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巻の三十    姫宮との道行(前)

 前後編です

巻の三十   姫宮との道行(前)


 直也と弥生は、城下町吉田宿(現豊橋)を過ぎ、御油ごゆの松並木を歩いていた。

ここはずっと後に十返舎一九がその著書「東海道中膝栗毛」で弥次喜多が狐に化かされる話を書いた場所であるが、当の直也も弥生もそんなことは知る由もない。

「きれいな並木じゃな」

「松は冬も緑で、めでたい木なんだよな。...あれ?」

 直也が指差す方には。

「ん?…おなごの旅人か?」

 松の木にもたれ、ぐったりしている女がいた。駆け寄って尋ねる直也。

「もし、どうしました?」

「……」

 返事がない。

「どうしよう、弥生…」

 もう夕暮れ近く、通りかかる旅人も他にいない。ほうっておくわけにはいかなかった。

 直也が背負い、街道を歩き出す。御油から次の赤坂宿までは十六町(約1.7km)、日が暮れる前に着く事が出来た。

 宿場外れの旅籠に宿を取る。

 女は年の頃十六、七、直也と同年代。着ているものは上等の絹織物、色白でどこかのお姫様といった感じである。

 尖ったものを踏んだと見えて、左足の裏を怪我しており、腫れて熱を持っていたので直也が天狗の秘薬を塗ってやる。明日には治るだろう。

 さらしを裂いて傷に巻いてやっていると、その娘が目を覚ました。

「きゃあああっ!」

 どか。

「ぐわっ」

 娘が驚いて上げた悲鳴。直也を右足で蹴った音。そして直也の悲鳴。

「直也、大丈夫か!?」

 弥生が直也に声をかける。娘の蹴りが顔面に入った直也は首を振って、

「あいたたたた…なんとか、大丈夫だ」

 娘は布団に起き上がり、着物の裾を押さえて、

「その方ら、何者じゃ!?…わらわに何をする!?」

 直也は額をさすりながら、

「あんたは松並木の所で倒れていたんだよ。呼んでも返事をしないし、足を怪我していたから旅籠に連れてきて手当していたんじゃないか…」

「むう…それは済まぬ。…じゃが、断りもなく妾の足をまさぐっておるのでびっくりしたのじゃ」

「断りもなくって言ったってあんたは気を失っていたんだから仕方ないだろう?」

「…気を失っていた?…まさか、悪戯などせんじゃったろうな?」

「するか!…大体助けて貰っておいて何て言い草だ」

「む…確かに。…その方ら、大儀であった。礼を申すぞ」

「……」

「…どこのお姫様か知らないがな、もちっと気持ちを込められないのか?」

「何じゃ、礼を言えと申したのはその方じゃろう。礼を言えば言ったで文句を言う。…どこのお姫様かと申したな。わらわ榑松宮家くれまつのみやけ五の宮、晶子あきこじゃ」

「宮様…!」

 弥生が驚いた声を上げる。直也は涼しい顔で、

「その宮様が何で一人でこんな所に?」

「…礼儀知らずじゃのう。妾は名乗ったぞ。その方も名乗れ」

葛城氏かつらぎし末裔の直也、わたくしは付き人の弥生と申します」

 弥生が直也に代わり答える。

「葛城氏…仁徳帝の時、大臣おおおみを務めた葛城氏か?」

「はい」

「そうか…名門じゃのう。…それが今は町人か。凋落ちょうらくしたものじゃ」

「大きなお世話だ」

「何!?」

「これ、直也、いいかげんにせい」

 弥生は直也を押しとどめ、

「それで、宮様がなぜこのような所にお一人で?」

「うむ…」

 晶子が語った所によると、来春、近江国の井伊家へ降嫁する話が出ており、そのために供を連れやって来たのだが、道中怪しい奴等に襲われて伴の者はちりぢりになり、晶子も命からがら逃げ、とうとうあそこで力尽きたのだという。

