巻の二十 強敵と新たな道連れ
巻の二十 強敵と新たな道連れ
様子を見に、弥生は菓子折を持って向島にある善兵衛の別宅を訪ねた。それは大きな屋敷で、すぐに見つかる。
言われていたように門番に善兵衛の名を告げると、中から護衛の一人と思われる侍が出て来て、中へ案内してくれた。もちろん警戒の意味もあるのだろう。
庭を抜けた四阿で待つと、平八郎がやって来た。弥生の顔を見ると、
「弥生殿、差し入れを持ってきて下さったそうで、まことにかたじけない」
「お勤め、いかがですか?」
「うむ、昨夜は何事もなかった。拙者以下、手練れの侍三名が交代で詰めておる。まあこのまま何事もないのが一番だが」
「そうでございますね」
あとは当たり障りのない話を少しして、弥生はその場を辞した。
「どうだった?」
弥生が帰宅するなり、直也が尋ねる。
「今のところ大丈夫のようじゃ。とりあえず「耳」を置いてきた。何かあったらすぐにそれとわかるじゃろう」
つまり弥生は、差し入れにかこつけて、様子がわかるような「耳」…何か術に関する式神を秘かに置いてきたということだろう。
その晩のこと。
眠っていた弥生は、「耳」からの知らせに目を覚ました。
別宅が襲撃されている。賊は五人。全て人間で、平八郎が二人、あとの二人が一人ずつ斬り伏せたところで、残った一人は逃走している。
それきり、その夜は何事もなかった。
夜が明けて、弥生は直也にその事を話すと、
「あと一晩、それで多分跡目が決まるんだろうな。…今夜は一番危ないんじゃないか?」
「うむ、そう思う。…とりあえず、一緒に向島へ行かぬか?」
「そうだな、行くよ」
直也はそう答えて、昼過ぎに行くこととした。午前は、境内で一人稽古をする直也。
弥生は長屋の子供達に手習いを教えて過ごした。
菓子折を持ち、向島へ。昨日の事で、弥生の顔を覚えていた門番はすぐに通してくれた。
「おお、弥生殿、直也殿も来てくれたのか」
平八郎がやってくる。その後に、善兵衛がいた。
「昨夜は思った通り襲撃がありました。賊は五人、四人までは斬り伏せましたが、一人は逃げられました。…おそらく、今夜は更に人数を増やしてくるでしょう」
善兵衛が憂鬱そうに語る。
「こちらも警護の人数を増やしたい所ですが、なかなか人が集まらなくて…」
「俺も手伝いましょう」
直也が突然言い出した。
「直也!?」
「直也殿?」
平八郎、弥生二人が驚きの声をあげる。
「直也、危険じゃぞ、わかっておるのか?」
「うん、しかし俺の見たところだと、襲ってくる奴らの狙いは、お世継ぎを途絶えさせての藩お取りつぶし。そうなれば藩士達は路頭に迷い、多くの人達が塗炭の苦しみを…」
「直也さんと申されたか、慧眼ですなあ。…平八郎様、このお方は?」
「…拙者の弟子です。…確かに腕は立ちます。他の侍方と同じ、いや以上に。…直也殿、良いのか?」
「はい。お役に立てれば」
「…弥生殿、よろしいか?…拙者も出来るだけ心にかけますので…」
弥生は一礼し、
「よろしくお頼み致します」
そして直也に、
「直也、気をつけるのじゃぞ」
直也は大刀を貸し与えられ、若君の寝所の前に待機。平八郎以下、元からいた三名が中庭、新たに雇った三名は門を守る。
そうして夜は更けていく。
子の刻(午前零時)、案の定刺客がやって来た。その数、十人。前夜の倍である。
門を守る三名で二人を斬り倒したが、こちらも一人やられた。
そのまま残った八名は中庭へ殺到。平八郎等三名と門から追ってきた二名を交えて乱戦となった。
一の使い手の平八郎が、あっという間に三人を斬り伏せる。こちらも一人がやられたが、互角以上の戦いをしている。やがて賊は全員動かなくなった。
「ふうやれやれ、なんとか防ぎきったのう」
