巻の二十五 箱根温泉宿始末記
巻の二十五 箱根温泉宿始末記
東海道は小田原から先は次第に山道となる。名にし負う箱根八里の山越え。直也達一行は東海道の難所、箱根に差し掛かっていた。
「ねえねえ直也様、せっかく箱根に来ているのに温泉に浸からないで通り過ぎちゃうのってもったいなくありません?」
「これ紅緒、宿代だって馬鹿にならぬぞ。ましてや今はお前の分も払っているんじゃから」
「弥生姉様は締まり屋ねえ。お金ならあたいがいくらでも稼いでくるわよお」
「…どうやってじゃ?」
「お金のありそうな商人の蔵から…」
「莫迦者」
ぺしっと紅緒の頭をはたく弥生。
「え?」
紅緒はきょとんとしている。
「…盗みは犯罪じゃ。お前も直也の身内になったのじゃから悪事はいかんぞ」
「…そっか…」
「まあ弥生、俺も温泉には入ってみたいけどな」
「直也…お主は紅緒に甘すぎるぞ…これでは儂一人が悪者ではないか」
弥生が拗ねたような口調で言う。確かに小姑のようではある。
「そう言う訳じゃないけどさ、正直俺も温泉好きなわけで」
「この先冬になったら野宿はそうそう出来ぬからな、金子は節約したいのじゃがな…」
「今回だけ。頼むよ、弥生」
「…仕方ないのう。出来るだけ安そうな旅籠にするんじゃぞ?」
「うん、わかった」
箱根には何箇所も温泉が湧いているが、中でも街道沿いの湯本は一番賑わっている。それだけに高級な旅籠が多い。まだ時間も早いので、もっと奥へと向かう事にする。
東海道から少し逸れた宮ノ下、更にその先の強羅へと向かった。こちらへの湯治客も少しはいて、直也一行と前後して何人かが歩いている。閑静な温泉地を好む人達であろう。
強羅に近付くと、山道の脇は深い渓谷になって、紅葉が見事であった。
直也は思わず足を停めて眺めてしまう。弥生も直也の隣で一緒に見つめた。
「見事じゃのう」
「ああ、渓谷の紅葉ってひときわ綺麗だよな」
そこへ紅緒が割り込んでくる。
「ねーねー直也様ー、早くいこうよー。景色なんて見てもお腹膨れないし、寒いしー」
かなり山中に入ってきたので、汗が冷えると寒い。
「紅緒、お前も少しは風流ってものをじゃな…」
「風流じゃ生きていけないもの」
紅緒はまだまだ現実的である。一行は再び強羅を目指した。
その時、悲鳴が聞こえる。
「…何だ?」
「この先からじゃな」
「行ってみよう!」
走り出す直也。弥生と紅緒も続いて走り出し、…あっさりと直也を抜き去る。
「お、おい…」
「あたい達が先に行ってみます!…悪い奴等だったらやっつけときますから」
そう言って紅緒は更に速度を上げ、見えなくなってしまった。
「く、そ…っ…」
息が上がってそれ以上速くは走れない直也。山道であるから人間としては当然なのだが、なんとなく情けなかった。
そんな直也の隣に、いつのまにか弥生がいる。
「直也、無理するでない」
「弥生!? 先に行ったんじゃ?」
「莫迦者。お主を置いて行けると思うか。紅緒が先に行っておる。それで十分じゃ」
それで、直也の速さに合わせて二人は山道を駆け上る。
道は山腹を回り込んでおり、曲がったその先に紅緒がいた。
「おみよ!おみよ!」
「あーーーん」
若い女、まだ娘と言っても通るくらいの女がしきりに名前を呼んでいる。そして子供の泣き声。どうやら山道から下の渓谷へ落ちたらしい。
落ちたものの、途中で引っ掛かっているのだろう。
「紅緒、どうした?」
「あ、直也様、あそこに子供が…」
紅緒の指差す方角を見ると、切り立った崖の途中に小さな松が生えており、そこに子供が引っ掛かって泣いているのが見える。
「弥生、藤蔓はないかな?」
「直也、まさかお主、この崖を降りるつもりか?」
「そうしなきゃ助けられないだろ」
その会話に気付いた女が、
「お願いします!…なんとか助けて下さい!」
涙ながらに懇願してくる。
崖はほぼ垂直、高さは十丈(約30メートル)くらいか。下は石だらけの河原である。
その上から二丈(約6メートル)くらいの所に松の木はあった。そこから下へは八丈(約24メートル)、