 幾つか話に疑問が残るがそれは後で尋ねるとして、

「晶子様、湯を浴びませぬか?」

 弥生が声をかける。

「足の傷は湯に浸さなければ大丈夫でしょう。お体を綺麗に致さねば」

「うむ、そうじゃな、弥生、と言ったか。その方に任せる」

「はい」

 それで弥生は晶子の介添えをして風呂場へと向かった。残った直也はぶつぶつ言っている。

「…まったく、宮様が何だってんだ。…そっちの方こそ礼儀知らずじゃないか」

 

 風呂場にて。ぬか袋(石鹸代わり)で背中を洗ってやっている弥生。

「ふう、良い気持ちじゃ。…弥生、そなたは奥女中勤めをしたことがあるのか?」

「はい、以前、采女うねめとして宮中で仕えていた事がありますれば」

「宮中で、のう。…どうりで、立ち居振る舞いに気品が感じられる訳じゃ。それに引き替え、直也と申したか?…あやつは粗野で仕方のない。そなたもあんな男の付き人などして苦労しているのう」

 苦笑する弥生。

「晶子様、人の価値は一概に決められないものでございます。直也は当家次期当主になる男、見聞を広めるため旅をして歩いておる所です」

「旅か…うらやましいのう。…わらわは生まれてからずっと屋敷の中で育ち、このたびやっと外の世界を知ったばかりじゃ」

「晶子様のお生まれになったのは京ではないのですね? 上方訛りがございませんゆえ」

「鋭いのう。…左様、妾の榑松くれまつ宮家は駿府にある。小さな宮家じゃ。しかし宮家は宮家、この度幕府老中を務める井伊家の二男へ嫁ぎ、朝廷と幕府との末永い友好関係を築く礎の一つとならねばならぬ」

「晶子様…」

「弥生、もう上がろう」

 

 部屋に戻ると、膳が来ていた。安宿なので簡単なものだ。ご飯、味噌汁、香の物、焼き魚。

「何じゃ、この食事は」

「ここの夕食だよ。お腹空いてるだろう?さっさと食べちまえよ」

 なんとなく直也の物言いが挑戦的だ。珍しい。そう弥生は思った。

「…不味い。…もそっとましなものは無いのか?」

「文句があったら食べるな。…これだってお百姓さんが汗水流して作って、ここの賄いさんが一所懸命料理したんだ」

「偉そうに!…その方などにそのように言われる筋合いはないわ!」

 晶子はそう言って茶碗を叩き付け、布団へ潜り込んでしまった。

「なんかえらいのを拾ったな…」

 直也がぼやく。弥生はそんな直也に、

「お主だって旅の初めの頃はあれも不味い、これも不味いと不平をこぼしていたではないか」

「ああ、そうだったな。…でもその度弥生が嗜めてくれたよな。感謝してる」

「ふふ、お主もこの旅で成長したんじゃな、儂としても嬉しい…ところで何しとるのじゃ?」

 食べ終わった直也が何かごそごそやっているのを弥生が見咎めた。

「…握り飯作ってる」

 余ったご飯と漬け物で握り飯をこしらえている直也。

「…あとで腹が空くだろうと思ってな」

 ちらりと晶子が潜っている布団を見る。弥生は微笑んで、

「お主らしいのう、直也」

 そう言って、握るのを手伝うのであった。

 

 夜。

 晶子がもそもそ起き出す。弥生が目ざとくそれに気が付いて、

「晶子様?」

「…弥生か。…少々空腹でのう…眠れんのじゃ」

 弥生は笑って、

「枕元に握り飯が置いてあります。お口に合わぬかもしれませんが」

「おう、それは済まぬ。…先程は悪かった」

 そう言って握り飯を口へ運ぶ。

「お気になさらず。…その握り飯は直也が用意したものです」

「直也が?」

 晶子は食べる手を止めて、

「…ふん」

 そしてまた食べ始めた。


 翌朝。起きた晶子は、足の痛みがすっかり引いているのに驚いた。さらしを解いてみる。傷はきれいに治っていた。

「…良く効く薬じゃのう…」

「だろ?…それをお前、俺の事蹴っ飛ばすんだもんな」

「誰がお前じゃ! なれなれしいぞ、直也!」

 そこへ弥生が、

「晶子様、御身分を隠してお忍びで旅をするなら、これから敬語を使うのは止めねばいけませぬ。どこから話が漏れて、おっしゃっていた怪しい奴等にまた狙われないとも限りませぬ故」

