巻の二十七 弥生の前身
前回からの続きです
巻の二十七 弥生の前身
その男は都へと歩を進めていた。三十前、がっしりした体つきの武士。伴の者は五人、いずれも武士である。
話に聞く都はどのように麗しい場所かと心踊らせて来たものの、目にするものと言えば荒れた土地である。都とはいえ、九条のあたりは場末、家もまばら。
それにしても、惨状とも言える有様であった。犬の死骸がうち捨てられ、それをまた痩せこけた犬が喰らっている。
病なのか、虚ろな目をした老人が木の根方にうずくまっている。
既に冷たくなった赤ん坊を抱いて、必死に乳を飲ませようとしている母親がいる。
手も足も蚊の脛のように細い子供が物乞いをして歩いている。
男達には近寄らないが、盗賊であろうか、物陰から様子を窺っている者達がいる。
「これはなんとしたこと」
知らずに嘆息が漏れていた。
それでも、五条辺りまで来ると、立派な塀を巡らした屋敷が増え、目指す土御門の屋敷には穏やかな空気が流れていた。
「某は堀越三郎義近。以下五名、主の命により参上つかまつりました」
そう口上を述べると、応対した舎人は、
「はい、伺っております。相州衣笠、源義明様のご家来衆でございますね」
そう言って中へと招き入れてくれた。伴の五人は端近で待つ。
「播磨守安倍泰親様はご息災であられますか」
堀越三郎は舎人に尋ねた。
「はい、先日の神泉苑での祈祷による疲れも癒え、今はあやかし調伏の準備をしておられまする」
安倍泰親は安倍晴明六代の孫で、天文博士である。
うち続く日照りに際し、神泉苑で祈祷を行うも験無く、代わって段に上った女官により雨がもたらされたとはもっぱらの噂である。
それ以来、自ら門を閉ざし蟄居していたがこの度、都を騒がす妖異の調伏を行うというので、警護のため堀越が派遣されてきたというわけである。
「それではよろしく頼む。身の回りのことやわからないことは、その俊輔に聞くが良い」
忙しいのか、対面した安倍泰親は二言三言言葉を交わしただけで奥へと引っ込んだ。そのやつれた顔を見て。今回の調伏が並大抵のものではないと実感された。
「俊輔殿と申されたか、今回の妖異について、ご存じのところを教えて下さらぬか」
「はい。そもそもの起こりは、関白忠通様が、玉藻と申す女性を見つけ出したことにあるのです」
忠通卿は、和歌の道を再興しようと、歌人を世に求めた。そして見いだしたのが玉藻という名の女であった。
彼女は勅勘を被った北面の武士の娘であった。
そのたぐいまれな歌の才と、更にたぐいまれな容貌を愛でられて宮中に上がり、采女として帝のお側近く使え、退位されて上皇となった今でも一の女人として寵愛を受けているという。
その鳥羽上皇が最近とみにお身体がすぐれず、医師が診ても何の異常も見つからなかったのだが、陰陽師、安倍泰親が玉藻がその元凶であると看破し、調伏の祈祷の準備中であるということだった。
「かの女は鳥羽天皇に取り入り、さまざまな悪政を施しました」
堀越三郎はじっと聞き入っていた。
「特にここ数年の干魃による飢饉にもかかわらず重税を取り立てたため、この都周辺でも飢え死にする者が後を絶たず。盗賊、強盗が跋扈し、昼も危険な有様です」
それは今さっき目の当たりにしてきた光景であった。
「いつとはまだ申せませぬが、御身には警護以上の働きをお願いするやも知れませぬ」
そう言って俊輔は席を立った。
堀越三郎は、腕を組み、今更ながらの重責を噛み締めていた。
その夜のこと。屋敷周辺の警護で、外を回っていた三郎は、人の気配に立ち止まった。
見ると、塀の陰に、被衣姿の女が佇んでいる。夜目にもそれとわかる程色白の女だった。
「何者」
三郎が誰何すると女は顔を上げた。
「名乗る名もない賤の女でございまする。貴方様は泰親様の御家来でいらっしゃいまするか」
「いや、某は警護の者である」
「…そうでございますか」
