巻の二十六 誘拐
次回と併せて一つの話です
巻の二十六 誘拐
強羅から小涌谷の裾をまわって湯坂道と言われる旧道を辿る直也達一行は、紅葉の中、のんびりと歩いている。
直也と弥生は、箱根の関をどうやって通るか思案していた。
「関所なんて平気平気、簡単にすり抜けられるよ」
「儂や紅緒は別に関など通らずとも平気なのじゃがな…」
直也は人の身、とても無理である。万一見つかったら関所破り、どんな目に遭うか分からない。
「やはり儂が贋の手形を書くとするか…」
手本さえあれば、人を騙すのはお手の物、弥生に任せることにした。
道は段々と登りになり、やがて芦の湯に着いた。茶店で一休みする。
弥生は大福を十皿。
「あたい、岩魚の塩焼きね!」
紅緒は甘いものは苦手なようで、岩魚の塩焼きを五匹たのんでむしゃぶりつく。
「これこれ、少しは遠慮というものをじゃな…」
「弥生姉様の手元のお皿は何かしらー」
「…」
直也はと言えば、そんな女達二人の食べっぷりを横目に、お茶で大福一皿をゆっくりと味わっていた。
まだ日は高いので、先へ行く。
道も険しくなってくるが、弥生も紅緒も疲れた様子はない。直也も、旅慣れた昨今はこの程度の行程では苦にならない。
昼尚暗い山道、通る旅人も途絶えた頃。一行を空から襲う者達があった。
「直也、気をつけよ!」
弥生の叫びに応じ、立木を背に脇差しに手を掛ける直也。紅緒は鋭い爪を伸ばし、臨戦態勢だ。
突然空から降って湧いたのは山伏姿の出で立ち、頭には兜巾、背に生えた黒い羽、鳥の嘴。
箱根山中の鴉天狗であった。それが三十体以上、直也達に襲いかかってきたのだ。
紅緒は襲いかかってくる天狗の錫杖をものともせず、尾で絡めとり、爪で反撃している。
弥生は明らかに直也が気にかかるようで、かわすのに精一杯。
それを感じ取った直也は、道中差しを抜き、天狗を迎え撃つ体制に入る。
振り下ろされた錫杖を払いのけ、金剛杖を両断。習い覚えた小野派一刀流は伊達ではない。しかし、多勢に無勢、加えて妖の中でも名高い天狗が相手である。
天狗五体が一斉に弥生に襲いかかる。そいつらの相手に弥生が忙殺された瞬間、直也の身体が宙に浮いた。
「うわあっ!」
直也の声に振り向いた弥生に隙が出来た。そこへ折り重なるように天狗が押さえ込み、弥生は動けなくなってしまう。
「直也!!」
弥生の声も空しく、直也は鴉天狗に虚空高く吊り上げられてしまった。もし地上に落とされれば、肉塊と化してしまうであろう高さである。
鴉天狗の声が響く。
「狐、猫又、そなたらの主人をしばし借りるぞ。…悪く思うな」
その声と共に、襲ってきた鴉天狗どもは全員空に舞い上がり、弥生と紅緒の前から姿を消した。
後に残された弥生と紅緒。
「なんなのよ、あの天狗達!…いきなり襲ってきたと思ったら、直也様を掠って行って!」
「…最初から直也が狙いだったようじゃな。…じゃが、殺す気は無いと見える」
「弥生姉様、なんでそう落ち着いてるの?…あたいは腹が立って腹が立って…」
「怒れば直也が帰ってくると言うならいくらも怒るがな、今は直也を取り返すのが先じゃ」
そう言って、狐の耳をそばだてる。
「え、直也様の連れて行かれた先分かるの?」
「…うむ。小さき時からずっとそばに居った直也の気の波動はどこにいようと感じ取ることが出来る自信がある。…じゃが、これは…」
「…どうしたの?」
「おそらく、天狗の住処の中なのじゃろう、ほんの微かな波動しか感じ取れん。…しかし感じられれば十分じゃ。何があろうと、直也は取り戻す」