「むう。…そなたの申すのはもっともじゃ。…わかった、今後敬称や敬語は使わずとも良い」

「かしこきお言葉」


 朝食。

 今回、晶子は文句を言わずに食べていた。食べるのは遅いが、品の良さが見て取れる食べ方である。

「晶子、これからどうするつもりだ?」

 呼び捨てにされた晶子は何か言い返そうとしたが、敬称・敬語は使わなくて良いと言った事を思いだし、こらえた。

「…彦根まで行かねばならぬ」

「一人でか?…お供の者はどうしたんだ? 捜しに来るかと思ったが…」

 それとなく宿の者に聞いて回ったが、晶子に関係しそうな話は全く無かった。

「うむ。…半数くらいはやられたと思う。…じゃが、爺を初め、幾人かは逃げ延びておると信じている」

「そうか、俺たちも東海道を京へ向かっているんだ。近江まで一緒に行ってやるよ」

「…そうか。助かる」

 弥生は何も言わなかった。


 三人は旅籠を出た。東海道を次の宿場へ。

 実際の隣の宿場は藤川宿、一里しか離れていないのでまだ先へ。弥生と二人なら鳴海までは行けるだろうが、晶子が一緒なので、手前の池鯉鮒ちりゅう宿泊まりとした。

 案の定、二里も歩くと疲れた、休もうと言い、もう二里歩くと空腹だ、と言って、なかなか歩が捗らない。

 なだめたりすかしたりして岡崎宿を過ぎたのはもう昼過ぎ、次の池鯉鮒宿までは三里。二刻ほどで着けるはずであった。

 ちょうど岡崎と池鯉鮒宿の中間に差し掛かった頃。編笠姿の浪人が五名、直也達の後ろから歩いてきた。

 早足で三人を一旦追い越したが、ぴたりと足を止めると、

「晶子の宮、こんなところにいたのですか」

 そう言ってやおら刀を抜いた。直也は道中差しを抜き、晶子を庇う。

「どけ、町人。邪魔だて致すと命はないぞ」

「そう言われて退くくらいなら最初から庇ったりはしないさ」

 編笠をとった男の顔を見た晶子が叫ぶ。

「直也!…逃げるのじゃ!…その者に見覚えがある。確か、町道場の師範代で、松代戟まつしろげきと言うた」

「宮には憶えておられましたか」

「屋敷に出入りしていた者はたいがい、の」

「尚のこと、生かしておけませんな。三人ともここで死んで頂く」

 残り四人も刀を抜いた。げきは、

「お前らは手を出すな。たかが町人一人と女二人、わし一人で十分だ。逃げぬよう囲んでおれば良い」

 そう言うが早いか、大上段に振りかぶった大刀を振り下ろした。

 直也はその一撃を弾く。

「む?…」

 げきの顔に驚きの色が浮かぶ。

「町人にしては多少使えるようだな。…だが、その自信が命取りだ」

 …そう言って連続で剣撃を繰り出す。師範代だけあって、鋭い太刀筋である。直也はそれをことごとく弾き、かわした。

「直也…」

 晶子は弥生にしがみつき、それを見ている事しかできない。弥生はいつでも術を繰り出せるよう、全身に力を溜めている。

「小癪な!」

