巻の二十八 紅緒の危機
巻の二十八 紅緒の危機
紅緒と別れ、また二人旅となった直也と弥生は、三島、沼津を過ぎ、田子の浦で冠雪した富士の山を眺めていた。
「なんてきれいな山なんだろうな、弥生」
青く霞む裾野を長く引き、頂は雪で真っ白に輝いている。
「うむ、さすが日の本一の富士のお山じゃ」
「弥生は登った事あるのか?」
「大昔に一度、の」
「俺もいつか登ってみたいな」
「登るなら夏じゃな。講中に入らずともよいのかのう…」
「講中?…信仰の山なのか」
「富士に祀られておるのは木花之佐久夜毘売命、それは麗しい女神なのじゃそうな」
「弥生よりもか?」
「…莫迦を申すな。比べる事すら不遜じゃ」
そんな会話、もうすっかり元の二人である。
この機会に、翌日は富士山本宮浅間大社へ寄り道する事にした。
「…ここは慶長九年(1604)に東照神君家康公が奉賽のために造営したものでしてな、……」
宮司が由緒を説明している。直也も参詣客に混じってそれを聞いていた。
目を遠くに転ずれば、雪を頂く富士のお山。最近ごたごたが続いたので、直也は久しぶりに心身共にくつろいだ気がした。
その日は浅間大社付近の宿坊に泊まる。宿坊らしく精進料理だが、弥生のたっての頼みで油揚げ中心の料理にして貰った。
旨そうに食べる弥生を見て、やっぱり弥生はこうでなきゃな、と心中思う直也。
それが顔に出たのか、弥生はふと箸を止めるといぶかしげに、
「直也…?」
直也は慌てて、
「い、いや、やっぱり弥生はそうやって旨そうに食べてるところが似合うな、…っ…て…」
弥生に睨まれた。
「ふん、まったくお主と二人では色気も何もあったものではないのう」
直也は苦笑して、
「紅緒がいればよかったのか?」
「…あれはちょっとお主に甘えすぎじゃがな」
「弥生も甘えてくれたっていいんだぜ?」
「たわけ」
弥生はあっさりそれをいなすと、
「お主の襁褓を替えてやったのは誰じゃと思っておる?」
そう言われると直也は返す言葉がない。
宿坊の夜は早い。早々に消灯され、直也と弥生も早々と寝た。
深夜。
微かな気配で弥生は目が覚めた。すぐに直也を起こす。
「…う…何だ?」
目の前に、蒼い蛾が飛んでいる。
「…蛾…?」
「違う。…式神じゃ。…どうやら儂等に用があるらしいの」
するとその蒼い蛾が言葉を発した。
「お前たちの仲間をあずかっている。命を助けたくばこの使いに付いて来い。さもなければ仲間の命はない」
そう言って、蛾は脚につかんでいた物を落とした。灰色の、動物の毛のようである。
それをつまみ上げた弥生は、
「…紅緒の毛じゃ」
「何!?」
「どうする?…来るのか、来ないのか」
「直也…?」
直也は立ち上がると、
「行くさ」
* * *
これより前の事。
直也、弥生と別れた紅緒は、三島へは行かず、北上して御殿場方面へ向かっていた。もちろん猫の姿で。
この姿だと、人間の五倍から十倍の速度で移動出来る。
森の中、木立をすり抜けて風のように紅緒は駆けていた。着物をくわえながらだが、それでも普通の獣より速い。
ふと、その足が止まる。同族の臭いがしたのだ。そちらを見ると、血塗れになった猫が三匹倒れている。
今までの紅緒なら無視したであろうが、直也達に感化された今、放っておくことは出来なかった。
それでそばへ行き、声を掛ける。
「ねえ。…どうしたのさ?」
猫たちは弱々しく首を上げ、
「…ねずみ…に…やられ…」
と言ったのである。
「鼠!?…あんたたち猫でしょう? それが鼠にやられたっていうの?」
「ものすごい…ねずみで…手下が…何千匹…も…いて…」
何千匹。それはものすごい。下手をすると骨も残らず囓られるかも知れない。
(それに? 何と言った? 手下?)
