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巻の二十三   鎌倉見物(前)

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巻の二十三   鎌倉見物(前)


 ここは北鎌倉。東海道を辿っていた直也達であるが、弥生の提案でこの機会に古都鎌倉を見て行くことにしたのだ。

 戸塚から大船を経て、北鎌倉に入った一行は、円覚寺近くの宿でくつろいでいた。

「どうじゃ、直也?」

「うん、さすがにかつて武家政治の中心だっただけあって、豪壮な建築だな」

 今日訪れた円覚寺と建長寺の事を言っているのだ。

 紅緒はさして興味も無さそうに、直也の膝を枕に文字通りごろごろしている。

「うむ、特に鎌倉には禅宗の寺が多いからの。も少し時間があればいいのじゃが…」

「またいつか来ようぜ」

「…そうじゃな。…その時は直也に嫁御が見つかっておるとよいの」

 それを聞いた紅緒ががばっと起き上がる。

「駄目駄目駄目駄目! 直也様のお嫁さんにはあたいがなるの!」

 弥生は怖い目で睨み、

「駄目じゃ。…直也にはれっきとした人間をめあわせるのじゃ」

「…むう、じゃあお妾さんで我慢する」

「こら、まだ正妻も決まっておらぬのに妾になれるわけが無かろう」

「そんなの弥生姉様が決めるなんておかしい。…直也様、あたいお妾さんになってもいいわよねー?」

「そ、…」

 絶句する直也。

「こら、直也を困らすでない」

 弥生がたしなめるが紅緒は平気な物で、

「ねえ、それじゃあ直也様ってばどんな娘がお好みなの?」

「え?」

「…やっぱりおしとやかな娘がいい? それとも世話焼きな娘?」

「そうだなあ…」

 考え込む直也。弥生も嫁探しの参考になるので、直也の返答に耳をそばだてている。

「…俺が好きになった娘」

「何よそれ」

「…だからさ、俺が好きになった娘を見てもらえば、俺の好みがわかるだろうって…」

「たわけ」

 弥生が呆れる。

「その好みを知りたいという話じゃろうが…もういい。…そうじゃ、紅緒、風呂に行くか」

 そう言って紅緒を誘い、風呂に浸かりに行く。

 風呂場で二人きりになると、

「のう紅緒、頼むから直也の嫁探しの邪魔だけはせんでくれ…」

「そんなに直也様にお嫁さんを探すことが大事なの?」

「そうなのじゃ。…直也はああいう性格じゃから、出来るだけ理想の嫁を持たせてやりたくてな…」

「姉様のいう理想ってどんなの?」

 弥生はちょっと考えると、

「器量は良くてじゃな、もちろん健康でなくてはいかん。丈夫な子供を産んで貰わなくてはのう。優しい性格だといいのう。面倒見が良くて、旦那様に尽くすことができて…。教養も大事じゃ。料理、裁縫、読み書きも出来なくては…」