落ちれば運が良くても骨折、大怪我は免れないだろう。打ち所が悪ければまず助からない。
子供が動いた。引っ掛かった木から外れそうになる。
「危ない!…おみよ、動いちゃ駄目!…じっとしていなさい!」
それは泣いている小さい子供には無理な注文である。転げ落ちた時の擦り傷の痛み、一人で高い所にいる不安。
おみよと呼ばれた子供は泣き、手足を動かし続ける。
「急がないと!」
焦る直也に、
「直也様、あたいが代わりに行きますから」
紅緒は軽く告げると、崖下へ降りていった。
上の方は低木や草が生え、手がかり足がかりがあるのでなんとか身体を支える事が出来る。そうやって、二丈ほど下にある松の木まであと僅かなところまで降りる事が出来た。
しかしそこから先が何も無い真の断崖になっている。目一杯手を伸ばしても二尺ほど届かない。
紅緒は更に崖の縁へ近づき、片手を岩にかけ、もう一方の手を伸ばす。あと一尺。まだ駄目である。
最後の手段として、紅緒は足元に生えていた躑躅の木に両足を絡め、崖から逆さ吊りになって両手を伸ばした。これでようやくおみよに届いた。
「おみよちゃん、ほら、つかまって」
「…ひっく」
泣きべそをかいたおみよは紅緒に勢いよく飛びついた。
その時。
紅緒が足を絡めていた躑躅が根こそぎに抜けてしまった。
「きゃっ!」
紅緒とおみよはそのまま落下していく。
「紅緒!!」
「おみよ!!」
上から見ていた直也達も叫び声を上げた。
紅緒はおみよを胸にしっかり抱きかかえると、身体を丸める。そのまま身体を捻り、空中で半回転。着地の体勢を整えた。無事足から着地。
ここまではよかった。
続いて来た着地の衝撃は、猫又の紅緒といえど、経験した事のないものであった。八丈の高さ、建物で言えばちょっとした城の天守閣に匹敵する。
頭の天辺まで突き抜けるほどの衝撃に一瞬意識が遠くなる。しかも石ころだらけの河原である。右足首を捻ってしまった。
しかし紅緒はその激痛に耐え、おみよを放す事だけはしなかったのだ。
そのおみよはと言えば、紅緒の腕の中で気を失っていた。
一息ついた紅緒は上がり口を探して上に行こうと歩き出し、右足首の痛みに顔をしかめる。
「いたっ…失敗したなあ…間抜けな落ち方しちゃった…」
そこへ直也と弥生が現れた。
「紅緒! 大丈夫だったか?」
「直也様…弥生姉様…」
「足をくじいたのか。ほら、おぶされ」
「え?…」
直也が背中を向ける。
「ほれ、子供は儂によこせ」
弥生がおみよを受け取ってくれる。紅緒は素直に直也の背におぶさった。
「…ごめんなさい…直也様…」
背負われた紅緒が直也に謝る。
「何がだ?」
「…あたい…直也様に迷惑かけちゃって…」
「何を言ってるんだ。よくやったぞ、紅緒。立派に子供を助けたじゃないか」
「あたい…お役に立てました…?」
「もちろんだとも。お前でなければあそこから落ちて助かる事は出来なかったろうな」
紅緒は直也の首筋をぎゅっとばかりに抱きしめて、
「よかった…」
と嬉しそうに呟いた。
崖下から道に戻ってくると、女が土下座して謝ってきた。
「ありがとうございました!…おみよの命の恩人です!…お怪我までされて…」
「気にしなくていいわよ」
直也の背中で紅緒が笑いながら言う。
「こんなの明日には治っちゃうから」
「お子さんは無事じゃ。…お渡し致す」
弥生がおみよを女に渡す。
「ああ、おみよ…」
女が抱きしめる。おみよが目を覚ました。
「おっかちゃん!おっかちゃん、おっかちゃん…」
泣きじゃくるおみよ。
「よかったですね」
直也の背中から紅緒がそっと囁く。
「それじゃあ我々は行きますから」
直也が告げ、歩き出そうとすると、
「もし、お待ち下さい!」
呼び止められた。
「おみよの命の恩人をこのまま行かせるわけにはまいりません。お見受けした所、強羅かその先へお泊まりでは?」
「ええ、強羅に泊まるつもりですが」
「それでしたら、是非私どもへ!…申し遅れました、私は強羅にあります『松葉屋』の女将でいとと申します。
