巻の二十四 鎌倉見物(後)
前回からの続きです
巻の二十四 鎌倉見物(後)
弥生は布団に横になっていた。心配した直也が見舞いに来たが、
「済まぬ。…今は一人にしておいてくれ」
そう言って布団に潜ってしまった。
自分でも何故ここまで気が萎えてしまったのか、不思議なくらいである。今の弥生は、並の妖狐と変わらない程度、いやそれ以下の力しか発揮出来ないだろう。
昨日、白蓮から言われた言葉を思い返してみた。
「儂が直也の守護を辞める日か…」
それは好むと好まざるとにかかわらず、いつかは訪れるだろう。妖狐である弥生は直也の何倍、何十倍の寿命がある。
たとえ隠れ里の刻の流れがこの世よりも緩やかであろうと、いつか直也は弥生より先に逝く定めなのだ。その日のことは考えたくなかった。
「儂は…一人なのじゃな…」
声に出して呟いてみると、余計孤独が胸に染みてきた。
旅を始めて一年近くになるが、直也は成長した。肉体的にも大きくなったが、何より、強くなった。それこそ、もう弥生の助けは必要無いくらいに…。
そう考えると、尚更気が萎えていく弥生であった。
「弥生様、大丈夫でしょうか?」
心配そうな和泉。
「うん、…俺もあんな弥生初めて見るからな…」
「そうだ、白蓮様に相談なさっては」
「そうか、同じ狐の化身、何かいい知恵を貸してくれるかも知れないな」
「私、お呼びして参ります」
泉水が奥へ呼びに行った。
他の御先稲荷達は今日も帰ってこないようである。その御先稲荷の長である白蓮はいろいろと仕事もあるのだろうが、泉水と共に慌ててやって来た。
「弥生殿の具合がお悪いのですか?」
「あ、白蓮さん、お忙しい中、済みません。そうなんです。…なんだか、気落ちしているというか、気力がないというか…」
「他に何か症状は?」
「…熱もないし、脈も普通ですね。…食欲が無さそうですが」
「ふむ。…普通、妖狐や霊狐は一般的な狐がかかるような病気にはなりません。可能性は、より強い者に力を吸い取られた時とか、取り憑かれた時とか…」
「弥生に限ってそんなことが…」
「それはわかりません。油断して隙をつかれるということも有り得ます」
「…確かに」
「もしよろしければ、私が診察してみますが」
「お願いします」
それで白蓮は、弥生が寝ている部屋へと向かった。
「弥生殿、白蓮です。入ってもよろしいですか?」
返事はない。
「入りますぞ?」
そう断って、襖を開け、部屋に入る。弥生は横になったまま。
「具合がよろしくないとの事。…直也殿が心配なさっておいでですよ?」
「……」
弥生は返事をしない。
「弥生殿、昨日自分が申し上げた事を気にしておいでなのでは?」
弥生がぴくりと身じろぎをした。白蓮はそれを見逃さず、
「…やはり。…弥生殿、お一人で悩むのはお止めなさい。一人で考え続けていると、思考の陥穽に落ち込んでしまいます。もしよろしければ、自分にお話し下さいませんか。…これでも御先稲荷、少しは力になれると思いますが」
白蓮のその言葉に、弥生はゆっくりと顔を向ける。そして、
「のう白蓮殿、…直也をどう見る?」
「直也殿ですか。...そうですね、大した物だと思いますよ。泉水と同じ歳ということですが、胆力はあるし、敏捷なようですし、頭も良い。人間としたら文句の付けようがないですね」
「ふふ、世辞半分としても嬉しいのう。…直也はのう、…あれの母親が病弱なので、儂が育てたようなものなのじゃ。小さい時から世話をしてきて、…気が付いたら一人前になっておった」
「…やはり、弥生殿はお寂しいのですね」
「なに!?」
