巻の二 谷川の妖
もっと後できちんと出てきますが、時代は江戸時代初期です。なので一般に描かれている時代劇などとは異なる背景があったりします(まだ出来ていなかったりとか)。
巻の二 谷川の妖
中山道六十九次十七番目の宿場、坂本宿近くの山中。かすかな蒸気を立ち上らせる浅間山が木の間越しに見えている。直也と弥生は今、中山道を離れて北へと山道を辿っていた。
「なあ弥生、なんで街道をそのまま歩かないんだ?」
「聞くところによれば、何か事件があったらしくてのう、碓氷の関所では詮議が厳しくなっているらしい。その関所を越えるのに苦労しそうだったからじゃよ」
直也は少し不満そうに、
「手形くらい、弥生なら何とでもなるんじゃないのか?」
そう、弥生は妖狐であり、その弥生ならば、穏形の術、手形の偽造、役人の幻惑、等々、いくらでも手段はありそうである。が、弥生は笑って、
「安直に術で済ませるというのもお主の為にならんからのう」
「ちえ、なんだよ」
直也はまだ不満そうである。
「お主がもっとしっかりしてくれて、一人でも旅が出来るようになったならそんな気遣いはいらんのじゃがな」
「わかったよ…」
自分がまだまだ世間知らずだということは自覚している、直也は渋々ながら口をつぐんだ。そして山道を辿ること二刻(約四時間)。
「さて、ここらで休むとしようか」
「ああ、疲れたよ」
汗びっしょりの直也は、ふところの手拭いで汗を拭くと道脇の平たい岩に腰を下ろす。続いて弥生も腰を下ろすが、その艶やかな長い黒髪には埃も付いておらず、着物にも汗が滲んだ様子はない。
振り分けから昼食用の握り飯を出す。それを食べながら弥生がつぶやいた。
「旅を始めて一月近くなるか、お主も大分旅慣れては来たようじゃな。脚の運びがしっかりしてきた」
「そうか?まあ里にいた時から弥生にはいろいろ鍛えられてたからな」
水を飲もうと腰の竹筒を取り出したが、ほとんど中に水は残っていなかった。山道を歩いている時に皆飲んでしまったのである。
「しまった、水がないな」
直也がそう言うと、弥生は、
「ふむ。…この少し下に谷川がある、そこで汲んでこよう」
そう言って立ち上がろうとする弥生を直也は引き留めて、
「いいよ、俺が汲んでくる。ほとんど俺が一人で飲んだようなものだしな」
「そうか?それならば頼むとするか。気をつけるんじゃぞ?」
「おう」
下り口を見つけた直也は木の根につかまりながら危なげなく河原へと降り立った。さっそくに竹筒の水筒に水を満たし、自らも喉の渇きを癒した直也はあらためて周りの景色を眺める。
対岸には大岩がそびえているが山中にしては幅の広い谷川で、丸い石で出来た河原も広い。下りてきた土手は草に埋もれており、急な斜面になっているのがわかる。もう少し先へ行くと傾斜が緩み、低木も生えているので登りやすそうだと思った直也はそちらへと足を向けた。
「?」
瞬間、右脚に何かが触れた感じがした。屈んでみれば、細い糸のようなものが巻き付いている。
「蜘蛛の糸か?」
そう呟いた直也は脚の糸を払った。そして歩き出そうとすると、今度は右肩に糸が絡みついてきた。直也はそれを払おうとした。が、その左腕が動かなかった。それだけではなく、どこからとも無く湧いてきた糸は、首といわず胴といわず、直也の身体中に巻き付いてくる。これはただ事ではない、と直也が感じた時には口も塞がれており、声が出せなくなってしまっていたのである。
辛うじて呼吸をする隙間と外を窺う隙間を残し、直也は身動きできないほどに蜘蛛の糸で覆われてしまっていた。
「生きのいい血肉が食べられそうだわ」
女の声がした。目だけ動かしてそちらをうがかうと、黄色と黒の横縞柄の着物を着た女が近づいてくるところであった。
* * *
「直也、遅いのう…」
そう呟いた弥生は、ぴくりと身を震わせると、耳をそばだてた。
「これは…妖気か?」