「…その…親分…は…子牛程もある…大鼠…で…」
「どこにいるの? そいつらは?」
「…富士山麓一帯…を荒らしてます…」
「昨日は…御殿場…でしたが…今は…西へ向かって…います」
「おかげ…で、…あの辺の猫は皆やられて…」
「我々だけが…命からがら逃げて…」
「わかったわ。もう喋らなくていいから。ちょっと待ってなさいよ」
紅緒はそう言うと、薬草を探しに行った。
傷に効く薬草。この前、怪我をした時に弥生から聞いた。秋である今頃なら、南天の葉。人里近くへ行けばすぐ手に入った。
とって返し、人型になる。その方が細かい作業が上手くできるから。
よくすりつぶして粉状にし、患部に付けてやった。
併せて少しではあるが食料として、道端の石仏にお供えしてあった饅頭も持って来てやる。
「これで大丈夫だと思う。少し休んでなよ。…しかし大鼠、か…」
少し悩んだが、結局西へ行ってみる事にした。
直也と弥生も西へ向かっている、まさかとは思うが、二人に万一の事が無いように、自分で確認しておきたかった。
この時紅緒は油断していたかも知れない。折からの東風、紅緒は風上から接近してしまっていた。
ちょっと休むために清水の湧いている場所で足を止め、水を飲んだ。気が付いた時には、何千、いや何万という鼠に取り囲まれていたのだった。
「く…! しまった…!」
人化し、爪を出す。臨戦態勢に入った紅緒の前に、首領が姿を現した。それは巨大な古鼠であった。
「ほほう、猫又殿か。仲間の仇討ちかな?」
「…あんたが親分ね?…何を企んでいるの?」
「こやつらを率いて人間どもの糧食をみな喰らい尽くし、飢饉を招いてやるのだ」
「…なんて事を…」
「どうだ?命が惜しくば手を貸さぬか?」
「…誰が」
「そうか、仕方ないな。…やれ」
鼠どもが一斉に襲いかかった。
「にゃあごおおおお!」
紅緒が吠える。鼠たちがひるんだ。が、それも一瞬の事。次々に跳びかかる鼠たち。
紅緒は爪を一振り。それで幾十の鼠が吹き飛び、朱にまみれる。
しかしそれは何百分の一でしかない。鼠どもは恐れる風もなく、手と言わず足と言わず、紅緒の全身に喰らい付く。
紅緒は既に幾百の鼠を屠っていたが、同じくらい傷も受けていた。
一つ一つの傷は小さくとも、幾十幾百の傷が刻まれていく。そこから流れ出る血は、少しずつ紅緒の体力を奪っていった。
紅緒の脚がもつれた、その時。
首領の古鼠が跳びかかった。その針金のような尻尾を鞭のように使い、紅緒の四肢を打ち据える。
弱りかけていた紅緒は、防ぎきれず地に伏してしまった。そこを配下の鼠どもによって蹂躙されてしまう。
「きゃあああああっ」
「そのくらいにせよ」
古鼠の命がなければ、骨まで囓られていたであろう。今や紅緒は全身血塗れで虫の息であった。
「なお…や…さ…ま…」
紅緒の口から直也を呼ぶ声が漏れた。古鼠は紅緒の髪を掴んで引き起こし、尋ねる。
「そいつは誰だ?」
「…いう…もん…です…か…」
つい苦し紛れに直也の名を呼んでしまった事さえ後悔しているのに、これ以上何も言うものかと紅緒は覚悟を決めた。
「言わぬと…」
古鼠は紅緒の右腕を捻る。鈍い音がして肩が外れた。
「きゃあ…っ」
「どうだ?これ以上強情を張ると…」
もう一方の肩が外された。それでも紅緒は頑として口を割らない。
「…」
古鼠の命により、鼠どもが紅緒に群がる。
「...貴様を骨にしてしまうぞ」
「やる…なら…やり…な…さいよ…」
脂汗を流し、顔面を蒼白にしながらも紅緒は気丈に言った。
「ふむ」
古鼠は、何をしても紅緒を喋らせる事は出来ないと悟ったようだ。
手を変える事にする。
じっと虚空を睨む。
すると虚空のその場所に、何かが寄り集まってきた。