そう言った女はなんとなく艶めいていて、尋常の者とも思えない。もしや、これが玉藻ではないかとの思いがちらと三郎の頭をかすめた。
「そこもとはもしや玉藻と申すのではないか」
女ははっと顔を上げると、
「…仰せの通り、私は玉藻と申しまする。…こうしてお伺い致しましたのには理由がございまする」
「理由?」
「はい、私は泰親様がおっしゃるような魔性の者ではございませぬ。…何の力も持たぬ弱い女でございます」
「それが何故国を乱そうとする」
「そんな大それた事は企んでおりませぬ。…上皇様が私をご寵愛下さいましたのはたまたま私が生まれついたこの容姿をお気に召したから。お身体がすぐれぬのはお歳であることと、…毎夜毎夜の、…その、…お情けを下さいますことが…」
言い淀むが、三郎には察しが付いた。
「日照りや飢饉に致しましても、私ごときが起こせるはずもございませぬ。…それを全て私の所為にし、私を人柱にしようというのはあまりに非道すぎませぬか」
「……」
三郎は考え込んでしまった。確かに、目の前の女、玉藻の言うことにも一理ある。
「お願いでございまする。…調伏の秘法、お取りやめを奏上して頂けませぬか」
そう言いながら、玉藻がすり寄ってきた。気が付けば玉の顔が目の前にある。
「もし願いを聞いて頂けますなら、今宵一晩、この身をお任せ致しまする…」
玉藻の髪からは伽羅か蘭奢か、えも言われぬ匂いがした。
「三郎殿…」
玉藻の吐息は甘く薫った。手を握られると、そこが心地よく痺れたようになる。その心地よい痺れが全身に回りかけた時、三郎の中の何かが警告を発した。
必死の思いで玉藻の抱擁から逃れると、
「もし御身がただの人であるなら、魔性調伏の法は何の害も与えぬであろう。よって心配せぬが良い」
そう言って距離を取る。しかし玉藻は、
「いえ、そうではありませぬ。…魔性の者と決めつけられる、それこそが悲劇なのです。のう、三郎殿、後生じゃ…」
再度名を呼ばれた三郎ははっと気が付いた。
「ぬしが魔性の者でないと言うなら、何故我の名を知っておる?」
先程からの違和感はそれであった。今日都に来たばかり、名を知るのは伴の五名と泰親、そして俊輔だけだ。
「……!」
失敗を悟った玉藻の顔色が変わった。
「…やれ、三浦介は良い家来を持っておるようじゃ。気に入った。…今宵は引くとしよう」
そう言うと、追いすがる三郎の目の前から、たちまちの内に姿を消してしまった。
…危なかった。堀越三郎は冷や汗を拭った。板東武士としてのたゆまぬ鍛錬の賜物だ、と思った。
警護を終えて屋敷に戻ると、泰親が待っていた。
「泰親様…」
「三郎殿、外で何事かあったようじゃな?…話してはくれぬか」
それで三郎は、玉藻と名乗る女との出来事を逐一報告した。聞き終わると泰親は、
「…やはり、勘付き始めておったか。もはや一刻の猶予もならん。…三郎殿、そこもとの胆力は見上げたものじゃ。明日の夜、かの魔性の力の元を暴く。お力をお貸し願いたい」
「某でよろしければ、喜んで」
「おお、早速の承諾、痛み入る。それでは明日の夜、よろしくお頼み申す、詳細はかの者に気取られぬよう、明日の夜までお話し出来ぬ」
そう言って泰親は再び奥へと戻った。
三郎は床に就きながら、先程の玉藻のことを思い出していた。絶世と言える美貌、その香り、柔らかな手。いずれも男の理想とするものであった。
であるが故にまた、かの女は魔性であると言える。
現実の女であれば、どこかに瑕疵があるものだ。完全無欠の者など存在するはずがない。しかしそう思えば思う程、玉藻の事が忘れられない三郎であった。
翌日、水垢離、潔斎をして後、泰親から命が下った。
「山科の小野という地に杉の森がある。そこの古塚を目指す」
まずはそれだけが指示され、泰親以下、陰陽寮の面々と警護の者、合わせて二十名ほどが出発した。
三郎は、警護以上の役目とはなんであろうかと考えつつ、一行に従って目的地を目指した。