「平八郎殿がいなければ我等は劣勢を覆せなんだ。まっことすさまじき腕よ」
「その腕なら指南役として仕官も出来ように」
そんな雑談も出るほど、一同が安堵していた、その時。
「ぐあああっ!」
生き残った四人のうち一人が悲鳴を上げて倒れた。
「何…!」
何と、確かに斬り伏せたはずの賊が起き上がっているではないか。
「くっ!…この、死に損ないめ!」
そう叫んで、斬りかかる護衛の侍、袈裟懸けに斬り伏せる。が、しかし。
斬られた賊は、身体を揺らしたものの、倒れず、斬りかかって来る。
「ぬお!?…化け物かっ?」
更に斬りつける。左腕を斬り落としたが、それでも賊は迫ってくる。それどころか、斬り殺したはずの賊が全員起きあがり、再度襲ってきた。
「な…なんだ、これは?」
「妖術か?」
「化け物かあっ!!」
平八郎以下、残った三人は必死に斬りまくるが、いくら斬っても相手は倒れない...。
「こいつら、…死人か…!」
防ぐ方法はたった一つ、動けないまでにばらばらにしてしまうことであるが、人を斬るということは生易しいことではない。まず刀が保たない。
骨に当たれば刃こぼれすることもあるし、脂が付けば切れ味は落ちる。三人も斬れば使い物にならなくなると言う説もある。
それを、完全に五体を切り離さなければならない彼等の苦戦は明らかであった。
まず一人、刀が折れ、その瞬間に胸を突かれて倒れる。
そしてまた一人、斬りつけたが相手の体から刀が抜けず、その隙に滅多斬りに斬られた。
残るは平八郎ただ一人。その剣の冴えを以て、七人までは解体したが、さすがに刀の切れ味も鈍り疲労も隠せない。何箇所か手傷も負い始めている。
が、そこに直也が参戦した。
「先生!」
「直也殿、若君の寝所は」
「その若君からの命です。先生が倒れたら守るも何もあったものじゃありません」
「よし、脚を狙え。片脚だけでも斬り落とせば動けなくなる」
「はい!」
直也は、稽古を受けてから初めての実戦であるが、自分の身体が思った通りに動くのに一驚した。
それまでは意思と身体の間に薄紙が挟まったようなもどかしさを感じていたのだが、今は違う。脚が、腕が、身体が、思ったように動く。
「見事だ、直也殿」
平八郎も感心することしきりである。そしてようやく動くものは無くなった。
その一連の斬り合いを、弥生は屋根の上から眺めていた。
「ふふ、直也、上達したのう…平八郎殿も流石じゃ。…しかし人の身ではこの先は無理じゃろうな」
その弥生の目が光った。
「そこか…!」
弥生が跳躍した。
屋敷の北東、いわゆる「鬼門」。鬼門避けとして、塀や壁を窪ませている造りは多い。この別宅もそうであった。そこに弥生が下り立つ。
地面を凝視する弥生。
「あった…」
気を放ち、地面をえぐり取ると、木で出来た札が出て来た。普通ならぬ文字で何やら書いてある。
弥生は赤い狐火でその札を燃やした。
次いで南西の隅、「裏鬼門」へ回ると、同じように埋められた札を取り出し、燃やし尽くした。
「…これで死人は操れまい…次はどう出てくるかな」
そう呟くと、直也達の元へと急ぎ戻る弥生であった。
「直也殿、上達したな…。これなら立ち合いで不覚を取ることもないだろう」
「先生のおかげで…危ない!」
直也が叫ぶ。その一瞬前、平八郎も気配を感じて飛び退く。
何と、斬り倒された仲間達が、刀を取って向かって来るではないか。
「これは…!」
「妖術だ、間違いない」
必死に防戦する直也と平八郎。それぞれに二人の死人が掛かっていく。流石に二人一度に相手にすると、防ぐだけで手一杯である。
体勢を立て直すために位置を変える二人。しかし、それは守るべき「若君」の寝所の前から離れると言うことでもあった。