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

 呆れた紅緒が弥生を止める。

「そんな娘なんているわけが無いじゃない。…理想、高すぎるわよ」

「…そうかのう…」

 首をかしげる弥生。

「そうよ。…そんなじゃ直也様、一生独身だよ」

「それも困るが、いいかげんな娘をめとられても困る」

「…弥生姉様、いっそ自分がなっちゃったら?」

「なっ...!何を莫迦な…!」

 風呂の中で盛大に飛沫が上がった。

「それいいなぁ。姉様が正室で、あたいが側室。ねえねえ、そうしようよー」

「じゃから直也にはちゃんとした人間の嫁を娶らせると言うておろうが…」

「直也様なら人間でなくても気にしないと思うけどな…。昔から人間に嫁いだ狐とかいるじゃない」

「それとこれとは話が別じゃ」

「もしかして直也様も弥生姉様のこと好きなんじゃないの?」

「…そんなことは無いじゃろう。何せ儂は直也が襁褓むつきの頃から面倒見てきたんじゃからな」

「そっか、…親も同然ってわけね。…でもさ、姉様って姉様が言った理想のお嫁さんに近い気がするのよね。

 ということはさ、弥生姉様以上の娘でないと、直也様って心を動かされないんじゃないの?」

「なんじゃと…」

 紅緒のその一言は弥生の心中で小さな棘となったようだった。


 翌日は浄智寺に参拝し、葛原ヶ丘を越え、源氏山へ。そこから南へ下っていくと、銭洗弁天がある。

 鎌倉は切り通しが多く、湧き水が豊富である。ここも、鎌倉五名水に数えられる程良い水が湧き、その水で身を清めることで福を授かるという。

 そうした言い伝えがいつの間にか銭を洗うことで何倍にもなって戻って来るという話に変わってきた。いつの世でも楽して金儲けしたいという心理は同じなようだ。

 そしてその少し先に、今日の目的地、佐助稲荷がある。

「その昔、頼朝公はすけ殿と呼ばれておっての、源氏再興の挙兵の折、稲荷神が夢枕に現れてお告げをしたと言う。その頼朝公は鎌倉に入るとすぐに稲荷社を建立された。それがここじゃ。すけ殿を助けたので佐助さすけ稲荷と言うのじゃそうな」

 無数に立ち並ぶ赤い鳥居をくぐりながら弥生が語る。

 やがて小山の奥、社殿の前に辿り着いた。昼なお暗い木立の元、人気のないそこに、一人の男が立っていた。

「ようこそ、弥生殿、直也殿。…そちらは…猫又でらっしゃいますか?」

「貴殿は?」

「この佐助稲荷の御先稲荷おさきとうがの長を務めます「白蓮はくれん」と申します」

「ほほう、男狐が御先とは珍しいのう」

「皆さんそうおっしゃられますね」

「ところで儂等のことをご存じなのかな?」

「はい、先日江戸の四谷追分稲荷の御先稲荷、たまき殿が使いとして見えられまして、その際に弥生殿のお話を承りました」

「ほう、環がな」

「マーラの陰謀を未然に防ぐべく、ここ鎌倉にある数多の稲荷社へも通達は済んでおります」

「それは重畳ちょうじょう

「立ち話もなんでございますから、こちらへどうぞ」

 そう言って白蓮は社の扉を開け、一行を招き入れた。

 中は外からは想像もつかない程広い空間で、酒肴が並び、巫女が二名出て来て歓待してくれる。その一人は直也と紅緒の給仕を、もう一人は厨房へ引っ込んだ。

 白蓮は自ら弥生に酌をし、いろいろ話し込んでいる。それを見て紅緒は、

「なんか嫌な感じ。姉様に色目使っちゃってさ」

「いいじゃないか。弥生だってたまには同族と話すのも楽しいだろうし」

 むしろ直也は弥生がくつろいでいるのを見て微笑み、巫女に注いで貰った酒をちびちび飲んでいる。

 紅緒は酒よりも魚が嬉しいらしく、鯛の尾頭付きを頭から囓り出した。直也にはとても真似出来ない。

 すると付いていた巫女が、箸で鯛の身をせせり、直也に差し出した。

「…じ、自分で食べられるよ」

「でもございましょうが、今だけは給仕させて下さりませ」

 そう言って口を開けるようにと身振りで示す。根負けして直也は口を開けた。

 一口、また一口。確かに美味いが、食べさせて貰うというのは落ち着かない。三回程食べさせて貰った後、直也はとりあえず給仕してくれる巫女に杯を差し出した。

「よかったらどうぞ」

 巫女は二度程辞退したが、直也が再三勧めると、

「…それでは頂戴します」

 そう言ってうやうやしく杯を押し頂き、三回に分けて飲み干した。なかなか行儀がよい。

「えーっと、名前聞いてもいいかな? 俺は…」

「直也様、でいらっしゃいますね。長から承っております。私のことは泉水いずみとお呼び下さいませ」

「泉水さん、か。ここには御先稲荷おさきとおうがの狐さんは何人いるのかな?」

「白蓮様以下、五名おられます。今は皆様巡回に出ておられて、白蓮様だけですが」

「えっ?じゃあ、ここにいる巫女姿の人達は…」

「私も含めて、皆人間です」


*   *   *


 白蓮はくれんは弥生が気に入ったようで、しきりに酒を注ぎ、話しかける。

「弥生殿は御先稲荷おさきとうがには興味ありませんか?」

 弥生も白蓮には興味を持ったようで、熱心に話に乗っているようだ。

「今のところはないのう。…直也の守護狐が似合いじゃ。…それより貴殿に興味がある」

「これはこれは、光栄ですね」

「御先を務めていると言うことは、天狐を目指しているのじゃろう?」

「そうですね、御先稲荷で天狐になりたくないというものは居りますまい」

「雄である貴殿が何故?」

 雄狐はどちらかというと放浪癖があって、あまり稲荷として遣えることはないのである。

「何故と申されましても…自分は幼い頃より陽の気が強いらしく、人化するのも男の姿の方が落ち着きました。その為というわけでもないのでしょうが、仲間からは虐められましてね。偉くなって見返してやりたい、最初はそんな気持ちからでした。でも今は…この仕事に誇りを憶えております」