山科の地、小野の森。辺りは湿地帯となっており、足が踝の辺りまで沈み込み、歩きにくいことこの上ない。
そこかしこに狐火のような燐光がちらつき薄気味悪いが、それで怖じ気を震う様な者はいなかった。
一行は一言も発することなく、森の奥に達した。一際大きな杉の木の根方に、その古塚はあった。高さ六尺程、幅二間程の大きさである。
「これじゃ」
泰親が初めて言葉を発した。篠竹を塚の四方に立て結界を張ると、一言、
「これを掘り起こせ」
部下の陰陽師達、警護の武士達、総出で塚を切り崩す。
半刻ほどの後。掘り出されたのは骨でも副葬品でもなく、一つの壺である。泰親はその壺を検めると、
「三郎殿」
三郎を呼び、この壺を斬り割ってくれと、一振りの霊剣を手渡した。
「承りました」
三郎はその霊剣を押し頂き、大上段に振りかぶると、一気に振り下ろした。
かんだかい音を立てて壺は真二つに割れた。中から出て来たのは髪の毛。長い女の髪の毛が詰まっていたのであった。
泰親は用意してきた樒と榊の枝を燃やして小さな火をおこすと、その中に髪を投げ込んだ。
そうして何やら秘密の祈祷を施す。
焼けるに連れ、女の悲鳴のような声が聞こえる気がした。泰親以外、皆耳を塞ぐ。
やがて火は消え、髪も皆焼け失せた。
「今夜はこれでよい。皆、ご苦労であった」
そして一行は引き上げる。燐光も消え、何事もなく帰り着くことが出来た。
翌朝、急使が泰親邸にやって来た。
それによると、昨夜は関白忠通の屋敷で歌会が行われており、今しも、玉藻の前がその歌を披露しようとした矢先、一天俄にかき曇って、稲光が走ったかと思うと、一陣の狂風が灯りを全て吹き消した。
その闇の中、玉藻の身体からは淡い光が発せられ、その光の中に浮かび上がった玉藻の顔はと言えば、形相凄まじく、居並ぶ者、鳥羽上皇も関白忠通も、ぞっとして目を伏せる程であった。
宿直の侍が魔性の者と見て打ちかかると、その刹那電光がひらめいて、皆一時的に目が眩んでしまった。
再び目を開けた時、玉藻の姿は既に無く、打ちかかった侍の引き裂かれた骸があるのみであったという。
女房どもは皆気を失い、居合わせた貴族達も色を失って経文や陀羅尼を一晩中称えていたという。
その玉藻が消え失せたのは、ちょうど泰親が髪の毛を焼き捨てた時刻と一致していた。
この一件により、安倍泰親の名は一気に上がり、妖魔を退散せしめた功により、従三位に叙せられた。
それから数日、泰親の屋敷は祝いの人々であふれかえっていた。
三郎は勤めを果たし、帰郷の準備を始める。
そんな時である。
三郎の元に、三浦介の最愛の孫娘、衣笠がむなしくなったとの知らせが届いた。
それは玉藻が消え去った夜の事であるという。更に京の都の外で相次いで変死体が見つかった。
一人は古塚の事を泰親に知らせたという翁。
もう一人は里に帰っていた泰親の弟子の一人。
いずれも、喉を喰い裂かれていたという。
泰親は考え込み、かの魔性が逃げ去る時に、憎むべき者を取り殺して行ったと思われる、と結論づけた。
「では、某の所為で、姫が取り殺されたということですか…」
三郎は、泰親に加勢したばかりに、主君の姫君の命が奪われたと知り、嘆息した。
「三郎殿、そなたの所為ではない。罪があるとすれば、三浦介殿に加勢を頼んだ私が責められるべきだ」
泰親は更に、
「かの魔性は滅びたわけではない。更に追い打ちをかけ、完全に討ち滅ぼさねばまだまだ犠牲者は増えよう」
そう付け加えた。
「帝に奏上しておくつもりじゃ」
その明くる日、三郎は伴の五名と共に、相模の国へと帰国の途に就いた。
あくる月の初め、下野の国、那須の住人那須八郎宗重から朝廷へ早馬で注進がもたらされた。
那須野に白面金毛九尾の狐が現れ、旅人を取り喰らい、あたりの人畜を見境無しに屠り尽くしているという。
宗重は手勢を率いて狐狩りを催したが、到底彼等の手に負えるものではなく、半数を越える家来がやられてしまったという。
