巻の三十一 姫宮との道行(後)
前回の続きです
巻の三十一 姫宮との道行(後)
桑名の港。
船から降りた晶子であるが、
「うう…まだ地面が揺れている気がする…」
完全に参ってしまったようだ。しかしぐずぐずしてはいられない。弥生は直也に耳打ちすると、一人四日市方面へと歩き去った。
「おい、しっかりしろよ」
直也は晶子を気遣いながら北上。じきに民家はまばらになり、人影は途絶えた。
歩むに連れようやく晶子も治ってきて、
「ここは…どこじゃ?…随分と寂しい所じゃが…」
直也は顔をしかめ、
「俺と二人じゃ心配か?」
そう言われた晶子は笑って、
「二、三日前ならばすぐさま逃げ出した所じゃがな、今は何の心配もしておらぬ。直也が頼りになる事を知っておるでな」
「……」
照れくさそうに鼻の頭を掻く直也。それを誤魔化すように、
「晶子の格好をした弥生が、四日市方面へ向かったように見せかけてる。じきにこちらと合流するはずだ。こちらは山を越えて彦根へ向かう」
「なるほどのう。時間稼ぎか。…しかし、まっこと、弥生はたいしたおなごじゃのう…」
そこへ声が掛かった。
「直也、戻ったぞ」
弥生の声。息も切らしていない。流石である。
その夜は、御在所岳麓の農家に泊めて貰った。
晶子は顔をしかめながらも、何も言わず椀に盛られた雑炊をすすっている。その仕草を見て、弥生は感心した。わがままな箱入りの姫宮ではなく、気性の真っ直ぐな、優しい姫宮であると。
一方直也は遠慮もなく、
「晶子、今日は文句言わず食べてるのな。偉くなったじゃないか」
「…当然じゃ。同じ人が食べるもの、妾が食せなくてなんとする」
「そうだよな、はは…」
「そうじゃとも。…ぅく」
熱かったようだ。育ちが良い分、熱いものが苦手なのは仕方がない。
寝具として用意されたのは粗末な布団と筵であったが、祠より何倍も寝心地は良い。三人は、特に晶子はぐっすり休む事が出来た。
翌朝は早立ち。
藤原岳と御在所岳の間、石榑峠を越える。晶子は汗を流し、息を切らしながらも、歯を食いしばって山道を登り続けた。
直也が見かねて手を差し伸べる。寸の間ためらった晶子は、それでも素直にその手を取った。
晶子の柔らかな手を握った直也は、何故か心ときめくのを感じたのだった。
「頑張っていこうぜ」
晶子のその手をしっかり握って登り続ける直也。
昼を回った頃、峠に立つ事が出来た。木の間から琵琶の海が霞んで見えている。下れば近江の国、彦根は間近だ。
「今日中に彦根へ着く事は無理です。奴等も待ちかまえていることでしょう。今夜はここを下り、山中に泊まるが宜しいかと」
晶子は素直に、
「うむ、弥生、そなたの判断に従おう」
それで峠を下り、見つけた洞穴に仮の宿を取る事とした。
付近にはまだ木通や山葡萄が残っていたので、夕食の足しにする。
「おもしろい形じゃのう、これが木の実か」
「あけびと申しまして、甘くて美味でございます」
「うむ、確かに。…種がなければもっといいのにのう」
木通の種をそっと吐き出す晶子。直也は盛大に吹き出している。
「ふふ、直也の仕草、うらやましい限りじゃ。…最初は粗野で鼻持ちならぬと感じたのに、今では好もしい」
「……」
何故か照れる直也。そんな直也を弥生は目を細めて見ていた。
山の中、完全に日が暮れると厚い雲が出て、真の闇である。
三人は洞穴の奥に寄り添って横になっていた。集めてきた枯れ葉が暖かい。
「明日は近江です、宮」
弥生が囁く。
「うむ、…その方等には世話になった。…何も礼が出来ぬ自分が情けない」
「そんなことは気にするなよ。まあまあ俺たちも楽しかったさ」
「そんな筈はなかろう。…足手まといの妾を連れ、刺客に襲われたり、わざわざ山の中を歩いたりしたのじゃぞ?」
「なかなか出来る経験じゃないじゃないか。もう済んだ事だし。それに晶子と一緒に旅が出来たしな」
「直也…」
晶子が言葉に詰まる。顔も赤くなっているのだが、闇の中なので誰にも見えない。
…筈なのだが、弥生には見えていた。そして弥生はそっと溜息をつくのであった。
外から物悲しい鳥の声が聞こえてくる。耳を澄ますと、「仏法、仏法」と鳴いているようだ。
「あれが噂に聞く仏法僧じゃな…」
晶子がしみじみと呟く。
「不思議な鳥だな」
「宮、…お願いがあります」
弥生の改まった声。
「何じゃ」
「宮が刺客に襲われる本当の訳を…教えて下さいませぬか」
「!!」
驚く晶子、だがその顔は見えない。
「…宮が井伊家へ嫁ぐのを邪魔立てして何の得になりましょう。普通ならそう考えます。しかし、執拗な刺客の様子、何か深い仔細があるのではないかと…」