「ふむ。…儂も、遠い遠い昔、天狐を目指して修行していた牡狐を一人知っておる」

「その方は今どちらに?」

「…おらぬ。道半ばで仆れた」

「そうでございましたか。…立ち入ったことを聞いて申し訳ない」

 弥生は気にするなと言うように首を振り、杯を干すと、杯洗はいせんですすぎそれ白蓮に差し出す。

「頂戴いたします」

 白蓮はそれを受け取り、弥生が注いだ酒を一気に飲み干した。

「自分は、環殿から弥生殿のお噂を聞いて、どんな方か想像しておりました。今日図らずもお会い出来、こんな嬉しいことはございません」

「口が達者じゃの」

 肴を摘みながら弥生がいなす。

「いえいえ、本心でござりまするよ。…直也殿の守護狐をなさっているとの事ですが、どのような経緯で?」

「話せば長くなるがな、まああれの両親に頼まれたこと、そして半分は儂の自由意思からじゃ」

「ほう。しかし直也殿にはもうひとかた、猫又が憑いておられますね?」

「紅緒か。…つい先日、直也に情けをかけられ、その恩返しにと直也に真名を告げて従者になったのじゃ」

「ほほう、直也殿は妖に好かれる体質ですな」

「何?…なんじゃ、それは?」

「おやご存じない?…あのですね、陰の気の者が好くのは陽の気の持ち主。それも強ければ強い程惹かれますな」

「その通りじゃ」

「で、どういう場合に陽の気が強くなるかというと、強い陰の気の者がそばにいる時、それに呼応するように陽の気は強くなる傾向にあります」

「なんじゃと…」

 弥生は考え込んでしまった。直也の陽の気はそんじょそこらの男どもの比ではないことは気が付いていた。

 自分は極度に強い陰の気の妖狐。幼い時からそばにいた。その為か、直也の陽の気が強くなったのは。

 それはとりも直さず、陰の気の者に好かれると言うこと。陰の気の者とはすなわち妖である。

 人間の女性も陰の性質だが、人間そのものは陽の者であるから、妖から見たらどちらも陽の気の持ち主である。

(もしや…直也が縁遠いのは儂がそばにいるからなのか…)

「どうなされた?弥生殿」

 白蓮の声にはっと我に返った弥生は咄嗟に、

「いや…直也の嫁探しに難儀するのはその所為かと…」

 と、思わず本音を漏らしてしまっていた。

「ほう、直也殿の嫁御」

 白蓮は興味を持ったようだった。

「それが見つかれば、弥生殿は守護狐を降りることが出来るのですかな?」

「別にそういうわけでもない。…直也が儂を必要とせぬ様になるまでという事じゃな」


*   *   *


「ここの巫女さんは皆人間?」

 直也は一驚した。

「はい。全部で七名、お仕えしております。御先稲荷おさきとうがの方々に一名ずつ、

 そして長の白蓮様に二名。今ここにいる二名です。え、と…ああ、もう一人は今は奥でまかないをしているようですね」

「大変だね」

「いえ、そんなことはないですよ。この辺りの信徒の家から十三になった娘が交代で巫女に選ばれるのですが、おかげさまで食べる心配はありませんし、教養も礼儀作法も身に付けさせていただけます。そして二十になると、次の巫女と交代するのです。もちろん、仕えていた時のことを話すことは禁じられておりますが」