死人の数は五人、残った一人が若君の寝所へ乗り込もうと縁側に足をかけた、その時。
「死人」はいきなりくずおれ、動かなくなった。
折しも、弥生が呪札を焼き捨てたと同時であった。
「終わった…のか?」
「……」(多分、弥生のおかげだな)
直也はひそかに心中で弥生に感謝した。
「平八郎様」
声がした。
「何だ」
その声に平八郎が答える。
そこに立つ人影、どう見ても女である。流れる漆黒の髪、闇に光る金色の瞳。弥生ではない。直也は瞬時にそれを見極め、
「誰だお前!」
刀を突きつける。だが女は平然と、右手を上げた。
金属音が響き、直也の刀が弾かれる。弾いたのは何と、平八郎であった。
「せ、先生!?」
「ぐ…身体の自由が…きかぬ」
呼びかけに答えた時、呪がかけられたのだ。
「ふふ、死人は使えずとも、我にはこの術がある…さあ、お互いに殺し合うがよい」
女はそう言い放ち、両手を振り上げた。それに合わせるように、平八郎が刀を振りかざし、直也に斬りかかる。
直也は必死にそれを受け止める。
「先生、止めて下さい!」
「すまぬ、直也殿、身体が自由にならぬ…あの女の妖術に違いない」
切り結ぶ二人。味方を傷つけたくないと思うだけ直也の分が悪い。
「くそっ!…」
「ほほほほ、邪魔をしてくれた礼じゃ…せいぜいなぶり殺しにしてくれるわ」
ついに直也の刀が弾き飛ばされた。平八郎はその直也の首筋に刀を突きつける。
「…どこから切り刻んで欲しい? 耳か、鼻か、それとも目を抉ろうか」
「そうはさせぬ」
弥生の声。
「禁」
「弥生…!」
「儂が来たからにはもう大丈夫じゃ。直也、刀を拾え。平八郎殿は儂の禁術で動けぬ。今のうちじゃ」
急いで刀を拾う直也。
「おのれ…先程から我の邪魔をしていたのは貴様か!…貴様…狐か?」
「そういう貴様は何の化け物じゃ?」
「ふん、低俗な野狐風情に見破れるものか、まずは邪魔な貴様から片づけてやろう」
そう言うと両手の爪が刃物のように伸びた。月光を浴びて不気味に光る。
女が跳んだ。瞬時に弥生との間を詰め、襲いかかる。
弥生が跳び下がる。女が追いすがる。弥生は屋根へと跳ぶ。女も追って跳び上がる。
ひらめく女の爪。弥生の着物の袖が千切れた。
直也は目を見張った。自分の見る限り、今日の弥生は決して遊んではいない。にもかかわらず、女は弥生に攻撃をさせる暇を与えていない。
つまり謎の女は弥生に勝る素早さを持っていると言うこと。今まで直也はそんな相手を見たことが無かった。
「ほらほら、どうした、狐?…もたもたしていると切り裂いてしまうよ?」
女の振り回す腕の速さは、平八郎の刀よりも速い。弥生の着物はたちまちのうちに切り裂かれていった。
「どうした、狐。それで精一杯か? 我はまだ速くできるぞ」
更に爪を繰り出す速さが上がる。弥生は最早防戦一方である。
「…そうか」
直也は理解した。
弥生はここにいる平八郎、屋敷の主である若君、そして何より直也に危害が及ぶことを恐れている。そのため全力を出し切るような大きな術が使えないのだ。
「くっ!…弥生…!」
歯噛みする直也、しかし今や二人は屋根から屋根へ跳び回り、直也には追うことすら出来ない。
ついに弥生の頬が切れた。月光を受け、一筋、きらめくように血飛沫が舞った。
「ほほほ、観念おし。その肉を喰らってやろうからに。…な、何!?」
弥生の頬から滴る血は霧となり、謎の女を取り巻いていく。それは次第に濃くなり、女を押し包んでいった。
「血霞檻…、どうじゃ、動けまい」
弥生は頬の傷から流れる血を指で拭った。その時。血霞檻に亀裂が入った。腕が突き出す。
「血霞檻を破るとは…その目…なるほど、貴様は猫又か!」