「…ふふ、弥生はやはり鋭いのう。…よかろう、話すとしよう」
晶子が語り始めた。
「榑松宮家を潰そうという動きがあるようなのじゃ」
晶子の説明によると、榑松宮家には、帝より赦されたある権限があり、その権限が邪魔な者がいて、あの手この手で榑松宮家を陥れようとしているらしい。
朝廷お声掛かりのこの縁談が破談になれば、格好の理由になりかねないという。
「その権限というのは?」
「…言わねば駄目か?」
「いや、無理にとは…」
「…やはりそなたには隠し事はしたくない。『丹』にかかわる事じゃ」
「『丹』?」
「水銀、ですね」
「弥生は何でも知っておるのう。そう、水銀の元となる丹、それの採掘権があるのじゃよ。榑松宮家の所領の山に、丹砂が大量に採れる所があってのう」
「…そして榑松宮家を潰そうとしているのは公儀」
弥生が看破する。
「その通りじゃ」
「なぜ!…晶子は幕府と朝廷のために嫁に行くんじゃないのか?」
「…朝廷はともかく、幕府はそれほどこの縁談を重要視していないからのう。それよりも丹砂が欲しいのじゃろう」
「おかしいよ、絶対に!!」
「直也、静かにせい。ここでお主が息巻いてもどうにもなるまい?」
「う…そうだけどさ、…俺は納得がいかない」
「…直也、ありがとう。…それでも妾は、自分の役目を果たさねばならぬ」
「…晶子の人生をねじ曲げてまで水銀が欲しいのか…」
「じゃから、妾は何があっても、無事井伊家に着きたい。そんな謀略に負けたくない」
「……」
「直也、そなたが妾のために憤ってくれた事には礼を言う。…しかし、妾は…」
晶子は言葉を濁し、襟に顔を埋めた。
翌朝。朝霧が立ちこめる森を抜け、琵琶の海を目指す一行。
「金剛輪寺へ行こう。あそこには井伊家ゆかりの寺僧がおるはずじゃし、ちりぢりになった家臣達もひょっとしたら立ち寄っておるやも知れん」
確かに、直接彦根城へ入れるわけもない。それでまずは金剛輪寺を目指した。
斜面がなだらかになり、平らに近くなる。いよいよ麓だ。金剛輪寺の三重塔が見えてきた。
その時。
風切り音を立て、晶子の目の前の立木に手裏剣が突き刺さった。
「宮! 木の陰へ!」
弥生が叫ぶ。
忍びの一団に取り囲まれていた。
直也は道中差しを抜き、晶子を庇うように構える。
「良くここまで我等を欺いた。しかしここが貴様等の墓場だ」
そう言ったのは松代戟であった。刀を上げ、合図する。忍び達が物も言わず一斉に飛びかかってきた。
迎え撃つ直也。以前箱根で地鎮坊の手下の鴉天狗に襲われた事を思えば、忍びとはいえ、人間の動きはそれに劣る。
たちまちのうちに四人、五人と叩き伏せていった。
弥生も負けてはいない。華麗な身のこなしで投げ飛ばし、あるいは当て身で気絶させていく。
業を煮やした忍びの頭は、手を変える。その合図により、一斉に手裏剣が放たれた。
ことごとく叩き落とす直也。しかし、晶子を狙った手裏剣を弾いた際、木の根に足を取られてしまった。そんな直也を手裏剣が襲う。
「直也!」
弥生が飛び出した。直也を狙った手裏剣は三本とも弥生の左腕に刺さっていた。
「弥生!…済まない」
「何の、これしき」
その弥生の気迫に押される忍び。しかし弥生の足が止まる。
「どうした、弥生?」
「毒…じゃ…手裏剣に…毒が…」
「ふははは、熊をも倒す毒だ。邪魔立てしてくれたがもうそうはいかん」
手裏剣から直接攻撃に切り替える忍び。
「…毒の…手裏剣で…直也を…狙った…のか…」
弥生の髪が逆立つ。狐の耳が頭から伸び、尻尾が生える。
「…な…」
驚く戟。ひるむ忍び。弥生は、
「おのれら…毒手裏剣で直也を狙いおって…生きて帰れると思うなよ…」
爆発的な力を溜める弥生。そばにいる直也にも感じられるほどだ。
「この儂を倒そうとするなら…こんな毒では不足じゃ…!!」
あたりが帯電する。強大な木気が満ち満ちているようだ。
「直也…刀から手を放せ」
慌てて道中差しを手放す直也。弥生の言葉が終わらないうちに、紫電が放たれた。
すべて忍びの刀、短刀、手裏剣、鎖帷子に吸い込まれ…弾けた。
焦げ臭い臭いが満ち、動いている忍びは一人もいなかった。
「…ふぬっ!」
腕を一振り。どす黒い血が飛び散った。
「弥生、大丈夫か?…すぐに薬を…」
「いらぬ。もう止まった」
見る間に傷が癒えていく。
「危なかったぞ。毒に気が付いてすぐ、左腕の血流を止めたのじゃ。そして今、毒は追い出したから、もう何ともない」
やはり大妖である。
「…殺したのか?」
倒れた忍びを見て、直也が尋ねる。