「へえ…」

「巫女を務めた娘は武家や大商人から嫁に貰いたいと大人気なのです。お稲荷様の守護があるからって」

「なるほどなあ。…ここのお稲荷様は御利益があるんだね」

「はい。私もあと三年、務めさせていただくことになってます」

「と、いうことは今十七か、…俺と同い年だね」

「直也様も十七ですか、…大人びてらっしゃいますからもっと上かと思いました」

「そうか?…弥生にはいつも子供扱いされてるけどな」

「それは弥生様が齢を重ねられた大妖だからですわ」

 話の途中、いきなり袖が引っ張られた。紅緒である。

「なーおーやーさーまー、その子とばっかじゃなーくーてー、あーたーしーもー、かーまってー!」

「これは失礼致しました、…紅緒様、でしたね、お酒がよろしいですか? それともお魚にいたしますか?」

「あたしは直也様に言ってるのー。…」

 そう駄々をこねる紅緒。見ると顔が真っ赤である。意外と酒には弱いらしい。猫の耳と二叉に別れた尻尾を顕してぐずっている。

「仕方ないな、ほら、ここへ来い」

 そう言って膝を叩く。紅緒は満面に笑みを浮かべて膝でのそのそやってくると、直也の膝を枕に寝っ転がった。

「にゃふふー、直也様の膝。しあわせー」

 そう言うと寝息を立てて寝てしまった。

「うふふ、可愛らしい方ですね」

 それを見て泉水いずみが笑う。

「最近仲間になった猫又なんだけどね。気まぐれで困るよ…いてっ」

 膝に爪が立てられた。寝ているのかと思いきや、聞き耳を立てていたらしい。

 直也は紅緒の頭をなででやる。気持ちいいらしく、今度こそ眠ってしまったようだ。

「直也様、お強いのですね」

「そうかな? 普通だと思うけど」

「普通の人でしたら、妖狐である弥生様や猫又の紅緒様を怖がるはずですわ」

「そういうものかな?」

「はい。…私も、初めてここへ来た時はなんだか恐ろしくて…でも、お仕えしているうちに、皆様親切でお優しいというのがわかって」

「なるほどなあ」

「今は毎日が充実しております。…そんな私だからわかるんです。直也様は、人でも妖でも、差別なさらない方だって」

「うん。…だって理由がない。妖が恐ろしいと言ったって、人間にも恐ろしい者はいる。反対に妖にも優しい者は大勢いる」

「そうおっしゃる事が出来るのはお強いからですわ。…弥生様、紅緒様、お幸せですわね。直也様のように素敵な殿方にお仕え出来て」

「…もうその話は止めよう。…くすぐったくなってきた」

 泉水は笑って酒を注いできた。直也はそれを飲み干す。弥生がそんな自分のことを見つめていることには気が付いていなかった。

「泉水さん達はずっとこの社に?」

「いえ、月に一日はお休みをいただいて実家に帰ります。その他にもお遣いやお客様のお迎えなどで外へ行く機会はございます」

「ふうん、それじゃあきついというわけでもないのか」

「きつくなんてありませんわ。毎日が充実しています」

 そこへもう一人の巫女が、膳を持ってやって来た。

「お腹にたまるものをお持ちしました。お口に合えばよろしいのですが…」

「こちらは私の二年先輩になります清音きよね姉様です」

「清音です、賄いをまかされております」

「清音さんか、料理も酒も美味しいよ」

「ありがとうございます。ごゆっくりなさっていって下さいませ」

 その日は社に泊めて貰うこととなった。

 いったいどういう事になっているのか、社殿は広く、直也と弥生、紅緒はそれぞれが十畳はある部屋へ案内された。

 布団もふかふかで身体が潜ってしまう程である。柔らかすぎてかえって寝づらいくらいだ。

 