 戟が下段からすくい上げた刀が直也の道中差しを弾き飛ばした。

「…しまった」

「直也!」

 晶子の絶叫。それを弥生が押しとどめる。

「弥生、直也が…!」

「大丈夫です。直也を信じていなさい」

 道中差しを飛ばされ、仕方なく翠龍すいりゅうを取り出す直也。

「町人にしては頑張ったな。そんな小刀ではわしの刀は受けられんぞ」

 あらためて大上段から唐竹割りに振り下ろす戟。それを翠龍で受ける直也。

 金属音が響き、戟の大刀は翠龍によって斬り折られていた。

 「な…!こんな馬鹿な!!」

 戟が折れた大刀を手に、信じられぬと言った顔で立ちすくむ隙に脇差しを拾う直也。

「ええい!お前ら、こいつらを逃がすな!」

 残り四人、門弟だろう、そいつらが一斉に打ち掛かってくる。

 すかさず直也が二人を峰打ちに打ち倒せば、弥生は一人を投げ飛ばし、もう一人は当て身で気絶させる。

「こいつら…只者ではない」

 残った戟は、

「これで終わりと思うな。必ずやその命貰い受ける」

 そう言い残すと、街道脇の茂みに飛び込み、姿を消した。

「…やれやれ」

 脇差しを収め、翠龍を懐深くしまう直也。その直也に、

「直也!…大事ないか!?」

 晶子あきこがすがりついた。

「あ、ああ、何ともない。大丈夫だよ」

「よかった…わらわのために怪我をされては詫びのしようもない」

「なんだ、やけにしおらしいじゃないか」

 そんな直也に弥生は、

「直也、油断しすぎじゃ。あの戟という侍、お主より腕は上じゃ。門弟は木偶の坊じゃがのう」

「…うん。わかってる。油断というか、ちょっと気負いすぎた」

「それがわかっていれば良い」

「弥生、そなたも強いのじゃな」

 晶子が感心したように言う。

「晶子、弥生はいざとなったら俺よりずっと強いんだよ」

「信じられぬ…」

「はは、まあいいさ。先を急ごう」

「それじゃが、この先、池鯉鮒ちりゅう宿へは行かぬ方がよい」

「あ、そうか。…今の奴が待ちかまえてるってわけか」

「そう言う事じゃ」

 直也は少し考えて、

「だけど、最終目的地が彦根だという事は知られているんだろう? だったら、どういう道をとっても、結局奴等と出っくわすんじゃないか?」

「それはその通りじゃ。じゃが、彦根…宮の嫁ぎ先でなら、宮を保護して貰う事も出来ようが、ここではのう…」

「…済まぬ。迷惑をかける」

「乗りかった舟だ。彦根まで送るよ」

 笑ってそう言う直也の顔をじっと見つめる晶子。

「さて、そうすると、街道筋を行くのは拙いのう。裏道を通って彦根へ向かうとするか」

「弥生、道はわかるか?」

「大体は、の。…とりあえず今夜は近くの百姓家に泊めて貰うが良かろう」

 気絶した連中は帯で縛り上げ、刀は全て取り上げ、近くにあった用水池に叩き込んでやった。

 弥生の見立てでは、全部なまくら刀だったから。

 