それを聞いた時の帝、後白河天皇は源氏、平家の両家に追討を命じ、参謀を泰親に命じた。
源家からは高齢ながら、孫娘の命を奪われた三浦介、源義明。
平家からは上総介、平広常が任に当たった。
十月も終わりに近い頃、討伐の兵は那須野に到着した。堀越三郎義近ももちろんその中にいた。
折しも那須野は薄の穂が金色に色付き、狐の尾のように揺れていた。
翌日から狐狩りが始まった。
三浦、上総合わせて八万余りの軍勢が那須野に散らばり、魔性の狐を探し回った。しかし、その悉くが失敗に終わる。
妖怪は、兵の隙をつき、また兵を喰い殺し、果ては兵に化けて、その包囲網を突破し、嘲笑うかのように近隣を荒らし回っていた。
三郎も歩兵の将として、遠目ながらその姿を見た。
全身は陽の光を受けて金色に輝き、顔はあくまで白く、尾は九つに分かれ、それが薄の原を駆ける様は夢の中の出来事のようであった。
しかし両軍はこのまま引き下がる事は出来ない。やがて冬になれば雪に閉ざされ、更にこちらが不利になる。そこで参謀の安倍泰親は、魔性降伏の祈祷を上げると共に、騎射による追撃を進言した。
必要な馬は那須八郎に調達させ、準備が整ったのは十一月半ば。朝から冷え込み、辺りは霧に包まれていた。
三浦、上総の両軍勢は那須野を押し包む。
やがて霧は朝日が昇ると共に薄らいで、号令が下り、軍勢は動き始めた。
歩兵が散開して九尾の狐を狩り出す。そして騎馬に乗った射手が狩り立てる。
泰親は弟子一統と共に破邪の祈祷を行い、魔性の狐の力を封じ続けた。
そして未の刻(午後二時頃)、ついに九尾の狐が姿を現した。
その動きは鈍く、泰親の祈祷が功を奏している事は明らかだった。
数十騎の騎馬が妖怪を追い詰める。右に左に、九尾の狐は逃げ回るが、次第に疲れが見え、更にその速さが鈍ってくる。
そこを見逃さず、射手となった三浦の矢は首筋を、上総の矢は脇腹を射た。勝ち鬨を上げる軍勢。
しかし稀代の妖狐はまだ死んでいなかった。
とどめを刺しに近寄った歩兵を悉く喰い殺し、血の滴る四肢を踏ん張って、遙か都の方角を睨み据える。
歩兵の第二波が突撃した。その中に三郎もいた。
今度は先の三倍の人数、三分の一は喰い殺され、三分の一は弾き飛ばされたが、残り三分の一の槍、鉾、太刀が妖物の身体を貫いた。
さしもの狐も一声大きく唸ると、その場にくずおれる。
三郎は鉾から手を放すと、先の手柄により泰親から譲り受けた霊剣を抜き、九尾の狐の眉間に向けて振り下ろした。
刹那。九尾の狐の貌が一瞬、女の顔と重なって見えた。
「弥…生…?」
三郎、いや直也は思わず呟いた。
幻影は一瞬で消え、直也、いや三郎の剣は、九尾の狐の眉間を断ち割っていた。
その瞬間、狐の姿は無く、巨大な岩が出現する。
岩は毒気を吐き、軍勢は慌てて退却した。一番近くにいた三郎はまともに毒気を浴び、忽ちの内に意識を失った。
三郎の脳裏には、かつて夜の都で逢った玉藻の顔が浮かんだのかも知れない。
騎馬隊は無事であったが、徒歩の兵の幾人かは三郎同様、毒気に当てられて倒れた。
しかし、この後もう二度と九尾の狐が現れる事はなく、軍勢は引き上げていった。
この岩は怨念が形を成した物として、「殺生石」と名付けられ、後世に語り継がれる事になる。
* * *
直也は顔を上げた。
今の今まで、堀越三郎と同一人として、九尾の狐討伐の一部始終を体験していたのだった。
「…直也殿、おわかりいただけたかな?…そなたの従者はこういう妖物であったのだよ」
ちらと、鎖に雁字搦めに縛られた弥生の方を見る。
転がされている弥生のその顔は、今まで見ていた玉藻に通じるものがあった。
その弥生が直也の事を縋るように見る。その目は直也が見たこともないほど弱々しく、まるで捨てられた子犬のようだと直也は思った。
「直也殿、見てきたであろう。妖物は巧みに取り入り、時には媚び、時には襲う。
その本性は邪悪、その目的は人の世の霍乱、その欲する物は人の血肉じゃ」
