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巻の二十一   雨の川崎宿

巻の二十一   雨の川崎宿


 東海道五十三次は日本橋に始まり、品川宿がその次、そして六郷の渡しで六郷川を渡り、少しで川崎宿となる。

 有名な川崎大師は平間寺へいけんじといい、この頃はまだ今ほどの賑やかさはない。

「なんだか暗くなってきたな」

 船を降りた直也が言う。

「そうじゃな、お伊勢参りの連中がいなければもっと早くに渡れたのに、間が悪かったのう」

 弥生が答えた。

 二人は早くに日本橋を発ったものの、六郷の渡しで手間取り、渡り終えたのは午後遅くになってしまっていたのである。

 渡し場と宿場の間、夕方にはまだ早いものの、雨の降りそうな空模様、行き交う人は途絶えていた。そこに現れた人相の悪い四人。

「ちょいと待ちな、若造、有り金全部とその女を置いて行きな。そうすれば命までは取らないでやる」

「追い剥ぎか?お前等」

「そうよ。この街道筋じゃ泣く子も黙る鬼の熊蔵様よ」

「鬼っ!?」

 直也の頬がぴくりとした。それを見て取った弥生は、

「直也、下がれ。…儂に任せよ」

 直也を下がらせようとする。しかし直也はそれに従わず、道中差しに手を掛けた。

 そこへ。

 一陣の疾風が襲いかかった。疾風の名は紅緒べにお。その鋭い爪で当たるを幸い薙ぎ払う。

 追い剥ぎどもはあっという間に腕や顔、肩を切り裂かれてほうほうの体で逃げ出した。

「直也様、大丈夫?」

「あ、ああ、大丈夫だ」

 毒気を抜かれたように直也が答える。

「よかったあ。…陰ながら付いてきた甲斐があったわ」

「猫又め、まだ諦めていなかったのか」

 弥生の辛辣な声。

「言ったじゃない、直也様に惚れちゃったって。…あんたが迷惑そうな顔をするから離れて付いてきただけよ。悪い?」

「口の減らぬ雌猫が…」

「あたいが雌猫ならあんたは女狐じゃん。似たようなもんじゃない。…だいたいさあ、直也様を守らないで何やってるのよ?」

「あの程度の相手なんぞ直也に傷一つ付けられはせぬ。じゃから…」

「ふん、なんだかんだ言って怠けようとしてんじゃないのお?さもなければさ、か弱そうなふりして直也様に媚びてるとかさ」

「何をこの…っ」

 だんだん険悪な雰囲気になってきたので直也が割って入る。

「やめろよ、弥生。…紅緒、お前も挑発するようなこと言うんじゃない」

「あらごめんなさい。そこのおきつねさんが怠慢こいてるからちょっとね」

「誰が怠慢じゃと…?」

「やめろったら。…弥生、急ごう。雨が降り出しそうだ」

 それでようやく弥生も紅緒との口論をやめ、目指す宿場、川崎へ向かって歩き出した。紅緒も少し離れて歩き出す。

 川崎宿の外れに着いたところでとうとう雨になった。

「まずい、どこでもいいから宿に泊まろう」

「うむ、今回はそうするしかあるまい」

 そう相談が決まると、二人は手近な旅籠に飛び込んだ。直ぐに店の者がすすぎを持ってやってくる。

 直也は二間続きの部屋を頼んだ。

 部屋でくつろぐ二人。弥生は茶をすすり、直也は窓から外を見るとも無しに眺めていた。

 雨に降られて駆け込んでくる旅人がいる。蓑笠を付けて足早に通り過ぎる旅人がいる。

 それらを二階の部屋から何と無しに眺めていた直也は、突然立ち上がると階下へ向かう。そして宿の傘を借りると、雨の中へと出ていった。

 雨の中、直也が向かったのは、宿の窓から見えた、古いお堂。その軒下に、紅緒が丸くなっていた。

「紅緒」

 その声に紅緒が飛び起きる。

「あ!?…直也様?」

