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巻の三十二   掏摸小僧

巻の三十二   掏摸すり小僧


 近江の国、近江八幡。近江商人発祥の地として賑わっている。直也と弥生は、その近くで琵琶の海を眺めていた。

 晩秋の空は哀しいくらいに蒼く澄み渡り、風は松の梢を鳴らして通り過ぎていった。

「直也、そろそろ行くぞ?…いつまでもこうしている訳にもいくまい。今宵の宿を探さぬとな」

「…ん、そうだな、行くとするか」

 まだ晶子の宮のことが忘れられないのか、直也はことあるごとに、彦根の方角を振り返っていた。

 その直也がよろめいた。

「おわっ…」

「気をつけよ」

 よろけた直也の手を取った弥生は、

「…直也、熱があるのか?」

 次いで額に手を当ててみる。少し熱い。

「…少し熱があるようじゃのう…少し早いがこのあたりに宿を取るとしよう」

「大丈夫だよ、予定通り草津まで行こうぜ」

「莫迦者。風邪は万病の元と言うてな、たかが風邪と思うているとしっぺ返しを喰らうぞ」

「…わかったよ」

 それで、近くの旅籠を探しに行く。

「おっと」

「ごめんよ」

 十歳くらいのやんちゃそうな男の子が弥生にぶつかり、謝って、また駆けていった。

「大丈夫か、弥生?…あの子供、危ないな」

「…ん?…ふふふふふ……」

「…?…」

 弥生のなんだか不気味な笑い声。直也は、

「どうした、弥生?」

「ん? 大したことではないが、あの小僧、儂の懐から紙入れを掏摸すり捕って行きおった。大した腕じゃ」

「何だって!? 追いかけないと」

 駆け出そうとする直也、その手を掴んで弥生は、

「慌てるな。儂の懐の紙入れは朴の葉、中の小判は椿の葉じゃ。…儂から離れてしばらくたてば元の木の葉に戻ってしまう」

「…何だってそんなもん懐に入れてるんだ?」

「…何となく、じゃ。気分じゃよ、気分。それより宿じゃ。…ここにしよう」

 一番最初に見つかった『つばきや』。椿の葉に掛けた訳ではないが、そこに決める。

「お早いお着きで」

 女中がすすぎを持ってきてくれる。

「連れが少々風邪気味での。静かな部屋を貸してもらいたい」

「はーい。お二人様ごあんなーい」

 別館の奥の部屋を借りる事が出来た。窓越しに琵琶の海が見え、なかなかいい景色である。

 早速布団を敷き、直也を横にさせた弥生は案内してくれた女中に、

「澄まぬが生姜湯しょうがゆ葛湯くずゆがあったら作ってくれぬか」

 と頼んだ。

「はい、それでは生姜湯をお持ちします」

 そう言って女中は引っ込んだ。

「引き初めが肝心じゃからな」

 そう言って笑う弥生の横顔に、直也は昔の事を思い出していた。


*   *   *


「直也、ここまで走って来て見よ」

「よーし」

「おお、速い速い。それでは儂を捕まえられるかな?」

「まてー、やよいー」

 春、野原で弥生と遊んだ事。

 

「直也、深みに気をつけるのじゃぞ」

「うん、わかってる」

「ほら、きれいないしをみつけた」

「底まで潜れるようになったのか、すごいのう」

「このいし、やよいにあげるよ」

「ありがとう、直也」

 夏、弥生と川で泳いだ事。

 

「これがしめじじゃ。美味しいぞ」

「うん、たくさんとって母様におみやげにしよう」

「八重にはあの紅葉の枝もいいのう。採ってこよう」

「やよい、きをつけてー」

 秋、弥生ときのこを採りに山へ行った事。

 

「直也、儂にぶつけられるか?」

「えーい!」

「なんじゃなんじゃ、とどかんではないか。もっとしっかり投げよ」

「よーし、これでどうだ!」

 冬、弥生と雪なげをした事。

 

「筆はこう持つのじゃ。…そうそう。上手いではないか、直也」

「へへん」

 読み書きを弥生に教わった事。

 