 翌朝も豪華な料理で歓待された。

 おまけに、白蓮はくれん泉水いずみに命じて鎌倉の案内を命じた。

 それで、巫女装束から普通の娘姿に戻った泉水に案内され、鎌倉を見物することとなった。

 まずは鎌倉大仏。

「ここは高徳院といいまして、昔は露座ではなかったそうなんですけど、明応四年の津波で建物が倒壊しまして、以来露座となっているそうです」

 次いで長谷寺。

「ここのご本尊は十一面観世音、木造でこれだけ大きな仏様は珍しいんですよ」

 巫女をしているわりに、寺のことにも詳しい泉水。直也は感心することしきりである。そういうことに興味のない紅緒は、やはり少し離れて歩いている弥生の側に寄り、

「姉様、直也様ってば、いやにあの子にべったりですよね」

「……」

「姉様?」

「お、…済まぬ。考え事をしていた。…何じゃ?」

「…もういいです」

 そして由比ヶ浜を歩いて若宮大路に辿り着いた。そこからは段葛だんかずらを歩いて鶴岡八幡宮に向かう。ここは人も多く、賑やかである。

 鳥居前の茶店で休憩。白蓮から申し使ってきた、と泉水が勘定を全部持つという。

 直也はうどんを頼む。猫舌の紅緒は鰹節のかかった握り飯にした。泉水はつつましく磯辺巻き。

 弥生はお茶をすすっただけである。直也はびっくりした。

「弥生、どこか具合が悪いのか?」

「ん?…いや、別に。…どこも悪くないが、いまは食べる気にならんのじゃ」

「それを具合が悪いって言うんだよ!」

 直也はつと立って弥生の隣に座ると、額に手を当てる。

「…熱は無さそうだな」

 次いで手を取り、脈をとる。

「…脈拍も普通みたいだ」

「じゃから言うておろう。どこも悪くはないと」

「だけどいつもなら俺の何倍も食べる弥生が何も食べないでお茶ばかり飲んでいたら心配するに決まってるだろう?」

「ふむ、そうか。…それでは大福を一皿」

 それでもいつもの十分の一だ。直也は心配でならなかった。紅緒に聞いてみる。

「なあ紅緒、弥生の調子悪いわけわかるか?」

「…ご自分の胸に聞いてみれば?」

「…何だよそれ」

「あの、…弥生様、おかげんがよろしくないのですか?…そうとも知らずに長い時間歩いていただいてしまって私…」

「いやいや、泉水、大丈夫じゃ。そなたが気に病む必要はない」

「でも…」

「餓鬼道に落ちたわけでも無し、儂とて食欲がない時くらいあるぞ。あまり大袈裟に騒ぐでない、直也」

「そうか?…それならいいけど」

 泉水はそんな直也を見て、

「直也様、弥生様を大事にされてらっしゃるのですね」

「そうさ、弥生は俺の…」

 そこで言い淀む。

「俺の…」

 首を捻る。

「俺の…何だろう?」

 紅緒を見る。

「あたいに聞かないでよ」

「…とにかく、大切なんだ」

 そんな直也を弥生は寂しそうな目で見つめていた。


 鶴岡八幡宮。源氏の氏神である。

 広い参道を行くと、大銀杏が立つ石段。六十一段の石段を登ると本宮であった。ここからは鎌倉の街並みが眺望される。

 紅緒は興味なさそうに、境内の雀や鳩を追いかけ回していた。

 参拝後、石段を下りながら泉水が語る。

「あれが舞殿ですが、創建当時は無かったそうです。なので有名な静御前は舞殿でなく、回廊で舞ったということです」

「静御前…」

 弥生が呟く。

 美貌の白拍子。義経の愛妾。悲劇の女人。

 義経には意に添わず娶らされた河越太郎重頼の娘という正妻があったが、彼は静一人を愛した。

 義経を愛し、愛されていながら、身分が低いため正妻にはなれず、もうけた子も男児であったがため、由比ヶ浜に遺棄されたという。

 直接その時代にいたわけではないが、伝説は良く知っていた。

 そんな事を考えながら石段を下りていた弥生の足元に小さな石があった。

「…!」

 体勢が崩れる。無理に立て直そうとした反動で、前のめりに石段から投げ出されてしまった。

 普段の弥生なら何と言うことはないのだが、気が萎えている弥生はそのまま落下。眼を瞑り、衝撃を覚悟した弥生だったが、柔らかく受け止められた。目を開ける。

「大丈夫か?弥生」

 弥生を受け止めたのは直也だった。

「珍しいな、弥生が転ぶなんて。…本当に具合悪いんじゃないのか?」

 弥生は深く息を吸うと、

「…済まぬ、直也。度々心配かけて」

 そう言って直也の肩に手を掛け、地面に下り立った弥生は、ふと気が付いたように、

「…直也、いつの間にか大きくなったのじゃな」

 直也の目線が弥生のそれよりも高い所にあることに今更ながら気付いた弥生であった。

「旅を始めた頃は儂よりも小さかったのにのぅ」

 弥生は五尺一寸ほど(約154cm)、当時の女性としては背の高い方になるだろう。

(直也も成長しておるのじゃな…)

 今、直也は五尺三寸(約160cm)ほどまで背が伸びていた。

「弥生様、大丈夫ですか!?」

 弥生の物思いは泉水の問いかけで破られた。

「大丈夫じゃ。直也に助けて貰ったからの」

「泉水さん、やっぱり弥生の調子が変だ、今日のところはもう帰りたいんだけど」

「はい、そういたしましょう」

 それで、鎌倉見物はここまでということで、一行は稲荷社へと戻ることにしたのである。

 後編は明日、出来るだけ早くに投稿します

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