥生ーーー華穂は、森の中の空き地に佇んでいた。

「……」

 直也は弥生ーーー華穂の方を向き、

「華穂ーーーだったな、そう呼んでいいか?」

「出来ますれば弥生とお呼び頂きたいのですが、直也様が華穂と呼びたいというのであればかまいません」

「それじゃあ、華穂」

 弥生の姿、声。しかしその振る舞いは弥生のものではない、ものすごい違和感。それを無理矢理心の片隅に押し込め、

「お前は俺の言う事を聞くんだよな?」

「はい、何でもお命じ下さい」

「よし。…それじゃあ、弥生の封印を解く方法を知っているか?」

「封印を解く方法…ですか?…存じません。あれは主領様でなければ使えない術ですし」

「…それなら、弥生の魂を封じた珠はどこへ運ばれて行ったかわかるか?」

「はい」

 直也は自分の頬を叩いて気合いを込めると、

「それじゃあそこへ案内してくれ」

「そ、…それは…」

「出来ないのか?」

「…あそこは、普通の人間が行ける場所ではありません…」

「それでもいい。案内してくれ。行ける所まで行く」

「はい…」

 その場所とは、伏見稲荷の東北、鬼門に当たる方角。

 半日掛けて直也と華穂はそこへ辿り着いた。

 木が茂った小さな小山。入口には鳥居が立っており、細い道が奥へ続いている。

「ご案内できるのはここまでです。…この鳥居から奥は結界になっております。生きているものが踏み込めば、一歩ごとに生命力を吸い出され、戻ってくる事は叶いません」

「そんな所へどうやって宝珠を運んだんだ?」

「運び入れてから結界を張ったのです」

「奥はどうなっている?」

「私が知っていた時のままなら、突き当たりに洞窟があって、その中に安置されているはずです。その洞窟は更に強力な結界が張られているはずです。…さあ、戻りましょう、直也様」

 華穂が直也の手を取るが、直也はそれを振り払って、

「俺は戻らない。弥生を取り戻しに行く」

「駄目です!…生きて戻る事は出来ないと説明したじゃないですか!」

「…それでも行ってみる。華穂、世話になったな。もう少しここにいてくれ。朝になっても俺が戻らなかったら…そうだな、線香の一本でも…っと、仏教徒じゃないんだったよな、榊の葉一枚でもいい、供えてくれ」