「わかりますよ。人間と我々とでは刻の流れが違う。…自分も、泉水のような巫女をもう何十人も教え育ててきました。それでも自分だけは昔のままです。最初に世話をしてくれた巫女はもうこの世にいないというのに」
「…そうか、白蓮殿も寂しいのじゃな」
「そうかも知れません。五人の御先稲荷の長とはいえ、他の御先稲荷とはどこか違うのです。雄と雌の違い、とかそんなものではありません。もっと根源的なところで違うのです。でも、弥生殿とは同じ孤独の匂いを感じるのですよ」
「孤独か…」
「違いますか?…自分は牡狐で御先稲荷をやっている異端狐。孤独です。…弥生殿は?」
弥生はしばらく沈黙していたが、やがて重い口を開いた。
「…儂も…孤独なのかも知れぬ…」
「弥生殿、いかがでしょう、自分と夫婦になっていただけませんか?」
「何!?」
流石に唐突な白蓮の申し出、弥生は跳ね起きた。
* * *
「直也様ー、遊んでー」
紅緒がじゃれついてくるが、直也はそんな気になれない。
「…すまん、紅緒。また今度な」
すると紅緒は真顔になって、
「ねえ直也様、弥生姉様が心配じゃないの?」
「ん?…心配に決まってるじゃないか。だから白蓮さんに診てもらってるんだろ」
すると紅緒は溜息をついて、
「…だから心配じゃないのかって聞いてるんじゃない」
「どういう意味だ?」
「まったく。…直也様って、そういうことに疎すぎるわよ。…あのね、白蓮さんは弥生姉様に気があるのよ」
「…まさか」
「何でそう言い切れるの?」
直也はちょっと考えて、
「会ったばかりだし、白蓮さんは御先稲荷だし、弥生は…」
「会ったばっかり関係ない。…あたいも、直也様の優しい所に参っちゃったんだから。それに御先稲荷は坊主と違うのよ?妻帯が禁じられてる訳じゃないはずよ。…ねえ?」
最後の言葉は夕食の膳の支度をしていた泉水に向けてである。
「は、はい。この間お見えになった方は、ご夫婦で御先稲荷をなさっておいででした」
「……」
「ね?…直也様、これでも心配にならないの?」
直也は俯いて、
「弥生は、…俺は、弥生が幸せになれるのなら…」
「どうして!?…どうしてそんな考え方が出来るの?」
「弥生が大事だから、弥生には幸せになってもらいたいと思って何が悪い?」
そんな直也の言葉に対して、紅緒はじれったそうに、
「『なってもらいたい』?…どうして『自分が幸せにしてやる』って思わないの?思えないの?」
「俺が…?…弥生を…?」
紅緒は大きく頷いて、「そう」と言った。
「俺が…か。…そう思わない事もなかったけどな、…」
直也は寂しそうに、
「俺は多分弥生より先に死ぬ。…そうしたら弥生はどうなる?…一人きりだ。なまじ一緒にいた分だけ、その後の孤独は深くなるだろう。…それに弥生自身が俺なんか相手にしていないよ。弥生から見たら俺なんて子供、というより赤ん坊のようなものだろうからな」
紅緒は文字通り地団駄を踏む。
「直也様直也様直也様、いつもと違ってなんて悲観的なの!?…あたいだったら直也様がどんなになっても好き。直也様が今と違う姿になっても、あたいのことわかんなくなっちゃっても、ずっと好きでいる。そんなあたいは自分の事不幸せだなんて思わない。だって、直也様を好きになったことは何ものにも代え難いくらいの幸せだから」
そこで一息ついて、
「今の直也様、笑ってない。弥生姉様も笑ってない。そんな二人、あたいは嫌」
紅緒は直也の手を取る。真剣な目である。
「ねえ直也様、幸せって、手を伸ばしても届くとは限らないわ。…でも、手を伸ばさなかったら、決して手に入らないと思う」