お代なんかいただきません、是非お泊まり下さい、何日でも何十日でも」
「…弥生、どうしよう?」
「そうじゃのう、…ここはご厚意に甘えるとしようか、紅緒も怪我をしているしのう」
それで世話になる事にし、おいとに案内してもらう道すがら話をした。
「失礼じゃが…お子さんかな?…それにしてはおいとさん、随分とお若いようじゃが…」
近くでよくよく見ると、おいとはまだ二十歳そこそこである。
「…ええ、私は後添いで松葉屋に嫁に来たんです。この子は前のおかみさんの子供でおみよといいます。六歳です」
「なるほどのう。いくらなんでも若すぎると思うたらそう言う事じゃったか。…儂は弥生、そちらの背負われているのが紅緒。
これが直也じゃ。我々は直也の伴をして旅をしておる」
「そうですか、直也様、紅緒様、そして弥生様ですね。あ、…見えました、あそこが私どもの宿屋です」
松葉屋は早川の渓流沿いに建つ老舗の旅籠であったが、なんとなく寂れた感じが漂っている。
「…主人が一昨年亡くなりまして、以来使用人も一人減り二人減り、今では年取った番頭が一人とその娘の女中が一人。それに下働きの者が一人と、こんな有様ですが、出来るだけの事はさせて頂きますので、ごゆっくりなさって下さい」
「おかみさん!お嬢さん!」
その女中らしい娘が出迎える。
「遅いので心配しました」
その女中においとが何やら耳打ちすると、女中はすぐに引っ込んだ。
「さあどうぞ、今すすぎをお持ちします」
そう言って中へと誘うおいと。中では先程の女中が桶にお湯を汲んで用意していた。
「おかみさんとお嬢さんがお世話になりましたそうで」
そう言って足をすすいでくれる。通された部屋も、渓谷を望む一番良い部屋であった。
「直也様、よかったね、只で泊まれるよー」
直也はそんな事を言ってはしゃぐ紅緒に釘を刺すのを忘れない。
「紅緒…子供を助けたのは偉かったけどな、一つ間違えたらお前大怪我だぞ。子供だって死んでたかも知れない。気をつけてくれよ?」
紅緒はきょとんとして、
「…あたいの…心配してくれるんですか…?」
「あたりまえじゃないか。お前はもう俺たちの家族なんだからな」
「かぞく…」
「そうさ、弥生も紅緒も俺の家族だ。家族の心配するのは当たり前だろう?」
「直也様…」
紅緒は感激したのか、赤い顔で直也の膝にすり寄ってくる。それを見て苦笑する弥生。
紅緒が猫又としてはまだほんの子供だとわかってからはかなりこういう事に寛大になっていた。
「それにしても…ちょっと足を見せてみい」
有無を言わせず、紅緒の右足首を手に取る。
「あっ!…いたっ!…」
「ふむ、骨は折れておらぬようじゃな。…しかしかなり腫れておる。今日は風呂に浸かってはいかんぞ?」
「えーーーーーー!? なんでなんでなんでーーーーーー??」
弥生は真面目な顔で、
「腫れている時は冷やすのが常道じゃ。腫れが引いたら温めてやるのが治す早道じゃ」
「じゃあすぐに治して…」
猫又である紅緒、治そうと思えば一晩かけずに治ってしまう。が、弥生は、
「いかん。怪しまれるぞ?…可哀想じゃが、今日くらいは我慢せい。明日以降は好きなだけ入るが良い」
「紅緒、弥生の言う通りだ。そのくらい我慢しろ」
「むぅ…それじゃあ聞きますけど、ここにどのくらいいるおつもりですかぁ?」
「お前の怪我が治るまでじゃな」
「普通の人間で言えば五日から十日ってとこか。まあ紅緒ならもっと早く治るだろうが…それじゃまずいから痛いふりしてろよ?」
「はーい。それじゃずーーーっと治らない事にして…」
「莫迦を申すな。いてもせいぜい五日じゃ。良いな?」
「つまんない…でも…わかりましたぁ」
「その代わり、お前には魚料理いっぱい付けて貰えるよう頼んでやるから」
その一言でぱっと顔を輝かせた紅緒は、
「はーいっ。やっぱり直也様好きっ」
弥生は苦笑するばかりだ。
その夜は直也は普通の献立だが弥生は油揚げ中心の料理、紅緒は焼き魚たっぷりと、それぞれの好みに合わせた料理を出して貰った。