「うえーん、やよいのばかー」

「直也、聞き分けのない事を言うと、もう儂はどこかへ行ってしまうぞ」

「…」

「…さよならじゃ、直也」

「…まって!…やよい、…ぼくが…わるかったよ…ごめんなさい…」

「よしよし、わかればいいのじゃ」

 弥生に叱られた事。

 

「直也、ちゃんと百まで数えるのじゃぞ」

「…九十七、九十八、九十九、百」

「よし、上がって良いぞ」

「やよいのせなかながしてあげる」

「お、済まぬな。それじゃあその後儂が直也の背中を洗ってやろう」

 弥生に風呂へ入れて貰った事。


*   *   *

 

 いつも直也のそばに弥生がいた。それを当たり前の事だと思っていた。病弱な母より、弥生といる時間の方が多かった。

 だけれど、弥生はどう思っていたのだろう。

「…ん?…どうした、直也?」

 弥生の横顔を見ながら、昔の事を思い出していた直也は、弥生の声で我に返った。

「…ちょっと昔の事を思い出していたんだ。…俺が熱を出すと、弥生が看病してくれたよな」

「ふふ、そうじゃったな。お主は小さい頃、ちょっとはしゃぐとすぐに熱を出していたものじゃ」

「失礼します」

 先程の女中が、生姜湯を持ってきてくれた。

「おお、手間を掛けたな、これは駄賃じゃ」

「あ、こんなに…ありがとうございます」

 駄賃を渡すと、礼を言って下がっていった。

「ほれ直也、生姜湯じゃ、飲むがいい。身体があったまるぞ」

「うん」

 生姜湯を一気に飲み干す直也。

「よし、それでは夕飯まで少し眠ると良い」

「…眠くないよ」

「横になって目を閉じているだけでも良い。…ここのところごたごたが続いたり、野宿したりしたからのう、疲れが出たのじゃろ」

 そう言って直也の布団を直してやる弥生。直也は、

「なあ、…弥生は…」

「…ん?」

「失礼します」

 再び女中が声を掛けてきた。

「お風呂が空きましたので、どうぞお入り下さい」

「…俺は風邪気味だからやめとくよ。弥生、入って来いよ」

「うむ、…それじゃあそうさせてもらう。大人しく寝ておるのじゃぞ」

 そう言い残して、弥生は湯に浸かりに出ていった。

 残った直也は目を閉じ、また昔に思いを馳せた。

 

*   *   *


 ぴしゃんっ。

「ごめんよー、ごめんよー」

「もう二度としないと誓うか!?」

「…うん、わるかったよー、やよいー」

 悪戯をして弥生に尻をぶたれた事。

 

 ばきっ。

「うわあーーーーーっ!!」

「直也!!」

「あ、ありがとう、やよい…」

 柿の木に登っていたら枝が折れ、真っ逆さまに落ちた時、受け止めてくれた弥生。

 

「母様、桜がきれいだよ」

「直也、この八重桜が満開の時に生まれたので、母者は『八重』と名付けられたのじゃよ」

「そして、春三月、弥生の月にここの里へやってきたので『弥生』というのですよ、ね、姉様」

 母八重と、その八重が姉様と呼んで慕う弥生。


*   *   *

 

 産んでくれた母八重と、育ててくれた弥生。自分には二人の母がいるのだと思っていた幼い頃。

 それがいつしか、弥生のことは姉のように思うようになった少年の日。

 

「直也、気をつけて行っておいで。…姉様、直也の事、よろしくお願いいたします」

「まかせておけ、八重。直也は儂が護る」

 里を出たあの日、弥生は姉から「後見人」になった。

 

 そして旅を続けた今、弥生は直也の…

 