最初は薄い霞のようなものであったそれは次第に濃くなり、灰色の煙の様になったかと思うと、段々縮まっていく。
最終的に丸くかたまってゆき、…そこにはマーラの呪い玉があった。
「そ、それ、は…」
古鼠はそれを掴み、紅緒に見せつける。ゆっくりと紅緒に近付けていく。
「いやっ!いやーっ!!」
古鼠の手により、呪い玉が紅緒の胸に埋め込まれた。紅緒の目が見開かれ、身体が痙攣する。
「あ、あ、あああ…」
やがて、マーラの支配が全身に回ると、紅緒は生気のない目で立ち上がった。マーラの力で傷は塞がっている。
古鼠は紅緒に質問した。全てに紅緒は躊躇うことなく答える。
しばらくの後、古鼠は知りたい事は全て知った。
九尾の狐の化身、弥生と、その主人、直也。
凄まじい弥生の力。
直也さえいなければ、弥生は人間を滅ぼす側に回るだろうこと。
二人の旅の道筋、どの辺にいる筈か。
紅緒の知っている知識は全て古鼠のものとなった。計略をめぐらせる。
紅緒の記憶を得た古鼠は、紅緒が危ないと知らせれば、直也は決して見捨てたりしないだろうという事を知っていた。
「直也と弥生を捜せ」
手下に命令する。
数万の鼠たちは八方に散って行った。
翌日、直也と弥生が富士宮に向かった事が報告された。
「そうか、御苦労」
そこで罠を用意する。
おびき寄せるための式神を作り、夜になるのを待って送り込んだ。
網は張られた。あとは獲物がかかるのを待つだけであった。
* * *
富士宮から山の中へ。案内の蛾に導かれ、直也と弥生は獣道を辿ってゆく。
弥生は狐火を灯し、足元を照らしてくれている。
「…なあ弥生、相手は何者だろう?」
「…わからぬ。あの紅緒を捕らえる手並みがあるということは並の化け物ではなさそうじゃ」
「強いって事か?」
「うむ。それだけではない。単体の攻撃力では猫又である紅緒はかなりのものじゃ。しかし、防御が弱い。まだ猫又としては若すぎるのじゃな、使える術も少ない。…これは例えば大勢を相手にする時には不利じゃよ」
直也は考え込んで、
「…すると今度の相手は大勢という事か?」
「…可能性の話じゃ。…む、少し気配が伝わってくる。…この気配は…鼠じゃ!」
「ねずみ!?…猫又の紅緒がねずみに負けるのか?」
「鼠は群れるからのう。何千匹が一気にかかってきたら、防御の弱い紅緒では防ぎ切れんかったかもしれぬ」
「…大怪我してなきゃいいがな」
「うむ、そうじゃのう…」
そんな会話をしつつ、かなり山の中に入ってきた。と、木立が途切れ、森の中の空き地に飛び出る。
満月に近い月がさし込み、明るい。
式神が消えた。その空き地の真ん中に紅緒が倒れていた。
「紅緒!」
駆け寄ろうとする直也を弥生は押しとどめて、
「待て。罠があるやも知れぬ。…というより、もう罠の中に入ってしまったようじゃな」
弥生がまわりをゆっくりと見回す。直也と弥生は数万匹の鼠に取り囲まれていた。
「直也、こやつらは儂が食い止める。その間に紅緒を見てやれ」
「わかった」
紅緒のところへ駆け寄る直也。
そうはさせじと鼠が跳びかかってきた。
「させぬ!」
弥生が風を起こし、鼠を巻き上げる。その間に直也は紅緒に駆け寄り、抱き起こす事が出来た。
「紅緒!」
紅緒がうっすらと目を開ける。その着物は血塗れだ。鼠に囓られたらしい。
紅緒がすがりついてくる。
「お、おい、紅緒…」
屈んだ直也を押し倒し、馬乗りになる。両足で直也の胴を挟み、両手をそれぞれ掴む。これで直也は身動き出来ない。
脇差も、翠龍も抜く事は出来なくなった。
「お、おい、紅緒、…こんな時にふざけるのはやめろよ」
そう言って紅緒を見る。
直也は愕然とした。蒼白な顔、生気のない瞳。そして何より、はだけた着物の襟元から見えているのは…