「直也様…貴方様はそこまで…」

「それじゃあな」

 直也は鳥居の奥へと一歩を踏み込んだ。

 途端に凄まじい重圧が掛かって来るのを感じる。体重が十倍にもなったかのように身体は重く、息が苦しい。これでは十歩も歩けないかも知れない。直也は懐の翠龍を掴むと、

「翠、…俺がやっていることが間違っていないなら力を貸してくれ…」

 そう念じて抜き放ち、身体の周りを薙ぎ払う。たちまち身体が軽くなった。

 結界の力を振り切った直也は急いで奥へ向かう。だが、大して進まないうちにまたしても身体が重くなる。

 再び翠龍を振るう。それでまた僅かの間は前へ進める。

 そんな事を何度も何度も繰り返し、日が暮れる頃、ようやく洞窟の前へ辿り着いた。


 今や直也の身体はぼろぼろであった。膝はがくがくし、翠龍を持つ手にも力が入らない。

 今ならまだなんとか引き返す事は出来るだろう。この死の世界から、人の世界へと。

 しかし、可能性がある限り、直也は弥生を見捨てる事など出来なかった。

 決然と直也は前へと足を踏み出し、洞窟へと入って行く。更に強い結界の中と言う事がわかる。

 空気がまるで水飴のように粘っこく、更に動作が鈍り思うように身体が動かせない。

 弥生の全てを封じた珠は淡く輝き、洞窟の奥にあるのが見える。しかし、それは千里の彼方にあるのも同じであった。

 一歩を踏み出すのに呼吸二十回分くらい時間がかかる。直也はもう自分があまり保たない事を感じていた。

 宝珠を手にしたとしても引き返す事は出来ないだろう。

 しかし、何としてでも宝珠までは辿り着いてやるつもりでいた。翠龍は懐へしまう。もう振り回す力は残っていない。

 …一歩、また一歩。永遠とも思える時間を掛け、直也は宝珠へと近付いていった。

 息が切れ、目が霞む。あとわずか三歩、その三歩が永遠にも感じられた。

「弥生…」

 結界に入って初めて、弥生の名を呼ぶ。

 あらん限りの力で手を伸ばす。指が宝珠に触れる。懐かしい温もりが伝わってくる。弥生だ。これこそが弥生だ。

 ようやく直也は弥生を封じた宝珠を手にする事が出来た。

 同時に倒れ込む。もう歩く力は残っていない。ここで朽ち果てる、それでも満足だった。

 望むものを手に入れようとするのが人間で、そのための旅が人生なら、これで満足だと思った。

 自分の手の中に弥生がいる、弥生の全てがここにある。それだけで自分は満足出来る。

 心残りもいくつかあったが、人生なんてそんなものだろう。全てに満足出来る人生なんて無いに違いない。

 一番大事なものを護って逝ける自分は十分幸せだと、そう思って直也は目を閉じた。もう息をするのも億劫だった。

 弥生の宝珠を抱きしめた直也の心臓はゆっくりと鼓動を止めた。


*   *   *


 光が直也の目を射た。

 あららぎがその小箱から取り出した物は、直径が二寸ほどの丸い小さな鏡。

「これを直也様に差し上げたいと思います」

「……」

 直也は夢を見ていたかのような気がした。

 あららぎが鏡の効果について説明しているのを上の空で聞いている。

「直也様?」

「…あ、はい、…ありがとうございます」

「ただいま説明しました通り、お役に立つと思いますわ。…この鏡の名は『ミナモ』と言います。この紐で首からかけて下さい」

 あららぎが直也の首に鏡を掛けてくれる。

「俺…?」

「はい?…どうかなさいまして?」

「ここは…どこです?」

 あららぎはにっこりと笑うと、

「いやですわ。夢でも御覧になったんですの?」

「夢…?」

「本当に、どうなさったんですか?…それでは、目を覚まさせて差し上げましょう」

 あららぎは手に狐火を灯す。白い狐火。直也はぎょっとした。それを直也に向けて投げて寄越した。座っていた直也は咄嗟に避ける事が出来ず…

「……」

 直撃したはずの白い狐火がはね返り、あららぎに向かっていく。それを軽く受け止め、握りつぶしたあららぎは、

「…いかがです?お役に立ちますでしょう?」

 にっこり笑っていう。悪戯好きな狐の表情だ。直也は引きつった笑いを浮かべて、

「あ、ありがとうございます。…大事にします」

 とだけ返事をした。

「それでは戻りましょう、あまり直也様をお借りしていて弥生が焼き餅焼くと困りますから」

 そう言ってくすりと笑う。

 二人は元の広間に戻った。

「おう、直也、早かったのじゃな」

「…弥生?弥生だよな?」

「何じゃ? どうかしたのか?…あららぎに何かされたのではあるまいな?」