 母親、姉、後見人。…どれも今の弥生とはしっくりこない。直也にとって、弥生は何だろう。家族。それは間違いない。

 では家族だとしたら直也の何に当たるのだろう。

 母が姉と慕うのだから…伯母?…それも違う気がする。いくら考えても答えは出なかった。


 夜中、目が覚めた。早々と寝たせいであろう。

 直也は布団から上体を起こして窓を見る。明るい。夜明けかと思ったが、それは月の光であった。

 障子越しに、下弦を少し過ぎた月の光が見える。そのおかげで部屋の中が薄ぼんやりと照らされていた。

 薄暗い闇の中、弥生の寝顔が見えた。

 その昔、玉藻前の身体からは微光が発せられたという。そのために「みくず」から「玉藻」と名を変えたのだといわれていた。

 今の弥生からは光は発せられていないが、旅を続けていても日に焼けず、色白な弥生の貌は闇の中でも良く見えた。

「弥生って…綺麗だよな…」

 あらためて感慨を憶える直也。

「…ん…む…」

 弥生が寝返りを打った。直也は慌てて布団に横になる。

「いつか…弥生とも別れなくちゃならないのかな…」

 短かった晶子との旅。弥生とは里を出てからずっと一緒であるが、それがいつまで続くのだろう。

 弥生が自分のそばからいなくなる…その日がいつか来る事になるのか。

「やめだ、やめ。…夜に考え事をするとろくな事を考えないというけど、本当だな。考え事は明るい時にするに限る」

 そう自分に言い聞かせて目を閉じる。だが一度目が冴えてしまった直也はなかなか寝付かれない。それでも、明け方近くなって、うとうとと微睡んだ。

 

 弥生と直也は琵琶の海沿いの街道を歩いていた。

「直也、本当にもう大丈夫なのか?」

「大丈夫だって。生姜湯飲んでゆっくり休んだらすっかり良くなったよ」

「それなら良いが…」

 弥生はまだ心配そうだ。

「なあ弥生、」直也が尋ねる。

「…俺の姓が『葛城』っていうのは…本当なのか?」

 数日前、弥生が晶子の宮に対して告げた事。しかし直也はその時まで自分に姓がある事を知らなかった。

「本当じゃよ。…本来ならお主が当主になる時に教えられる事なのじゃがな」

「ふうん…それからさ、」

 弥生が晶子を特別視していた訳を聞いてみる。

「…お主にもう少し行儀や礼儀を憶えて欲しかったのじゃがな…」

「え、そうだったのか」

「まったく、その性格は変わらぬのう…」

 その時、前から子供が歩いてきた。薄汚れた着物を着て、痩せている。

 しかし、一番目を引いたのは、顔の痣であった。左頬が腫れている。殴られたのに間違いない。その子供は、弥生の顔を見ると棒立ちになり、次いで踵を返すと一目散に逃げ出した。

「…何だ?…あいつ?」

 弥生は、

「直也、昨日の掏摸すり小僧じゃ」

「何で顔を腫らしてたんだろう…」

「考えられるのは…元締めにでも殴られたんじゃろうな…」

 直也はちょっと考えて、

「要するに…あの子の上前をはねる奴がいて、そいつが、あの子の稼ぎが悪いと言う理由で殴ったって事か?」

「そうじゃ。お主もこの世界の事、かなり分かってきたのう」

 しかし直也は、

「そんなの…おかしいよ。あんな子供に掏摸すりをさせて…その上前をはねるなんて…許される事じゃない」

「しかしのう、捨てられたり、親に死にはぐれたりする子供がいるのは事実じゃ。そしてそういう子供が生きるためには綺麗事だけでは駄目なのも事実じゃ」

「何とかしてやれないのか?」

「何をしてやれと?…一時の気休めなら、金を恵んでやればよい。しかしそれでは解決にならぬ。金が無くなれば、また元の生活じゃ。一生遊んで暮らせるほどの金は持っておらぬしのう」