「……」
「直也殿、一言、『去れ』とぬしが言えば、この妖物はぬしから離れる。さすればぬしにこれから降りかかるであろう災厄から逃れる事が出来る」
「……」
「直也殿、さあ」
地鎮坊が直也を促す。
直也はもう一度弥生を見た。
弥生はもう直也と目を合わせようとしなかった。
「直也殿は堀越三郎として九尾の狐にとどめを刺したお人ではないか」
目を閉じ、考え込む直也。やがて眼を開くと、
「わかりました」
とだけ言った。
「おお直也殿、決心が付いたか、さあ、いざ」
その言葉に従い、直也は弥生に歩み寄る。
鎖に縛られた弥生の身体を起こし、
「弥生、今日までありがとう」
弥生は俯いたまま、直也を見ようともしない。ただ身体を震わせているだけである。
直也は続けて、
「これからも、傍にいてくれ」
そう言うと、懐から翠龍を抜き、弥生を縛っている鎖を一気に斬り払った。
自由になる弥生。
「な、直也殿、何をする!?」
「うるさい。…確かに弥生は過去、罪を犯したかも知れない。しかしそれは命を以て償われたはずだ」
「…直也…」
弥生の肩をしっかりと抱き、直也が叫ぶ。
「俺は俺の心に従う。…弥生は渡さない。正体を現せ、マーラ!」
「何!?」
弥生と地鎮坊が同時に声を上げる。
「翠が…翠龍が俺に教えてくれた。お前の思い通りにはなるものか!」
「直也…」
「弥生、見てくれ。地鎮坊のどこかにマーラの呪玉があるはずだ」
目を凝らした弥生が言うには、
「…うむ、ある。胸の真ん中じゃ。…何故今まで気が付かなかったのか…」
「俺を心配して心が乱れていたからだろ?…少しでいい、天狗を押さえられないか?」
「不動結界には準備が間に合わぬ…が、やってみる」
そう言って、たちまち天狗の後ろに回り込み、羽交い締めに押さえる弥生。だが、体格も力も天狗とは比べものにならない。
「くっ!…やはり力ずくでは無理か…」
その時、
「直也様!弥生姉様!!」
紅緒が天狗を押さえるのに加わった。一瞬、地鎮坊の動きが止まる。
その機を見逃さず、直也は翠龍を地鎮坊の胸、マーラの呪玉に突き立てた。
* * *
「直也殿、弥生殿、紅緒殿、…まことに済まぬ事をした」
地鎮坊が床に付かんばかりに頭を下げる。
「いや、もう済んだ事ですから」
直也が言う。
「それに、こちらもそちらの天狗達を痛めつけてしまったわけですし」
「…まことに以て面目ない。手の者達にも詫びねばならぬ」
直也達は、正気に戻った地鎮坊の詫びを受けている。
「マーラは恐るべき相手じゃ。…危急の知らせと言うので受け取った書状がまさかマーラの罠だったとは…わしも気が付かぬうちに乗っ取られていた」
「それが奴の手口ですね」
「しかし直也殿、よくぞマーラのことを見抜かれたのう。流石じゃ」
「弥生が俺をどうにかするなら今までいくらでも機会があったはず…だからあれはマーラの詭弁なんだと思ったんです。
そして…翠が教えてくれた…懐の翠龍が震えたんです。それで朦朧としていた俺の意識がはっきりとなったんですよ」
「うむ、天狗の酒をかなり呑ませてしまったからのう…」
「あれは強い酒でしたね」
「済まんかったのう…わしが思うに、おそらく、マーラは弥生殿が欲しいのだと思う。…直也殿という枷の無くなった時、弥生殿の力が護りではなく、破壊に向けられたなら…」
「……」
「直也殿、弥生殿を護って差し上げてくれ」
「…どっちかというと俺が護られてるんですが」
「いやいや、直也殿あっての弥生殿、弥生殿あっての直也殿じゃ。…お二人の絆を大切にされよ」
「は、はあ…」
「…これはわしからの詫びじゃ。…であると共に、今後の役に立てて欲しい」
何やら蛤の貝殻に詰められたものを差し出す地鎮坊。
「天狗の秘薬じゃ。…創傷、打撲などの外傷全般に効く」
「有難くいただいておきます」
「それでは、明日になったら手の者に命じて三島近くまで運ばせよう。今宵はゆっくりと疲れを癒して下されい」