弾けるように立ち上がると、藪を跳び越え、河原へと向かう弥生。狐耳と尻尾を生やし、いつでも術を使えるよう身構えながら。
急峻な土手をものともせずに河原へ降り立った弥生は、あたりを見回す。そこに見つけたのは直也が持っていった竹筒のみであった。
「これは…やはり妖怪にさらわれたと見える。儂が水汲みに行くべきじゃった」
一つ首を振って今更仕方がないと考えを切り替えた弥生は直也の気配を探る。子供の頃から面倒を見てきた直也の気配なら、どんなに離れても探し出す自信があった。目を閉じ、直也の気配を探ることに全神経を注ぐ。そして弥生は再び目を開いた。
「見つけた」
一跳びで川を跳び越え、向かったのは対岸にそびえる大岩である。そこから直也の気配が感じられる。どこかに洞窟でもあって、中に直也が囚われているのであろう。
その弥生の足が止まった。
「今日はいい日だ。人間だけじゃなく狐も網にかかるなんて」
先ほど直也を捕らえていった女が、弥生の前に姿を現した。対峙する二人。見た目には双方共に美女であるが、片や妖狐である弥生、片や女郎蜘蛛の妖。弥生は白い着物に浅葱色の単帯を締め、女郎蜘蛛は黄と黒の横縞模様の着物。弥生を華麗と形容するなら女郎蜘蛛は妖艶。あくまでも対比的な両者であった。
「今、人間と言うたな?…貴様、直也をどうした!?」
女は切れ長の目を細めて妖しく笑い、
「さっきの人間の事だったら、あたしが捕まえたわよ。とっても素敵なご馳走。あなたもあたしの養分にしてあげる」
そう言うが早いか、女は両手を弥生に向けてかざす。その掌からは弥生を絡め取らんと無数の白い糸が飛び出してきた。
「なるほど、貴様は女郎蜘蛛の妖じゃな!」
糸をすり抜けながら弥生は狐火を灯した。両の手に一つずつ、そして頭上と背後に二つ、計四つ。
「そんな狐火なんかであたしの糸は燃えないよ!」
「なら試してみるがいい!」
弥生を目掛けて伸びる蜘蛛の糸、それを弥生は両手の狐火で迎え撃った。日陰とは言え、日中にもかかわらず白く輝く狐火。高温の狐火である。伸びてきた糸はその熱量の前にあえなく蒸発した。
「えっ!」
「ふふ。鉄をも蒸発させる金気の狐火じゃ。蜘蛛の糸などなにほどのことあらんや」
そう言いながら妖へ向かって歩を踏み出す弥生。その後からと繰り出される糸も、背後に灯された狐火で蒸発させられた。
「観念して直也を返せ。今返せば命は取らんでおこう」
そう言って更に一歩、弥生が踏み出した時。
「かかったね」
「何!?」
弥生の両足が動かなくなった。女郎蜘蛛は弥生へ向けて糸を繰り出すだけでなく、弥生が踏むであろう、その地面へも密かに糸を張っていたのである。
「く、ぬかった!」
両足を糸に絡め取った糸に弥生が気を取られた刹那、正面、左右、頭上、そして背後から蜘蛛の糸が襲いかかった。
「ふ、ふふふふふふふ・・・・・・」
あっという間に全身をがんじがらめに絡め取られ、河原に倒れて身動き出来なくなる弥生。直也の時と違い、目鼻も塞ぐほどの容赦ない絡め方で、弥生は言葉一つ発せなくなった。さながら蚕の繭の如く、弥生の姿は蜘蛛の糸で覆い尽くされてしまった。女郎蜘蛛はそんな弥生を見下ろしながら、
「あなたのように強い妖力を持った狐を食べればあたしはもっと強くなれる。ああ、楽しみだわ」
そう言うと糸を操って弥生の入った繭を持ち上げ、住処である岩の裂け目へと運んでいくのだった。
* * *
女郎蜘蛛の住処となっているのは岩の裂け目であった。入り口は蜘蛛の糸を使い、木の枝や草で巧妙に隠されており、外からはまず見えない。中は小広くなっており、獣の脂で明かりが灯されたその奥、あたりに散らばっているのは同じように喰われた者達の白骨であろうか。そこに弥生は転がされた。
同じように転がされていた直也はまた誰かが捕まったのかと知り、弥生ではないことを祈るしかできずにいた。