「寒いだろう。…一緒に来いよ」

「来い、…ってどこへ?」

「旅籠だ。…昼間、追い剥ぎを追っ払ってくれたからな。その礼だ」

 目をぱちくりさせていた紅緒であったが、満面に笑みを湛えると、

「…やっぱり直也様、優しい。だから好きっ」

 そう言って直也の腕にしがみついてきた。

「こら、歩きにくいだろ」

 そう言っても紅緒はしがみついた手を放さない。仕方なく直也はそのまま旅籠に紅緒を連れ帰った。


 部屋に連れてきた紅緒を見て収まらないのは弥生である。

 自分と直也の命を狙った猫又、改心したと言っても妖の言うことである。まして猫又の好物は人肉と言われている。

 自分の心配を余所に、当の猫又を同じ屋根の下に泊めるという。

「直也、お主が人の良いのは知っておるが、これはいくらなんでも目に余るぞ?」

「きつねさんてば疑り深いのねえ。…他人を推し量るのに自分の枠で考えてない?」

 それはとりもなおさず弥生が恩知らずである、と言っている事になる。そうまで言われて黙っている弥生ではない。

「…わかった。そこまで貴様が直也を慕っているというなら、」

 一旦言葉を切り、

「貴様の真名を教えよ」

 真名。「まな」と呼び、万物の本質を表す呼び名。この名を知ることで、魂まで支配することが出来るという。

 それを弥生のような大妖に教えると言うことは、生殺与奪の権を与えるに等しい。

「やだ」

 あっさりと紅緒は断った。

「なら儂も貴様を信用することは出来ぬ」

「それはあたいだってさ。あんたに真名を教えたら何されるかわかりゃしない。…だからさ、」

 直也の耳に口元を寄せ、

「……」

 弥生の耳にも聞こえない程の小声で何事か囁いた。

「直也様にだけ教える」

 と言って、直也の膝に頬を埋めた。

「お、おい…!」

「んふ。…これで直也様、あたいのご主人様。うふふー」

 その仕草は紛れもない猫のそれである。

「直也様、可愛がってね」

 潤んだ目で直也を見上げる。直也はうろたえて、

「わ、わかったから、そこからどいてくれ」

 ぱっと紅緒は飛び退いて、

「他の人に教えちゃやあよ?」

 そう言うと、今度は隣に座り、頬ずりしてくる。完全に猫だ。

 弥生はというと、その目に怒気を湛え、

「直也に真名を教えたということで貴様に害意はないことは一応認めてやろう。じゃが、直也になれなれしくすることは認めぬ」

「なぁんでさ?…別に直也様はあんたのものじゃないじゃない。…それともあんた、守狐の分際で直也様に惚れてるわけ?」

「ばっ…!」

 弥生が狐の耳と尻尾を出し、跳びかかった。が、一瞬早く、紅緒は飛び退いている。

「おおこわ。…あんまりからかうと洒落じゃ済まなくなりそうね。このくらいにしとこう。…あたいお風呂入ってくるからー」

 そう言って部屋を飛び出していった。弥生は嘆息して、

「直也、本気であの雌猫を飼うつもりか?」

「い、いや、なんというか成り行きで…」

 普段は冷静な弥生が珍しく興奮しているのを見た直也は何故か狼狽している。

「ただ、猫だからこの冷たい雨の中、野宿は可哀想だなあ、って思っただけで…」

「ふん、人がよいのも結構じゃがな、その結果まで責任を取るのが大人じゃぞ」

「責任って…」

「真名を聞いたじゃろ。それを知ったということはあの猫の魂を縛ったと言う事じゃ。お主が死ねと言えば死ぬ。それほどの契約じゃ、真名を教えると言うことは」

「……」


 紅緒は二間続きの一部屋に弥生と布団を並べている。

 初め直也の布団で一緒に寝る、とだだをこねたのだが、流石に直也に命じられて、しぶしぶ別室で寝ることを承知したというわけだ。