食事の後、おいとがおみよを連れて挨拶に来た。
「おいとさん、おいしかったですー」
「よかったですわ。紅緒さんに喜んで頂けて」
「お姉ちゃん」
おみよがとことこと紅緒のところに駆け寄ってきた。
「え、え、え?…あたいのこと?…お…お姉ちゃん…?」
「紅緒、おみよちゃんに好かれてるんだよ」
「お前が助けてくれたのわかってるのじゃ」
おみよは紅緒のふところに飛び込むと抱きついてきた。初めは面食らっていた紅緒だったが、おみよが笑いかけてくるのでつられて笑い、抱き締め返してやる。
「おみよも紅緒さんが大好きなようですわ」
「うふふ、かわいい…」
そのうちおみよは眠ってしまった。そんなおみよをそっとおいとは抱き取り、
「ごゆっくりなさって下さいね」
と挨拶すると奥へ引っ込んだ。
「……」
紅緒はぼーっとしている。
「おい、紅緒?」
「あ、…直也様…」
「どうした? 足が痛むのか?」
「いえ、そうじゃないです。…あの、…子供って、可愛いものですね。小さくて、あったかくて」
「そうか、お前今まで経験無かったんだな」
「ええ、ずっと一人でしたから。…直也様には感謝してもしきれません。命を捧げてお仕え致します」
紅緒は上気した顔で直也を見つめる。
「大袈裟だな」
「いいえ、直也様は…あたいのたった一人の大事なご主人様。あたいに幸せ教えて下さったひと」
そう言うと、直也ににじり寄り抱きついた。さすがにこれには弥生も、
「これ紅緒、直也が嫌がっておる。離れよ」
「そんなことないものねー、直也様。…あたい可愛い?」
そう言って頬ずりしてくる。直也はそっと溜息をついた。
翌日。紅緒は堂々と温泉に入りに行った。
「にゃふー、いい気持ちー」
一緒に入っていた弥生は、紅緒に尋ねる。
「のう紅緒、猫は水を嫌うもんじゃと思っていたが、お前は風呂が好きじゃな?…何故じゃ?」
「え?…そうなんですか?」
「そうなんですかって…お前…」
弥生は呆れたようで、もう二度とその話を紅緒とする事はなかった。
「…ですから、ここをお譲りする気はありません!」
弥生と紅緒が朝風呂から上がって部屋に戻ろうとすると、女将のおいとが怒鳴っていた。
相手は初老の男。こざっぱりした着物を着て、どこかの旅籠の主人かと思われる。おいとの剣幕に押され、
「…それでは今日はこれで。…気が変わったらいつでもそうおっしゃって下さい」
そう言って出ていった。おいとはその後から塩を撒いている。よほど癇に障ったらしい。
弥生と紅緒が見ているのに気が付いたおいとは顔を赤らめ、
「…お騒がせしました」
と恥ずかしそうに言った。
「…何か事情がありそうじゃな?」
「おかみさん、よかったら話してくれません?」
弥生と紅緒、二人にそう言われて、おいとが語った所によると、
さっき来たのは強羅の先、宮城野にある温泉宿「清水屋」の主人で、この「松葉屋」を別館として欲しがっているらしい。
そのため、ここで働いていた者を何人か、より良い給金で釣って引き抜いたりもしたという。
おいとは後添いではあるが、主人の忘れ形見のおみよが成人し、婿を取るまでは絶対に松葉屋を無くしたくないと結んだ。
「…と言うわけなのじゃ」
「ねえ直也様、何か良い知恵ありません?…ここを繁盛させるための」
二人から事情を聞き、紅緒に相談されて考え込む直也。そこへおみよが遊びに来た。
「べにおおねーちゃん、あそぼ」
「あ、おみよちゃん、…なにして遊ぶ?」
「あやとり!」
「うーん、おねえちゃん、よく知らないから、おみよちゃん、教えてね」
「いいよ」
紅緒はおみよとあやとりで遊び始めた。直也は弥生と一緒に考える。
「温泉…山…湯治場…」
「湯治場てことはだ、みんな身体を丈夫にするとか病気を治したくて来るんだよな?」
「まあそうじゃな。特にこの辺は閑静じゃから、芸者遊びなどする客は来るわけも無し」
「としたら、薬膳なんてどうだろう?」