そう言った弥生からは冷たい殺気が感じられ、流石の紅緒も一瞬たじろいだが、
「それじゃあ弥生姉様、直也様を助けに行こうよ」
「うむ」
そして二人は道無き道を辿り始めた。
* * *
朱塗りの柱、顔が映るくらいに磨かれた床板。天井は高く、梁が縦横に通っている。そんな場所に直也は連れて来られていた。
今、直也の前に立っているのは一際大柄な鴉天狗。五十体ほどの天狗達の頭らしい。
「手荒な真似をしてすまなんだな」
その実、ちっとも済まなそうな口調ではない。鴉のようなその顔からはなおさら表情が読み取れない。
「貴公とはゆっくり話をしてみたかったのだ」
「……」
「自己紹介がまだだったな。…わしは地鎮坊、最乗寺の道了尊の眷属である」
「…その地鎮坊が俺に何の話があると言うんだ」
直也は警戒を解かずに尋ねる。縛られてはいないというものの、どこにあるかも分からない場所、おそらくは無数の鴉天狗に見張られている筈、監禁と変わらない。
「そう警戒しなさるな。…隠れ里の天狗殿とは旧知の仲じゃ、直也殿のことも存じ上げておる」
「え…」
隠れ里にも天狗はいる。彼等は山々、峰々を巡り、時には風に乗って、自由に暮らしている。
直也も時折、天狗の相撲と言って、動物たちが取る相撲を見物したこともあった。
「そうじゃそうじゃ、警戒を解いてくつろいで下され、まあ一献」
そう言って、杯を出してきた。毒など入っていないと言わんばかりに、まず自分で呑んで見せ、直也に杯を回す。
まだ信用しきってはいないものの、天狗達の意図が知りたくて、とりあえず話をしてみようと直也は思い、杯を干した。
「それで、話というのは?」
「うむ、まあもう一杯」
そう言って、更に酒を勧めてくる。仕方なくもう一杯飲み干す。
「…直也殿は従者をお連れだな?」
「…弥生の事ですか?…それなら従者ではなくて俺の後見人です」
「ま、どちらでもよいがな」
更に直也に杯を勧め、自らも酒をあおる地鎮坊。
「…その狐のことなのじゃ」
「?」
「今、天竺からやって来た悪魔がこの日の本のあちらこちらに散らばって、災いを為そうと画策しておる」
「…それは知っています」
「江戸の天狐殿から遣いが来た。今頃は、国中の天狗達もその事を知ったことじゃろう。それ程に由々しき事じゃ」
「…はい」
確かに話の筋は通っている。しかし、それと自分と弥生の話にどうしても繋がらない。
「直也殿は狐の過去を知っておるか?」
「弥生の?…いえ、はっきりとは」
「ふむ。…やはりな」
思わせぶりな天狗の言い方に、だんだんじれったくなってくる。
「弥生の過去と、マーラの企てと、どう関係があるのですか!?」
直也にしては珍しく思わず声を荒げてしまう。
「それはな…」
そう地鎮坊が言いかけた時、どこからか大きな物音がした。
「…もう来おったか」
そう言って、立ち上がり、
「直也殿、来なさい」
続けて、
「狐の正体を見せて差し上げる」
* * *
襲いかかってきた天狗をはね除け、鳩尾に一撃。
錫杖が振り下ろされるが、その一撃は空しく地面を抉る。
杉の枝を蹴り、弥生は空中にいた。空から襲いかかる一体の背に乗り、後頭部に一撃。気を失って墜落する鴉天狗の背から、再び杉の枝に飛び移る。
「弥生姉様、本当にこっちなの?」
「間違いなかろう、天狗の数が増えてきておる。紅緒、油断するでないぞ」
油断するも何も、今まで現れた鴉天狗五体は全て弥生一人で倒してしまったのだ。
これだけの実力を持っていながら、何故先程苦戦したのか、紅緒は理解に苦しんだ。