その言葉に、直也ははっと胸を突かれたような気がした。
「…そう…だな。…紅緒、お前の言う通りかも知れない」
「だったら、直也様、これからどうするの?」
「決まってる」
直也は立ち上がると、弥生の部屋へと向かった。紅緒はその後ろ姿を見送って、溜息を吐く。そんな紅緒に泉水は、
「…紅緒さん、直也様と弥生様の事、本当にお好きなんですのね」
「え?…うん、…あたいのこと、初めて大事にしてくれた人達だから。…あたい、普通の猫だった時から独りだったんだ。
物心ついた時には親はいなかった。残飯あさりしてやっと生き延びてきた。子供に石をぶつけられたこともあった。
犬に噛まれて大怪我した事もあった。他の猫にも虐められた。それでも生き延びて生き延びて、
…猫又になった。でもやっぱり独りだった。だけど。
…直也様、あたいに優しくしてくれた。
…弥生姉様、あたいと真っ正面から話してくれた。
出会ってまだ一月にも満たないけど、あたい、今まで生きてきて良かったと思える。あたい、二人が大好き」
* * *
「弥生殿、自分は一目見た時から貴女の虜になってしまいました」
弥生の手を握りながら白蓮が囁く。弥生はその手を振り解くと、
「…歯が浮く台詞じゃな」
しかし白蓮は意に介せず、
「どうか自分と長い時を共に過ごして下さいませんか」
白蓮の求愛は続く。
「同じ孤独を持つ者同士、上手くやれると思うのですが」
弥生は返事をしない。
「直也殿の事が心配なのですか?…直也殿はもう一人前です。猫又も憑いています。もしお気に召しましたら、泉水を嫁に差し上げましょうか?」
少しだけ弥生の心が動く。確かに、泉水は器量も良いし、気立ても良さそうだ。直也も嫌っている様子はない。
地の果てまで駆け落ちしてでも一緒になりたい、そんな夫婦ばかりが幸せになれるとは限らない。
相性、性格、いろいろな要因がある。弥生が見る限り、泉水はかなり理想に近いと言えた。
だが。
いざ直也の嫁に、と考えると、躊躇ってしまう。本当にそれでいいのか、との思いがどこかにある。
いっそ直也が好きな女人を見つけてくれればそんなことは思わないのかも知れないが、自分から直也のために嫁を選ぶ、と考えると、
もう少し良い娘がいるのではないか、この娘で本当に直也が幸せになれるのか、との思いが足かせになっていた。
「弥生殿…」
はっと気が付くと、白蓮に後ろから抱きすくめられていた。振り解こうとしたが、今の弥生の力では無理であった。
「白蓮殿…お戯れはお止め下され」
しかし白蓮はますます力を込めて弥生を抱きすくめる。
「戯れなどではござらぬ。…弥生殿、…そなたを自分のものにしたい」
白蓮が自分の髪に顔を埋めているのがわかる。鳥肌が立った。身を捩るが、どうにも出来ない。
「弥生殿の髪…良い香りです」
白蓮の息づかいが荒い。
「…直也…」
思わず直也を呼んでしまう。
「無駄です。…この部屋には結界を張りました。ただの人である直也殿にはこの部屋に入る事は出来ません。いや、お付きの猫又や他の御先稲荷にも無理です」
「……」
絶望的な状況。
「弥生殿…お慕いしております」
「…駄目じゃ…」
「何故です?…誰に操を立てるというのです?」
「それ…は…」
「弥生殿…、あなたは美しい…」
白蓮の手が妖しい。
「…!…直也!!」
弥生の叫び。
「弥生!」
襖の向こうから直也の声がした。
「…無駄な事を。自分にしかこの結界は出入り出来ないというのに…弥生殿、どうか自分を受け入れて下され…」
襖を叩く音がする。しかしそれだけの事。白蓮による結界は揺るぎもしなかった。それでも直也は襖を叩き、弥生を呼び続ける。