 とはいうものの、弥生との仲が改善されたわけではない。奥に紅緒、そして手前に弥生。

 その布団と布団の間隔は畳二枚分。その距離が二人の仲を雄弁に物語っている。

 直也が厳命したので一応静かに横になってはいるものの、弥生も紅緒も簡単に眠れるものではなかった。それが幸いしたのか、二人の耳が異様な音を捕らえた。

「…?」

 起き上がる弥生。ほとんど同時に紅緒も身を起こす。

「あんたにも聞こえる?」

「…ああ。雨の中、大勢…十人くらいか…が走る音じゃ。この宿に近付いてきておる」

 時刻はそろそろ子の刻(午後11時)になろうとする頃。もう宿の人間も、泊まり客も寝静まっている頃だ。

 足音は間違いなく宿に近付いてきている。ただ事ではない。

 弥生は直也を起こすことに決めた。障子を開け、直也の寝ている部屋に入る。それを紅緒が見咎めた。

「あー、ちょっと女狐、なに夜這いしてるのよ!」

「よっ、夜這い…!」

 弥生が咎めるような視線を向ける。

「あたいもあたいもー!」

 紅緒が這いずって来て直也の布団に飛び乗った。

「げほっ…!」

 直也が咳き込み、目を覚ます。

「な、なんだあ?」

「済まぬ、直也、…ただ事ではない。何やら物騒な予感がするのでな、起きてくれ」

 目をこすりこすり、直也が起き上がる。

「物騒な予感って…」

「押し込み、火付け、強盗。…そんな類じゃ」

「何…!?」

 完全に目が覚めた直也は、翠龍すいりゅうを懐深くしまい、道中差しをかき寄せる。紅緒はそんな直也の脇に座り、

「だーいじょうぶよー、直也様。十人や二十人、あたいの爪であっというまに喉笛かっ斬って…」

「駄目だ」

「直也様?」

「俺と一緒に旅をしたいなら、人前で正体を現したら絶対駄目だ。そして殺生も禁止だ」

「直也様…」

「そう言う事じゃ、紅緒。…む、来たぞ」

 雨戸の蹴破られる音。刀の響き。悲鳴。どうやらまず一階にいる旅籠の人間が襲われているらしい。

「血の臭いはわずかじゃ…どうやらまだ殺されたものはおらぬ」

「狙いはいったい何だろう?」

「今のところ皆目見当付かぬな…」

「ねえ直也様、殺しちゃいけないなら逃げようよ。あたい、直也様おぶったって二階から飛び降りられるよ。ねえ、そうしようよ」

「駄目だ。宿の人や泊まり客の危難を黙って見過ごすわけにはいかない」

「直也様あ…」

「…難儀じゃろう?…紅緒、直也はこういう男じゃ。付いていけないと思ったらお前だけでも逃げるが良いぞ」

「誰がご主人様置いて逃げるものですか」


 ざわめきが広がる。どうやら泊まり客も皆気が付いて起きだしたらしい。そこに悲鳴が混じる。賊が二階の泊まり客を襲っているようだ。

 障子が開き、黒覆面をした賊が二人、抜き身の刀を下げて現れた。

「ほう、若造一人と娘が二人か。…来い。下へ集まるんだ。言っておくが手向かいすればお前等だけじゃねぇ、宿の人間全部が痛い目ぇ見るんだぜ」

 宿の人間と泊まり客全部が人質というわけだ。

 直也と弥生はとりあえず命の危険は無さそうなので、賊の言うことを聞くことにした。大人しく階下へ降りる。

 広間には宿の人間と泊まり客が集められ、荒縄で一人一人縛られていた。直也と弥生、紅緒も同様に縛られた。

 が、弥生にとってこんな縄で縛られても、何の痛痒も感じないことはわかっているので直也は特に心配はしていない。

 しかし紅緒はいきり立っており、いつ正体を現して賊に襲いかからないとも限らない。そこで直也は、

「俺がいいって言うまで大人しくしてるんだぞ」

 と念を押した。