 その夜は、弥生の提案通り、近くの百姓家に泊まった。晶子は初めて見る百姓の暮らしぶりに目を見張っていた。食事も、渋々ではあるが、食べている。

「うう…昨日の宿のものより更に不味いのう…」

「仕方ないさ。米に粟が混ぜてあるんだ」

「…何故そのような事を?」

「米は年貢でみんな持っていかれるからさ」

「米を作っている百姓が米を腹一杯食べられぬとは…」

「それが今の御政道ですので」

「……」

 晶子は項垂れ、考え込んでいた。


 翌日から間道、山道、獣道を辿る。弥生がいなければ、とっくの昔に道に迷っていたであろう。

 晶子は足が痛い、藪がうるさいと文句を言いながらも、なんとかかんとか歩き通した。

 そして夕方、古い祠を見つけ、そこに泊まる事にする。百姓家で作ってもらった粟の団子を焼いて食べ、夕食は終わり。

 眠る段になって、晶子がまたしても不平を言い出した。

「このような所で寝るのか?…何とかならぬのか?」

「宮、雨露をしのげるだけでも良しとしなければなりませぬ」

 弥生にたしなめられる晶子。

「ふん、仕方がない…その方等、わらわにしっかり寄り添っているのじゃぞ?」

「心細いか」

「そうではない!…寒いのはいやじゃからじゃ。それにさすればその方等も暖かいじゃろう?」

「そう言う事にしとこう」

「むう…ひっかかる物言いじゃな」

 それでも晶子は、直也と弥生に挟まれ安心したためか、疲れも手伝ってじきに寝息を立て始めた。

 直也は弥生と顔を見合わせ、頷き合うと、目を閉じた。


 翌日は朝から雨であった。

 晩秋の雨は冷たい。雨具を何一つ持たない晶子が一緒では、山道を歩くわけにはいかない。仕方なく、祠に留まる事にした。それにしても問題は食糧である。

 朝の分は粟の団子を残しておいたものの、それで食料は終わりである。それで弥生が食べ物を調達してくる事になった。

「すまんのう、弥生、雨の中を」

「ご心配には及びません。…直也、行ってくる。姫宮を頼む」

「ああ、気をつけてな」

 弥生は雨の中に消えた。残った晶子と直也は、黙って座っているだけ。そのうちに退屈してきた晶子が、

「直也、何か面白い話をしてくれぬか?」

「面白い話ったって…」

 考え込む直也。急に思いつくものでもない。

「そうじゃ、その方の旅の話でも良いぞ。あちこち旅をしておれば、珍しいものを見たりもしたであろう?」

「…そうだな」

 直也は話し出した。ただし、弥生が妖狐だということには触れないよう、気をつけて。

 南部漆器の店に世話になった話、山中で畑仕事を手伝った話。晶子も聞き耳を立てている。

 江戸で偽の化け物を退治した話、剣術修行の話、箱根で寂れかけた宿屋の手助けをした話…

 話し疲れた直也が一息入れると、晶子は、

「直也達は本当にいろいろな経験をしてきたのじゃな…少しうらやましい」

 とぽつりと言った。その横顔がいつになく寂しそうだったので直也は、

「晶子も彦根に行くの止めて一緒に旅をするか?」

 と冗談交じりに聞いてみた。

「ふふ、それが出来たらいいのにのう…じゃがわらわにとってそれは叶わぬ夢じゃ」

「…そんなに、彦根の…井伊家の次男坊が好きなのか?」

「井伊家の次男坊か…うた事も無い」

「え!?」

 驚く直也。

「会った事も無い相手の所へ嫁に行くのか?」

「そうじゃ。わらわの姉様達も皆、うた事もない相手に嫁いで行った」

「…おかしな話だな。…好きでもない相手に嫁ぐなんてさ」

「その方等から見たらそうかも知れぬ。…じゃが、わらわ達にとっては当たり前の事じゃ」

「俺はおかしいと思う。…晶子だって、俺だって、昨日のお百姓だって、同じ人間じゃないか。飯を食わなきゃ生きられないし、怪我をすれば血が出るし、夜は寝るんだし、生まれてくるのは母親からだし」

 晶子は笑って、

「ほんに、そうじゃのう。…そんな風に考えた事はなかったが、言われてみれば、何が違うのじゃろう…」

「たまたま、俺は俺の家に、晶子は宮家に生まれたと言うだけの事だろう?」

「そうじゃ、ほんにそうじゃ。…じゃが、宮家に生まれた以上は、勤めを果たさねばならぬのもまた事実じゃろう?…百姓は米を作り、畑を耕す。職人は器を作り、家を建て、鍋釜を鋳込む。商人はと言えば、米や絹やら産物を流通させる。

 それでは宮家は?…それらの人々が幸せに暮らせる世を作らねばならぬのではないか?」

 直也はその晶子の言葉に反論する事は出来なかった。

わらわは母上にそう教わって育った。…じゃが、直也達に会うまではその意味がわかっていなかった。昨日、世話になった百姓の暮らしを見て初めて、母上の言わんとする事が腑に落ちた」