「薬膳か!…それは良いかも知れんな。正式な物でなくとも、健康増進と銘打っておけば良い」
「弥生は結構詳しいよな?…さっそくおいとさんに話してみよう」
紅緒はおみよと遊ばせておいて、直也と弥生はおいとの所へ行った。
「薬膳、ですか…」
「正式な物じゃなくても良いんです。山で採れる山菜や野菜を中心に献立を組み立てて。…例えば胃腸にいいとか、脚気に効くとか、精力が付くとか。…この弥生はそういうのに詳しいんですよ」
「いいかもしれませんね、是非教えて下さい」
それで、その日半日は、献立の制作に費やした。
苦労した甲斐があって、そこそこ味も良く、効果もあって、しかも原料が山で採れるという、なかなか効果的なものが出来る。
更に木の実酒も作る事にした。この季節、山で採れる木の実を焼酎に漬けるのだ。午後、弥生がおいとと一緒に採りに行った。
木天蓼、山法師、山葡萄。
木天蓼の実は塩漬けにしてもいい。これを食べた旅人がまた旅を続けられたという所から付いたと言われる名の通り、強壮作用がある。
山法師は生で食べても美味しい。町場ではまず食べられない味覚である。山葡萄は言わずもがな。干せば一年中食べられる。
採ってきた木の実を洗っている所へおみよと紅緒がやってきた。
「おみよちゃん、食べてごらん」
直也が山法師の実をあげると、美味しそうに食べ、もう一つとせがんでくる。おいとは笑って、
「明日、一緒に採りに行きましょうね」
と言うと、おみよも笑って
「うん!」
と元気に答えた。
紅緒はそれをにこやかに見ていたが突然目を輝かせると、木天蓼を洗っている弥生の所へ飛んでいった。
「姉様姉様、それなあに?」
弥生にすがりつく紅緒。
「…しまった…お前は猫じゃったな…」
「んーん、なんだか美味しそう。…一つ頂戴っ」
「あ、こら!駄目じゃ!」
弥生が止める間もあらばこそ、紅緒は素早く木天蓼の実を二つ掠め取ると口に放り込んだ。
「…にゃふうぅ…」
たちまち紅緒の顔がとろけたようになる。
「ああああ…、遅かったか…」
木天蓼の実で猫は酔っぱらう。あまり変なそぶりは宿の者に見せられないので、素早く弥生が部屋へと連れて行った。
「にゅふふふぅ、ふふふう、にゃにゃにゃにゃにゃ」
訳のわからない事を呟いて部屋中を転げ回っている。弥生は呆れてそれを見つめていた。そこへ直也が様子を見に上がってきた。紅緒の痴態を見るなり、
「…うわ。…なんだこれ」
当然の反応である。今や紅緒は完全に酔っぱらい、着物がはだけるのもかまわず床の上で仰向けになり、腰をくねらせていた。
「…直也、あっちへ行っておれ」
弥生の忠告も僅かに遅かった。直也を見つけた紅緒は跳びかかる。
「にゃああああん」
突然の事に直也は紅緒を受け止めきれず、ひっくり返った。
「にゃおやしゃまあぁぁあぁ!」
紅緒は呂律の回らない口調で直也の名を呼び、直也に馬乗りになる。
「こ、こら、紅緒、やめろ!」
慌てた直也が叫ぶが、紅緒は言う事を聞かない。それどころか、しまりのない笑顔を浮かべ、直也の顔を舐め始めた。たちまち直也の顔はべとべとになる。
「紅緒、やめろったらやめろ!…弥生、見てないで助けてくれ!」
直也が悲鳴を上げる。その声に、呆れて見ていた弥生もはっと我に返り、紅緒を引きはがしにかかる。
「うにゃん、うにゃにゃにゃ、にゃふぅぅぅん」
ぐずる紅緒を無理矢理引きはがす。直也は手拭いで涎まみれの顔を拭うと、
「…風呂入ってくる」
そう言い残して部屋を出て行った。
「にゅふー、にゅふー…」
「……」
ぐにゃぐにゃになった紅緒を抱え、流石の弥生も途方に暮れたのだった。
* * *
「ううう…恥ずかしいよぉぉぉ…」
木天蓼の酔いから覚めた紅緒は布団に潜ってしまった。流石に全部は覚えていないものの、かなり恥ずかしいことをしていたというのはわかるらしい。
「紅緒、気にするな。…出て来いよ」
直也がそう言っても、紅緒は出て来ない。かなり堪えたようだ。
「やれやれ、世話の焼ける奴じゃ」
弥生も苦笑いしている。