マーラの呪い玉。
それで直也は全てを悟った。これがマーラの罠だという事。
狙われたのは直也。弥生と直也を引き離し、直也を紅緒に屠らせる。直也がいなくなったなら弥生は…。
それがマーラの最終的な狙いだと理解するのに時間は必要なかった。
紅緒が口を開けた。牙がのぞく。その牙を以て、紅緒は直也の頸動脈を狙っている。
直也は振り解こうとするが、手も胴も万力に挟まれたようでどうにもならなかった。
紅緒はゆっくりとした動作で直也の首筋に牙を近付けてくる。
「紅緒…xxx!」
直也は紅緒の「真名」を叫んだ。
* * *
群がり来る鼠の大群。弥生は瞬時に風を纏う。跳びかかかってきた鼠は全て巻き上げられ、弥生に鼠の牙は届かない。
弥生は面倒とばかり、そのまま鼠どもを全て風に巻き込み、いずこかへと運び去る。これで残るは首領だけだ。
「流石にやるな」
声の方を見る。大鼠。その姿に見覚えがあった。
「貴様…鉄鼠じゃな?」
「ほう。俺を知っているのか」
「確か白河帝の時、三井寺の頼豪阿闍梨の呪いが鼠に乗り移り、災いを成した事があったことを憶えておる」
「なるほど、猫又の情報は確かであった。貴様はまさしく金毛白面九尾狐の生まれ変わり!」
「そう言う貴様はマーラにそそのかされてまたぞろ人の世に災いをなそうとしていると見えるな?」
「その通り!…力を貸せ、狐」
「お断りじゃ」
「そう言うと思った。…あれを見ろ」
鉄鼠の指し示す方には、紅緒に組み伏せられた直也が。その牙はいましも直也の頸動脈を噛み切ろうとしていた。
「…いかん、…直也!」
弥生は助けに行こうとする。その腕を鉄鼠の針金のような尻尾が捕らえた。
「!?」
「行かせぬよ」
「くっ!…放せ!」
「…紅緒の記憶通りだな。直也とやらの事になると貴様は我を忘れると見える。それが貴様の弱点だ。ここから直也が息絶える所を見ているがいい」
* * *
「紅緒……xxx!」
直也が紅緒の真名を叫んだ。
紅緒の身体がぴくりと震え、動きが止まる。その唇が震え、言葉が紡ぎ出される。
「な…お…や…さ…ま…?」
「俺だ、紅緒、しっかりしろ!マーラに負けるな!」
紅緒の目に光が戻りかける。首がゆっくりと曲げられ、直也から離れていく。直也を捕らえている力も緩んだ。
それを見た鉄鼠は、
「何をしておる! さっさと喉笛を噛み切らぬか!」
その声に、再び紅緒は直也を捕まえる手に力を込める。
「紅緒!」
直也の声。
「あ…あ……な…お…や…さ…」
紅緒は苦しそうに頭を振った。
「ええい、何をしておる!」
鉄鼠のいまいましそうな声。
その瞬間、僅かに尻尾の力が緩んだ。弥生は腕を振り解くと、鉄鼠を風で弾き飛ばす。
「ぐわっ!」
その隙に弥生は一跳びで直也の所へと駆けつけた。即座に紅緒を引きはがす。
羽交い締めに紅緒を押さえ、直也に、
「直也、翠龍じゃ!」
直也は翠龍を抜き放つと、紅緒の胸の呪い玉を正確に貫いた。
「…!!」
紅緒が気を失って倒れる。弥生は介抱を直也に任せると、
「鉄鼠…マーラ!…許さぬ!!……金気よ、集え!」
手に金気の太刀を作り出し、猛り狂って襲いかかる鉄鼠に向けて振り下ろした。
火花が散った。
鉄鼠の名の由来。その身体は石にして、牙は鉄。鉄鼠は牙で弥生の剣を受け止めていた。
「ふふ、俺に刀は通じぬよ」
もともと毛虫で金気の鼠は、十二支においては水性で陽の性質も併せ持つ。それが石鉄の身体を持っているのであるから、その堅牢な事は並の妖物の比ではない。刀、弓矢は効かないと言っても過言ではなかった。
弥生は瞬時にそれを悟り、対抗出来る技ーーー鉄鼠よりも強い金気ーーー白い狐火で攻撃を仕掛ける。