 見たところ、賊は総勢十二名、一人は表口、もう一人が裏口の見張りに当たり、二名が縛り上げた人々の見張り。

 残り八名で何かを探している。なかなか見つからないらしく、焦れてきた賊は縛られた泊まり客の前にやってきて、

「書き付けを持っている奴はどいつだ」

 といきなり叫んだ。

 その言葉にぴくり、としたのは侍。頭とおぼしき男は、そのわずかな反応を見逃さなかった。

「ほう、お侍さんが持ってなさるのかい」

 手下に命じて侍の部屋と持ち物を探させる。そして自らは侍の身体検査。

「大事な書き付けというのはなぁ、元結いの中とか、襟に縫い込むとかしてあるんだよなあ」

 頭も切れるらしい。やがて、襟の中から、油紙にくるまれた書状が発見された。

 侍は死にものぐるいで取り返そうとしたが、したたかに殴りつけられ、気を失ってしまった。

「さ、さあ、もう用は済んだでしょう、われわれを放して下さい」

 宿の主人が懇願する。

「そうよなあ、一番の用事は済んだ。…だがなあ、手下どもにも少しはいい思いをさせてやらねえとなあ」

 そう言って、縛られた者達を見回す。

 宿の主人、番頭、下働きの男が四人。女中が四人。泊まり客は直也、弥生、紅緒の他に、大山参りらしい老夫婦が一組、先程の侍、そして商人風の男とその伴の者が二人。

「…六人か。一人で二人を相手にして貰うとするかな」

 何の事かはすぐにわかった。賊の一人が女中に近付いて、その着物に手を掛けたからである。

「きゃーっ!」

 女中の悲鳴。

「やめろ!」

 それを見た直也が叫ぶ。

「うるせぇ!」

 賊の頭の拳が直也を殴り飛ばした。

「直也!」

「直也様!」

 口の中に鉄の味が広がる。直也は賊を睨みつけた。

「貴様の連れもゆっくり可愛がってやるから、おとなしくそこで見ていな」

 そう言って更に殴ろうとする。それを弥生が止めた。

「止めてくれ!…直也に手出しせんでくれ…。代わりに儂が何でも言うことを聞くから」

「ほう?」

 賊の頭が面白そうに口を歪める。弥生のことを上から下まで舐めるような目つきで見わたした後、

「何でもするか?」

「する」

「こりゃあ面白え。よっぽどこの若造が大事と見える。...よし、女、こっちへ来い」

 縛られている弥生は膝でにじり寄って行く。

「よし、縄を解いてやりな」

 手下に命じつつ、自分は直也の首筋に刀を当てる。

「ちょっとでも妙な真似をすればこいつの命はねえからな」

「…わかっておる」

「よし、それじゃあそこで着物を全部脱いで貰おうか」

 広間の真ん中、賊と泊まり客、宿の人間、全員の見ている前で裸になれと命じる賊。

「弥生!そんな奴の言うこと…」

 全部は言えなかった。首筋に当てられた刀がわずかに皮膚を切り裂いたから。

 髪の毛一筋ほどの傷からわずかに血が滲む。

「直也様!」

 紅緒が叫ぶ。

「ほう、こっちの娘もおめえの連れか。よしよし、次はこいつをひん剥いてやろうかな」

 そして弥生に向き直り、

「よし、さっさと脱げ」

 目を背けようとした他の人質達には、

「よーく見てな、目を逸らしたりするんじゃねえぞ」

 と言い放った。

「ほら、早くしねえか」

 その言葉に、弥生の手が動く。

 帯締めを解き、帯を解いてゆく。帯留めが床に落ち、かすかな音を立てた。

 帯を解き、帯揚げを外す。伊達締めが露わになる。その伊達締めを解くと、着物の前がはだけた。

 思わず着物の前を合わせる弥生。

 賊は弥生の一挙手一投足に釘付けである。

 襦袢姿になった弥生は、恥じらうようにわずかに目を伏せ、…

…襦袢の前を、……

 