檻から飛び出した女は、頭に黒い耳を生やし、尻からは二叉に分かれた黒い尻尾を生やしていた。金の瞳孔は縦に裂け、まごうことなき猫の目である。
「我にこの姿をとらせたは褒めてやろう。だが、この姿を見て生き延びたものはおらぬ」
猫又の攻撃。一撃目、弥生の首筋を狙った突きである。
弥生は身体を低くしてかわす。そこへ猫又の二撃目。尻尾による打撃。横面をしたたか殴られ、体勢を崩す弥生。そこへ蹴りが跳んできた。
腕で辛うじて防ぐ。だが狙いすましたように、顔面に爪が伸びる。
瞬時にとんぼを切って跳び下がったが、額を切られてしまう。溢れる血が目に入ったか、弥生の片目が瞑られている。
「よくかわした。…だが、片目は見えなくなったか。…それではもう我の攻撃をかわすことは出来ぬぞ」
勝ち誇り、連続で突きを繰り出す猫又。防ぐ弥生の腕がたちまち血塗れになる。
「弥生!!」
直也の絶叫。
「ふふ、貴様の主人か。なかなか美味そうな魂をしておる。貴様を喰らい、あの者を喰らえば、我は更に強くなれよう」
「そうはさせぬ…!」
防戦一方だった弥生が攻撃に転じる。前に身体を投げ出すと、そのまま前転し、妖力を込めた尻尾で猫又の顔面を狙った。
「どうじゃ…! 鉄尾撃面。少しは堪えたであろう」
「…効かぬな」
「何…!…まさか…」
猫又は二叉に分かれた尾で、弥生の尾を挟むように防いでいた。
「最後のあがきか、残念だったな」
猫又はそう言うと、弥生の尻尾を捻り上げる。
「ぎ、い、い」
「貴様等狐族は犬族と同じで尻尾が弱点じゃろう。それを逆手に取った攻撃か、なかなか考えたが、相手が悪かったのう」
そのまま、片手で尻尾を掴み、弥生の身体を吊り上げる。最大の急所を捕まえられ、身体に力が入らない。そんな弥生に猫又は、
「ふふふ、我には勝てないことがわかったであろう。…しかし貴様もよう戦った。どうじゃ? 我に真名を教え、我に仕えぬか?さすれば命だけは助けてやろう」
「断る」
躊躇せず弥生が答える。
「そうか、ならば…ぬっ?」
猫又が振り向く。そこには刀を構えた直也がいた。屋根に梯子をかけ、登ってきたのだ。
「猫又、弥生を放せ!」
「…従者思いの主人じゃのう…慌てずとも、順にその命を絶ってやるよ」
「させるか!」
直也の渾身の一撃。だが猫又は空いている手で易々とそれを捕らえる。
「どんな刀を持ってきても我を斬ることは叶わぬよ」
そう言って手に力を込める。刀が砕け散った。
「いかん、直也、逃げろ…」
弥生が叫ぶ。
「そうかい、お前の主人は直也というのかい。…『動くな、直也。動 き を 禁 ず る』」
直也の動きが止まる。
「直也…!」
絞り出すような弥生の声。猫又は冷たい声で、
「主人が心配かい?…安心おし。もう心配しないでよくしてやるよ」
そう言って、弥生の尻尾を握る手に力を込める。
「ぐ…あ あ あ あ あ あ あ!」
「さ よ う な ら 、 狐」
猫又の爪が弥生の胸に伸びる。その腕は弥生の胸を貫き、背中に突き抜けていた。
「ほほほほ…」
猫又の勝ち誇った笑い。ぐったりとした弥生からゆっくりと腕を引き抜く。
…筈であるが、腕が抜けない。
「これは…どうしたこと!?」
抜けないどころか、弥生の身体に腕が、いや猫又自身が取り込まれていく。
「なぜ…狐は最早息をしていないというのに…心の臓も動いておらぬ…なのに何故…」
「初めから生きていないからのう、その体は」
弥生の声が響いた。
「苦労したのじゃぞ。話し、歩き、走り、戦い、血まで流す。これだけの傀儡を作るのには手間暇が掛かるというのに…使い物にならなくしてくれおって」
「狐!…いつの間に…我にわからぬはずは…」
「血霞檻じゃよ。あの時に入れ替わったのじゃ。気づかなかったであろう?…お前も頭に血が昇っておったろうからの」