「死んではおらん。気絶しているだけじゃ。まあ、鉄に触れていた部分に火傷は負っているじゃろうが」
そう言って髪を一本抜き、掌でひねくる。息を吹きかけると、小さな狐のような物になった。
「ゆけ」
それを放つ弥生。たちまちのうちにその狐のような物は、倒れた忍びに飛びつき、消えた。
「何を?」
「…飯縄じゃ。癪に障るから我々の事を全て記憶から消してやろうと思ってな」
「あれが身体に潜むという飯縄か」
そう呟いて、直也ははっと気が付き、晶子を振り返った。
「弥生…そなたは…」
「…隠していて済まぬ。儂は...直也の守護狐なのじゃ」
晶子に対する言葉遣いが元に戻っている。
「道理で人間離れしている訳じゃ」
「あまり驚かないようじゃの?」
「もう慣れた。広い世間は妾の知らぬ事で満ちているからのう」
そう言って微笑む晶子。
「そういうものかな?」
「それに、ずっと一緒じゃったからの。今更怖いとも気味悪いとも感じぬ」
それが嘘でない事を証明するかのように、晶子は弥生の手を取った。
「弥生、大儀であった」
そして直也に向き直り、
「直也。…そなたのことは生涯忘れぬ」
そう言って直也に抱きつき、口づけをした。
「な…」
それは一瞬の事。すぐに直也から離れた晶子は、はにかんだ顔で、
「…妾の初めての口づけじゃ。…こんな形でしか礼が出来ぬが」
そう言って、後ろを向く。
「…そなた達との思い出があれば…この先何があっても妾は迷う事はないであろう」
空を振り仰ぎ、
「…精一杯、妾は妾に出来る事をしてみせよう」
そう言って、三重塔へと続く山道を辿っていく。
「宮様ーーー!」
寺から声が聞こえた。
老人と、若い男四人が晶子の方へ向かって駆けてくるのが見える。
「爺!…無事であったか…」
「宮様もよくぞご無事で…」
爺と呼ばれた老人は涙目で晶子の手を取った。
「あの者達に助けられたのじゃ」
そう言って振り向いた晶子の目には、もう直也も弥生も見えなかった。
(…さよならじゃ…)
誰にも聞こえない小さな声で晶子は呟いた。
井伊家は、その後も幕府の重臣として、老中、大老を何人も輩出した。
井伊家の記録に、晶子の名は残っていない。
* * *
直也と弥生は琵琶の海の岸辺を歩いていた。
「今頃、晶子はどうしてるかな」
「…直也、あれで良かったのか?」
「何が?」
「…お主が一言命じてくれれば、宮様だろうと誰であろうと攫ってきてやるぞ?」
「おいおい、物騒な事を言うなよ」
苦笑する直也。
「じゃが、お主、晶子の事…」
「いいんだ」
「直也…」
「晶子が自分で選んだ自分の道だ。俺が口を出す事じゃないさ」
弥生はそんな直也の横顔をしばらく見ていたが、
「直也、いい顔をしているのう」
「え?」
「ちょっと前までは少年の貌じゃったが、今は一人前の男の貌をしておる」
「……」
「初恋は実らないと言うからのう」
「そんなんじゃないさ」
照れくさそうに早足で歩き出す直也。弥生はそれに半歩遅れてついて行く。
初恋だったのか、そうでなかったのか。どちらでもいい、と直也は思った。
晶子と同じく、自分もこの数日間の事は忘れない、それでいいと。
視界いっぱいに広がる琵琶の海は青空を映し、晩秋の風はその湖面にさざ波を立てていた。
直也の初恋物語でした。
もう少し頁も欲しい気がしましたが、冗長になりそうだったので。
作中には出て来ませんでしたが、弥生が晶子に敬語で話していたのは、直也に行儀作法を教える一環のつもりだったのです。見事にスルーされていましたが。
で、久々というか、初めてかも知れない典型的なツンデレ姫。言葉遣いがかなり弥生とかぶるのに気が付きました。
彦根の井伊家は、珍しく国替えもなく、江戸初期から最後まで、彦根にいた大家で、老中や大老を何人も出しています。
幕末、安政の大獄の井伊直弼は有名ですね。
榑松宮家は完全な創作です。
飯縄。イヅナ。飯縄使いと言われている者達がいます(いました)。管狐と呼ばれる事もあります。
いずれにせよ小さな妖で、戸隠の飯縄山や高尾山に飯縄権現として祀られたりもしています。
ここでは人間の身体に潜む事の出来る使い魔という扱いにしました。これにより、弥生は人間から都合の悪い記憶を消す事が出来ます。
丹砂は辰砂ともいい、水銀の鉱石です。組成は硫化水銀、赤い色をしており、防腐作用があるため、古代では不老不死の薬の原料とされたそうです。もちろんそんな薬は出来ませんでしたが。
さて、恋の切なさを知った直也、また一つ成長してくれるといいのですが。
それでは、次回も読んで頂けましたら幸いです。