「……」

「妾一人で何が出来るかわからぬが、妾が嫁ぐ事で、宮家、朝廷、幕府の結びつきがより緊密になり、世の平和が保たれる事。それが妾に出来る精一杯の事じゃ」

「晶子…」

「ふふ、おかしいのう、昨日までの妾なら、名前を呼び捨てにされたら苛立ったのに、今はそれが何だか心地よい」

 晶子は直也にすり寄るように座り直し、直也の肩に頭をもたせかける。

「こうしていると心が落ち着く。何故じゃろうのう」

「さてな」

 二人はそれから黙り込んで、そぼ降る雨を見つめていた。

 一刻ほどで弥生が帰ってきた。見えない所で術を使って身体を乾かしてきたのだろう、ほとんど濡れていない。

 晶子はそれに気付かないようで、

「弥生、大儀であった。寒かったじゃろう?」

「なんの、慣れております故」

 そう言って、握り飯と米を床に置いた。そして、二人がくっついて座っているのを見ると、一人頷くのであった。

 

 結局一日雨は止まず、その祠でもう一晩過ごす事となった。


 翌朝は快晴、冷え込んだ。薄氷が張っている。

「うう…寒い…」

 慣れない晶子が震えている。風邪でも引かれたら困るので、荷物の中から直也の着物を出し、それを上から羽織って貰う。

「俺の着物で悪いが、少しは暖かいだろ」

「…済まぬ。…うん、ふふ、直也の匂いがする」

 着物の襟に鼻を付けて晶子が言う。

「お、おい、よせよ…」

 なんだか気恥ずかしくなる直也であった。

 霜の降りた道を行く三人。弥生は林の中、歩きやすい所を選んで進んでいく。

 それでも街道を歩くよりは時間が掛かるもので、一日歩いても行程ははかどらない。おおよそ宮宿辺りと思われる。

 これからの問題は、どうやって先へ行くかである。普通なら海上七里と言われるように、宮宿と桑名宿の間は舟で行くのだが、狙われている今、それは出来ない。

 陸路を行けば、木曽川、長良川といった大河を渡らねばならない。どちらも危険だ。

「やはりここは舟で渡ろう」

 弥生が提案する。

「人が大勢いる所では襲ってはこまい。うまく奴等を出し抜ければ先へ行く事も出来る」

「だが、危険だぞ…」

「宮と儂が着物を替え、髪型も変えていれば宮にすぐさま危険が迫る事も無かろう」

 他に良い考えもないので、弥生の案を実行する事にした。着物を替え、髪型を変える。

 弥生は「根結い垂髪」と呼ばれる後頭部で髪を結った髪型、晶子は下げ髪へと。

「これで遠目には儂の方を宮と思うでしょう」

「弥生、危険な目に遭わせて済まぬ」

「お気になさらぬよう」

 そして三人は船着き場へと向かった。

 ちょうどお伊勢参りの団体がいたので、それに紛れて舟に乗る。見わたした所、怪しい奴等は乗っていないようであった。

 定時に出港。これでしばらくは安心である。

 追い風に乗って船足は速い。ただ風がある分、波もやや高い。じきに晶子が船酔いになった。

「うう、気持ちが悪い…あたまがくらくらする…」

「大丈夫か、晶子?…舟が着くまで我慢してくれ」

 直也は晶子の背中をさすってやっている。そんな最中、

「何だ、あの舟は?」

 乗客の声に、弥生は舟縁へ出てみた。

 帆を掲げた小型の弁才船が併走している。弥生が目を凝らすと、船首に立っているのは間違いなく、先日の松代戟まつしろげきである。

 弥生達に気付いているのか、それとも先回りするつもりか。船足は明らかに向こうの方が速い。いずれにせよ、先に行かれては拙い。

「ナウマク…サマンダボダナン…バヤベイソワカ 」

 弥生が乗客達に聞こえぬような小声で風天真言を唱える。巻き起こる一陣の疾風。

「お?…むこうの帆綱が切れたぞ?」

 乗客が騒いでいる。弥生が秘かに使った風の刃、「風刃」。

 これで修理に手間取る分、こちらの方が先に桑名へ着ける、弥生は安心して直也達の所へ戻った。

「げぇ…」

 当の晶子はあいかわらず船酔いのままであった。

 後編おたのしみに!

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