「さあて、どちらからいただこうかしらねえ。味のいい人間か、それとも効き目のある女狐か」
女狐、と聞いて直也の心臓が跳ねた。まさか弥生が。
「んーーーーーーっ!」
口は塞がれているため話すことが出来ない直也はただ唸るだけ、そんな直也を見た女郎蜘蛛は、
「ほほ、この女狐がそんなにお気に入りなの?…なら女狐から先に、あなたの目の前で食べてあげましょうね」
そう言うと転がっている弥生の繭、その胸とおぼしき箇所を狙い手刀を突き立てようとしたその時。
「それは残念じゃったな」
入り口の方から弥生の声がした。
「な…なんで?」
そこにいたのは弥生。弥生はうっすらと笑い、
「莫迦目。儂は狐、貴様は儂の幻術にかかって独り相撲を取っていたのじゃ」
「くう…小賢しい女狐が」
吐き捨てるように呟いた女郎蜘蛛は入り口に立つ弥生へと糸を繰り出した。
「おっと、そうそうその手には乗らぬ」
そう言うと弥生は身を翻す。女郎蜘蛛はそれを追って外へ飛び出した。
再び対峙する二妖。
「まったく、いつの間にあたしをたぶらかしたのよ、この女狐」
弥生は涼しい顔で、
「儂の狐火を目にした時から貴様は術中じゃよ」
そう言った弥生に向かい、
「なら今度こそ本気出して捕らえてあげる!」
そう言うと、両手、そして背後から、先ほどに倍する糸を繰り出す。予期していなかった攻撃に、さすがの弥生も為す術もなく絡め取られた・・・と思った矢先。
「やれやれ、ようやく糸を落とせたわい」
背後から聞こえた声。振り向けばそこにいたのはすっかり糸を払い落とした直也と弥生であった。やはり弥生の本体は糸で絡め取られた方だったのだ。
「な、な、なな…」
あまりの事に言葉が出ない女郎蜘蛛に向かって弥生は、
「虚と見れば実、実と見れば虚。虚実の境は紙一重、なればこその幻術じゃよ。直也の居場所が今ひとつはっきりせんかったでのう、貴様に案内させたというわけじゃ」
「こ…このあたしを虚仮にしたわね…!!」
その言葉と共に、女の姿が変化していく。身体が膨れ上がり、腕が生え、それはまさしく蜘蛛の妖怪であった。
女郎蜘蛛の本性を現したと見るや、弥生は両手の指を組み合わせ印を結び、真言を唱えた。
「おん・まゆら・きらんでい・そわか・・・」
毒蛇・毒虫を調伏する孔雀明王の真言である。女郎蜘蛛は驚いて、
「な…なぜ妖狐の貴様がその真言を使える!?」
だが、弥生は、
「説明する義理はないのう」
そう言って更に真言を唱える。地に伏し、動きを止める女郎蜘蛛。それを見た弥生は両手を上にかざすと巨大な白い狐火を作り、蜘蛛目掛けて投擲した。
「ぎゃああああああああっ」
断末魔の悲鳴を上げ、女郎蜘蛛は跡形もなく蒸発した。
* * *
「…ふう」
疲れたように息をつく弥生に向かって直也は、
「弥生、ありがとう、また助けられたな」
「ふふ、気にするでない、儂はお主の守護狐じゃからな」
そう言って笑う弥生の足がふらついた。それを直也は支えて、
「おっと、…本当に大丈夫か?」
「大丈夫じゃ。妖狐の分際で真言を使ったので少々疲れただけじゃ。少し休めば治る」
「それならいいんだけどな、…無理させて済まない、俺が捕まらなきゃこんな事には」
弥生は優しく微笑み、
「お主のせいではない。それに、あの蜘蛛の化け物はここを通る旅人を喰らい、力を付けてきたのじゃろう。それを退治できたのじゃ、なにがしかの功徳にはなろうよ」
そう言って、
「さて、急がねば夜になってしまう、…とその前に」
振り返った弥生は赤い狐火を灯すと、それを女郎蜘蛛の隠れ家向けて放つ。その火は隠れ家に燃え移り、中の白骨を初めとする一切の物を焼き尽くした。
「これで少しは供養できたじゃろう」
そう言うと今度こそ元の道へと歩き出す。わずか遅れて直也も続いた。
二人が歩いて行く山道は緑に覆われ、今し方の激闘も知らぬ気に静まりかえっていた。
術の解釈などには独自設定が含まれます。