白蓮は焦れたように、
「うるさい御仁だ。…しばらく眠って貰うとしますか」
そう言って、口から小さな狐火を吐いた。弥生は目を見張った。
青緑色の狐火。木気の狐火。小さな雷と同じである。
それを今、白蓮は直弥に向けて放とうとしている。直也に向けて。直也に。直也。
血がたぎる。弥生は渾身の力を込めて万力のような白蓮の手から逃れると、手首を逆に極め投げ飛ばした。
現代で言うと隅落に当たる技である。
白蓮は吹っ飛び、自分にしか出入り出来ないと言った言葉通り、結界と襖を突き破って廊下へと転げ出た。
直也がいくら叩いても襖はびくともしなかった。何か術が施されているらしい。
中から弥生が直也を呼ぶ声が聞こえた。直也も弥生の名を呼び、更に強く叩く。叩いている手の皮が破れ、血が滲んだ、その時。
内側から襖が吹き飛び、白蓮が廊下まで転がり出て来た。そして反対側の壁にぶつかり、完全に伸びてしまった。
直也は部屋へと駆け込む。そこには乱れた着物を直す弥生の姿があった。
「弥生!大丈夫か?…何もされなかったか?」
「…直也…大丈夫じゃ。心配かけたのう」
弥生は直也の手に滲む血に気が付くと、そっと着物の袖で拭い、
「済まぬ。お主に血を流させるとは守護役失格じゃの」
直也はそんな弥生を抱き締め、
「弥生…、俺は…」
弥生はそんな直也からそっと身を離すと、
「もう言うな。…紅緒を連れてここを出よう」
とだけ言った。
直也は肩すかしを食らった気がしたが、それでも笑って、
「そうだな」
と頷いた。
* * *
三人は社殿を出た。もう夜である。今夜は野宿するしか無さそうだ。
「あーあ、せめて晩ご飯御馳走になってくればよかったなー」
「我慢しろ、紅緒」
「済まぬな。今夜は夜通し歩く事にしよう」
そう言って弥生は狐火を灯し、平塚方面へと歩き出した。
「…ねえ直也様、弥生姉様はすっかり元気になったみたいね」
紅緒が小声で囁く。
「そうだな。…俺が出る幕無かったみたいだ」
「そんなことないよ。直也様が助けに行ったからこそ、姉様は…」
「何をこそこそ話しておる?」
弥生の声。
「いや、何でもない」
「そうか」
ややあって、
「直也、紅緒、…今回は迷惑かけた。そして…ありがとう。礼を言う」
「何のことだ?」
「さあ、何じゃろうのう…」
三人はゆっくりと夜の中を歩いて行くのであった。
* * *
「……」
「大丈夫ですか、白蓮様」
「ああ、泉水、なんとかな。…しかし環殿に頼まれたとはいえ、損な役回りだった」
「でも、弥生様の事、まんざらでもなかったのでは?」
「こら、からかうな。…まあ、魅力的な方ではあったがな、あの二人に自分の入る隙はないさ」
「私から見ても、弥生様と直也様、二人ともお互いに思っているのに口にも出せないで、…もどかしいくらいでしたものね」
「…これで少しでもお二人の仲が進展してくれれば、投げ飛ばされた甲斐があるというものだが…」
「さあ、どうでしょうか。…とにかくご自分より相手の事を考えすぎるお二方ですから」
「まったくだ。ちょっと手を伸ばせばそこに答えがあるというのに」
「こればっかりは他人がおいそれと口出しできることではありませんものね」
「うむ。...まあ遠い空の下から、お二方の、…いや、紅緒殿も入れてお三方に幸多かれと祈る事にしよう」
そう言って白蓮は膏薬を貼った顔を撫でたのであった。
今回は何故か出来の悪いラブコメ仕立てに…実は江戸の御先稲荷、環のおせっかいでした。
直也と弥生がくっつくかどうかは今のところ神のみぞ知る…?