 直也は考え込んでしまった。そんな直也に追い打ちをかけるように、

「そういった子供はそれこそあちらこちらに山ほどおる。それ全部を助けられるのか?」

「……」

 更に考え込んでいた直也はついに顔を上げると、

「俺は神様じゃないから、全員なんて助けられる訳はない。…でも」

 さっきの子供が駆けていった方を見つめて、

「関わり合った人達くらいは何とかしてやりたいんだ」

 と言った。弥生はそんな直也に優しい眼差しを向けて、

「ふふ、そう言うと思った。…袖摺り合うも他生の縁と言うからのう」

「何だ?…それ」

「この世で袖と袖がすれ違いざま擦れ合うという、ただそんな事であっても、前世で生じた縁によるものだという事じゃ」

「……」

「まだまだ勉強不足じゃの、直也」

 そう言いながら、子供の向かった方角へと駆け出す弥生。すぐに直也も続いた。


*   *   *


 昨日の事。

「ばっかやろう!何だこれは!木の葉じゃねえか!!」

 元締めの拳が政吉の顔を襲った。左頬をしたたかに殴られ、痛さに身体を折る政吉。そこへ賄いのおよねが割って入った。

「元締め!そのくらいで勘弁してあげて下さい」

 元締めはそのおよねの頬も平手で叩くと、

「ふん、明日はきちっと稼いで来ねえと承知しねえぞ!…今夜は飯抜きだ」

 そう言い残して奥へ消えた。

 およねは政吉を助け起こして、

「政坊、大丈夫?…今冷やしてあげるからね」

 そう言って、濡らした手拭いを政吉の頬に当ててくれた。

「…掏摸すり盗った時は小判が入った財布だったんだ…ほんとだよ」

 それが今では朴の木の葉。中には椿の葉。まるで狐に化かされたかのようである。

 およねは、

「...もしかしたら、伏見のお稲荷様だったのかもね」

「お稲荷様!?」

「ええ。…悪い事は止めなさいって、そう教えたのかも」

「……」

 元締めの下には、政吉のような子供が五人いる。政吉は最年少の九歳、他の子も十二歳以下。

 他に賄いをしているおよね、十五歳。元締めの権造、そして手下の源吾。もし逃げたりすれば源吾に追われ、見つかれば折檻されるだろう。それ以前に、独りで生きていける筈もなかった。

「だけど…お稲荷様だったら…ここから助け出してくれないのかなあ…」

 そうおよねに言ってみる。

「そうね。…でも、悪い事を止めれば、あるいは助けてくれるかも知れないわよ」

 今まで、数え切れない程の人々から金を掏摸すり盗ってきた。元締めの指示でやったにしても、実行したのは政吉だ。それは事実である。

 