「…直也に何かあったら、この山を消し飛ばしてやる」
そう呟いた弥生の言葉にはっとする。先程とは別人のような弥生の力。
そうか、弥生姉様は、直也様のことが本当に心配なのだ。
直也様を巻き込んだらと思うだけで、その力が半減してしまうのだ。
自分はそれくらい直也のことを思っているだろうか、そう自問した紅緒は、弥生の言葉で我に返った。
「ここじゃ…」
それは古びた鳥居。富士鳥居と呼ばれる、根本が三本脚になった形式の鳥居だ。
蔦がからみ、塗られた朱もほとんど剥げ落ちている。
「結界が張られておる。解析する時間が惜しい。…破!!!」
爆発的な妖気を放ち、張られた結界ごと鳥居を破壊する。
「や、弥生姉様、強引過ぎますよ」
紅緒も驚く弥生の乱暴ぶり。確かに弥生は焦っていた。
小さな頃から面倒を見てきた直也。病弱な母親の八重よりも、弥生が一緒にいた時間の方が長いくらいである。
読み書きは弥生が教えた。遊ぶことも弥生が教えた。ずっと一緒だった。
それは直也の両親に頼まれたということもあったが、弥生自身、一緒にいることが楽しかった。
妖狐の弥生から見たら、刹那の命しかない人間。
何程のことが出来るのか分からない程短い一生、しかし人間は妖にはない世界を築き上げていった。
普段はそんなそぶりを見せはしない弥生だが、そんな人間が好きではないにせよ、嫌いでもなかった。
そんな人間の一人である八重…直也の母親の事は好きであった。その息子の直也が愛おしかった。
新たな天狗六体が立ち塞がった。無言で弥生は地を蹴った。
「…儂が本気になる前に直也を返せ」
目の前に現れた五体の天狗達を一瞬のうちに打ち倒した弥生は、残る一体に向かって言った。
その一体は慌てて奥へ駆け込んでいった。
その先にあったのは、天狗の住処であろう、大きな寝殿造りの建物。そのどこかに直也がいるに違いない。
直也。…自分の存在意義。
これ程長く離れていたことはかつて無かった。離れているように見えても、自分の感覚の届く範囲だった。
弥生は一瞬もためらうことなく、屋敷へと踏み込んだ。
紅緒はというと、弥生の迫力に押されっぱなしである。おっかなびっくり後に続いている。
中には更に大勢の天狗が待ちかまえていた。手に手に錫杖、金剛杖を振りかざして襲ってくる。
梁の上にもいて、上から襲いかかる者もいる。
かわすのに倦んだ弥生は、手に金気を集中させると、それを剣の形に収束させる。
その妖気の剣は、天狗の錫杖といわず杖と言わず、触れる物を両断していった。
梁の上に逃げる天狗。
「しゃらくさい!襲ってきておいて逃げるとは何事じゃ!」
跳躍。その梁を斬り落として落下させる。
辛うじて命を取ることはしていないものの、今の弥生がどこまで不殺生を貫けるかははなはだ疑問であった。
一歩一歩奥へ進む。その後ろには傷つき気を失った鴉天狗が残された。
と、不意に、床が消えた。
「きゃああああぁぁぁぁーーーーーー」
紅緒はあっという間に落下していく。
しかし弥生は、あたかもそこに床があるかのように静止していた。
「小賢しい手を使いおって」
空中浮揚。今の弥生は、直也という枷を取り払われ、荒れ狂う暴風のようなものであった。
直也の前では決して解放しない真の力、己の肉体を、精神を、魂を削っても、直也を救い出す。
それが油断と驕りのため、直也をみすみす眼前から掠われてしまった自分に出来る唯一のこと。
弥生は自らが傷つこうとも、直也を無事取り返すことを決心していた。