しかし、鼠の素早さを持つ鉄鼠にことごとくかわされてしまった。
一方、紅緒と直也。
紅緒を支配していたマーラの力が消え、紅緒の傷が開いた。血が流れ出す。
「紅緒!しっかりしろ!」
直也は紅緒の名を呼ぶ。意識が戻れば、自分で傷を塞げるはずーーー前回はそうだった。
「…あ…」
紅緒が気が付いた。
「直也…さま?」
「そうだ、俺だ!…しっかりしろ、紅緒、傷を塞げないのか?」
「…はぃ…」
満身創痍の紅緒は、力も限界で傷を塞ぐ事は出来なかった。
「紅緒!…そうだ!」
天狗から貰った秘薬。小分けにして懐にも入れておいた。
急いで取り出し、胸の傷、脚、手、と酷い傷から塗っていく。ようやく血が止まった。
しかし紅緒はもう息絶え絶えである。
「紅緒、紅緒!」
必至に紅緒の意識を繋ぎ止めようと、名を呼び続ける直也。そんな直也を霞みゆく目で愛おしそうに見つめる紅緒。
その紅緒の目に、弥生と鉄鼠の戦いが映った。弥生が苦戦している。
白い狐火、それが当たりさえすれば鉄鼠を倒す事が出来る。しかし鉄鼠は素早く動き回ってその隙がない。
紅緒は最後の力を振り絞って身体を起こした。
「お、おい、紅緒…?」
紅緒は身体に残った力をかき集め、一声啼いた。
「ふぎゃああごおおおおおお!!!」
耳を聾するばかりの猫の鳴き声。その声に鉄鼠もすくんで、動きが一瞬止まる。
その一瞬で十分だった。弥生の放った白い狐火が命中する。
「ごわああああああああ!!!」
鉄をも融かす白い狐火に包まれ、鉄鼠が燃え上がる。その身体から黒い煙が立ち上った。
「直也!マーラじゃ!…頼む!!」
直也は翠龍を持って駆け寄り、煙を横薙ぎに切り裂いた。
「…!!!!!…」
声にならない声を上げ、マーラの呪いは四散した。
「終わった…」
弥生の声。直也は、
「弥生、紅緒が危ないんだ、診てやってくれ」
「む、わかった」
それで弥生は急ぎ紅緒の元へ駆けつけた。
「紅緒…」
直也と弥生が紅緒を覗き込む。弱々しく笑った紅緒は、
「…ごめんなさい…あたい…最後まで迷惑…かけちゃいましたね…」
「そんな事はないぞ、紅緒!…お前の鳴き声、あれがなかったら鉄鼠は倒せなんだ」
「…あたい…お役に立てました…?」
「ああ、そうだ、紅緒! お前のおかげで、マーラの陰謀をまた一つ潰せたんだ!」
「…よかった…」
紅緒の四肢から力が抜ける。
「しっかりしろ、紅緒!お前、俺の言う事聞けないのか?…気をしっかり持て!」
「直也様…直也様の腕に抱かれて逝けるなんて…夢みたい…です…」
「馬鹿、気弱になるな!」
「直也様…短い間でしたけれど、お仕え出来て幸せでした…弥生姉様、直也様を…よろしく…」
「紅緒!!」
紅緒の目が閉じられていく。
「弥生、何とか出来ないのか?このままじゃ、紅緒が…」
「うむ…」
必死に弥生も考えをめぐらせた。
「…そうじゃ!」
「何かいい方法が?」
「うむ。…上手くいくかどうかわからぬが…」
「頼む!このままじゃどのみち紅緒が…」
「やってみる」
そう言うと、弥生は直也に替って紅緒を抱きかかえ額に手をかざすと、呪を唱え始めた。
「…*<@…>+…=?ー¥x・ぉ*。_@+;ー:…」
聞いた事のない言葉であった。更に呪は続く。真言が唱えられる。
「…ナウマク サマンダボダナン…オンサルバ …… ソワカ」
最後の真言を唱え終わると、紅緒の身体が光に包まれた。
「な、何が?」
「…うまくいきそうじゃ…」
「弥生?」
弥生は大きく息をつく。やはり真言に力を使ったようだ。再度深呼吸した弥生は、
「翠のことを憶えておるじゃろう?」
「え?…もちろんさ」
「最初、傷ついた翠は、卵からやり直したじゃろう?…あれと同しじゃ」