一方、おいとは健康増進の献立を作り、試しに直也が食べさせて貰ったところ、かなり良い出来であった。
「これなら評判になりますよ」
直也が言うと、
「これも皆さんのおかげです。ありがとうございました」
そう言っておいとは深々と頭を下げた。
後々これが名物となって松葉屋は繁盛することになるのだが、それは別の話。こうして箱根、強羅の夜は更けていった。
翌日、江戸からの三人の湯治客がやってきた。
早速健康食を出す。江戸では味わえない野趣に富んだ献立に舌鼓を打つ客。評判は良いようである。
そこで今日も弥生とおいとは材料採り。いろいろな山菜や薬草を教える弥生。
おいとはこういう方面の才能があるらしく、覚えも良かった。
木の実採りは紅緒の方がうまいのだが、まだ足が治っていないという事になっているので留守番。
それに万が一、木天蓼を見つけたらえらい事になるし、ということでおみよの相手を任された。
紅緒もおみよと遊ぶのが楽しいらしい。元々猫であるから子供とじゃれ合うのは嫌いではないのだろう。
直也はと言えば朝から風呂三昧。風呂に入って温まっては山の冷気に触れ、また風呂にはいるの繰り返し。平和そのものである。
何度目かの入浴時。
「わーい」
おみよが風呂場へ飛び込んできた。
「おみよちゃん?」
驚く直也。
「あ、おじちゃん、いっしょにはいろ?」
「おじ…」
絶句する直也。まあ、おみよから見たら直也は十分おじさんかもしれない。
「おみよちゃん、待ってー」
「べ、紅緒!?」
薄い湯帷子一枚の紅緒がおみよを追いかけてやって来た。
「あ、直也様…」
嬉しそうに笑う紅緒。濡れた湯帷子が肌に貼り付いている。目のやり場に困る直也。はしゃぐおみよ。賑やかな昼前であった。
父親を亡くし、寂しかったのだろう、初め人見知りしていたおみよも、紅緒と遊ぶうちに、紅緒が慕う直也にも打ち解けてきたようだ。
一度懐くと、べったりくっついて離れなくなってしまった。紅緒もそのままくっついてくるから落ち着かない事この上ない。
のんびり気分はどこかに行ってしまい、早く弥生とおいとが帰ってくればいいと願う直也ではあった。
* * *
そんなこんなで五日があっという間に過ぎ、直也達が出発する日が来てしまった。
おみよはおいとの後ろで、袖を噛んでいる。別れたくないらしい。それは紅緒も同じようで、寂しそうな顔で俯いている。
「それでは、お世話になりました」
「こちらこそ、何のおもてなしも出来ませんで、そればかりかいろいろ教えて頂いて…」
「あとは工夫じゃな、おいとさんならもっと美味い料理にする事が出来よう。精進あるのみじゃ」
「はい、この松葉屋のために頑張ります」
「それじゃあね、おみよちゃん」
おみよの頭を撫でる直也。と、突然おみよがべそをかいた。
「おねえちゃん、おにいちゃん、いっちゃやだ…」
「おみよ、そんなわがまま言わないの。みなさん行く所があるんだから」
「ぐすん。…ひっく」
「おみよちゃん、またいつか遊びに来るからさ、それまで元気でね」
「…ほんと?…ほんとにまた来てくれる?」
「うん、だからおみよちゃん、おかあさんのお手伝いとかもちゃんとするんだよ?」
「…うん。…」
「それじゃあね」
そう言って旅立つ三人。紅葉の山道を歩き出す。
「またきてねーーーーーー!」
おみよの声が響く。
手を振る直也達。やがてその姿は紅葉の木々に彩られた箱根山中に消えていった。
紅緒編その二です。
猫と言えばまたたび。ネットで「ネコにマタタビ」と検索すると面白かったです。
木天蓼をどう紅緒と絡ませるかで頭をひねりました。結果、お読みになった通りです。
「またたび」の語源はアイヌ語のマタタンプからという説や、わたたでからという説などいろいろですが、作中では俗に言われている「また旅を続ける」にしておきました。
江戸時代前期は風呂は混浴で、男は湯褌、女は湯文字などを付けて入ったらしいですね。温泉地ではどうだったのでしょう。
さて、次回は重い話になります。是非次回もお読み下さい。