そう言う間にも、猫又の身体は偽の弥生に取り込まれていく。
「直也、動いて良いぞ、解」
弥生が猫又にかけられた直也の禁術を解く。
動けるようになった直也が見ると、そこには全身を雁字搦めに絡め取られた猫又が転がっていた。
「こいつが黒幕か…」
「そうじゃな、人をあやつるは猫又の得意な術じゃ。なかなか巧妙に、二段三段構えで襲ってきおったが、儂を欺ききることは出来なかったのう」
「く…! 騙し上手の賢しい狐めが…!」
「さて、消えて貰おうか」
弥生の目が冷たく光る。
「弥生、ちょっと待ってくれ…」
「何じゃ、直也?…こやつにまで情けをかけようというのか?…こやつは儂ばかりか、お主まで殺そうとした化け物じゃぞ?」
「うん、わかってる。だけど、一つだけ気になることがあるんだ」
「気になること?」
「ああ。…目だ」
「目!?」
「うん。俺の勘違いかも知れないが、殺そうとしていながら、哀しい目をしているんだよ」
「儂にはわからんが…」
「もしかして、自分の意思で襲ってきたんじゃないのかも知れないと思ったんだ」
「とんでもないことを言うのう…」
呆れる弥生。が、しかし何事かを思いついたように、考えにふける。
「そうならば…」
何を思ったか、猫又に近寄ると、着物の胸元を押し広げた。
「何を?弥生」
弥生は猫又の胸元を見て、納得したように頷く。
「…やはりそうか…見よ、直也。この珠を。「マーラ」の呪い珠じゃ。これを通じて、マーラに乗っ取られ、悪事をしでかしていたのじゃろうな」
直径一寸くらいの丸い珠で、灰色の煙のようなものが中で蠢いているのがわかる。それが心臓の上に埋め込まれている。
「じゃあこれを取り出せばいい猫又に戻るのか?」
「それはわからぬ。元々猫又は人肉を喰らうとも言われておるからのう」
「とりあえず取り出してみよう」
「出来るのか? 直也」
絶句する直也。そもそも心臓の上と言うことは猫又の胸部が見えていると言うことで、人間でないとわかっていても、女の姿をしている以上、どうしても意識してしまう。
「頼むよ、弥生…」
「やれやれ、仕方ないのう…」
本当に仕方なさそうに、弥生は猫又の胸に埋め込まれた珠に手を伸ばし、掴むと一気に毟り取った。
「ぎゃあっ!!!!」
猫又が悲鳴を上げる。珠の埋め込まれていた穴から鮮血が流れ出している。
「お、おい、弥生…」
「案ずるな。猫又ほどの妖ならこの程度の傷、自分で直してしまうわ。見てみい」
なるほど、見る間に血は止まり、穴が塞がっていく。それでそちらは置いておいて、弥生が取り出した珠に注意を戻した。
「あまり長く持っていたくないものじゃな…珠から邪な意思が流れ出してくるのがわかるわい」
「どうしよう?」
「おそらくマーラの力が封じられておる。こやつは完全に消滅させねばならぬな。…儂の妖力では出来ぬ…返って力を与えることになりかねん」
「それじゃあどうすれば…」
「直也、『翠龍』を使え。あれは龍神の力を宿した神刀じゃ」
「そうか」
懐にしまった翠龍を取り出し、
「弥生、投げてくれ」
「よし」
弥生が直弥に向かって放り投げたマーラの珠にむけて直也は翠龍を振り下ろした。僅かの抵抗があって、珠はきれいに両断された。中からどす黒い靄の様な物が立ち上る。
もう一度直也が翠龍で横薙ぎに払うと、靄は文字通り雲散霧消した。
「済んだか…」
「うむ、これでまた一つ、マーラの力を殺ぐことが出来たわけじゃ」
地上に降りる直也と弥生。
弥生は平八郎にかけた禁術を解く。平八郎が動けるようになった。
「弥生殿、そなたは…」
「済まぬ、隠していて。…儂は直也の守護狐なのじゃ」
「やはり…」
「あまり驚かないようじゃな?」