*   *   *


「…もう…掏摸なんて辞めたいなあ…」

 昨日の事を思いながら歩いていたら、財布を掏摸すり盗った女に出会ってしまった。

「いけねえ...!」

 逃げ出す政吉。怖かった。お稲荷様でないとしても、怖かった。

「はあ、はあ…」

 息が切れるまで走ってきて、誰も追って来ない事を確かめ、息をつく。寄りかかった柱を何気なく見ると、それは稲荷神社の鳥居であった。

「げ…!」

 慌てる政吉。そこへ弥生がやって来た。

「おお、いたな、掏摸すり小僧」

 追ってきた女には、狐の耳と尻尾が付いていた。

「ごっ…!…ごめんなさい!お稲荷様!!」

 政吉は土下座していた。

「これこれ、別に咎めようと思って追いかけてきた訳ではない。起きるがよい」

 政吉を助け起こす弥生。その政吉は震えていた。

「お前の歳で掏摸すりなんぞしているという事は、大方悪い奴に仕込まれ、無理矢理させられているのじゃろう」

「はっ、はい!…その通りです!…」

 事情を全部話す政吉。直也も追いついてきて、話を聞いた。

「ひどい話じゃな…」

「政吉、て言ったか。ちょっと顔を出してみな」

 そう言う直也に、素直に顔を向ける政吉。狐耳姿の弥生を見て、完全に畏れ入ってしまっている。

 直也はそんな政吉の腫れた頬に、天狗の秘薬を薄く塗ってやった。ほんの僅かな量なのに、発熱していた頬がすっきりして、驚く政吉。

「…お稲荷様!…どうかお助け下さい…」

 そう言って再度土下座をする。

「止めよと言うたであろう。…政吉、お前の仲間の子供達を全員ここに呼んで参れ」

「はっ、はい!!」

 理由を聞く事もなく、言われるがままにその場から走り出す政吉。その後ろ姿を見送った直也は、

「…弥生、どうするつもりだ?」

 その質問に対し、

「…直也、お主ならどうする?」

 と逆に、弥生は直也に尋ねた。

「…およねだっけ?…十五になるその娘なら子供達のこと任せられるだろう?そして元締めは懲らしめてやる。…それでどうだろう?」

「まあそれがいいじゃろう。元締めとその手下はこの土地から追い払う必要があるじゃろうな」

 半刻程で、政吉を含む子供達五人と、およねがやって来た。彼等は弥生の姿を見ると、

「お稲荷様、…どうかお助け下さい…」

 と拝むのであった。

 弥生は彼等に向かい、

「拝むのは止めよ。…それではお前達の元締めのところへ案内せい」

 と言って、耳と尻尾を引っ込め、政吉を先頭に歩き出した子供達に付いていく。およねは直也に、

「あの、…本当に、伏見のお稲荷様なのですか?」

 と尋ねた。それに対して直也は、

「伏見の…じゃないけどな、君たちを助けに来たのは確かだよ」

 とだけ答えておいた。

「やいやいてめえら、稼ぎにも行かないで何戻って来やがった?」

 手下の源吾が凄んでみせる。その源吾の前に立った弥生は、

「権造を呼んで参れ」

「なにぃ?…どこのあまだ? いてえ目に遭いたいのか?」

 そう言って弥生の胸ぐらを掴もうと手を伸ばした。その手を取った弥生は、手首を極めると、逆に捻り投げ飛ばす。用水桶にぶつかり、したたかに背中を打つ源吾。

「このあま…」

 頭を振ってよろよろと立ち上がり、懐から合口を出す。子供達が息を呑んだ。

「そんなものは役に立たんぞ」

 そう言う弥生に、

「うるせえ!」

 身体ごとぶつかるようにして弥生の腹部に合口を突き刺した。傷口から吹き出す大量の…

 …

 水。

 源吾は用水桶に合口を突き刺していた。水を被って正気に戻る源吾。

 弥生はにやにやしながら、悠然と立ち、やおら耳と尻尾を出して見せた。

「ひ…!」

 慌てて権造の家に逃げ込む源吾。そんな源吾を見て、政吉はじめ、子供達は揶揄やゆを飛ばしていた。

「何だ?…狐の化け物ぉ? 真っ昼間から何寝ぼけてやがんでい?」

 源吾と一緒に権造が顔を出す。その前に弥生は立ちはだかり、

「そちが権造か。今日まで子供達の面倒を見た事は褒めてとらすが、悪事をさせていたのは見逃すわけにはいかぬ。早々にこの土地を立ち去れば良し、さもなければ罰を与えるであろう」