「いやですね、弥生。『護りの鏡』を差し上げただけですよ?」

 それを聞いた弥生は驚いた顔をした。

「なんじゃと?…それは…伏見狐の三種みくさの宝具の一つではないか…」

「ええ。でもいいのです。直也様の様な方に使って頂けるのなら。しまっておいてはどんな宝具も意味がありませんから」

「それはいいが…」

 弥生は隣に座った直也をちらと見る。

 直也は弥生の着物の裾をつまんでみたり、髪に触れてみたり、…いわゆる挙動不審というやつだ。

「直也、しっかりせい!」

 その頬を軽くひっぱたく弥生。

「…やっぱり弥生だ」

「じゃから一体何じゃ?…夢でも見たのか?」

「夢?…」

 直也は考え込み、

「…あれ?…俺何してたんだっけ?」

「おいおい、しっかりせい…それではまるで狐につままれたようではないか」

…そう言って笑う弥生。

「今夜はここにお泊まり下さい。…華穂」

「はい」

 先程の巫女が二人を別室に案内する。そこは明るい部屋で、既に膳が用意されていた。片方は弥生の好みそうな油揚げ料理、もう片方は普通の精進料理。

 華穂が給仕に付いてくれ、二人はたらふく食べたのだった。

 食事の後、湯を浴び、部屋に戻ると布団が敷かれていた。なんとなく疲れていた二人は早々と布団に横になる。

 しばらくして弥生が、

「のう、直也、もう眠ったか?…」

「いや、まだだけど…何だい?」

「儂も、…実を言うと、儂も、…夢を見ていたような気がするのじゃよ」

「弥生もか?」

「うむ。…哀しくて、それでも最後は小さな幸せを掴む、そんな夢じゃったような気がする」

「なんだ、弥生も憶えていないのか?」

「元々夢など滅多に見ないのじゃがな」

「俺もさ。覚めた直後は憶えていたような気がするんだけど、今となっては何も思い出せない」

「夢とはそうした物じゃろうな」

「…ほんとに狐に化かされたかな?」

 直也が冗談交じりに言う。

「儂を化かせる狐など…」

 そう言って何かに気が付いたように言葉を切る弥生。

「どうした?」

「…いや、何でもない。…寝るとしようぞ」

「そうだな、お休み、弥生」

「おやすみ、直也」

 

*   *   *

 

 翌日。

 巫女の華穂に送られ、街道へと戻る直也と弥生。

「それでは、ここで私は失礼します」

「ありがとう、あららぎさんにもよろしく伝えて下さい」

「はい、承知致しました」

 華穂は姿勢を正すと、

「直也様、どうか弥生様をよろしくお願いいたします。弥生様、お元気で。直也様をお守り下さい」

 弥生は華穂をじっと見つめていたが、急に頭を深々と下げると、

「天狐様もお達者で。…お世話になり申した」

 それを聞いた直也はびっくりした。

 華穂は笑って、

「…いつ気が付きました?」

「昨日から違和感はあり申した。しかし気が付いたのはたった今です。 天狐様に気が付かなかったとは全くもって不覚でした」

 華穂は身体を震わせる。

 そこにいたのは、束帯姿の天狐ーーー狐耳で、四本尻尾で。

 その天狐は微笑んでいた。

「直也殿の気持ちも、弥生の覚悟も見せてもらいました。あなた方なら心配はないでしょう。どうかお幸せに」

 そう言うと、その姿は薄くなり、見る間に消えてしまった。

「……」

 直也は声もない。

「…うむ…覚えがないが、何か試されていたらしいのう…」

「うん…なんだかそんな気がするよ」

 何か、大事なものを無くしたくない。そんな気がして二人はしばらくそこに佇む。

 手と手が触れ、どちらからともなくその手を握り合った。

 寒風が木々の梢を鳴らして通り過ぎる。それでも二人は寄り添ったまま動かなかった。

 伏見稲荷の巻です。

 弥生が封印され、直也が...


 最初から、夢もしくは幻覚の中で試されていた事にしようと思って書いていました。ただし、夢だったのか、それとも現実で、助かったのか、その辺は曖昧にしようと。そう、「杜子春」みたいな感じで。

それぞれがどんな選択をしたのか、お互いに知らないはずです。


 そして、弥生を試す事の出来る存在として、ちょっとだけ天狐様に登場して頂きました。伏見稲荷の一の嶺の主領は天狐様だそうです。畏れ多いのであまり詳しく描写しませんでした。

 

 それでは、次回も読んで頂けたら幸いです。


 20150131 修正

最後の方、天狐様が着ているのが「衣冠束帯」と書きましたが、「束帯」ですね。

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