平八郎が言うには、最初に会った日に弥生が腕試しにと平八郎に向け放った化け物を斬った時から薄々勘付いていたという。
「それでも何も言わずにいて下さったことには感謝する」
弥生が礼を述べた。
そうこうするうち、屋敷の使用人達が出て来て中庭の後始末を始めた。東の空も白み始めている。
それから程なく、勤めを果たした直也と平八郎は約束の手当を受け取り、長屋へと帰った。
猫又はと言うと、弥生が屋根の上へ見に行った時は、いつの間にか姿をくらましていた。弥生によれば、珠を抜いた後の猫又からは邪気は感じなかったから、放っておいても大した害はないだろうとのことであった。
それから一週間、直也の稽古が終了した。
「直也殿、良く頑張った。拙者は故あって破門になった身、正式な事は出来ぬが、今の直也殿は小野派一刀流、目録の腕前といった所だ」
「ありがとうございます」
「うむ、これでお二人は旅に出られるのかな?」
「そうなります」
「寂しくなるが、致し方あるまい」
その夜は送別会と言うことで、長屋の皆を招き、ささやかな宴会が開かれた。
「弥生お姉ちゃん、今までありがとう」
「お姉ちゃん、いなくなっちゃうの?」
「先生のお嫁さんになってここにいてくれればいいのに」
弥生は子供達に人気である。一方の直也は、朝から晩まで稽古に明け暮れていたので、あまり長屋の面々と馴染みがない。にもかかわらず、
「直也さん、短い間だったけど元気でね」
「うちのお加世の婿になってもらいたかったのに」
「お、おっかさん!」
長屋のおかみさん連中はしっかり観察していたらしい。
翌朝、直也と弥生は平八郎と長屋に別れを告げた。
「道中ご無事で、直也殿、弥生殿」
「平八郎殿も息災で」
そして二人は旅立った。
「さて、直也、これからどこへ行く?」
「そうだな、これから冬になるから。南の方へ行こうか」
「そうじゃな、そうするか」
二人は日本橋を出、東海道を歩き出した。その二人を付けてくる人影が一つ。
品川宿に差し掛かった所で、二人は横道に飛び込む。
付けてきた人影は慌ててその後を追うように横道へ。と、そこには。
「何故儂等を付けてくる? 貴様は何者じゃ?」
睨みつける弥生の姿があった。
付けてきたのは女であった。
「あたいのことわかんないか。…ふふ、そうだよね、狐さん」
「何…!まさか、お前…」
「そっ。あたいは猫又だよ」
先日の猫又らしい。すっかり邪気が抜けて、姿形が変わっていたのでわからなかったのである。あの時は臈長けた女であったが、今は弥生より少し年下の娘に見える。
「何用じゃ?意趣返しに来たのか?」
直也を庇い、身構える弥生。
「違うよー。…直也さま、だったっけ、…あたいの命を助けてくれたからさ、恩返しにと思って」
「恩返しなどいらぬ。帰れ」
「冷たいなー。…あたい、直也さまが気に入っちゃってさ。早い話が惚れちゃったの。駄目って言われても付いていくわよ」
「ならぬ。連れなどいらぬ。帰れと言ったら帰れ」
「じゃあいいよ。勝手に付いていくからさ」
「こやつ…」
直也が止めに入った。
「弥生、もういいよ。勝手について来るというなら勝手にさせるさ」
「直也、お主…もしもこやつがお主の魂を喰らおうと狙っていたらどうする気じゃ。猫は執念深いぞ」
「そんなことしないよー。そんな恩知らずじゃないもんね。…でも執念深いというのは当たってるかもね。…だからずっと付きまとうよ」
「貴様…」
「弥生、いいから。お前、名前は?」
「あたい、紅緒。よろしくね、直也様」
「知らんぞ、儂は…」
直也と弥生の旅はしばらく賑やかになりそうである。
定番の女妖怪ということで猫又登場です。化け猫は恨みに凝り固まっていそうなので猫又。
それでは、次回も読んでいただけたら幸いです。