…それからは酒の入った宴会になっていった。
当初の心配を余所に、箱根の関は難なく通り抜け…というか飛び越え、直也、弥生、紅緒の三人は鴉天狗によって三島近くの街道脇まで運んで貰った。
「ありがとう。…地鎮坊殿によろしく」
「お気を付けられよ、直也殿、弥生殿、紅緒殿」
鴉天狗達は飛び去り、一行はようやく三人に戻った。三島までは半日かからない行程である。
「……」
「弥生、どうした? 元気ないじゃないか」
「…のう直也、儂は…本当に一緒にいても良いのか?」
「何言ってるんだよ。いてもいいんじゃなくて、いてくれって頼んでるんだ」
「…じゃがお主にもわかったであろう。儂の前世の事。…あれは全て真実じゃ。地鎮坊は儂の記憶を引き出してあの幻影を直也に見せていたんじゃからな」
「だとしても一向にかまわない。前に言ってくれたよな、この世の人間全部より俺の方が大事だって。今俺からも言おう、弥生と一緒なら地獄に堕ちても怖くない」
「直也…」
「だから、今まで通り、…これからもそばにいてくれよ、弥生」
「…そうじゃ…な。…お主が花嫁を見つけるまで、…の」
「…あたいお邪魔かしら」
「紅緒!?」
すっかり二人の世界に入っていて、紅緒の事を忘れていた直也と弥生。
「…今回、あたい、お役に立てませんでしたしね」
「そんな事はない。最後に地鎮坊を押さえてくれなかったら、マーラの呪いを解く事が出来なかった」
「…落とされた穴から必死に這い上がってくればあの場面でしたからね。訳わからなかったけど」
「これからも頼むよ」
「…いいんですか?…あたいなんかが付いていって」
「何じゃ、今朝は随分としおらしいではないか」
「…だって…弥生姉様と直也様の間には入れそうも無い事…わかっちゃいましたから」
そう言って俯き、もう一度顔を上げると、
「だから、付きまとうのはここまでにします。…もう少し自分を磨いて、弥生姉様に負けない自信がついたら、…その時は」
直也の首に抱きつくと頬ずりし、すぐ離れた。
「また可愛がって下さいね、ご主人様」
そう言うと、猫又の本体に戻り、着物を咥えるとたちまち森に駆け込み、その姿は見えなくなった。
「…まったく、あいつは…さよならも言えなかった」
「…ほんに気まぐれな、まっこと猫のような…いや、元々猫じゃったな」
「また二人旅だな」
「うむ。…直也、強うなったな。これからもよろしく頼む」
「あ、ああ、俺の方こそ。…頼むよ、弥生」
二人は三島へと続く街道をゆっくりと下っていく。折からの紅葉が二人を見送っていた。
弥生の過去が明らかになりました。書きたくて描きたくて仕方がなかった九尾の狐編です。
今回弥生さん大暴走です。
九尾の狐と言うことは早々と明かしていましたし(弥生が何で強いのか、その違和感を無くすため)、金毛白面九尾狐ということもにおわせておいたのでやっぱりな、と思われたのでは無いでしょうか。
直也の存在が弥生のリミッターになっています。普段は暴走しないようにする事に力の一部を使っているため、直也の目の前での弥生は弱さも見せている、という設定です。
多分直也が見放したら、弥生は再び白面金毛九尾の狐として世を乱す事になるのかも知れません。マーラはそれを画策していたと言えます。
しかし直也は弥生の過去を知っても弥生に対する気持ちは揺らぎません。それは直也という人間の特質でもあります。
また、いずれ描かれる他の理由もあります。単に主人公だから、で済ませたくはないと思っています。
さて、出来事や地名、人名などの底本は岡本綺堂の「玉藻の前」によるところが大きいです。
(特に安倍泰親の名前とか)学研M文庫で出ていますが、ネットでも読むことが出来ます。
那須の殺生石の縁起とは異なる人名も多いですが、フィクションとして見て頂ければ幸いです。
箱根の道了尊は実在の寺院ですが地鎮坊はオリジナルです。
それでは、次回も読んで頂けたら幸いです。