「直也」

 耳元で呼ぶ声に、直也は我に返った。

「弥生!?」

 そこにいたのは弥生。気が付くと、着物を脱いでいるはずの場所には誰もいない。

「ふふ、あれだけ注目して貰えれば、全員を術に落とすのは赤子の手を捻るようなものじゃ」

 直也の縄を解きながら弥生は囁く。

「帯留めを落とした音、あれが引き金じゃ」

 そう言う弥生の帯を見ると、なるほど、帯締めと帯留めだけが無い。

「さあ、まずは賊を縛り上げてしまえ。…こやつらは儂が術を解くまで何をしても気付かんじゃろうから、直也に任せる」

「弥生は?」

「見張りを片づけてくる」

 そう言って、風のように姿を消した。

 直也は言われた通り、人質達の縄を解き、その縄で賊を縛っていく。

 半数も縛り上げないうちに、弥生が賊を二人放り出した。

「これで全員じゃな。…なんじゃ、まだ片づいておらんかったのか」

 そうは言っても縄を解いてはそれで賊を縛るのだから時間がかかるのは当たり前だ、と直也は心中思った。それが顔に出たのか、弥生は笑って、

「冗談じゃ。手分けしてさっさと片づけてしまおう」

 紅緒の縄が最後だった。

「あ、あれ?…直也様、弥生さん?」

「もう大丈夫だ。…紅緒、よく我慢したな」

「う、うん。…直也様の言いつけだったからね。…あれって、弥生さんの術だったの?」

「そうじゃ。お前にもかかったか。思うたよりすれてないようじゃの」

「弥生、こいつらどうする?」

 賊も人質も全員まだ弥生の術にかかったままだ。

「そうじゃのう…このまま術を解くと儂等の正体が解ってしまうしの」

「そうだ、お稲荷様が助けに来た、とかいう幻は見せられないか?」

「おう、それはいい。…そうじゃな、たまきの姿を借りるとしよう。…その前に」

 弥生は賊の頭に向き直ると、その小さな拳を振るった。

 鈍い音。

 華奢な弥生のどこにそんな力があるのか、賊は部屋の端まで吹っ飛び、壁にぶつかって気を失った。

「…直也を殴りおった礼じゃ」

 そう言った弥生の目は、どんな化物でもたじろぎそうな鋭い光が宿っていた。その弥生は直也に向き直ると、

「直也、殴られた所は大事ないか?」

 と心配そうに尋ねる。

「大丈夫だよ。ちょっと口の中が切れただけだ」

 そう笑って答える直也。更に後ろでは怒った紅緒が、

「よくも直也様のこと殴ったな…!この!!」

 賊の頭の顔を蹴りつけていた。

「もうよせ、紅緒。あんまりやると死んじまうぞ」

 それでようやく紅緒も怒りを解いた。

「さて、」

 弥生が術を使う。青白い狐火が幾つも乱舞し、それを見つめている者達…解放された人質達は虚空を伏し拝み、賊は皆項垂れ、大体どういう幻を見ているか見て取れた。

 それでそっと三人は部屋に戻っていった。


 翌朝、三人は薄暗いうちに宿を出た。

 明るくなれば役人がやってくるだろう。いろいろと聞かれたりするのが面倒だった。雨も夜中には上がっていたから、支障はない。

 少し肌寒い秋の朝である。

「なあ弥生、結局昨夜の賊、何を狙っていたんだ?」

「うむ、あの書状はおそらく大名家の浮沈を左右するような物らしい。国元で何か大事が起こり、それを江戸にいる殿様に秘かに伝えようとする書状じゃな」

「何でそんなもの賊が狙うのかしら?」

「多分、公儀が秘かに依頼したんじゃないかのう」

 弥生が口にしたこと、それは五代将軍徳川綱吉の側用人、柳沢吉保の政策と関係がある。

 柳沢は幕府の権力、ひいては己の権力を高めるため、大名・旗本の改易政策を推進している。外様大名などは、吉保に睨まれないよう戦々恐々としている程だ。

 少しでも隙を見せれば、公儀の名の元にお取りつぶしとなる。そうなれば一大事だ。

「何で弥生がそんなこと知ってるんだ?」

 不思議そうに直也が聞く。

「ふ、ついこの前まで将軍家お膝元にいたのじゃ。そのくらいの事解らぬようでは妖狐の名折れというものじゃ」

「……」

 直也は言葉もない。

「じゃが、あの賊の頭からはわずかにマーラの臭いがした。おそらく今回の黒幕もマーラじゃ」

「そうか、そうやって少しずつ世の中に不満の種を撒き散らすつもりか」

「そう言う事じゃな。…まあ今回はたまたまじゃが、防げて良かった」

「…ねえ、お二人が話しているマーラってもしかして…」

「ん?…うむ、お前の胸に呪い玉を埋め込んだ奴じゃ」

「あいつか…あいつがマーラ…」

「憶えてるのか?」

「うん。…はっきりとじゃないけど、なんだか大きな寺で、…そう、坊主の格好していたよ。名前は隆法だか隆光だか」

「ふむ。…江戸にはまだまだマーラの手先がいるという事じゃな」

 隆光。この時点ではまだであるが、この先、綱吉に取り入って権勢を誇り、稀代の悪法、「生類憐れみの令」を作り出し、怨嗟の的となる。

 だが直也も弥生もそんなことは知るよしもない。

「ねえ弥生姉様、これからどうするの?」

「…江戸には環初め御先稲荷も天狐様もおる。儂等はこのまま西国へ向かう。…ところでその『姉様』というのは何じゃ?」

「昨夜の一件で、あたい、姉様の腕前に惚れ込んじゃったんだ。…だからこれからは『姉様』と呼ばせて貰うよ」

「…惚れっぽい奴じゃのう。…勝手にせい」

「うん。…でも姉様、直也様はあたいのものだからね」

「…じゃから直也はお前なんぞにくれてやるわけには行かぬと言っておるじゃろう」

「あーん、直也様ー、弥生姉様が怒ったー」

 そう言って直也の後ろに隠れる紅緒。直也はため息を吐く。

 賑やかな一行が向かう先右手には相州大山が霞んで見えていた。

 紅緒が仲間になりました。こういうキャラが入ると話が動きやすきなりますね。

 川崎大師は1813年(文化10年)に徳川幕府第11代将軍、家斉が厄除に訪れた事から厄除け大師として広まったそうです。この物語は5代将軍の頃の話ですので、まだそこまでの賑わいは見せていません。


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