弥生に向けて石飛礫が飛んでくる。しかしそのことごとくは弥生に触れることなく、床に落下した。
「小細工などきかぬ」
無人の野を往くがごとく、歩を進める弥生。
眼前に、いかめしい造りの扉が現れた。いかめしい扉、奥の間の手前に、鎧で武装した天狗の一団が待ちまかえている。
弥生は氷のように冷たい目つきで、
「どけ」
とだけ言った。
その雰囲気に気圧されたものの、天狗達に退くつもりは無いようだった。
刹那、左右から縄が伸び、弥生の両手両足を絡め取る。更に頭上から網が降り、弥生を包み込んだ。
それを見て取った天狗の一団は一斉に網の下の弥生に打ちかかる。
「ぎゃあああっ」
悲鳴が上がった。しかしそれは弥生が上げた声にしてはあまりに野太い。
「莫迦目。儂はこっちじゃ」
声のする方を見ると、梁の上に弥生がいる。
いつの間にか、梁の上にいた天狗と弥生が入れ替わり、天狗達は仲間を網で絡め取り、めった打ちにしていたのだ。
「鎧か」
今回初めて、弥生が狐火を手に灯した。色は青緑色、木気の狐火である。
それを天狗達に向けて放つ。鎧の金気は木気を吸収する。しかし鎧は吸収した木気を溜めておく事は出来ない。これを相侮といい、木侮金、すなわち木が強すぎると、金の克制を受け付けず、逆に木が金を侮る、となる。
爆発音と共に、鎧が弾け飛んだ。鎧はばらばらになり、着ていた天狗達も気を失っている。
残るは奥の間に続く扉だけ。
閂がかかっているのか、押してもびくともしない。
そこで再び木気の狐火を投げ付ける。
轟音と共に扉が弾け飛び、弥生は中へと踏み込んだ。
と、そこには。
天狗達の頭、地鎮坊と、
驚いたように立ちすくむ直也がいた。
「どうだ、直也。…これがあの狐の本性だ」
地鎮坊は勝ち誇ったように言う。
「破壊。…それが本質。憎悪。それが本性。凶悪。それが本地。それは何百年を経ても変わらぬ」
「直…也…?」
我に返ったように弥生が呟く。その目からは先程までの冷たい怒りは感じられない。同時に、自分がしてきた破壊の道筋に気が付く。
立ちふさがる者は容赦なく排除してきた。扉があれば破壊し、邪魔する者は悉く退ける。それはまるで自分が…
「弥生!」
直也の声が響く。弥生は、地鎮坊に押さえ込まれている直也を見た。
「やれ、ここまでしてもわからないとは、やっかいな奴だ。…よほどうまくたぶらかされていると見える」
「放せ!…お前に俺と弥生の何が分かるって言うんだ!」
「…天狗殿。何が狙いじゃ?」
「直也殿がお前のような妖狐にたぶらかされているのが哀れでな。目を覚まさせてやろうと思ってよ」
「儂は直也をたぶらかしてなんぞおらぬ。…直也を放してくれ。代わりに儂を好きにしたらよい」
「ふふ、それでは意味がない。…よし、それではわしの通力を持って、お前の過去を直也に見せてやるとしよう」
「何…!」
「直也、自分の目で狐の本性を見てくるが良い」
そう言うと、直也の額に掌を当て、呪を唱え始めた。
直也が最後に目にしたのは、弥生の縋るような眼であった。
直也は真っ暗な深淵に落ち込んでいった。
「天狗殿!…それだけは…!!…後生じゃ…!」
弥生が悲痛な声をあげた。が、地鎮坊は冷ややかな目を弥生に向け、
「ふ、自分の悪業を知られるのが怖いか?…だがもう遅い。直也はもうわしの通力の中だ」
「……」
脱力した弥生は膝を付いた。
まだ無事だった鴉天狗がよってたかって弥生を鎖で十重二十重に縛り上げる。弥生は最早抵抗もせず、されるがままになっていた。
次回お楽しみに!