「何だ?…おかしいのか、てめえは?…何で俺がこの土地を離れなきゃなら…」

 弥生の耳と尻尾に気が付いたようだ。

「て…てめえ…!そんな耳と尻尾くらいでこの権造様がびびると思ってるのか…」

 腰が引けて、脅えているのが子供にも分かるのだが、精一杯の虚勢をはる権造。

「お稲荷様だぞ! 罰が当たるぞ!」

 子供達が声を上げる。後ろ暗いところのある権造は更に腰が引けてきた。

 弥生は更に追い打ちをかけるように、青白い狐火を手に灯す。陽の光の元でも尚明るく輝くそれは、並々ならぬ弥生の力を物語っていた。

 とはいうものの、別段特殊な効果があるわけではないので、虚仮威しと言えば言えるのだが、権造はそんな事は知らない。

「わ、わ、わわわ…」

 ついに足ががくがくと震えだした。

「儂が穏やかに言うておるうちに素直になった方が良いぞ?」

 弥生が凄味のある微笑を浮かべた。

「は、…はいいいいいっ!」

 家に飛び込み、身の回りの物をひっつかむと飛び出してきた。手下の源吾も一緒だ。

「有り金は取り上げないでやる。…良いか、二度とこの土地に近付くでないぞ。近付いたらその時は容赦せぬ」

「は、はい…」

 その言葉を裏付けるように、ごく小さな風を起こし、二人のまげを切り飛ばす弥生。

 ざんばら髪になった権造と源吾は、

「ひ、ひいっ…!」

 悲鳴を上げて駆け出し、いずこかへ消えていった。

 それを見ていた弥生は耳と尻尾を引っ込め、

「さて、これで奴等はもう戻って来ぬじゃろう。お前達は自由じゃ。この家に住むがよい」

 およねと政吉、子供達は土下座をして、

「お稲荷様、…ありがとうございます…」

 と弥生を拝むのであった。

「よせよせ。感謝されるほどの事ではない。…それよりもおよね、子供達の面倒を見てやるのじゃぞ?政吉、そしてお前ら、もう悪さはしてはならぬ。よいな?」

 はいはいと頭を下げるおよねと子供達。そんな彼等に直也は、

「およねちゃん、これをあげる。使い潰すのではなく、元手にしてくれ」

 そう言って財布ごと手渡した。

「あ、ありがとうございます…」

 おしいただくおよね。

「さて、弥生、行こうか」

「達者でな」

「お稲荷様、ありがとうございました…」

「ありがとうございました−!」

 皆、深く辞儀をして二人を見送ったのであった。


 直也と弥生は琵琶の海沿いの街道を歩いていた。 

「弥生、ありがとう」

「何がじゃ?」

「あの子達を救ってくれてさ」

「お主がそう望んだからの」

 直也は照れたように頭の後ろを掻いて、

「弥生がいてくれなきゃああはうまくいかないよな」

 そんな直也に対して弥生は、

「何を今更。…それはそうと、お主、有り金全部やってしまったじゃろう?」

「あ、ああ。…ま、なんとかなるだろ。今までだって野宿してきたんだし」

「あれは陽気が良かったからじゃ。これから冬になると言うのに文無しでどうする気じゃ?」

「……」

 考えていなかったようである。

「まったく、これじゃからのう…ほれ」

 そう言って、懐から小判を一枚出して見せる弥生。

「弥生、それ…本物か? 椿の葉…じゃないよな?」

「莫迦目。こんな事もあろうかと、一枚だけ預かっておいたのじゃ。これだけあれば京までは大丈夫じゃろう」

「やっぱり弥生は頼りになるな」

 弥生は溜息を一つ吐くと、

「お主は相変わらず経済観念が無いのう…お主の嫁には財布の紐をしっかと握ってもらわぬといかんな」

 そう言われた直也はちょっと膨れて、

「そんなに言うなら、いっそ弥生がなってくれりゃいいじゃないか」

 直也のそんな一言に跳び上がらんばかりに驚く弥生。

「たわけ!…儂は狐じゃぞ?…お主の嫁にはれっきとした人間がなるべきなのじゃ」

 直也はそんな自分の軽口が弥生を驚かせた事の方にびっくりした。

「…冗談だよ、そんなに怒るなよ…」

「言っていい事と悪い事があるぞ」

 そんな弥生に直也は、

「頼りにしてるよ、弥生」

 とだけ言って、足早に歩いて行く。

 弥生はそんな直也の後ろ姿に何か言いたそうにしていたが、結局何も言わず、後を追って足早に歩き出した。

 やがて二人の影は街道の遙か彼方に小さくなる。冬を間近にした琵琶の海は冷たく澄み、青空に浮かぶ白い雲をその水面に映していた。

 今回は幕間劇的な話です。

 晶子と別れてからのちょっぴり傷心の直也。久しぶりに弥生が化かす場面を描きました。

 それから掏摸の子供。掏摸盗った財布が木の葉になるところを書きたくてこんな話が出来上がったと行ってもいいでしょう。

 もう一つは直也の小さい頃を断片的に書きたかった事。

 そしてちょっとだけ弥生の存在に気付き始めた直也。これからの二人がどうなるか。

 次回、伏見稲荷編、乞うご期待!

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