紅緒の身体が光に包まれたまま、縮んでいくのがわかる。
「今紅緒の身体に残った生命力では、猫又の身体を維持する事は出来ぬ。故にその傷ついた肉体を再構成してやるのじゃ」
「それって…卵…いや、猫だから子猫になるってことか?」
「そうじゃ」
やがて光は収まり、そこにいたのは。
「にゃあ」
灰色の毛をした子猫であった。
「紅緒」
直也が呼ぶ。
「にゃー」
子猫はちょこちょこと歩いてきて、直也の手に身体をこすりつける。そんな子猫を直也は抱き上げた。
子猫は直也に抱かれるのが嬉しいらしく、喉をごろごろ鳴らしている。
「紅緒…」
直也の目から涙が一粒零れた。
「なー」
子猫は名前を呼ばれたのがわかるのか、さも嬉しいと言わんばかりに甘えた声を上げる。
「なあ弥生、紅緒はずっとこのままなのか?」
「…わからぬ。…じゃが、翠の例もあった事じゃし、魂は紅緒のままじゃから、ずっと早く成長すると思うのじゃがな…」
とりあえず、直也が紅緒を抱きかかえて宿坊に戻る。道々、紅緒をどうするか相談しながら。
一緒に連れて行ってやりたいのはやまやまだが、今の紅緒では自分の身を守る事さえ出来ない。
またマーラの手先が現れたらどうなることか。
結局、どこかに預ける事に決まった。
そんな会話を紅緒は直也の腕の中で大人しく聞いている。
「紅緒、お前それでいいのか?」
宿坊の部屋で煮干しを囓らせながら直也が尋ねる。
「うなー」
紅緒は頷いたように見えた。
「弥生、…預けると言っても、当てはあるのか?」
「うむ、知り合いの妖物と言えば、環、と地鎮坊くらいじゃが...」
「近いのは地鎮坊だよな」
「…鴉天狗の中に置いてくると言うのもな…」
ということは環の所。江戸まではここから三十里以上ある。だが弥生は、
「儂が行こう。じきに帰ってくる」
そう言って、紅緒を抱き上げた。
「うにゃん?」
直也は紅緒に、
「紅緒、しばらくお別れだ。いい子にしてろよ。…元に戻ったらまた会おう」
「にゃーん」
紅緒は差し出された直也の手をぺろりと舐めると、弥生の腕の中で大人しくなった。
「それでは行ってくる」
弥生は紅緒を抱え、闇に消えた。
直也は布団に潜り込んだが、目が冴えて寝付けない。明け方になってちょっとまどろんだと思ったら、弥生が帰ってきた気配がして目が覚めた。
往復で六十里以上を一刻半で往復する弥生。とんでもない速さだ。しかし、真言に続いて江戸往復はさすがに弥生といえどもかなり疲れたと見え、そそくさと布団に潜り込んだ。
* * *
「ふああ、眠いのう」
「…ああ、まったくだ」
東海道へと戻り行く二人。その足取りは重く、見るからに眠そうである。
折から日本晴れの晴天、晩秋の陽は暖かく、風も無い。
「ちょっと昼寝していくか」
「…そうじゃな」
ちょうど手頃な茅の原があったので寝転ぶ。二人ともすぐに寝息を立て始めた。
晴れた空には沫雲が浮かび、その向こうには雪を被った富士のお山が二人を見下ろしていた。
今回は鉄鼠です。怨みを抱えている妖はマーラにつけいられやすいということですね。
そして今度こそ紅緒、しばらくの間退場です。紅緒はどちらかというと前衛。弥生は万能型ですね。
前半、ちょっと紅緒をいぢめすぎたかな...と思いました。(でも、ここだけの話、初稿では紅緒は鼠に骨も残さず食い荒らされるが、逆に鼠の妖力を利用して蘇る...という話も考えていましたが、あまりにあれなので没にしました)
ところで紅緒の真名は秘密。というか作者も知りません(笑
でも紅緒、最後で良いキャラに成長してくれたので生みの親として嬉しい限りです。きっとまた猫又に成長した姿で再登場します。
それでは、次回も読んでいただければ幸いです。




